第五話
思わぬ寄り道をして予定よりも遅くなり、出向いた職員室では、鍵はすでに借りられていた。
今日は京子も芽衣も掃除当番で遅れるということだったから、他に誰が持っていったのだろうと首をかしげつつ、二人は家庭科室へと足を向けた。
三日の胸の内には、美術室の清涼な空気とあの海の絵が、深い余韻とともに座していた。
部活にもいろいろあるのだ。
そういえば、と、あの教室にキノコが生息していない理由をきくのを忘れていたと、家庭科部の部室を目前にして、気がついた。
ともあれ、今から部活の時間だ。
頭を切り替える必要がある。
家庭科室には、人のいる気配があった。
はたして、ドアをあけると、そこには意外な人物がいた。
「原田くん」
原田 正樹。小柄で大食漢の一年生だ。
体躯は細くて背も低いのに、恐ろしいほどよく食べる姿を、食堂で幾度か目にしたことがある。
数少ない男子部員であるのと同時に、絵にかいたような幽霊部員で、初回の挨拶以来、部室に顔を出すのははじめてだ。
「めずらしいね。それに、それ」
原田は大量のキノコを持ち込んでいた。
色とりどりのキノコをザルに盛って並べ、鍋でぐつぐつとなにやら調理をしている。
三日は眼鏡をはずしたままだったので、彼の意図に察しはついたものの、キノコを視認できない千佳からすると、彼の行動はいささかとっぴに感じられるのではないだろうか。
「なにしてるの?」
千佳が問いかけると、原田はうっとりとした眼差しで鍋の中身をかきまぜた。
「スープを作ってるんだ。コガネスベリダケが手に入ったからね。それと、こっちの縞模様のキノコはひき肉と一緒に炒めるとおいしいんだよ」
「またキノコなの」
不服そうに口をとがらせる千佳に、彼は満面の笑みを向けた。
「ああ。まったくすばらしいね! それからこれ、このキノコはかるくあぶって、塩で食べるんだ。最高だよ!」
「へえ」
「大瓦くんは見えないのかい」
「うん、そうなの」
「大丈夫。見えなくても味わえるから、あとで味見してみなよ」
上機嫌な原田に、三日はたずねた。
「そんなにおいしいの?」
毒々しい見た目のキノコを、口に入れる人物がいるとは思わなかった。
「もちろん」
自信満々で胸をたたく原田が、三日に目をとめ、瞳をかがやかせた。
「ああ、ぼくはどうして気がつかなかったんだろう!」
「なに?」
「望月くん、よく見たらきみってずいぶん肌がきれいなんだね」
「はあ」
ひとりテンションを上げて、原田は力強く言い放った。
「実に、実においしそうだ!」
三日はぽかんと口をひらき、千佳はうめいて渋面をつくった。
「ああ、きいてくれないか。一本だけ採取したこの黄金色のキノコ。乙女の脾臓っていうんだけどね、これはエキスをしぼって処女の生き血にたらしてのむんだ。それはもう天にものぼる心地が味わえるというのだよ」
原田は三日の手をとり、きつくにぎった。
「ひとくち飲めば、目の前には花畑がひろがり、ふたくち飲めば、天上の調べがきこえるという。まさに極上の味!」
「えええ?」
それってもしかすると、臨死体験なのでは。そう突っ込む三日をよそに、原田は熱く語った。
「屋上でこれを見つけたときには、目をうたがったものだけど、まさかまさか、これほど身近に健康そうな血液の持ち主までいたなんて。ああ、なんてぼくは幸福なんだろう」
「いえ、あの」
「望月くん、飲もう。ぜひとも飲もう。グラスに一杯だけ、きみの生き血をわけてくれ。そして、ともに天上へと旅立とうじゃないか!」
(うわあ)
ひくり、と顔がひきつった。
「あの、原田くん」
「ああ、ほんとうになめらかな手だ。さぞかし血液もさらさらなんだろうね。いいことだよ、普段の食生活がしのばれるね。最高だ」
「私の血は、人には毒です」
すっぱりと三日は言った。
「わけあって、人の身には合わないと思うの。あの世をのぞき見るどころか、直行しちゃうよ。あきらめて」
「またまたそんな」
原田は笑顔でかぶりをふる。
「いいえ、本当に。私、呪われているから。体液は毒なのよ。あげられません」
毅然として見つめたまま断言すると、原田はしばらく考えこんだのちに、がっくりと肩をおとした。
「そんなあ。それはひどいよ」
せっかく理想の健康体にめぐりあえたっていうのに、と、ぶつくさと文句をたれる。
千佳が冷たい眼差しで原田を見た。
「さすがに引くわあ」
しかし原田はへこたれなかった。
「となると、解毒の手段さえあればいいんだね。さて、では化学部に持っていこうか。金森先生だったら相談にのってくれるかもしれない。望月くん、血液を」
「あげません」
そんな調子で、この日の部活はまったく予定通りには運ばなかった。
遅れてやってきた京子と芽衣もまきこんで、原田のキノコ談義は過熱した。
すすめられて食した料理は、どれも意外なほど上品な味つけで、彼は終始ご満悦な様子だった。
放課後、奏は化学室に来ていた。
化学の教師、金森 那由他は、魔女だ。
女教師の名にふさわしい、銀縁眼鏡に白衣をまとった長髪の女性だが、体に凹凸はとぼしく、眼光は鋭い化学部の顧問だ。
(微妙に惜しいんだよなあ)
口には出せない失礼な感想をいだきつつ、奏は金森にキノコの入った袋を差し出した。
「一之瀬 秋からです。よろしくおねがいします」
「はいどうもね。よく集めたわねえ、たくさん作れるわ」
そう感心されたキノコは、催淫剤の材料だ。
ろくなもんじゃないと、奏は内心こきおろした。
金森は艶然とした笑みをうかべて、奏にきいた。
「これは、あなたが使うのかしら?」
はっきりとした不快をにじませて、奏は否定した。
「ちがいます。冗談じゃない」
それから、ふと気がついて、きいてみた。
「あの、先生。媚薬が作れるというなら、逆に鎮静剤を作ることも可能ですよね」
「ええ、まあそうね。材料さえあれば。それと、私の機嫌をとることができればね」
「機嫌、ですか」
「そうよお」と、金森は楽しげにくすくすと笑った。
「なあに、あなた鎮静剤が欲しいの? 性的な意味で去勢したいってこと? 変わってるわねえ」
奏はくちびるを噛んだ。
「切実なんです。お願いできませんか」
うーんと、金森は首をひねる。
「性欲過多ってことかしら。思春期だからではなく?」
奏はうつむき、シャツのボタンをいくつかはずした。
はだけた胸元のアザを示すと、金森は「あら、珍しい」と、声をあげた。
「オレ、呪われてるんです。疲れたり、空腹になったりすると、ダメなんです」
「吸血鬼の呪いね。ひさしぶりに見たわ」
金森は手をのばすと、指先で赤い十字のアザをなぞった。
「このウィルスにたちうちするには、元から浄化しないとだめ。やっかいなのに魅入られたわねえ」
「……笑いごとじゃありません」
「あら、わたしにとっては、他人の不幸は娯楽よ」
シャツのボタンをしめなおし、奏はたずねた。
「元から浄化って、どうやるんですか」
「んー、そうねえ。タダで教えろっていうの?」
「は」
「と、普段だったらいじわる言うんだけど、いいわ。あなた、その不幸な面構えが気に入ったから、サービスしちゃう」
「……ありがとうございます」
奏は顔をひきつらせながら礼をのべた。
「薬で一時的に衝動を抑えることはできるけど、それじゃあなんの解決にもならないのよ。元を断つには、方法はふたつあるわ」
「はい」
「ひとつは、あなたに呪いをさずけた吸血鬼に、解放してもらうこと。あなた、その人とは面識があるのでしょう。無駄だとは思うけど、一応たのんでみたら?」
「彼女は、行方が知れません」
奏の脳裏に、いまわしい女の顔が、浮かんで消えた。
「会ったのは、呪われたときの一度きりで、――成長したころにまた来ると告げて、どこかへ行ってしまったんです」
「まさしくツバをつけられたってところね」
「それで、もうひとつの手段というのは」
「人魚の涙を手に入れること」
「人魚、ですか」
奏は目をまたたいた。
「そうよ、人魚の涙は万能薬なの。あらゆる呪いを浄化できるといわれているわ。飲めば、真人間に戻れるわよ」
「人魚……」
はたして人魚は実在するのだろうか。
そういえば、以前十夜に、街からほど近い五宝湾には人魚がいたという伝説があると、きいたことがあった。
(探してみるか)
到底見つかるとは思えないが、なにもしないよりはマシだった。
金森が楽しそうに笑い声をあげる。
「見つかるといいわねえ」
奏は頭をさげた。
「ありがとうございました」
「いいえ、いいのよ。ああそうだ、かわいそうなあなたにプレゼントをあげるわ」
歌うように、魔女は言った。
「これだけキノコがあるのだもの。あなたが体をもてあまさないように、いいものを調合してあげる」
「いいものって」
「秘密よ。人生は楽しまなくちゃ。あらかじめわかっていたらつまらないでしょう。待っていて、完成したら連絡するわ」
「はい」
「似たようなものをいくつか作るから、手間じゃないのよ。サービスしちゃう」
なにがそんなに楽しいのか、金森はキノコの袋をささげもち、くるりと回った。
「ああ、楽しみね。人間の欲には限りがないわ」
魔女の本質は、眺め、楽しむものだときいたことがある。
校内でキノコを採る生徒の多いことから、金森の元へ舞い込む依頼の多さもうかがえる。
街を覆う水も、校内にはびこるキノコも、どちらも余計だ。
(呪いがとけたら、おかしなものも見えなくなるのかな)
翻弄されるばかりの自分の体には、ほとほと嫌気がさしていた。
「では、よろしくおねがします」
奏は重ねて礼をのべ、その場を辞した。
奏を見送った金森の元には、ぞくぞくと依頼人がおとずれた。
その中に、極めて年相応の少女らしい願いをいだいた生徒がいた。
八又 さやかは、熱のこもった瞳で、金森にたのんだ。
「これで、惚れ薬を作ってもらいたいんです」
「あらあら、材料はそろっているのかしら?」
定番の依頼だが、多様な素材を集めるのはひと苦労のはずだ。
はたして少女は、自信満々に、袋の中身をひらいてみせた。
「あります。キノコ三種に、薬草に、淫魔の体液も、このとおりです」
「ふうん。よくそろえられたわねえ」
さやかは、大きくうなずいた。
「協力してくれた人がいるんです。自分のコレクションからわけてくれて」
「あらあらあら」
収集癖のある人間というのはいるもので、金森自身の知り合いにも、コレクターと呼ばれる人物がひとりいる。
そういう人間の助力を得るのはなかなかに困難なものだが、当人になんらかの思惑がある場合ならば話は別だ。
さやかも、何かと引き換えに手に入れたのかもしれないが、そこは金森の関知するところではない。
「ひとりを落としたいの? それとも、ひろく周囲の関心をひきたい?」
さやかは迷いのない声でこたえた。
「ひとりです。ひとりだけに好かれたいの」
「そう」
金森は指先で材料をもてあそんだ。
「わかったわ。完璧に惚れこむ薬を作ってあげる。強力なぶん、一度しか使えないわよ」
「はい!」
「明日の放課後に取りにいらっしゃい。用意しておくから」
さやかは喜色満面となって頭をさげた。
「ありがとうございます!」
依頼人がはけたあと、金森は一旦職員室へ向かい、途中でその足をとめた。
キノコにまみれた校舎のなかで、異質をはなつほどに清らかな教室がある。
金森は歌謡曲を口ずさみ、美術室へと立ち寄った。
「こんにちは」
陽はかげり、明かりのついた室内に、ひとりの少年がキャンバスに向かっていた。
浦和 涼一は、「やあ」と返して、口もとに薄い笑みをはいた。
「なにを描いているの?」
「遠い南の海だよ。亀が一匹、迷っていたからつかまえたんだ」
金森がのぞきこむと、海を描いたキャンバスを、たしかに亀が泳いでいた。
波間をただようように、四角い枠の中でうごめく亀がいる。
「あいかわらずね」
涼一の描く絵画には力があった。
時折、こうして彼の描く世界を垣間見るのが、金森の楽しみのひとつだ。
「ねえ、那由他さん」
涼一は常になくご機嫌な様子だ。
「三日に会ったんだ。もちろん僕は、あの子を見守るつもりで入学したけど、まさか向こうから会いにきてくれるなんて思わなかったよ」
「あら、それはよかったわね。一年の望月さんでしょう、きれいな子よね」
「それは当然だよ。あの子の母親だって、そりゃあ美人なんだ。やはり血は争えないね」
金森と涼一は、かねてからの知り合いだ。
彼が大切にしている少女と面識を得たというならば、機嫌がいいのもうなずける。
「ああ、うれしいな。あんなに大きくなって。彼女の面影もしっかりあるんだ」
「あら、そういえば」と、金森は話した。
「さっき、わたしのところに相談にきた子がいるのよ。吸血鬼に青田買いされちゃってる子でね、自由になりたいっていうから、教えてあげたの。人魚の涙を手に入れなさいって」
涼一は肩をすくめた。
「それは気の毒に。五宝湾に人魚などいないだろう」
「徒労におわるかしら」
「さて。それにしても分が悪い。人魚を探したうえ、泣かせないといけないんだろう」
「ええ。そうよ、たのしいわね」
金森は心が浮き立つのを感じた。
「それでね、その子、望月さんと同じクラスの少年なのよ」
涼一の視線がきびしくなった。
「そいつは相談する相手を間違えたんじゃないか。那由他さんのところじゃなく、保健室に行くべきだったね」
「あら、それもそうね」
万理万里の養護教諭は、いたって温厚な吸血鬼だ。
もしもあの少年が相談におとずれたなら、真摯に受け止めてくれたかもしれない。
とはいえ、金森にそれを打ち明けるつもりはなかったし、養護教諭が吸血鬼だと知る者は学内でもさして多くはない。
少年が保健室にたどりつく可能性は低いように思えた。
「そんな穏便な結末じゃあ面白くないわ。彼は探し出せるかしら、行方知れずの人魚姫を」
「海で溺れてみたらいいんじゃないかな」
金森はふきだした。
「いじわるね。海に人魚はいないのよ。あなたがそう言ったんじゃないの」
少なくとも、今は海に出るべきではない。
金森は、窓の向こうに目をやった。
沖は荒れている。海には今、海坊主がいるのだ。