第六話
二階堂 皐月は、海辺へ来ていた。
しずくが、海が見たいと言ったためだ。
今宵も月は厚い雲に隠れ、遠い街灯のほかには明かりはない。
街を覆う水は、濃度が増しているような気がした。
体はらくだが、息苦しい。
海の水は黒く目にうつり、磯の香りが鼻孔をくすぐる。
夜風に舞う、しずくの細い髪がきれいだった。
しずくの肌は、幼馴染の少女と比べても遜色ないほど、白くなめらかだ。
彼女の、しっとりとした雰囲気が好きだった。
今宵は、波があった。
しずくが沖を指さす。
「皐月くん、見える? あれが海坊主よ」
黒い影が、波間に屹立している。
「見えるよ。昨日より大きくなってる」
昨晩は豆粒ほどだった影が、今宵は指の形まで見分けられるほどに巨大になっている。
「そりゃあ、海坊主だもの。大きくて当然よ」
「恋しい相手にはまだ会えずにいるんだね」
「ええ。会いにいくまでがたいへんなのよ」
そうして、しずくは彼の事情を語ってくれた。
「彼はね、龍宮の女官に恋をしたの」
「龍宮城のこと?」
「そう。海の底の雅やかな御殿よ。御伽噺にあるでしょう。亀の背に乗って、深く底までくだっていくの。龍宮の所在は隠されていて、彼は自力で探すことができないのよ。だからああして、そこまで自分を運んでくれる御使いを探しているの」
「御使いって、やっぱり亀なの」
「そのとおりよ。普通の亀ではいけないの。龍宮に囲われている亀でないとね」
「ふうん」
皐月は黒い影が意気揚々と亀にまたがる姿を想像した。
「海坊主って大きいんだよね。あの黒い人が乗れるほど、その亀って頑丈なのかな」
「背中に乗らなくてもいいのよ。先導してもらえれば」
「そう。で、肝心の亀が見つからないわけだね」
「この街にいるのでしょうけどね」
皐月はしずくの表情をうかがった。
「どうしてわかるのさ」
しずくは、さも当然であるかのように、こう告げた。
「だって、匂いがするもの。龍宮の、香の匂いよ。その香が、御使いを御殿へ導くの」
皐月は目を閉じ、あたりの匂いをかいでみた。
(磯臭いばかりだけどな)
嗅覚には自信があるが、元を知らなければ判別のつけようのない香りなのかもしれない。
「わからないな。嗅ぎなれない匂いもしないようだけど」
しずくはうなずいた。
「まだすこし遠いわ。内陸のほうから香るもの」
「海坊主は海から出られないといったよね」
「ええ。亀のほうから来てくれないと、このままでは彼はむくわれそうにないわ」
「でもあいつが街を水浸しにしているんでしょう。それでも陸にはあがれないの?」
「街が水に覆われているのは、彼の想いの強さに呼応して起こった現象でしかないのよ。彼は海岸線からこっちには来ることができない」
そう言い切られて、皐月は安堵した。
あのような得体のしれない者が街を踏み荒らすのは、どうしたってぞっとしないからだ。
「しずくさんには、その亀の居所はわからないの」
「探そうと思えば、見つかるでしょうね。けれど、わたしもこの水にのまれた世界をたのしみたかったの。海の底は心地がいいわ。水に包まれているとね、わたしの主人がよろこぶのよ」
皐月はぎくりと体をこわばらせた。
「……しずくさん、結婚してるの」
しずくはきょとんとした表情をみせ、その後くすくすと笑いだした。
「いやだ、皐月くん。違うわよ。主人というのは、敬愛する主という意味での主人よ。わたし、主人に仕えたくてここにいるの」
皐月はあいまいにうなずきかえした。
皐月としずくは、互いのことをほとんど知らない。
しずくが人間ではないことはなんとなく察せられてはいたものの、彼女の正体を問い詰めようとは思わなかった。
(オレもわざわざ話そうとは思わないしな)
幼馴染の影響か、肩書きにはあまり興味はない。
ただ、一緒いいてくつろげる人と共にありたかったし、そういう人は希少なのだった。
(とりあえず、既婚者じゃなくてよかった)
そのへんのモラルはゆずれない。
「でも、街がこのままだといいかげん困るな」
「だいじょうぶ。きっと亀にも彼の呼ぶ声は聞こえているわ。そのうち務めを果たしにあらわれるでしょう」
「そうだといいけど」
「そうでなくとも、ここら一帯の亀はみな困り果てているんじゃないかしら。御使いを呼ぶ声が日増しに高まって、亀が亀だというだけで、心穏やかではいられないはず。自分たちで御使いを探して、海坊主にさしだすくらいのことはしかねないわね」
「亀が亀を探すの? シュールだね」
はたして普通の亀にそこまでの行動力があるのかどうかは疑問だが、亀にも亀にしかわからない苦労があるんだろうなと、深く考えもせずに受け入れた。
「ひとさわがせなヤツ」
海坊主は、大きく首をまわして、空に吠えた。
皐月にはその声はきこえなかったが、黒い影でしかないはずの彼の風情から、声を発したのだろうと想像はつく。
(そうまでして会いたい人、か)
激しい恋情を皐月は知らない。
うらやましいとまでは思わないが、ささやかなエールを胸の内でつぶやく程度の気持ちはあった。
(まあ、ほどほどにな)
月のない海に、海坊主の呼び声がひびきわたる。
実家の道場の門をくぐったところで、柾木 朔は五匹のつらなる亀と出会った。
柾木の後をついて外へ出た奏が、目をまるくした。
「亀?」
「そう、亀だね」
八重樫高校に通う柾木と、万理万里学園に通う奏は、幼馴染だ。
ふたりとも幼いころから、柾木の家で弓道を習っている。
友人、と言ってもいいと思う。
中学二年の夏、奏が吸血鬼に魅入られてから、彼は道場に顔を出す回数が減った。
それでも、気持ちが揺らぐようなできごとがあった折には、かならず今日のように弓をひきに来た。
奏にとっては、まさに呪われた唾棄すべき日。柾木にとっても、苦い後悔にさいなまれる元となった、夏の日だった。
吸血鬼を奏の元へと呼び寄せたのは、柾木の能力が原因だ。
それならそれで、当の柾木を呪ってくれればよかったものを、舌なめずりをして、彼女は奏に噛みついた。
感情をすぐにおもてに出す奏が、彼女の眼鏡にかなったのだろう。
「かわいい」と、そう言っていた。
柾木は、自分にかわいげなどないことを知っている。
目が細く、表情に乏しいことから、何を考えているのかわからないと言われるからだ。
かといって、奏をかわいいなどとは思わないが、素直なやつだとは思う。
今も、街灯の下にたたずむ亀を見て、驚きに目をみはっているのだから。
亀はみな、悄然とした様子だった。
柾木は、奏にことわりをいれて、亀の訴えに耳をかたむけた。
「お困りのようだね」
柾木が問いかけると、亀はこちらを拝み倒しそうな勢いで、口々に言った。
『困る』
『たすけて』
『たすけて』
『海』
『海坊主』
『うるさい』
『しつこい』
『こわい』
『亀』
『ちがう』
『御使いの亀』
『探して』
『暴れる』
『とても迷惑』
『困る』
『おねがい』
『さがして』
『御使いは』
『枠の中』
『海に』
『海へと』
『おねがい』
『かえして』
柾木は、動物の声をききわけることができた。
音声を聞きとるわけではなく、意志をくみとる力があった。
動物の気持ちが柾木にはわかったし、柾木の言うことも彼らには通じるようで、動物たちのなかには頼みごとをきいてくれる存在というのも、ままあった。
亀の訴えのマトには、すぐに思い当たる。
「ああ、あれ。海をさわがせている妖怪だね」
『海坊主』
『こわい』
『御使いを』
『はやく』
路上でわあわあとさけぶ五匹の亀を、柾木はしゃがんで順にながめた。
「あれが亀を探しているというのは、いろいろなところで耳にしたよ。きみたちは、御使いの亀というのを探して海に返してほしいと言ってるんだね」
『御使いは学校』
『うちの水槽のもっと下』
『そう、下』
『枠は重い』
『重くて運べない』
『塗料は臭い』
『塗料は嫌い』
『枠も嫌い』
『でも、御使いは枠が好き』
『身使いは迷子だから』
『だから運んで』
『しずかに暮らしたい』
『うるさいのは嫌い』
『たすけて』
「なるほどねえ」
柾木はうなずいた。
「察するに、きみたちは学校で飼育されている亀なのかな。どこの学校だい」
『しらない』
『しらない』
『学校は学校』
『水槽は水槽』
『うちの水槽』
『亀が五匹』
『今日は六匹』
『ちがう』
『今は一匹』
『御使いは迷子』
「おやおや、学校名はわからないのかい。まいったな」
すると、それまで黙って様子をみていた奏が、つっけんどんに言った。
「万理万里だろ」
「え、そうなの?」
「放課後に生物部のやつらが、亀がいなくなったと騒いでいた。ふざけた名前の亀な」
そこで柾木は路上の亀にきいてみた。
「きみたち、名前があるの」
亀は声をはりあげた。
『イチコ』
『ニコ』
『サンコ』
『ヨンコ』
『ゴコ』
「ほう、かわいらしい名だね」
奏に確認をとると、どうやら間違いないようだ。
「御使いのいる枠というのはなんだろう」
『枠は枠』
『海のある枠』
『水でいっぱいの枠』
「水槽ってこと?」
『ちがう』
『水槽は水槽』
『枠は枠』
『枠は紙』
『そう。紙』
『紙は海』
『御使いは泳いでる』
「紙で海の枠?」
そうだそうだと亀は同意を示したが、要領を得ない説明に、柾木は頭を悩ませた。
「よくわからないな。まあいいか。どうせ明日には万理万里に行くんだし、様子をみてみるよ」
そう請け負うと、奏は不思議そうに柾木を見た。
「来るのか?」
「うん。ほら、明日はサッカー部の練習試合があるでしょう」
「さあ、知らないけど」
「あるんだよ。うちの学校とそっちのとで。クラスメイトが出るからね、応援に行くんだ」
「物好きだな」
「まあね」
くだんのクラスメイトを思いおこし、柾木は声をはずませた。
「なんというか、そのクラスメイトには興味があるんだ。おもしろい人でね、そうだな、端的にいうと、獣くさい」
「はあ?」
奏はいぶかしげに顔をしかめた。
「それっておもしろいのか?」
「おもしろいよ。見た目はすごくきらきらしてるんだ。僕でも見とれてしまうくらいに魅力的なんだよ。なのに、獣の匂いがする」
「へえ」
たいして興味もなさそうに、奏はあいづちをうった。
「まあ、それはともかく、今はこの亀だね。ねえ奏、万理万里の亀だっていうなら、連れてかえってあげてよ」
「オレが?」
奏がじつに嫌そうな声をあげた。
こういう素直なリアクションが、彼の最大の魅力だと柾木は思う。
同級生の二階堂 皐月のように人目をひく容姿はしていないが、普段はとりすましたその顔が、ことあるごとにすぐ崩れるのが、見ていて心ひかれるのだ。
(だから余計なものにまで魅入られてしまったのかもしれないのだけれど)
苦労性の友人は、押しに弱い。
「僕が届けるのはおかしいんじゃない。やっぱり奏にしか頼めないよ」
しぶる奏に言葉をかさねて頼み込むと、ようやく彼は了承を示した。
「……わかった」
「うん。ありがとう」
「で、結局、この亀の用件はなんだったんだ」
「ああ」
それは奏にとっては、意味不明なことだったろう。
柾木はおおまかな説明をこころみた。
「海に海坊主が来ているというのは知ってる?」
「知るわけないだろ。なんだよそれ」
「来てるんだ。どうやら、亀を探しているらしいよ。しかもそれが特別な亀でね」
「亀に特別もなにもないだろ」
「海坊主にとっては、違うんじゃない。その、御使いって呼ばれてる亀が、奏の学校にいるらしいよ」
「……またかよ」
度重なるトラブルに疲弊している幼馴染は、頭をかかえた。
柾木は、さきほど亀が話していた内容をかいつまんで伝えた。
「こころあたりはある?」
「ないな」
「そう。困ったね」
といっても、困っているのは柾木ではなく、亀であったが。
「亀も海坊主も、どうでもいいな。オレは人魚を探すことになったんだ」
唐突に、奏は言った。
「人魚?」
そうして語る奏の言葉を、柾木は真摯にうけとめた。
「なるほどね。人魚がいるなんて噂はきいたことがなかったけど、こちらでも探ってみるよ」
「助かる」
「いいや、これくらいしか僕にはできないからね」
胸に巣食う罪悪感がある。
あの日、柾木がコウモリの声に耳をかたむけなければ、奏が吸血鬼に目をつけられることはなかった。
謝罪の言葉はもたないけれど、できる助力を惜しむつもりはない。
「見つかるといいね」
そう声をかけると、奏はまっすぐに柾木を見つめた。
「違う、朔。見つけるんだ」