第八話
「あぶないから、さがって」
がらくたの出現は止まらない。
取り乱したさやかが引き起こしているのだとしたら、荷物が部屋いっぱいにあふれたら、人は潰れてしまうのだろうか。
部屋の中央にうずたかく積み上げられる荷物をよけて、皐月が三日をかばって後退した。
奏も反対方向にじりじりと下がって、考えを整理する。
(といっても、オレじゃ彼女を落ち着かせられそうにないし)
「気絶させたら止まるかな」
いざとなったら、それもひとつだ。
中央に、ゴミ捨て場のように、山が築き上げられていく。
それに伴い、退避した三日と皐月の姿が、次第に見えなくなっていった。
小山を前にして座り込むさやかの背中から、先ほどのような覇気は消え失せているが、物は増加の一途をたどる。
「さて」
なんて声をかけるべきか、思案する。
(いっそ、十夜さんに来てもらって、カタをつけてもらうかな)
強く念じれば、引っ張り込めると言っていた。
奏にも通じる条件なのかは不明だが、彼が来て左手をふるってくれたなら、場の収集はあっという間にすむだろう。
ともあれ、まずはさやかにおのれを取り戻してもらう努力をしようと、その肩に手を伸ばしたときのことだった。
「あらやだ。なあに、ここ」
ぞっと、全身の肌があわだった。
突然、無人のはずの背後から声がして、――それが一体何を指すのか、とっさには理解ができない。
けれど、鈍い頭とはうらはらに、体は本能に正直だった。
じわじわと認識がしみこんでくる。
血は凍り、同時に沸いてもいるようだった。
頭がしめつけられるようで、息も苦しい。
声は真後ろで響く。
「せっかくだからと思って顔を見に来たのに、ずいぶん変わったところにいるのね」
しっとりとした、女の声だ。
全身が小刻みに震える。
(――ああ)
奏はおのれをさいなむ圧迫感に名前をつけた。
(これは恐怖だ)
顔から表情が抜け落ちた。
緩慢な動作で振り返る。
見知った顔が、そこにはあった。
「あ……」
口を開こうとするが、言葉にならない。
波打つ金の髪をもつ、艶やかな女だ。
けして清らかではない、熟れた桃の実を思わせる女。
因縁深い、吸血鬼がいる。
「なぜ」
ようやくの思いで、それだけを問う。
底知れない緑の瞳が、物色するように奏の全身をたどる。
きゅっと、そのまなじりがつり上がった。
「大きくなったわね、少年。それに、悪い遊びも覚えたみたい」
茜の白い手がのびた。
遅まきながら気がつく。彼女は全裸だ。
なめらかな白い腕の先には、真珠のような光沢を放つ、短くそろえられた爪がならぶ。
彼女の両手が、奏の浴衣の襟をひらき、肩から胸に巻かれた包帯をひきちぎった。
ガーゼがはがれ、胸の十字と、生々しい噛み痕があらわになる。
「あたしの愛し子に悪さをするのはだぁれ?」
指先が、数時間前につけられたばかりの歯形をえぐる。
「ぐ、うっ……」
こみあげる悲鳴を、ギリギリ意地で飲み込んだ。
汗が流れる。
茜は指をぱくりとくわえ、音をたてて血をしゃぶった。
不機嫌そうに歪んでいた顔に、好奇の色が混じる。
「ふうん」
彼女の両手が、奏の肩を押さえ込む。
「喧嘩を売られてるのかと思ったけど、どうやらおせっかいをやかれただけのようね」
全神経が、目の前の女に集中した。
足元に、瓦が一枚落ちてきた。
茜の意識がふっと逸れる。
「さっきから騒々しいわね」
彼女は奏を離して前に出ると、惚けたままのさやかをひややかに見下ろした。
「感動の再会の途中なの。物品整理なら、よそでやってちょうだい」
がつん、がつんと、物の落ちる音がする。
茜は足をふりかぶり、さやかの体を蹴り上げた。
「おい……!」
さすがに声をあげる奏の眼前で、さやかはふっとび、天井にぶつかった。
そのまま、天井付近まで積み上げられていたガラクタの山を一部崩し、向こう側へと流れて消える。
「何をするんだ」
力のない声しか出なかった。
(……生きていないかもしれない)
運がよければ助かるだろうか。
ガラクタの壁の向こうから、人の騒ぐ気配がある。
そしてぱたりと、物の流入は途絶えた。
(ちくしょう)
人の命など、塵芥のようにしか捉えてはいないのだろう。
(知っていたはずなのに)
奏はまた、何もできない。
つい、と、彼女が距離をつめた。
真っ白な、裸の胸が押しつけられる。
二年前には見上げていた忌々しいその顔も、今は自分と同じような高さにある。
胸の十字架が血を流した。
逃げ出すことも叫ぶことも、非難することすらできず、奏は目の前の緑の瞳をじっと見つめた。
忘れることなどないと思っていた顔も、月日がたてば、抱く印象は若干異なる。
彼女の瞳が深緑に光ることも、意外と表情豊かなことも、……その肌がしっとりとした温もりを伝えることも、以前は気づくゆとりがなかった。
さやかを蹴り飛ばした足が、しどけなく奏の浴衣のすそを割る。
人があっけなく踏みにじられる光景は、ショックだったが、そのおかげで目も覚めた。
吐息のかかる距離で、吸血鬼が言う。
「少年、本当に大きくなったわ。でも、まだだめね。もう少し成長を待たないと」
「あんたは、……本当に身勝手だ」
白い手が這い、先ほどえぐった傷跡をやんわりとなでる。
「かわいがられているのね。少し妬けちゃう」
割り入れられた膝が、内腿をなぞる。
「ねえ、少年。勝手に傷をつけちゃだめじゃない。あなた、あたしのものだってわかってる?」
視界を、金の髪が覆った。
熱いしたたりが、首筋を経て、肩へと触れる。
とっさに後へ引こうとする体を、容赦なくはがいじめにされる。
今日、保険医に噛まれたのと寸分違わぬその位置に、茜の牙が、肉を割ってずぶりと入った。
のどが震え、細くかすれた叫びがもれた。
「う、あ……」
体内を焼く毒が、じわりと巡る。
「もう一度、思い出させてあげるわね」
食い込む牙を剥がし、耳元で茜はささやいた。
「ねえ、少年。あたしのことが好きでしょう」
視界ははじけ、ぐるぐるとめまいがした。
(――熱い)
寄り添う茜にすがりつき、奏はあえいだ。
「くそ。ちくしょう」
くつくつと笑い声がする。
「奏」
名を呼ばれた。
どくん、と心臓が波打った。
「……やめろ」
弱々しく首を振る。
「かわいい奏。あたしが欲しいでしょう」
「嫌だ。違う」
「馬鹿ね。いいのよ」
毒をはらんだ、やさしい悪魔の誘惑だった。
皮を一枚へだてた体の中を、抗いがたい劣情が暴れ回る。
「いい子ね」
「ふざけるな」
頬をかすめる吐息と、肩にはらりと落ちた髪、肌に触れる浴衣の生地までも、全てが奏を苛んだ。
目がかすみ、呼吸が一気に荒くなる。
もがく奏の背を、茜はいたわりに満ちた手つきで撫でさすった。
「……ぐ」
喉が鳴った。
切実に、体の求めるものがあった。
「奏。あたしが楽にしてあげる。つらいよね?」
「いらねえ」
「あたしのものだって認めなさい。いっぱいいっぱい、大切にしてあげる」
「いらねえっつってんだろ」
「ね。あたしにキスして」
「嫌だ」
顎を持ち上げられ、視線を上げると、緑のきれいな目があった。
澄んだ光を宿した、見とれるほどにきれいな瞳が。
「服従のキスよ。――さあ」
「いや、……だ」
涙がにじんだ。
屈辱のせいか、混乱のせいか、暴発しそうな欲求の満たされないことへの怒りか。
(だめだ)
なけなしの理性を総動員して、茜の肩をつかみ、体を離す。
なめらかな曲線が視界に入る。
指先に渾身の力を込めた。
(いやだ。だめだ)
「奏」
思考をとろかす彼女の声が、頭の中をかき混ぜる。
「好きよ。奏」
「オレはきらいだ」
「ねえ」
呼吸が苦しい。
「奏。キスして」
――限界だった。
「絶対、絶対許さねえ」
屈するほかにないことなど、本当はとっくにわかっていた。
抗うポーズなど、子どもじみた単なる意地だ。
(忘れるもんか。ああ、なんて――)
「最低だよ。あんたも、オレも」
茜は、ほっと顔をほころばせて、満ち足りたような笑顔をみせた。
そっと奏は額を寄せる。
どちらも未来を受け入れた、その瞬間にそれは起こった。
「三鷹くん!」
耳を打つ騒音とともに、名を呼ばれた。
反射で振り返ると、ガラクタの山を崩しながら、駆け下りてくる少女があった。
黒い髪の、薄着の少女だ。
奏は顔をしかめた。
現実感の失せた頭は、はっきりと少女の存在を拒む。
(でも……)
黒髪は嫌いじゃない。
(嫌いなのは、たしか金だ)
波打つ黄金色が、心底嫌いだ。
突っ立ったまま、何が起きているのかもわからず、少女の行動を見守る。
彼女は床に降り立つと、茜の姿を認めて、目を見開いた。
「え。その人……?」
丸い瞳が、奏と茜を見比べる。
駆けつけた少女は、疑問をありありと目に浮かべて、奏を見上げた。
(黒はいいな)
少女の瞳も、黒だった。
――どのみち、奏は敗北を受け入れていた。
ただ、目の前には黒い瞳の少女がいて。最後の意趣返しのつもりだった。
「いい色だな」
ささやいて、奏は三日に、くちづけた。