第九話
キャンバスをビニールの袋で包んで、三日と奏はふもとの駅で、皐月と柾木の両名と落ち合った。
そこから電車で、海岸へと向かう。
ごつごつとした岩場の先に、荒れた海が広がる。
三日は眼鏡をかけていなかった。
高層ビル並に高く、黒い人影がそびえている。
――時刻は七時をまわり、晴れていたならば、そろそろ夕日が背後の山あいに沈む頃合いだろう。
空を覆う厚い雲と、街を覆う深い海。なによりも異彩を放つ海のあやかしが、女官が恋しい一心でとうとうここまでやって来たのだ。
海坊主を間近に見たのは、はじめてだ。
たしかに生きていると感じるのに、塗り込められたような黒い巨体で、かがんで水底をさらったかと思うと、ざぶんと立ち上がり、空に向かって吠えもする。
雨は小降りになっていた。
傘をさすことを嫌う三日はとうにしとどに濡れていたから、いまさらどうでも構わなかった。
あまりの巨体に危険だというので、奏と柾木にはいくぶん距離を置いて後方に待機してもらっている。
二人はしぶったが、三日と皐月だけならば、たとえ海坊主が襲いかかってきてもどうにかなるのだ。
三日に寄り添う形で、皐月が立っている。
「しかし大きくなったもんだな」
まったく、見上げるだけで首が痛くなりそうだ。
あまり暗くなる前に帰宅したい三日は、手短に用件を済ませようと、ビニールから涼一の絵画を取り出した。
絵をかかげ、ろうろうと声をあげる。
「見ろ。海坊主。そなたの探す御使いはここにあるぞ!」
日頃三日が紡ぐ声とは異なる、大気をふるわせる、低いうなりにも似た声だった。
その声を聞きつけたのかどうか。海坊主の視線がおもむろに突き刺さるのを三日は感じた。
「受けとるがいい。そして、そなたの望む海の底へと旅に出ろ」
そう告げて、海へと絵画を投げ込もうとしたときだった。
思いも寄らぬ敏捷さで、海坊主がぬっとその太い腕を突き出した。
三日の動きが一瞬とまった。
――捕まる。
とっさに身構えた三日の体を、背後から皐月が抱え上げた。
(わ、飛ぶ)
そう感じるやいないや、三日は思いきりキャンバスを海の向こうへ放り投げた。
直前まで二人の立っていた地点を、海坊主の腕がかすめていく。
皐月は恐るべき身体能力を発揮して、三日を抱え、高く、高く跳躍していた。
空を舞う絵画を求めて、海坊主の手が伸びる。
遥か後方に皐月が着地するころ、青いキャンバスが黒い影に捕らわれるのを確かに見た。
「……焦った」
皐月がうなだれる。
両の腕からおろしてもらい、三日はあやまった。
「ごめん。私もびっくりした」
皐月が鼻で笑う。
「でかい図体してたら、動作も鈍いって思うよな。まったく」
「ありがとう。たすかったよ」
皐月がいなければ、危なかった。
泳ぐことのできない身ならば、海に引きずりこまれることは避けなければならない。
皐月が三日の頭に手を伸ばす。
「気をつけろよ」
海坊主の両手が、大切そうにキャンバスをつつみ、やがて真っ黒な全身がずぶずぶと海中に没していくのが見えた。
亀がキャンバスから無事に海へと戻ることができただろうか。
海坊主は念願叶って、女官に会いにいけるのだろうか。
――この先は、三日にはかかわりのないことだった。
(さてと、帰ろうか)
頭を切り替えて、皐月に帰宅を促そうとしたときのことだ。
ほっと息をつく二人に、「おーい」と、声がかけられた。
「……わすれてた」
皐月が苦々しげな声をもらす。
駆け寄ってくるのは、もちろん奏と柾木の両名だ。
二人は目を見交わした。皐月ははっきりとした困り顔だ。
三日もとっさに、先ほどの彼の身のこなしは何事だと問いつめられることを覚悟したが、――彼らはそのようなことを口にしたりはしなかった。
「二階堂くん、かっこいい!」
なぜか妙に興奮した口調で、柾木が皐月にくいついた。
「は?」
「何てすばらしい脚力! 幻想的な背景とあいまって、映画みたいだったよ。いいなあ、かっこいいなあ……!」
あっけにとられる皐月に対し、テンションを上げた柾木は、両手をもみしぼり叫んだ。
「二階堂くんは肉体派だったんだね、見直したよ。ファンになりそうだ!」
焦る皐月と追いすがる柾木をぽかんと眺めていると、こちらはまったく動じていそうにない奏が声をかけてきた。
「望月さん、ケガは」
「私は平気」
「そう、よかったね」
わざとらしいまでにいつもどおりの態度をとる奏に、内心あきれる。
(この人って、本当に他人に興味がないよね)
彼は独特の距離の置きかたをすると思う。
それを如才ないととるか冷淡ととるかは人によるだろうが、あの学校で三年間を無事に過ごそうとするなら、そのくらいでちょうどいいのかもしれない。
「用はもうすんだんだよね。どうする、望月さんはもう帰る?」
「ええ、そうね。残る理由もないし、まっすぐ帰ることにする」
「送っていったほうがいいのかな」
思わぬ気遣いに、両手をふった。
「ううん。皐月が同じマンションだから大丈夫」
「そう」
脇では、柾木が皐月に、自分のことも抱えてジャンプをしてみてほしいと言いすがっている。
幾分情けない顔になってきている皐月に、笑いがもれた。
「朔。オレもう帰るぞ」
奏はそう声をかけて、「じゃあな」と皆に手をふると、とっとときびすを返して歩き出した。
「え、奏、待ってよ。まだいいじゃない」
「いや、そうだな。柾木、オレも帰るよ。三日、行こう」
安堵の色のにじむ声で、皐月も言う。
「ええ、二階堂くんまで? ゆっくり話がしたかったのに」
「無茶言うなよ。雨にも濡れたし、帰って風呂に入りたいんだ」
気づけば雨はやんでいた。
皐月が三日の手をとり、歩き出す。
柾木も、皐月をはさんで三日の反対側に並んだ。
一歩先を行く奏の背中を追いかける。
おかしな顔ぶれで、おかしなところにいるものだ。
ため息まじりに柾木が言った。
「あーあ、僕も万理万里に行っておけばよかったかなあ」
(ヘンなひと)
そう思った。
駅で奏と柾木の二名と別れて電車に乗り、自宅に向かって歩いているときのことだった。
「晴れるな」
皐月が空を見上げてつぶやいた。
雲がずいぶんと薄くなっている。
海坊主が手を引いたせいか、街を覆う水もぐんと水位を下げていた。
(雨上がりの匂いがする)
明日には、街並みもあるべき姿を取り戻すだろうか。
雲間から、月明かりがもれていた。
「急ごう」
皐月が足を速める。
自宅のマンションは既に視界にはいっていた。
そうして二人はほどなくして、エントランス前に佇む少女に気がついた。
「八又さん」
三日が驚きの声をもらす。
傘とカバンをたずさえて人待ち顔で立っているのは、同学年の八又 さやかだ。
さやかはこちらに気がつくと、けわしく顔をしかめて、前に出た。
「八又さん、どうしたの」
そう問いかける三日を無視して、さやかは語気荒く言い放った。
「どうして。いつも望月さんだけ特別扱い!」
(え?)
さやかの視線がまっすぐ皐月に向かっているのに、疑問を抱く。
「こういうことをされると困るんだよなあ」
声のトーンこそ落ち着いていたものの、不快の念をにじませて皐月は言った。
「前にも言ったけれど、君とは付き合えない。ほかに気になる人がいるからね」
「それが望月さんってわけ」
皐月が首をふる。
「違うよ。三日は関係ない」
「ああ」
三日の口から、間の抜けた声がもれた。
こういった光景には見覚えがある。
「恋のさやあて?」
皐月が苦笑をもらし、頭を小突く。
「何言ってんの」
きつく噛みしめるさやかのくちびるがぴくりとふるえた。
「仲がいいのね」
皐月の目つきが厳しくなる。
「三日は妹のようなものだから」
それを聞いて、さやかは笑った。
「いいのよ、二階堂くんが誰と仲良くしようとかまわないの。あたしを選んでくれなくてもいいのよ」
言いつのるさやかに、場の緊張感が増した。
「あたしを、好きになってくれればそれでいいの」
(何を)
さやかは、縁石に荷物を置くと、制服のポケットから小瓶を取り出した。
遮光性のある、茶色の瓶だ。
見つめる先で、きゅっとコルクの栓が抜かれる。
「二階堂くん」
さやかが一歩、前に出る。
皐月は渋面をつくり、彼女を睨みつけた。
「それ、ずいぶんと嫌な匂いがするね。一応きくけど、どうするのかな」
さやかのくちびるが、弧を描く。
「恋におちるの。幸せになるのよ」
彼女が瓶を持つ手を振りかぶるのを見て、三日はとっさに皐月を肩で押し出した。
「三日!」
中の液体を撒き散らし、飛んでくる瓶を、両手でしっかりとキャッチする。
透明な液体で手が濡れて、刺激臭が鼻をついた。
息をのんで立ちすくむさやかに歩みより、三日は瓶を放ると、べっとりと手に付着した液体を、彼女の頬になすりつけた。
「これが何かは知らないけれど、ひとに害をなすようなマネは感心できない。ねえ、――皐月を傷つけたら、許さないよ」
正面から至近距離で見つめると、彼女の瞳に動揺がはしる。
「あたし……」
「八又さん、約束して。皐月に手は出さないで。私……、あまり人間を嫌いになりたくないのよ」
「望月さん」
うわずった声で、さやかが呼んだ。
「望月さん。望月 三日さん」
「どうしたの?」
うわごとのようにさやかが呼ぶ。
「ああ、どうしよう」
熱い息が顔にかかった。
「少し、様子が変じゃないか」
後ろから皐月がのぞきこむ。
しかしさやかは、彼になど目もくれず、ひたと三日を見据えて告げた。
「こんなのってどうしよう。あたし、はじめてなの」
「八又さん」
「望月さん。……あたし、あなたが好き。すごくすごく好きみたい」
熱っぽい眼差しで見つめられて、三日は後ずさった。
「何言って……」
両の頬を包んでいた手を離そうとすると、ぱっと彼女の両手に手首をつかまれる。
「ねえ、望月さん。あたし本気なの。こんな気持ちははじめてよ。あなたが好きなの」
三日がぱくぱくと口を開け閉めする。
(なんなの!)
まったく現状が理解できない。
さやかは、ただならぬ様子で三日にせまった。
「おねがい、あたしと付き合って。一緒に幸せになりましょう」
「え、いや、無理……だよね」
(そもそもこの人、私のこと嫌っていたよね)
冷や汗をかく三日に、皐月が瓶を持ち上げて言った。
「これのせいじゃないのか。情動を煽る成分でも入ってたんだろう」
「なるほど」
よくわからないけど、わかった。
「わかったから落ち着いて。少し頭を冷やしたほうがいいよ」
「胸が苦しいの」
「お水でも飲む?」
いやいやとさやかはかぶりを振った。
「そんなのいらない。――望月さんが欲しい」
ぞわっと背すじがあわだった。
救いを求めて皐月を見やると、彼はこちらの具合などそっちのけで、ひたと上空に目を向けていた。
「あ」と、その口から音がもれる。
幾日ぶりだろうか。雲が切れて、月がさした。まるくて黄色い満月だ。
月はゆっくりとその姿をあらわし、やわらかな月光があたりを包みはじめる。
「――やばい」
皐月がうなった。文字通りのうなり声だ。
「八又さん、今日のところは帰って」
三日は表情をひきしめ、さやかの手を振り払った。
時間がなかった。さやかの視線を遮ろうと、彼女に背を向けて、皐月の腕をさする。
「皐月、中に入ろう」
明るい色の皐月の髪が、月光に映える。
青灰色の瞳が光を放ち、三日をつらぬいた。
手のひらに伝わるさつきの肌が、質感を変える。
「だめだ間に合わない」
皐月はさっとあたりに視線を走らせると、強引に三日を抱え上げ、こう言い捨てた。
「飛ぶぞ」
「望月さん!」と、さやかが呼び止めるのを聞いた。
体の下で、皐月の筋肉がぐんと跳ねる。
三日は、空を舞っていた。
さきほどよりも、高く上へ――。
ぬるい夜風が髪をあおる。
皐月の髪も伸びていた。
金のたてがみのような、しなやかな髪だ。
三日を抱えて、皐月はマンションの外壁を蹴り、片手で四階の桟にぶらさがると、三階に位置する三日の部屋の窓を行儀悪くつま先で開けて、部屋の中に飛び込んだ。
外から、さやかの呼ぶ声がする。
皐月は三日を降ろすと、後ろ手に窓を閉め、カーテンをひいた。
「三日、また窓の鍵を閉め忘れていたろう」
そんな小言は忘れない。
いまやはっきりと、皐月の外見は変化をとげていた。
髪は肩につくほどに伸び、耳はひとまわり大きくなった。
手足の爪は硬度を増し、なによりも全身の皮膚がなめし皮のような触感の、白く短い毛に覆われている。
皐月の、半狼としての姿だ。
満月の光を浴びると、体毛が伸びて、身体能力が増す。
しかし彼は、人型をそこなうことはない。
皐月は、獣人と人間とのハーフだ。
日本人の父親は人間だが、フランス人の母親はれっきとした狼女である。
おそらく、今も気高く美しい金の毛並みの狼と化して、お山を駆け回っていることだろう。
窓を閉め切ってしまうと、さやかの声はもう耳に届かない。
皐月の変化をどこまで目撃されたのか。また、彼女の急激な態度の変化は何だったのかと、気になる点は多々あったけれど、起こってしまったことを気にやんでもしかたがない。
「三日、ごはんにしよう。カレーが食べたい」
外での騒動などもうすっかり頭にない様子で、靴を脱ぎながら皐月が言う。
「ああでも、三日は先に風呂に入っておいで。さっきの匂いがこびりついてる。鼻が曲がりそうだ」
顔をしかめて頭をふる仕草も、今夜はやけに獣じみている。
「わかった。そうする」
三日も頭を切り替えて、一旦外のわずらわしい出来事をすべて忘れることにした。
――満月の夜は長い。
幼い頃から、この日ばかりは、二人で静かに過ごすならわしになっている。
夜更けには、皐月のはやる血をなだめ、そっと背中の毛づくろいをする。
そんな時間は、三日の心もなぐさめる。
二人はずっと、持ちつ持たれつでやってきた。
外見も血統も大きく隔たっているのに、双子のようだと時折思う。
三日はキッチンに向かうと、作り置きの鍋を火にかけた。
満月の夜はカレー。そんなきまりがいつからかある。
「シャワー浴びてくるから、これ混ぜておいて」
さやかはまだ、エントランスの前で三階の窓を見上げているのだろうか。
そんな考えが一瞬よぎったが、すぐに頭から振り払った。
今夜は満月。
人間の都合など、月の光にかすんで消えてしまうだろう。
聖なる夜。魔物の夜だ。
三日は浴室の窓を開けると、夜の大気を吸い込んだ。