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転ぶ三日月  作者: 瀬野とうこ
第一章 : 血染めの手を持つ生徒会長
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第一話

望月もちづき 三日みかは、ぐっと悲鳴を飲みこんだ。

(う、わあ)

極力、グロいものは見たくない。それなのに、つい目が釘づけになってしまう。

(血みどろ……)


うららかな春の陽が射す校舎の廊下で、三日はしりもちをついていた。

後ずさろうとして手をすべらせた先で、愛用の眼鏡が指に触れた。

ぶつかった拍子に落ちたのだ。

だからだろう、こんな日常とはそぐわない光景を目にしている。


眼前には、我が校の生徒会長がプリントをまきちらして膝をついていた。

細いフレームの眼鏡をかけた、理知的というよりも、いささか冷たさの勝る面立ちの上級生だ。

入学してまだ日も浅い三日ですら、顔を知っている数少ない人物の一人である。


朝っぱらから彼にぶつかったのは、運が悪かった。

その際に眼鏡が落ちたのは、いっそう運が悪かった。

春の陽気に誘われて、ぼうっと窓のむこうをながめて歩いていたのだから、自分にも責任はある。

しかし、眼鏡さえ滑落しなければいたって普通の青年でしかなかったはずの、彼の一面を目のあたりにしてしまったのは、やはり不運だったとしか思えない。


生徒会長こと、橘 十夜の左手は、真っ赤に染まっていた。

まるで、今しがた生物の体内に手を突っ込んだばかりなのだとでもいうように、どっぷりと手首から先が血にまみれ、したたっている。

いかにも匂い立つような様相を呈しているのに、血なまぐさい臭気を感じないのが不思議なほどだ。


三日の喉が鳴った。

スプラッタは苦手だった。

見つめる先で、人差し指にはめられたシルバーのリングが、そこだけ血に染まらずに光をはじいた。


視線を感じておもてをあげると、探るような眼差しの十夜と目が合った。

(しまった)

後ろめたさと、いくばくかの危機感をいだく。


「ええと、ごめんなさい。よそ見してました」

顔はこわばっていて、目をそらす様子も、我ながら実にぎこちなかっただろうと思う。

「いや。俺も前方不注意だったから」

鋭い目つきとは裏腹に、落ちついた声がかけられた。


「拾います」

三日は身をのりだし、ちらばったプリントをまとめだした。

同じように拾い集めていた十夜に紙を手渡す際、真っ赤な左手で束ねられたプリント用紙がいささかも血で汚れていないことに気づいて、目を見張る。

とっさに廊下を確認すれば、先ほど手をついていたあたりにも血痕はなく、けっこうな頻度でしたたり落ちている彼の血はどこに消えているのだろうと興味をひかれた。


――首を突っこむつもりは微塵もないけれど。

動揺をふりきるように、三日は眼鏡を装着した。

とたんにおどろおどろしい鮮血は消え失せ、穏やかな日常の風景が戻る。

あるべき視界、あるべき日常のひとコマでは、ばったり出会った生徒会長の手も、真っ当な高校生らしいなめらかな肌色をしている。どこにもおかしなところなどない。


(やれやれ)

三日はそっと息をついた。

プリントを受けとり、立ち上がった十夜がたずねた。

「すまなかった。ケガは?」

「大丈夫です。お気遣いなく」

あわてて三日も立ちあがり、軽く頭をさげる。


「君は一年生?」

「……そうです」

なんとなく、名前をききたいのだろうという気配は感じた。

そこで、きかれるまえに退散することにして、口をひらいた。

「本当にすみませんでした。ホームルームがはじまっちゃうので失礼しますね」

「そうか、ではまた。気をつけて」


眼鏡ごしでもわかるほど、彼の目が妖しく光った。

――気のせいではなかったように思う。

けしてふりかえらず、三日は足早に立ち去った。






いささか疲れた面持ちで教室の扉をくぐると、友人の明るい笑顔が出迎えをしてくれた。

「ミカ、おはよう」

大瓦 千佳は、おおらかで人懐こい少女だ。

愛想のよくない三日にも、初対面のときから気さくに声をかけてきた。


「あなた、すごくきれいだねえ」

そう、えらく瞳を輝かせて話しかけてきた千佳に、最初はとまどいを隠せなかったものだけれど、部活もクラスも同じ彼女は、早くも三日の親しい友人となっている。


入学式の日、ついで彼女はこう言ったのだ。

「ヘンな名前だね? 覚えやすくていいけど」

自身の名前が風変わりであることは重々承知していた。

幼少のころは嫌な思いもしたけれど、三日にとって大切な幼馴染が好ましいと褒めてくれるから、この名前は嫌いではない。


千佳は面食いで、流行り物が好きで、おいしいものと軽いノリのドラマが好きな、まぶしいほどに普通の少女だ。

正直なところ、話はまったくあわないけれど、彼女といるのは心地がよい。

挨拶をかえして席につく三日のところに、千佳がいそいそと寄ってきた。


「ね、ね、数学の宿題やってある? 見せてほしいの」

「うん、どうぞ」

鞄の中身を机にうつし、数学のノートをひらいて差し出した。

「やった! ありがと。ちょっと待って、あたしのノートも持ってくる」


千佳は数学が苦手だ。課題をさぼっていたらよけいに苦手になるんじゃないかという気はするけれど、当人がかまわないのであればそれでいい。

これまで他人に頼られるという経験にとぼしかった三日には、新鮮に感じられる。

千佳は周囲の面倒を見ることにも積極的で、彼女のやることなすこと、すべてが自分にとっては目新しいのだ。


(入学したかいがあったなあ)

しみじみと三日は思う。

ひとつ前の座席の椅子を借りて、数学のノートを写しはじめた彼女を眺めていると、右隣の席に影がさした。

「あ、委員長だ。おはよう」

千佳がおもてをあげて、あけっぴろげな笑顔をむける。

「ああ、おはよう」


クラス委員をつとめている三鷹みたか かなでが登校してきた。

いかにも優等生然とした、あたりさわりのない言動をする男だ。

奏とは席が隣同士なのにあわせて、週に二回、同じ補習を受講しているが、人付き合いに不慣れな三日でもそれなりに会話が成立する貴重な相手だ。


三日も挨拶をかえすと、奏は机にひろげられたノートを見つめて、目をぱちくりとさせた。

「ああ、数学、課題出てたっけ。忘れてた」

千佳が身を乗り出す。


「へえ、委員長ってそういうのちゃんとやる人かと思ってた。一緒に見る? ミカのだけど」

「うん、必要だったらどうぞ」

三日も言葉をそえる。

しかし奏は首をふり、

「いや、いい。範囲だけ教えて」

座席に腰をおろしながらそう言った。


あくびをかみころす奏に、「寝不足?」とたずねてみる。

「ちょっと、昨日からあわただしくて」

「そう」

会話を掘りさげたほうがいいのだろうかと迷ったけれど、それも余計なお世話なような気がして、課題の範囲をさっと伝えた。


「どうも。悪いね」

「いえ、ちっとも」

学生らしい日常会話に、胸がじんわりとあたたかくなる。

三日が求めていたのは、こういうなにげない穏やかさだった。けして、人間並の視力ではとらえられない、怪しげな血液に片手をひたした人物などではない。


三日はふるふるとかぶりをふった。

「どうかした?」

奏が首をかしげる。

「ううん、なんでもない」

千佳とは違って、彼はこういうときに深く突っ込んでくることがない。

きっと、他人にあまり興味がないんだと思う。

他人というものを知りたくて学校に通うことにした三日とは、正反対だ。


それまで真剣なおももちでノートを書き写していた千佳が、ペンを置いて両腕をのばした。

「終わったー」

「おつかれ」

「うん。ミカありがと。すっごくたすかっちゃった」

「どういたしまして」

ノートとペンをぱたぱたとしまって、千佳が立ちあがる。


「このお礼は日本史で返すね。じゃあね」

自分の席に戻る千佳に目をやり、奏がたずねた。

「望月さん、日本史苦手なの?」

「うんそう。どうも興味がもてなくて。人の名前も覚えられないし」

「へえ、何でもこなすのかと思ってた。意外だな」

「三鷹くんは苦手な科目ってある?」

「オレは国語。明確な回答がないのが、すわりがわるい」

「なるほど」

その意見は妙に納得がいくものだった。


そして、三日たちのクラス担任の担当教科は現国だった。

前方の扉のガラス窓にぬっと巨大な人影がさし、ドアがひらいた。

二メートルはあろうかという大男が、窮屈そうに桟をくぐって入ってきた。

一年一組の担任、斉藤だ。ジャージを身にまとった巨体に、禿頭が光る異様な風体をしているが、いったん口をひらけば、人情味あふれる印象をあたえる壮年の男だ。


「起立」

奏が声をかける。

「礼」

「おはようございます」

教室に、生徒たちの声がひびきわたった。


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