第一話
いつものように、三日よりもおよそ十五分遅れて、三鷹 奏が登校してきた。
万理万里に通う生徒の大半は、駅から学校までピストン輸送しているバスを利用しているはずなので、彼はひとつかふたつ後の便に乗っているのだろう。
先々週までの人当たりの良さはなりをひそめ、露骨な仏頂面での登校だ。
「おはよう三鷹」
「おはよう委員長」
「おはよう」
挨拶を交わしながら席に向かう彼に、不機嫌の元凶たる吸血鬼が声をかける。
「おはよ、少年」
クラスの皆も、この二人がけして甘い間柄ではないことに気づいている。
奏は茜の存在を完璧に無視して、鞄を机に放り投げ、教室を出て行った。
(……なんだかなあ)
廊下の向こうに消える背中を見送って、ぼんやりと考える。
奏は教室にいる時間が極端に短くなった。
初日に覚悟したよりも、茜も彼に過剰なちょっかいをかけることはない様子だったが、そもそも奏のほうでそのような隙はみせることがない。
授業こそ真面目に受けてはいるものの、いつもしかめっ面をしているし、雑談もしない。
おかげで三日も、朝の挨拶すらままならないことがしばしばある。
こんなふうに教室を出た奏が何をしているのかといえば、廊下や中庭でぼうっとしている姿を何度も見かけたものだから、おそらく茜が視界にはいらない場所ならどこだろうと構わないのだろう。
しかし当の茜は、奏の対応も不在もまったく気にとめない様子で、クラスメイトとはしゃいでいるのだ。
「昨日のシフォンケーキおいしかったわ」
「あ、トラストのでしょ、いいなー」
見事にクラスに馴染んだ彼女は、毎日とても楽しそうなのだった。
「次は駅前のここ行ってみようよ。隣のクラスのコが、内装すごくかわいかったって」
「やだ、店員さんのエプロン変な色。見てこれ」
女子の輪にすんなりとはいっていける愛想の良さが、地味にうらやましかったりもする。
(吸血鬼って初めて見たけど、イメージしてたのと違うなあ)
少なくとも、朝っぱらから陽の当たる教室で、雑誌片手にきゃあきゃあ騒いでなどいなさそうだ。
明るくて美人の、日本語が上手い留学生。
意外にも彼女は、女子からの人気が高いのだった。
昼休み、十夜は生徒会室で資料をまとめていた。
普段、昼休みまでここに詰めることはないのだが、今週は学外で、他校の生徒との交流行事がある。
実行委員は連日せわしなく動いていて、生徒会も傍観してはいられない。
秋と九条は不在だったが、代わりに、余計な生徒が混じり込んでいる。
「茜ちゃん、からまっちゃった」
「ん-、ここね。結ぶときの持ち手が逆なのよ」
「こう?」
「ん、んー、待って。こう、かしら」
「こう」
「そうそう」
人数分の机と資料棚しかない手狭な部屋に、会計の百々と、なぜかにわかに友人となった茜が細い赤縄を手に格闘している。
「あん、難しいわ」
「大丈夫、くり返し練習すれば誰だってできるわよ」
学年は異なるのにどこで出会ったというのか。すっかり意気投合したらしい二人は、ことあるごとに生徒会室でよからぬ遊びを繰り広げる。
もう一度言おう。よからぬ遊びだ。
十夜はこめかみをもみほぐした。
「……よそでやってくれないか」
苦々しい声が出る。
二人はきょとんとこちらを見て、次いでにたりと笑みをこぼした。
「橘さん、あたし、手伝ってほしいな」
「そうよね。練習台は必要よ。生徒会長さん、今お暇?」
「暇なはずがないだろう!」
怒鳴りつけると、ころころと笑う。
「やだ、橘さん、こわーい」
「真面目なのね。そういうとこ、ちょっとだけ少年に似てるわ。やだ、かわいいって思っちゃったじゃないの」
「やだあ」
(うるさい)
元々、茜に対して良い印象など抱くべくもない。
自然と対応は刺々しくなる。
「出て行けとは言わないが、少し静かにしていろ」
「はぁい」
百々がぴっと右手をあげる。
「でもねえ」
茜が不満げにくちびるをとがらせた。
「やっぱり生身の男がいないと上達しないわよね」
「うーん、そうかも」
「どこかそのへんから調達してきましょうか」
――頭が痛い。
「却下だ」
「いやん。だって生徒会長さん、協力してくれないし」
「当然だろう」
「百々ちゃんの向上心に貢献してあげたいじゃないの」
「向上心だと? そんなものはもっと有意義に使ったらどうだ」
茜と十夜が言い争うと、百々も茜に乗っかってくる。
「あら、橘さん。それは違うわ。これってとても有意義だと思うの」
「どこがだ」
「いろいろ使えるわよ。たとえば――」
嬉々として口をひらく百々に、十夜は手のひらを向けて押しとどめた。
「いい。聞きたくない」
「え。ひどい」
「聞きたくない」
どう転んだって下ネタだ。
「あらあん、生徒会長さんったら、意外と純情なのかしら」
じわじわとストレスが蓄積されていくのがわかる。
「いいか。学内で生徒を餌食にするなよ」
「学外だったらいいのかしら」
(知るかそんなの。いや、待て)
「……駄目だ」
「ケチね」
本心をいうならば、茜が手にする縄でしばりあげて、敷地の外に放り出してしまいたい。
茜と百々がいると、騒々しくて作業もはかどらないのだ。
それでも部外者の彼女がここに来るのを禁止しないのは、単純に目の届くところにとどめておきたいからだ。
ここにいる間は、奏も、その他の生徒も、迷惑をこうむることはない。
(しかし何でこんなに和気藹々としているんだ)
気が合うのだろう。二人は本当に仲がいい。
「まあいいわ。じゃあ百々ちゃん、次は抵抗されたときの対処法よ」
「はぁい」
クッションに縄をからめて、茜がああだこうだとレクチャーしていく。
いかがわしい会話が続く。
無理もない。二人は、縄で人間を縛り上げる練習をしているのだ。
「服を着たままだったら、ロープはこっちにまわして、で、全裸だったらこう」
「こう?」
「そうそう。上手いわ」
(うちのメンバーに余計なことを教え込むな)
「腕はキツめに……、美しく、容赦なく」
「容赦なく、っと」
「ちょっとやってみましょうか。百々ちゃん、制服脱いでくれない?」
「うん」
「脱ぐな」
「じゃあ生徒会長さん脱いでよ」
「脱ぐか!」
茜が露骨なためいきをつく。
「んもう、そんなにピリピリしないでよ。性別によって縛り方も違ってくるのよ?」
「それがどうした」
「たとえばね、百々ちゃんみたいな美乳さんだったら、縄は乳房に沿わせて食い込み気味に這わせていくのよ。でも、生徒会長さんみたいなおいしい盛りの男の子だったら、ギチギチに締め上げるのがいいわよね?」
(誰に同意を求めているんだ)
「体型によらず、男だったらこんなふうに結び目をつくって、乳首を締め上げてね」
「ええ、痛そうじゃなぁい?」
「痛いほうがいいでしょ?」
さも当然というような口ぶりで問われて、肩をおとした。
「――俺にきくな」
(そしてやっぱり、どっか行け)
空気を変えてほしくて、誰か来ないかと儚い期待を抱いていると、祈りが通じたのか、扉をノックする音がひびいた。
「どうぞ」
ひとつ咳払いをしてから声をかける。
すると、開いたドアから顔をのぞかせたのは、十夜もよく知る少年だった。
「奏」
間の悪いところに来たものだ。
「十夜さ……ん」
茜の姿をみとめて、はっきりと顔をしかめる。
「やっぱりいいです。失礼しました」
バタンとドアが閉まる。
十夜は立ち上がった。
「音無、戸締まりをたのむ」
「はーい」
百々に声をかけ、資料を机にしまうと、十夜も生徒会室を飛び出した。
「待て、奏。俺をあそこに置いていくな」
奏が足を止めて苦笑をもらす。
「すみません」
「顔色が悪いな。保健室に行くか?」
「いえ、具合は悪くないです。まあ、気分は悪いけど」
「そうか。無理するなよ、何でも言え」
「無理っていうか……、結局オレ、逃げちゃってるんですよね。さっきみたいに」
そう言って、うなだれる。
「あの女、何考えてるんだろう。それだって、避けてちゃわかりっこないんだけど、わかってるんだけど、ダメなんですよね。情けないな」
並んで歩きながら、奏の頭をぽんぽんとなでる。
「転入してきた動機か。確かに不明だな。今のところ、音無とふざけてるばかりで目立った行動は起こしていないようだが」
「百々さんと、仲いいんですか」
「ああ。音無も、普通に接触して探ってくれるならいいんだが、どうもえらく気が合ったみたいでな。二人そろっていると、悪ノリが過ぎて手に負えない」
「へえ。百々さんはともかく、あの女、友達なんて作れるんだ。意外だな」
「そうか? クラスにも馴染んでるって聞いたぞ」
「オレ、最近教室にいないから」
どうにかしてやりたいのはやまやまだったが、手続きをふんで転入している以上、一方的に追い出すわけにもいかない。
「俺も気にかけるようにしておくから、向こうが何か仕掛けてきたらすぐに言え」
「はい」
「その後調子は? まだ落ち着いたままか?」
「あー、そっちはまずまず。結局、保険の先生に噛んでもらったのは無駄になっちゃったけど、特に過剰反応するってこともないし。今までと同じくらい」
「そうか」
水晶の一室で茜と再開したときの話は、奏から聞いていた。
負傷を追ったという八又 さやかは、全身打撲でまだ病院だ。
(人間を傷つけることに抵抗はないということだな)
気は抜けない。
(あとは、――奏のクラスのあの娘か)
奏は三日に助けられたと言っていた。
身を守ることに長けた神社の娘でも、吸血鬼の呪いをくちづけのひとつで無効にできるというのは、どうにもおかしい。
(これも保留か)
気にはなるが、そうあっちもこっちも監視はできない。
当面、害のありそうな吸血鬼の対処が優先となる。
「千葉 茜から距離をおくのはいいが、あまり一人にはなるなよ」
「うん。しっかし、いつまで続くんだか。オレも、元を絶たないとどうしようもないってわかってるんだけどね」
「あまり気に病むことはない。もし血を吸われたなら輸血をすればいいし、何か流し込まれたとしても俺が吸引してやる」
「そっか、そうだね。ありがと、十夜さん」
ようやくいくぶん、奏の肩から力が抜けた。
気休めなのは、お互い承知の上だったけれども。
(どのみち、俺にできることなど、そうはないか)
歯がゆくとも、立ち向かうのは当人なのだ。
十夜はただ、逃げ場を用意しておくだけだ。
「昼はもう食べたのか?」
奏が首を振る。
「まだ」
「よし。だったら食堂に行こう。ごちそうしてやる」
背中をたたいて、歩き出した。