第二話
次に奏が向かったのは、化学準備室だ。
化学室には幾度か足を踏み入れたことがあるものの、準備室に来るのははじめてだった。
今回は、化学教師の金森に呼び出されての訪問である。
「失礼します」
奏が訪れると、金森は対面側のソファをすすめて、ローテーブルの上に小さな香水の瓶を載せた。
「ではさっそく。これが約束の品よ、あなたにあげるわ」
「これは?」
華奢なピンクの瓶だった。キャップが金のハート型になっている。
金森は意気揚々と、胸をはってこたえた。
「こちらは幻の入れ食い装置になります」
「何です」
「要するに、これを使うとモテるのよ。麻酔機能付きのチャームコフレね」
「ええとつまり、雑誌の広告なんかでよく見る、フェロモンがどうとかいうやつですか」
「そうそう」
金森は手を打って喜んだ。
「察しがいいわね、三鷹くん。使い方は簡単。これを自分にシュッと一吹きすると、灯りに群がる蛾のように、女の子が寄ってくるって寸法よ」
奏はがくりと肩をおとした。
(いらねえ)
人魚という手がかりを示してくれた金森が自分のために調合してくれる薬ときいて、多少なりとも期待をしていた。
(鎮静剤が欲しいって言ったよな、オレ)
それがどう化けたら、こんな正反対の意味あいをもつ香水となるのか。
(それか、もしかしたら人魚を探すうえで役に立つものでもくれるのかと思ったんだけどな)
そうは問屋がおろさない、というやつか。世の中甘くはないらしい。
うなだれる奏を歯牙にもかけず、金森は自信たっぷりに説明を続ける。
「それだけじゃないのよ。香りで異性の気をひいておいて、気に入った子がいたら、このハートに内臓されてる針でちくんと刺すの」
なるほど、たしかにキャップ部分のハートをねじって開くと、中には針が仕込まれている。
「ここにね、しびれ薬がしみこんでいるから、そうしたらもう後はお好きにってことよ」
わめきだしたい衝動を押し殺し、奏はきいた。
「……先生は、オレを性犯罪者に仕立て上げるおつもりですか」
相手が教師でなければ、「アホか!」と、怒鳴りつけているところだ。
(いや、実際アホだろ。何作ってんだよ、どうすんだよこれ)
女性受けしそうなかわいらしい小瓶も、こうなるとトラブルの種にしか見えやしない。
「危ないもん作るなよな」
ついそう小声でこぼしてしまう。
「もちろん、使う時と場所は選んでね」
軽いノリでウインクがひとつ飛んでくる。
「使いませんよ」
「あらあ、どうして。便利じゃない」
「一体何が便利だっていうんです」
金森は小首をかしげて奏を見つめた。
「だって三鷹くん、体をもてあましているんでしょう。そもそも吸血鬼の呪いって、相手を自分の元から逃れられなくするためのものなのに、当人がいなくなっちゃうなんてひどい話よね」
「そう、なんですか」
初耳だった。
「あら、知らなかったの? 欲求で相手を縛りつけるのよ。なのに三鷹くんは、空腹のまま飼い主に首輪の鎖をはずされちゃって困っているのよね。だったらよそでお腹を満たすしかないじゃない」
「なるほど」
この瓶を用意された理屈はわかった。
「ね、これがあれば発散する先には困らないわよ」
つまり、欲求を抑えこむのではなく、前向きに受け止めろと言いたいのだろう。
(犯罪だけどな)
今の奏には不要の品だが、秋や十夜と出会う前なら、飛びついていたかもしれない。
金森は知らないだろうが、自身を縛るこの首輪に、鎖はもうつないであるのだ。
二年前、呪いに苦しむ奏を見出し、救ってくれたのは秋だった。
秋はすぐさま彼の妹と、それから十夜に会わせてくれて、――呪いの大半は十夜が左手で吸引をしてくれた。
自身に食い込んでいる核の部分までは除去できなかったものの、それも秋の妹の巴が定期的にメンテナンスをほどこしてくれることにより、事なきを得ている。
奏がこうして日常をおくっていられるのは彼ら三人のおかげだし、呪いが身の内にある以上、彼らから離れることもまたできないのだった。
「念のためにききますが、オレが受けとらなかったとしたら、先生これをどうします」
「えー、そりゃあせっかく作ったんだもの、欲しいと言ってきた人にあげるわよ」
(やっぱり)
金森に人としての良心を期待しても無駄なのだろう。
こんなものを欲しがる人間にろくな奴はいなさそうだが、誰がどんな使い方をしようとも、きっと彼女は気にとめない。
(しかたないな、もらっておくか)
そう心に決めたとき、金森はけろりとしてとんでもないことを言い出した。
「需要はあると思うのよ。なんせ原液を盗みにはいる人がいるくらいだもの」
「それはそう、――待ってください。なんですって」
「だからね、盗られたのよ。作りだめしといた香水部分の原液を」
「いつです」
「んー、昨晩から今朝にかけてかしら」
さして問題を感じている様子もない彼女に、奏は目をむいた。
「ばっ……! 何をのんきに構えてるんです。犯人は捕まったんですか」
「捕まえてどうするのよ」
「取り返すに決まってるじゃないですか!」
人を惑わす悪の実だ。犯人が誰であれ、ろくでもないことに使おうとするに決まっている。
気を揉む奏を尻目に、金森は「そうねえ」と、笑って手をふった。
「だったら手遅れだわ。もう使っちゃったみたいだもの」
「なん……っ」
口をついて出そうになった罵声をぐっとこらえた。
(おちつけ。怒鳴ったってしょうがないだろ)
意識して深呼吸をくりかえす。
「既に使われているというのは、確かなんですか」
「そりゃあねえ、午前中の様子を見ていれば、明らかじゃないの」
「それって」
「よっぽど薄めて学校中に散布したんじゃないかしら。あまり賢い使い方だとは思わないけど、でもそもそもわたし、使用法なんて説明してないものね。知らなくても無理ないわ」
「ちょっと、先生いいですか」
金森をさえぎり、頭の中を整理した。
「いろいろききたいことはあるけれど、とりあえずひとつ。今朝から皆が浮き足立っているのは、その薬のせいなんですね」
「たぶんね」
奏はうめいた。
「くっそ、どこのバカだよ。余計なことを」
愚痴をこぼす奏に、金森はさらりと告げる。
「一年の八又さんね」
「知ってて放置してるんですか!」
「あら、後でちゃんとお代は請求するわよ。色をつけてね」
「そういう問題ではありません」
とうとう奏は頭をかかえた。
「そうだ。それで、撒かれたという薬の効果を打ち消すには、どうしたらいいんですか」
しかし前向きに対処しようとする心意気は、どうやら伝わらなかったようだ。
金森の返答は、実に気のないものだった。
「ほっときなさいよ。明日には薄まって効果もきれるわ」
(このバカ女)
放課後に行われた補習授業は、いつになく気詰まりなものだった。
自身にからみつく女子の視線もさることながら、事の元凶である八又 さやかが同じコマを受講しているというのが、奏の神経を逆なでした。
当のさやかはというと、同じクラスの望月 三日にべったりだ。
(よそでやれよ、鬱陶しいな)
三日が迷惑がっているのはわかるのだが、同情をいだくだけのゆとりもない。
補習が終わりしだい三日の席に駆け寄って、一緒に帰るだの帰らないだのと言い合いをしているさやかには極力意識を向けないようにして、手早く帰り支度をする。
無造作にペンケースを鞄に放りこんだとき、中で硬いものに当たるゴトリという音がして、のぞいてみると、金森にもらった小瓶が横倒しになっていた。
(ああ、そういやさっき、鞄に突っ込んでおいたっけ)
中身がこぼれて香りが漏れていては事だと、手に取り無事を確認する。
フタがはずれかけていたので、きっちりと閉めなおす。
(どう処分したもんかな)
手にした誰かに悪用されるのを恐れて、良心の命ずるままに受けとってしまったけれど、これを使用するつもりは微塵もない。
金森は、「魔女の秘薬よ。大切に使いなさいね」と言っていたが、自然と扱いはぞんざいになる。
自宅で机の引き出しにしまいこまれるのがオチかな、と思っていると、帰り支度をおえた三日が話しかけてきた。
「きれいな瓶ね。難しい顔をして、どうかしたの?」
「あ、いや」
机の横で足をとめた三日の腕には、がっちりとさやかが巻きついている。
つい眉をしかめてしまう奏に、さやかはからかいまじりの声をあげた。
「あらそれ、アトマイザーじゃない? きっと彼女にでもあげるんだよ」
「アトマイザーって?」
たずねる三日に、さやかが嬉々として説明しようとするのがわかったが、これ以上彼女の声を聞きたくなくて、先んじてして口をひらいた。
「携帯用の香水瓶のことだね。残念だけど、誰かにあげる当てはないんだ。オレもこれ、貰い物なんだよね」
「そうなんだ」
「ふうん、でもそれ、あきらかに女物だよね」
(うるさいな)
しつこく口をはさんでくるさやかに、苛立ちがつのる。
じろりと目を向けると、さやかも負けじと睨み返してくる。
「まさかこれ……。望月さんにあげるつもりじゃないでしょうね」
「急に何を言い出すんだ」
「貰い物だなんて嘘でしょう。これみよがしに見せつけて、望月さんの気を引こうとしたんじゃないの」
言いがかりとしか思えない発言に、奏の目がすわる。
「そんなわけないだろう」
「知ってるのよ。あなた、望月さんの隣りの席なのよね。毎日、横顔を眺めているだけじゃ満足できなくなったんだわ」
「わけのわからない邪推はやめてくれ。何かと思えば、やきもちかよ」
だんだん険悪になってくる空気に気づいたのか、とまどいがちに三日が話題をそらした。
「ええっと、たしかに千佳あたりが好みそうなデザインのようだけど、香りにも性別によって区分けがあるのかな」
「うん、そうそう。これなんかきっと、甘ったるい匂いがすると思うよ」
そう言ったかと思うと、さやかの手がすっとのびて、香水瓶をとりあげた。
「あ、待っ……!」
慌てて立ち上がる奏の目の前で、さやかがキャップをはずし、三日めがけて香水をふりかけた。
「どんな匂いかなー」
(この、バカ!)
「返せ」
さやかの手から小瓶を奪い返し、キャップを閉めて鞄の内ポケットに放り込む。
鼻腔に、甘酸っぱいさわやかな香りが届く。
奏は、ばっと口もとを手でふさいで、三日を見た。
「望月さん……」
「三鷹くん、どうかしたの?」
(やばい)
「もしかして、使っちゃいけないものだったとか。ねえ八又さん、ひとのものを勝手に使っちゃいけないと思うの」
「えー、いいじゃない、それくらい」
(よくない。よくないぞ)
さっと周りに目を向けると、ちらちらとこちらに注意を向けている生徒が幾人もいる。
香水の有効範囲がどのくらいなのかはわからないが、嫌な予感がひしひしとする。
そうこうするうちにも、自分自身めまいにも似た感覚におそわれて、妙に三日のふるまいが気になりだしたものだから、奏はあせった。
「望月さん、ちょっと出よう」
「ええ、いいけど」
「ダメだよ!」
奏が三日の腕をつかもうと手をのばしたところを、さやかが音をたてて払いのける。
「あんたには言ってない。いいから、はやく」
「ほら、やっぱり望月さんに気があるんじゃない。連れ出そうったってそうはいかないわよ。望月さんはあたしと帰るんだから」
奏の口からこらえきれずに舌打ちがもれた。
「うるさいな。そんなの知るかよ」
「三鷹くん?」
三日の肌の白さに目をうばわれる。
自然と指で触れそうになっていることに気づいて手を引っ込め、一歩下がる。
(ああ、くそ)
魔女の実力を、身をもって実感などしたくはない。
「わかった。悪いことは言わないから、よく聞けよ。なるべく誰にも近づかないようにして、早く帰ったほうがいい。気をつけて、急いで」
「はあ、なにそれ」
さやかが冷ややかな目を向けてくる。
「急いで家に帰ればいいの?」
きょとんとする三日に、言葉を継ぐ。
「そう。寄ってくる奴がいるかもしれないから、気をつけろよ」
「ええ。でも一体どうして」
三日が近寄るのを避けて、後ずさる。
「悪い。オレ、先に帰るから」
「あの……」
何かを言いつのろうとする三日に背をむけ、奏は教室を飛び出した。
甘酸っぱい香りとともに、三日の表情や、声や、眼差しが頭に焼きつく。
(何だこれ)
足元がぐらつくような心地がして、自分が信じられなくなった。
薬のもたらす影響が気にはなったが、自分を取り戻すことが先決だと、奏はその場を逃げ出した。




