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転ぶ三日月  作者: 瀬野とうこ
第三章 : 疑惑に満ちた恋の季節
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第八話

「あぶないから、さがって」

がらくたの出現は止まらない。

取り乱したさやかが引き起こしているのだとしたら、荷物が部屋いっぱいにあふれたら、人は潰れてしまうのだろうか。


部屋の中央にうずたかく積み上げられる荷物をよけて、皐月が三日をかばって後退した。

奏も反対方向にじりじりと下がって、考えを整理する。

(といっても、オレじゃ彼女を落ち着かせられそうにないし)

「気絶させたら止まるかな」

いざとなったら、それもひとつだ。


中央に、ゴミ捨て場のように、山が築き上げられていく。

それに伴い、退避した三日と皐月の姿が、次第に見えなくなっていった。

小山を前にして座り込むさやかの背中から、先ほどのような覇気は消え失せているが、物は増加の一途をたどる。


「さて」

なんて声をかけるべきか、思案する。

(いっそ、十夜さんに来てもらって、カタをつけてもらうかな)


強く念じれば、引っ張り込めると言っていた。

奏にも通じる条件なのかは不明だが、彼が来て左手をふるってくれたなら、場の収集はあっという間にすむだろう。

ともあれ、まずはさやかにおのれを取り戻してもらう努力をしようと、その肩に手を伸ばしたときのことだった。






「あらやだ。なあに、ここ」

ぞっと、全身の肌があわだった。


突然、無人のはずの背後から声がして、――それが一体何を指すのか、とっさには理解ができない。

けれど、鈍い頭とはうらはらに、体は本能に正直だった。


じわじわと認識がしみこんでくる。

血は凍り、同時に沸いてもいるようだった。

頭がしめつけられるようで、息も苦しい。


声は真後ろで響く。

「せっかくだからと思って顔を見に来たのに、ずいぶん変わったところにいるのね」

しっとりとした、女の声だ。


全身が小刻みに震える。

(――ああ)

奏はおのれをさいなむ圧迫感に名前をつけた。

(これは恐怖だ)

顔から表情が抜け落ちた。


緩慢な動作で振り返る。

見知った顔が、そこにはあった。


「あ……」

口を開こうとするが、言葉にならない。

波打つ金の髪をもつ、艶やかな女だ。

けして清らかではない、熟れた桃の実を思わせる女。

因縁深い、吸血鬼がいる。


「なぜ」

ようやくの思いで、それだけを問う。


底知れない緑の瞳が、物色するように奏の全身をたどる。

きゅっと、そのまなじりがつり上がった。

「大きくなったわね、少年。それに、悪い遊びも覚えたみたい」


茜の白い手がのびた。

遅まきながら気がつく。彼女は全裸だ。

なめらかな白い腕の先には、真珠のような光沢を放つ、短くそろえられた爪がならぶ。


彼女の両手が、奏の浴衣の襟をひらき、肩から胸に巻かれた包帯をひきちぎった。

ガーゼがはがれ、胸の十字と、生々しい噛み痕があらわになる。

「あたしの愛し子に悪さをするのはだぁれ?」

指先が、数時間前につけられたばかりの歯形をえぐる。


「ぐ、うっ……」

こみあげる悲鳴を、ギリギリ意地で飲み込んだ。

汗が流れる。


茜は指をぱくりとくわえ、音をたてて血をしゃぶった。

不機嫌そうに歪んでいた顔に、好奇の色が混じる。

「ふうん」

彼女の両手が、奏の肩を押さえ込む。


「喧嘩を売られてるのかと思ったけど、どうやらおせっかいをやかれただけのようね」

全神経が、目の前の女に集中した。


足元に、瓦が一枚落ちてきた。

茜の意識がふっと逸れる。

「さっきから騒々しいわね」


彼女は奏を離して前に出ると、惚けたままのさやかをひややかに見下ろした。

「感動の再会の途中なの。物品整理なら、よそでやってちょうだい」

がつん、がつんと、物の落ちる音がする。

茜は足をふりかぶり、さやかの体を蹴り上げた。


「おい……!」

さすがに声をあげる奏の眼前で、さやかはふっとび、天井にぶつかった。

そのまま、天井付近まで積み上げられていたガラクタの山を一部崩し、向こう側へと流れて消える。


「何をするんだ」

力のない声しか出なかった。

(……生きていないかもしれない)

運がよければ助かるだろうか。


ガラクタの壁の向こうから、人の騒ぐ気配がある。

そしてぱたりと、物の流入は途絶えた。


(ちくしょう)

人の命など、塵芥のようにしか捉えてはいないのだろう。

(知っていたはずなのに)

奏はまた、何もできない。


つい、と、彼女が距離をつめた。

真っ白な、裸の胸が押しつけられる。

二年前には見上げていた忌々しいその顔も、今は自分と同じような高さにある。


胸の十字架が血を流した。

逃げ出すことも叫ぶことも、非難することすらできず、奏は目の前の緑の瞳をじっと見つめた。

忘れることなどないと思っていた顔も、月日がたてば、抱く印象は若干異なる。

彼女の瞳が深緑に光ることも、意外と表情豊かなことも、……その肌がしっとりとした温もりを伝えることも、以前は気づくゆとりがなかった。


さやかを蹴り飛ばした足が、しどけなく奏の浴衣のすそを割る。

人があっけなく踏みにじられる光景は、ショックだったが、そのおかげで目も覚めた。

吐息のかかる距離で、吸血鬼が言う。


「少年、本当に大きくなったわ。でも、まだだめね。もう少し成長を待たないと」

「あんたは、……本当に身勝手だ」

白い手が這い、先ほどえぐった傷跡をやんわりとなでる。


「かわいがられているのね。少し妬けちゃう」

割り入れられた膝が、内腿をなぞる。

「ねえ、少年。勝手に傷をつけちゃだめじゃない。あなた、あたしのものだってわかってる?」


視界を、金の髪が覆った。

熱いしたたりが、首筋を経て、肩へと触れる。

とっさに後へ引こうとする体を、容赦なくはがいじめにされる。


今日、保険医に噛まれたのと寸分違わぬその位置に、茜の牙が、肉を割ってずぶりと入った。

のどが震え、細くかすれた叫びがもれた。

「う、あ……」

体内を焼く毒が、じわりと巡る。


「もう一度、思い出させてあげるわね」

食い込む牙を剥がし、耳元で茜はささやいた。

「ねえ、少年。あたしのことが好きでしょう」


視界ははじけ、ぐるぐるとめまいがした。

(――熱い)

寄り添う茜にすがりつき、奏はあえいだ。

「くそ。ちくしょう」

くつくつと笑い声がする。


「奏」

名を呼ばれた。

どくん、と心臓が波打った。

「……やめろ」

弱々しく首を振る。


「かわいい奏。あたしが欲しいでしょう」

「嫌だ。違う」

「馬鹿ね。いいのよ」

毒をはらんだ、やさしい悪魔の誘惑だった。

皮を一枚へだてた体の中を、抗いがたい劣情が暴れ回る。


「いい子ね」

「ふざけるな」

頬をかすめる吐息と、肩にはらりと落ちた髪、肌に触れる浴衣の生地までも、全てが奏を苛んだ。

目がかすみ、呼吸が一気に荒くなる。


もがく奏の背を、茜はいたわりに満ちた手つきで撫でさすった。

「……ぐ」

喉が鳴った。

切実に、体の求めるものがあった。


「奏。あたしが楽にしてあげる。つらいよね?」

「いらねえ」

「あたしのものだって認めなさい。いっぱいいっぱい、大切にしてあげる」

「いらねえっつってんだろ」

「ね。あたしにキスして」

「嫌だ」


顎を持ち上げられ、視線を上げると、緑のきれいな目があった。

澄んだ光を宿した、見とれるほどにきれいな瞳が。


「服従のキスよ。――さあ」

「いや、……だ」

涙がにじんだ。

屈辱のせいか、混乱のせいか、暴発しそうな欲求の満たされないことへの怒りか。


(だめだ)

なけなしの理性を総動員して、茜の肩をつかみ、体を離す。

なめらかな曲線が視界に入る。

指先に渾身の力を込めた。

(いやだ。だめだ)


「奏」

思考をとろかす彼女の声が、頭の中をかき混ぜる。

「好きよ。奏」

「オレはきらいだ」

「ねえ」

呼吸が苦しい。


「奏。キスして」

――限界だった。

「絶対、絶対許さねえ」


屈するほかにないことなど、本当はとっくにわかっていた。

抗うポーズなど、子どもじみた単なる意地だ。

(忘れるもんか。ああ、なんて――)

「最低だよ。あんたも、オレも」


茜は、ほっと顔をほころばせて、満ち足りたような笑顔をみせた。

そっと奏は額を寄せる。

どちらも未来を受け入れた、その瞬間にそれは起こった。






「三鷹くん!」

耳を打つ騒音とともに、名を呼ばれた。


反射で振り返ると、ガラクタの山を崩しながら、駆け下りてくる少女があった。

黒い髪の、薄着の少女だ。

奏は顔をしかめた。

現実感の失せた頭は、はっきりと少女の存在を拒む。


(でも……)

黒髪は嫌いじゃない。

(嫌いなのは、たしか金だ)

波打つ黄金色が、心底嫌いだ。


突っ立ったまま、何が起きているのかもわからず、少女の行動を見守る。

彼女は床に降り立つと、茜の姿を認めて、目を見開いた。

「え。その人……?」

丸い瞳が、奏と茜を見比べる。

駆けつけた少女は、疑問をありありと目に浮かべて、奏を見上げた。


(黒はいいな)

少女の瞳も、黒だった。


――どのみち、奏は敗北を受け入れていた。

ただ、目の前には黒い瞳の少女がいて。最後の意趣返しのつもりだった。

「いい色だな」


ささやいて、奏は三日に、くちづけた。

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