第四話
京堂と職員室前で別れた三日は、さてこれからどうしようかと思案した。
最初は次のバスの時間まで図書館ででも過ごそうかと思ったが、なるべく人のいそうな場所はさけたいものだ。
いっそ歩いて帰ろうかと、きびすをかえした先に、美術室の扉が開いているのが目についた。
(――ああ)
涼一のまとう清廉な空気が思いおこされる。
彼ならば、三日がどんな匂いをまとっていたところで物ともしないのではないだろうか。
そんな思いに突き動かされて、ふらふらと美術室へと足を向けた。
「こんにちは」
他に誰かいたなら、すぐに引き返そうと思っていた。
「やあ。三日さん」
しかし今日もここには涼一が一人きりで、キャンバスに向かって筆を持っていた。
ほっと息をつく三日に、涼一は慈悲深い笑みを向け、室内に招く。
「どうぞ、入って。来てくれてうれしいよ」
水晶にも似た透明なまなざしを向けて、彼は言う。
「おや。だけど奇妙な香りをまとっているね。どうしたんだい、それ」
「匂いますか」
放課後に香水を吹きかけられて以降、人が寄ってきて困っているのだと説明する。
「ああ。魅惑の香だね。どうりで覚えのある香りだと思った」
「知っているの?」
「うん。化学の那由他先生が、見せてくれたことがあるから。しかしそれじゃあ災難だったね」
「涼一さんはなんともないの? この香り」
「僕には効かない。君もそうでしょう? 効果は人によるんだよ」
「ええ。そうね」
たしかに、人というよりも自然に近い雰囲気をまとうこの人が、香りに酔って我を見失いう姿など想像がつかなくて、素直に納得してしまう。
「よかった。安心しちゃった」
胸をなでおろすと、涼一も優しく笑みをもらす。
「ああ、でもこれって洗えば落ちるのかしら。すぐに効果がきれるといいのだけど」
「うん、洗い流すのが一番だろうけど、家に帰るまでが大変そうだね。帰りはバス?」
「バスと電車なの」
「人の多いところは避けたほうがいいかもね。タクシーを呼ぼうか? ひとりだと心配だから、送っていくよ」
「ありがとう。ううん、でも平気。それなら走って帰ることにするから」
「走って?」
面白そうに、涼一が目を丸くする。
「山育ちだから、足には自信があるの」
「ふうん、そう。ならいいけど。気をつけるんだよ」
心配だと言ったわりには止めるそぶりもみせず、涼一はうなずいた。
「なるべく人気のない道を通るといい」
「そうする。アドバイスをありがとう。……不思議ね、あなたと話していると、とても落ち着くの」
「それはよかった。困ったときはいつでもおいで。逃げ場くらいにはなるだろうから」
涼一のもとを後にして、学校を出た三日は、山道を軽快に下っていった。
舗装された道路には近寄らず、木立の間をくぐって、ぐんぐんと行く。
土を踏み返す感触というのはいいものだ。
鳥や虫の気配を間近に感じ、気持ちも安らぐ。
だいぶ慣れたと思っていても、学校にいる間は気持ちが張っていたのだとわかる。
(もういっそ、毎日歩いて帰っちゃおうかな)
そんな気にもなる。
傾斜を下ったところで向きを変え、山沿いを進む。
前方には白睡山が佇む。
あの山のふもとで、三日は育った。
世間では禁山と恐れられる地も、三日にとってはなじみの場所だ。
会ったことのない祖母が眠る山でもある。
山の威容を目にしてくつろいだ三日は、鼻歌まじりに駆けていった。
うっすらと心地よい汗をかき、帰宅した三日は、玄関先で皐月とはちあわせをした。
「おかえり。はやいね」
声をかける三日に、会うなり皐月は盛大に顔をしかめる。
「なにその顔。どうかしたの」
「おまえこそ、なんだその匂い。ものすっげえ臭い」
「くさい?」
「すっごくだ。すっごく。うわ」
鼻をつまんで皐月が後ずさる。
「え、そんなに?」
思わず腕の匂いをかぐ三日に、皐月が呆れた目を向ける。
「よく平気だな。尋常じゃないぞ、それ。はやく風呂に入れ。制服も洗え」
「う、うん」
「オレ、今日はそっち行かないから。その変な匂いが抜けるまで、近寄るなよ!」
「……そこまでひどいかなあ」
「ああひどい。大惨事だとも」
皐月は三日の家の鍵を取り出して玄関を開けると、強引に室内に押し込めた。
「普通にわいた匂いじゃないだろそれ。洗ったあとで話は聞いてやるからさ、隅々まできれいに完璧に洗えよ」
「うん」
「あとで電話な」
うう、と、皐月がうめく。
「気持ち悪くなってきた。じゃあな。オレもシャワー浴びるわ」
よろめきながらドアを閉め、玄関の向こうで皐月が自宅に戻る音がした。
「くさい、かなあ」
いくぶん傷つき、バスルームに向かう。
効果は人によると涼一が言っていたけれど、それでいくと、嗅覚の優れた皐月には刺激が強かったのだろう。
(換気もしておこう)
はたして苦情は、奏とさやかのどちらに告げるべきなのかと考えながら、身を清めた。
夢の中で、奏は荒く息をついていた。
とある女の夢。いつもの夢だ。
公園の物陰で、学校の屋上で、あるいは自分の部屋のベッドの上で、――彼はひとりの女を殺す。
この日は柾木の道場の更衣室だった。
畳の上で女を組み敷き、脈打つのどに食らいつく。
犬歯はするどい牙となり、のどにあふれる液体が胸の奥を熱くさせる。
白かった女の肌も、ブラウスも、赤くて甘美な血潮に染まる。
畳にはそぐわないブロンドの髪も、赤には映える。
「茜」
女の名を呼ぶ。
焦点の合わない緑の瞳がかすかに揺らぐ。
茜というのは仮の名だ。
夕焼け空の、濃い茜色が美しかったから、茜。
日本に来た折には名乗るのだと言っていた。
本名も、年齢も、国籍すらもはっきりとしないこの女は、なにもかもが曖昧だ。
「苦しいか」
狂気の宿る目で、女の腕に爪をたてる。
「楽にしてやろうか」
くつくつとのどをふるわせて笑う。
耳に、肩に、指先に、歯をたてては血をすする。
奏を忌々しい眷属に引きずり込もうとしたのは、この女だ。
「あんたの血はうまいよ」
くり返し、夢の中で、願うのはいつも同じだ。
「オレの手で、呪われた血を根こそぎぶちまけて、――苦しみぬいて死ねよ」
尖った歯が肌をやぶる。
香り高い体液がのどに流れ込んだ。
思うがままにのどをうるおし、肉体をさいなんだ果てに、意識は朦朧として、――いつしか血肉をむさぼられているのは、奏の方だった。
気がついたときには、手足が幾分か縮み、身体の厚みも薄くなっていた。
この女と初めて会って、見初められたときと同じ、中学時代の肉体に逆行している。
先ほどまで人形のようだった緑の瞳には意地の悪そうな意識が宿り、茜の指が奏の衣服をはいでいく。
女にしては低めの笑い混じりの声が、耳をうつ。
「少年、あたしの血はおいしかった? 次はあたしの番よね。たくさん食べてあげる」
血の気がひいていたはずの彼女の顔はつやつやと輝き、声は生気に溢れてはずんでいる。
散々奏に引き裂かれたはずの肉体には損傷のあともなく、ただブラウスだけが褪色した血の痕をとどめている。
いつの間に血を失ったのだろう。
全身は重く脱力し、危機感に煽られた皮膚がびりびりと悲鳴をあげていた。
さらされた胸元に刻まれた十字のアザを、彼女の爪先がえぐる。
おおきく吸い込んだ空気が、のどを焼く。
「痛い? 少年。血が出てるわ」
とろりと流れ出た血液を、彼女の舌がすくう。
見せつけるように舐めとられた彼女の口から、鋭く尖った牙がのぞいた。
(ああ。――またか)
飽くほどにくり返し見た光景だ。
あの牙が皮膚を裂き、肉をえぐる感触を、奏はよく知っていた。
血を吸われるのではなく、燃えるほどに熱い何かを注ぎ込まれるのだ。
茜は笑う。
楽しそうに、嬉しそうに、奏にくちづける。
逃げもせず、叫びもせず、彼は運命を受け入れた――。
おおきくあえいで、目が覚めた。
全身が凍え、震えている。
四肢が冷え切っているのに、身体の内側だけがどうしようもなく熱いのは、夢の残滓だ。
何度も息を浅くつき、呼吸を整える。
「……う」
漏れた声にくやしさがにじむ。
身の内に巣くう呪いが、悪夢を見せる。
「そんな、度々出てこなくたって、忘れやしないよ」
歯をむいて口元をゆがめ、上体を起こす。
脅迫めいた情欲が身体を巡る。
日中に訪れた化学室で、教師の金森が、これは鎖なのだと言っていた。
獲物の首輪につながれた、肉体を縛る鎖。
まったく、姑息で、低俗で、あの女にはお似合いの手法だ。
荒れる感情の波も、下腹を圧迫する衝動も、馴染みのものだ。
ふらりと立ち上がって、部屋にそなえつけてある冷蔵庫から水を出して飲み、携帯電話を手にとった。
時計を見ると、深夜の二時だ。
舌打ちがもれる。
(さっき寝てから、一時間もたってないんじゃないか)
寝不足は確定だ。
携帯の履歴から、一件選んで電話をかける。
三度目のコールで相手は出た。
電話ごしに、ひとつだけ年下の少女の明るい声が、眠気のかけらも感じさせない元気さで、挨拶をよこす。
「巴、ごめん、オレ。今いいかな」
承諾の声はいつだって頼もしい。
「ああ。助かるよ。今から行く」
手短に通話を終えた奏は、巴から譲り受けている錠剤をひとつ飲む。
秋の妹の、巴は淫魔だ。
吸血鬼のエサとして目をつけられた奏は、この二年間、巴のエサでもあった。
口にした錠剤はさっと溶け、――視界は白いもやに覆われた。
錠剤は通行手形だ。
夢と現実の狭間にある巴の住居に、奏は足を踏み入れた。