第三話
そそくさと奏が教室を出ていくと、三日の周囲には人垣ができた。
顔見知りていどの男子生徒が口々に声をかけてきて、これは様子がおかしいとすぐに気づく。
「前から話をしてみたいと思っていたんだ」
「今日の宿題、一緒にやらない?」
「それよりさ、駅前においしいヨーグルトパフェを出す店があるんだ」
(はやく帰ったほうがいいって、まさかこれ?)
何が起こっているのかはわからないが、ここは素直に助言に従ったほうがよさそうだ。
「ごめんなさい。私もう帰らなくちゃ」
「だったら一緒に帰ろうよ」
「どこに住んでいるの? 送っていくよ」
「いえ、でも……」
教室を出ようとしたところを詰め寄られて困惑する三日をかばい、ぬんとさやかが立ちふさがった。
「ちょっと! 望月さん困ってるじゃない。何なのよあんたたち」
「一緒に帰ろうって誘ってるだけだろ」
「望月さんはあたしと帰るのよ」
「どうせ同じバスなんだし、皆で帰ろうか?」
「嫌よ、そんなのごめんだわ」
「俺、望月さんと二人がいいな……」
「あたしが! 二人で帰るのよ!」
「決めるのは望月さんだろう」
「ねえ望月さん、こんなうるさい奴らほっといて、僕と帰ろうよ」
「ええっと、ごめんなさい。私やっぱり、一人で帰りたいなって……」
じりじりと廊下に向かって後ずさる三日の肩が、何かにぶつかった。
(わ)
それが人だと気づいて謝るよりも先に、聞き覚えのある声が頭上からふってくる。
「おいおい、ずいぶんな騒ぎじゃないか」
はっとして首をまわす。
「京堂さん」
体操服姿の、筋肉質な青年と目があった。
「あれ、友哉って呼んでくれないんだ?」
おどけた表情をして、京堂は三日の耳元にくちびるを寄せた。
「困ってるの? たすけてあげよっか」
そそぎこまれた提案は魅力的で、三日はかすかに顎をひく。
京堂は満足気に口元に笑みをはくと、おもむろに三日の肩を抱いて引き寄せた。
「悪いが彼女はもらっていくよ。個人的な話があるんだ」
ざわつく教室内から、さやかが一歩前に出た。
「あなた誰よ。気安く望月さんに触らないで」
「二年五組、京堂 友哉。残念だったね、オレは触ってもいいんだよ」
楽しげに京堂の瞳がまたたいた。
大きな手が三日の髪をなで、すくった毛束にくちびるがおちる。
「行こうか」
至近距離で見つめられて、かすかに頬がひきつった。
「そ、そうですね」
「望月さん!」
叫ぶさやかに、「じゃあね」と、京堂が手をふる。
肩を押されて歩き出しながら、首をひねって三日も声をかけた。
「ごめん、さよなら」
立ち去る背中にかけられたのは、極めて率直な罵声だった。
「この人さらい! バカー!」
肩を抱かれたまま、足早に階段をのぼった。
「どこに向かってるんですか」
「職員室」
「下ですよね」
うながされるまま四階までのぼってきたが、職員室なら下の階だ。
「そうだけど、さっきの連中とはちあわせしたくないでしょう。少し遠回りをしよう」
なるほど、気をつかってくれているらしい。
京堂はそのまま屋上へとつづく階段をのぼり、たちはだかるドアの前で腰をおろした。
肩に腕が回されたままなので、三日も強制的に並んで座る。
「外は暑いからさ。少しだけ時間つぶして、人がはけたころに下におりよう」
「はい。あの、ありがとうございます」
「いえいえ」
「京堂さん、部活中なんですよね」
「そう。職員室に用があって抜けてきたんだけどね」
「だったら、……私はもう一人で平気なので、戻っていいですよ?」
そう告げると、彼はおおげさなそぶりで天をあおいだ。
「オレにあのむさくるしい体育館に戻れって? そりゃないよ。せっかく抜け出してこれたっていうのにさ」
「むさくるしいんですか」
「かなりね」
放課後の体育館には足を運んだことがないけれど、京堂のセリフには真実味があった。
「部活、毎日あるんですか」
「あるよ。体操部は第二体育館でやってるんだ。そうだお嬢ちゃん、もし帰りのバスの時間をずらしたいなら、見学してく?」
「お邪魔になりませんか」
「ならないよ。むしろ練習に熱がはいるんじゃないかな」
「そうですか。お気持ちはうれしいんですが、ええと、ちょっと気になるんですけど」
「何?」
「なぜ親切にしてくれるのでしょう」
それと、なぜこんなにくっついているのでしょう。
そう疑問に感じながらも、そういえば彼は初対面のときからべたべた触ってきていたっけと思いめぐらせる。
「オレ、いつも親切だよね」
「いいえ、そんなことないですよね」
普段さして接点のある相手ではないけれど、善人でないことくらいは知っている。
「助かりましたし、ありがたいと思ってるんですけど、ちょっと意外で」
「ええ、お嬢ちゃん、オレのこと誤解してない?」
いかにも心外だというふうに、顔をしかめる。
「かわいい子が困っていたら助けるでしょ普通。しかも知らぬ相手でもないし」
「見返りなしに、ですか?」
「誰にも何も頼まれてないからね」
そう苦笑をもらして、頬を寄せてくる。
てっきり彼は打算で動く人物だと思っていたのに、――仕事がからまなければ、言動が軽いだけの善良な高校生なのだろうか。
(よくわからないなあ)
手を差しのべてもらうだけの義理もなければ、こうして並んで話し込むような縁もないと思っていた。
単なる気まぐれなのかもしれないけれど、だからといって気を許していい相手ではないはずだ。
「京堂さん」
「うん」
「重いです」
脱力した彼の頬が、頭にずしんとのっていた。
「お嬢ちゃん、オレ一人くらい持ち上げられるんじゃないの」
「だったら訂正します。重くはないけど、鬱陶しいです」
耳元で、笑いのもれる音がした。
「オレ、誰かにくっついてるの、けっこう好きなんだよね」
「それは私も嫌いじゃないですけど……。でも相手は選んでくださいよ」
「うーん」
気のない返事をした京堂が、上体をひねって三日の髪に顔をうずめた。
「……さっきから気になってたんだけどね」
「なんです」
「いい匂いがする」
「ああ。じつは先ほど、香水を吹きかけられまして」
「へえ。甘い匂いだ」
肩を抱く力が強くなる。
反対の手で頬を包まれて、上を向かされた。
「……近すぎませんか」
「そうだね」
なにやら思い悩むような真剣な眼差しで、京堂はつぶやいた。
「なぜだろう。気になるんだ」
指先が頬から顎の線をくだっていく。
いまにもくっつきそうだった距離が縮まり、京堂の顔が三日の首筋にうずめられた。
「おいしそうな匂い。舐めていい?」
きくが早いか、彼の体温が伝わるのと同時に、あたたかな舌先が喉をぺろりと舐めあげた。
「うわ、ちょっと!」
あせった三日が、ぐっと拳をにぎりしめる。
「少しだけ汗ばんでる。しっとりとした、いい肌だ」
耳の真下で、声がした。
(ぎゃあ)
三日は反射でその頭部にげんこつを落とそうとして、あやういところで思いとどまる。
(っと、いけない。だめ、だめだよね。危ないなもう)
加減なしで殴っては、ケガをさせてしまうだろう。
「あれ?」
声をもらし、身じろぎした京堂のくちびるが、肌をかすめる。
三日はぐっと彼の体を押し返した。
「いい加減に離れてください」
押し戻されるままに体を離した京堂は、目を見開いて三日を見つめた。
「……お嬢ちゃん、オレに何かした?」
「何かしたのは京堂さんですよね」
さすがに半眼になって、京堂をねめつける。
今頃になって、全身がたまらなくぞわぞわしてきた。
「私だって知ってます。許可なく触ったり舐めたりしたらいけないんですよ!」
腕でごしごし首をこする。
(ああもう、ああ、もう!)
妙に顔まで熱くなる。
(なんで舐めるの。動物なの?)
「一体なんだっていうんです」
人間に舐められるのは初めてだ。
(へんな感じ)
顔をしかめる三日に、京堂は「あれえ?」と、首をかしげる。
「そうだよね、おかしいな。なんでオレ、お嬢ちゃんにせまってるんだろ」
心底不思議そうにそんなことを言うものだから、三日は怒るべきなのか呆れるべきなのか、判断に迷った。
「私がきいてるんですけどね」
「そうか。そうだね。いやごめん。ついついね」
(ついつい……?)
「ついの範疇を越えてます」
「だよねえ」
京堂がかわいた笑いをもらす。
「しかしオレも、急に目が覚めたようだとしか……」
「目が覚めた、ですか」
「うん、まあね。こう、ふらーっと惑わされて、あれ? みたいな」
三日のおもてがひきしまった。
「それって、もしかして本当に惑わされていたってことですか」
「うん?」
「さっきの教室で起こったのと同じ……?」
ふいに、やけに慌てていた奏のセリフがよみがえる。
(寄ってくる人間に気をつけろって言ってた)
ぎゅっとブラウスの胸元を握りしめる。
「香水のせいなのかしら」
こうなることを知っていたから、彼はああまで動揺していたのかもしれない。
この香りが人を惑わせる効果があるのだとしたら、京堂が目が覚めたというのも、当然の成り行きといえる。
「私の首を舐めたから、正気に返ったんですね」
鼻をくんくんさせていた京堂が、きょとんとして三日を見た。
「舐めたらさめるのかい」
「ええ。たぶん、ですけど。どうやら私、ひとの気をひく効果がある香をまとっているようですね。京堂さんも、その匂いにやられたんじゃないですか」
「へえ、でもおかしいね。匂いが消えたわけじゃないんだろう」
効果が急激に消え去ったのはなぜかと問われて、三日はこたえた。
「私が汗ばんでいたって言ってたじゃないですか。あまり大きな声で言えたことではないのだけど、私の体液には解毒作用がありますからね。そのせいじゃないですか」
「解毒作用ね。それはまた風変わりな体質だねえ。――お嬢ちゃん、何者だい」
三日はそっけなく返事をした。
「私は神社の娘ですよ」
「ふうん」
京堂はかるく頭を振ると、立ち上がった。
「じゃあオレ、また理性を失わないうちに退散しようかな」
「ええ。そうですね。そうしてください」
三日もつづいて腰をあげると、京堂がからかいまじりに手をのばした。
「とはいえ」
喉元にのびてきた指を避け、三日がぴょんと飛び跳ねる。
「なぜ逃げるの?」
「本能です」
「逃げなくてもいいのに」
性質の悪い笑顔をうかべて、京堂が一歩詰め寄る。
「実はね、もったいなかったかなっていう気もしてるんだ」
「え?」
「さっきの。目が覚める必要はなかったよね。だって、本当においしそうだったんだ」
目を細める京堂に、三日はうんざりとして口をまげた。
「私も言いたいことがあります」
「どうぞ」
「あなた、わかりにくすぎるんですよ! 正気を保っていても、失っていても、態度がちっとも変わらないじゃないですか。反省してください!」
ぷいとそっぽを向くと、明るい笑い声が耳元ではぜた。
「ああ、オレ、裏表のない性格だからね」
「知りませんよ。裏表がないって、やっかいだっていうのと同義ですか」
ふいをついて伸びてきた長い指が、三日の頬をつついた。
「赤いよ」
「青いよりマシです」
言い捨てて、三日は階段を駆け下りた。
後ろから足音がつづき、背中に声がかけられる。
「いやほんと、キミっておもしろいね」
ますます顔がほてった気がして、三日はうなった。