第六話
目の前で膝の折れた奏を、支えたのは十夜だった。
「奏」
白い顔をしてやってきた後輩に、気を揉んだ矢先のことである。
「精気をごっそり奪われてる」
腕の中でくずおれた少年をのぞきこんで、秋が眉をひそめた。
「巴、あいつ、……おかしいな」
難しい顔をする秋に、十夜もうなずく。
自身の知るかぎり、巴は食欲のままに食い尽くすような娘ではない。
何かがバランスを崩しているのだとすれば、それは奏の方だというのがあり得る話だ。
「ひとまずこれは保健室だな」
気がついたら話を聞くことにして、十夜は奏を持ち上げる。
「おおっと?」
すかさず秋がちゃちゃをいれる。
「写真撮っとこ」
携帯で楽しげにシャッターをきって、くすくすと笑う。
「お姫様抱っこだって。奏、見せたら卒倒するよ」
「む……」
余計なことの好きな男だ。
「いいからとっととドアを開けろ」
奏の荷物は秋に持たせて、先導させる。
保健室にいたのは、保険医の六崎 麦と、二年の仁木 灯。
秋の押さえる扉をくぐると、灯と話していた六崎が、こちらに注意を向けた。
「あら、橘くん。どうしたの、その子」
十夜はかるく会釈を返す。
「調子が悪いようで、気を失ってしまって」
「こっちに寝かせて」
六崎がシーツをはいだ簡易ベッドに、横たえて靴を脱がす。
「ずいぶん顔が白いわね」
六崎は、ショートカットが軽やかな養護教諭だ。
倒れた奏の脈拍や血圧をてきぱきと計っていく動作は、迷いがなくて頼もしい。
そんな六崎の背中に、灯が声をかける。
「先生。私、おいとましますね」
「ええ、気をつけて。またいらっしゃい」
また来るように声をかけるというのも、あまりないことかもしれないが、灯が病弱だというのは十夜も耳にするところだ。
双子の兄の風太はサッカー部に所属していて、活発なスポーツ少年として名をはせているというのに、かたや灯は万年保健室通い。
男女の別はおいておいて、なかなかに対照的な兄妹である。
灯は首のラインで切りそろえられた黒髪を揺らし、頭を下げると、保健室を出ていった。
表情にとぼしく、影の薄い少女だった。
立ち去る少女を、秋が目で追う。
思うところがあるらしく、物言いたげな顔をしている。
しかし彼とて、奏の容態の方により興味があるのだろう。
すぐにベッドに歩み寄った。
「あら、これ」
体温計を手に、奏のワイシャツをくつろげていた六崎の手が止まる。
奏の胸に刻まれた、十字の痕跡。
普段は赤黒く痕を残すだけのそこから、今は血がにじんでいた。
六崎が小指で血をすくいとり、口にくわえる。
ぎょっとする十夜の前で、彼女は難しい顔をした。
「かわいそうに。なるほど、久々でびっくりしちゃったのね」
わけがわからず問い返すと、落ち着きのある声で知らされる。
「茜が近くにいるんだわ」
「茜? 誰です」
「この子に牙をたてた吸血鬼よ」
十夜と秋は、そろってまなざしを強くした。
「だから奏は調子を崩したと?」
「その影響は強かったのでしょうね。察するに、最初に傷を受けてからもう何年も接触がなかったんじゃないかしら」
「そのようですね。しかし先生、なぜそうとわかるのですか」
六崎は眉を下げると、さらりと述べた。
「だって、わたしも吸血鬼なんだもの」
意外な告白に息をのむ。
「茜のことも知っているわ。昔なじみなの。まさかこの学校に、彼女の獲物が入学しているとは思わなかったけれど」
六崎は、奏の胸にガーゼを当て、シャツのボタンを元通りにはめていった。
「彼女、いたずら好きで困っちゃうのよね。ちょっと興味をひく子がいると、誰彼かまわず牙をむくんだから」
それは被害にあった側としては、たまったものではないだろう。
眉間にぐっと力がこもる。
「元凶がこの街にいるのか」
秋もつぶやく。
「だったら、その茜って吸血鬼に掛けあえば、奏は解放してもらえるのかな」
十夜と同じく、秋にとっても奏は弟分だ。
くだんの吸血鬼が近くにひそんでいるとなれば、見過ごせるものではない。
「ねえ先生。吸血鬼って、どうやって退治するんです?」
秋がたずねる。
「あらやだ。私にそれをきくの?」
「いいでしょ。教えてくださいよ」
「そうねえ」
サバサバとした口調で、六崎は言った。
「一番確実なのは、首と胴体を切り離すことね」
「先生、昔なじみだって言いましたよね。その吸血鬼、素直に僕たちのお願いをきいてくれそうなタイプですか?」
「難しいでしょうね。彼女、子どもっぽいところがあるから」
(とうぶん奏からは目が離せそうにないな)
十夜は言った。
「対策を講じる必要があるな。先生、協力していただけますか」
「ええ。私、今は教員だもの。生徒の健康面に口をはさむのが仕事よ」
「助かります」
「そうねえ。茜の関心をそらすのは難しいにしても、私にできることがひとつあるわね」
視線で問いかけると、六崎はこううけおった。
「毒素でこの子は苦しんでいるんだもの。中和してあげればいいのよ」
「どうするんです」
「さっき味見したところ、どうやってか、成分がかなり薄れているわね。それでも、体内に残った分が、時折過剰に反応する。――のよね?」
「ええ。そうなんだと思います」
「茜の痕跡を消すことは彼女にしかできないけれど、副作用の動悸や発情だったら、打ち消すのは、同じ吸血鬼であれば簡単なことよ。もう一度牙をたてて、なだめてあげるの」
(もう一度、か)
はたして六崎は信用に値するだろうか。
厳しい面持ちの十夜に、六崎は言葉をつらねた。
「この子が目覚めてから決めればいいのよ。今、気を失っているのだって、久しぶりに親玉の気配を感じて、血が過剰に反応しちゃっただけだし。このままでいいっていうなら、様子をみてもいいんじゃない」
その言葉をうけて、秋が奏の頬に張り手をみまった。
パン、と、乾いた音がする。
「奏、起きな」
十夜が頭をかかえる。
「殴ることないだろう」
「手っ取り早いでしょう。僕、待つの嫌いだしね」
乱暴だが、効果はあった。
うめき声がして、奏がうっすらと目を開ける。
「……起きたか」
「おはよ、奏。悪い知らせがあるよ、気をしっかりね」
――そうして奏は微塵も迷うそぶりをみせず、決断をくだした。
「血の高ぶりを沈めるだけで、あなたが呪いを受けたことが反故になるわけでもなければ、真人間に戻れるわけでもないのよ」
六崎は念を押したが、奏は静かにうなずいた。
「かまいません。お願いします」
そのころ、わずかに離れた住宅街の一角で、茜の再来を知るもう一人の人物がいた。
柾木 朔は、学校帰りに自宅の道場の前で足をとめた。
(やけにコウモリが活発だな)
街中に、そうそう現れる生物ではない。
嫌な予感に、顔がこわばる。
二年前にも、こんなことがあった。
やけにコウモリが目につく日、柾木は不審に思って、コウモリに探りをいれたのだ。
それが、吸血鬼の注意を引くことになり、友人が呪われるきっかけにもなったのだが、今日もあの日と似た空気が流れている。
(――もしかして)
意を決して、声をかける。
「きみたち、きみたちは誰の使い魔なのかな」
『コガネのキミ』
と、返ってきた答えはあの日と同じで――。
柾木は、茜の帰還を察するのだった。




