第四話
放課後、三日と千佳は、部室の鍵を借りるため、職員室にむかっていた。
どうやらキノコは校舎内にまで侵食しているらしく、廊下や教室のあちこちで何かを拾い集める行為にふけっている生徒を見かけた。
「委員長、まだ集めてるのかな」
千佳がそんなことを言う。
「どうだろう。それにしても多いね、キノコ狩りをしている人たち」
「あたしには、ゴミでも拾ってるようにしか見えないんだけど。でも、ちょっといいなあ。皆が集めるってことは、それだけいいものってことでしょ。なあんか楽しそうなんだよね」
「でもきっと、見えていたら歩くのに邪魔だよ」
千佳は、三日の顔を横目で見た。
「眼鏡、はずさないの?」
「私、使い道のわからないキノコを集める趣味はないもの」
「そっか。だよね。皆、なにに使うんだろうねえ」
きっとそれだけ、おのおの望む事柄があるのだろう。
「本当、ふしぎね」
「あ」
千佳が三日の袖を引いた。
「ねえ、あの子、三日のこと睨んでるよ。ええと、四組の八又さん。知り合い?」
うながされた方向に目をやると、空き教室で袋を片手にしゃがんでいた八又 さやかが、こちらに厳しい眼差しを向けていた。
三日は教室の前で足をとめ、あたりを見回す。
(え、私……?)
さやかとは、受講している補習授業が同じだけれど、それ以外の接点はないはずだった。
顔と名前はかろうじて知ってはいるが、言葉を交わしたことはない。
当然、睨まれる覚えもないのだった。
とまどう三日の視線の先で、さやかは立ち上がると、不快げに顔をしかめて言った。
「なに見てるのよ。どっか行って、気分がわるいわ」
「え、あのう」
とまどう三日の目の前で、さやかはつかつかと歩み寄ると、たたきつけるように扉をしめた。
「ちょっと、なによ」
千佳が肩を怒らせて言う。
「ひどいじゃない。気分悪いのはこっちのセリフだよ、ねえ」
「うん、ごめんね」
「どうしてミカがあやまるの」
「だって千佳に嫌な思いさせちゃったから」
「……八又さんと、なにかあったの?」
三日は首をふった。
「こころあたりはないけど。でも、知らないうちに嫌われることもあるよね」
「ないよ、そんなの!」
「そうかなあ」
千佳は口をとがらせた。
「理不尽な目にあったんだよ。ミカ、もっと怒りなよ」
「怒るようなことじゃないから」
納得はいかないものの、怒りはさっぱりわいてこなかった。
拒絶されるのには、慣れているのだ。
「もういいよ。今度、機会があったら理由をきいてみるから。ね、もう行こう」
「もうっ。あたし怒ってるんだからね」
「うん。ありがとう」
千佳の頬が、おもしろいくらいにぷっくりとふくらむ。
「もどかしいなあ、もう、やだな!」
三日は、我知らず微笑んでいた。
自分の受けた敵意に腹をたててくれる人というのは、中学のころの皐月以来かもしれなかった。
「笑うところじゃないよ、ほんとに」
「ごめんね」
そういいながら、ゆるんだ口元はなかなか戻りそうになかった。
向かう廊下の先で、ばたばたとせわしない足音がした。
上級生の男子生徒が数人、あたりを見回しながら、足早に歩いてくる。
「ああ、君たち、ちょっと」
そのうちの一人が、三日と千佳に声をかけた。
「すまないが、亀を見なかったかな」
「亀、ですか」
そういえば、もう何年も目にした記憶がない。
「生物室から亀がいなくなって、探してるんだ」
「自力で逃げだすはずはないから、誰かのいたずらかもしれないんだけど」
「悪いけど、もし見かけたら知らせてくれないか」
くちぐちに語る彼らに、二人はこくこくとうなずいた。
「わかりました。亀ですね」
「そう。全部で五匹いたんだけど、ほら、このくらいの大きさで」
そう言って、彼らはおにぎりを握るときのようなしぐさをしてみせた。
「緑色をしていて」
「そう、それでとても、つぶらな目をしてる」
「名前は、イチコ、ニコ、サンコ、ヨンコ、ゴコ」
「心配なんだ。もし見かけたという人がいたら、生物部に来るように伝えて」
「たのむね」
「よろしくね」
それだけを、勢い込んで告げると、彼らはふたたびバタバタと廊下を去っていった。
「うわあ、なんだろう今の」
千佳がいくぶん弱気な表情で、彼らの後ろ姿を見送る。
「生物部の人たちなのかな。かわいがってるんだね、きっと」
千佳がうなる。
「それはわかる。でもね、あたしあのネーミングセンスは許せないな」
「イチコ、ニコ、サンコ、ヨンコ、ゴコ?」
「そう。ないよそれは実に」
「わかりやすくてよくない?」
「ない!」
きりりと真剣な顔をして、千佳は断言した。
「それはそうと、亀って泳ぐよね」
「そりゃあ、そうなんじゃない?」
三日はなにげなく眼鏡を外して、窓から空を見上げた。
校舎は水中に没している。
(もしかしたら、泳いで逃げたのかもしれないね)
いまにも魚が泳ぎだしそうな日和だ。
亀が泳いでもいいんじゃないかと、そう感じた。
「生物部って、亀の飼育をしているんだね。そういえば、生物室って行ったことないし、亀が学校にいるなんて知らなかったな」
三日が告げると、千佳もうなずく。
「そうだね。そういわれると、学校の中でも行ったことのないところって、けっこうあるかも」
視線を校内に戻すと、やはり廊下の隅にはキノコがぽつぽつと生えていた。
廊下も、教室も、階段も、色とりどりのキノコが場所もわきまえずに群れている。
(あれ?)
三日の視線が、廊下の先の一点でとまる。
「ねえ、千佳。あそこって何があったっけ」
つきあたりの手前の教室を指差す三日に、千佳はこたえた。
「ああ、美術室だよ。そういえば、そこにも縁がないね、あたしたち」
「ちょっと、行ってみてもいい?」
「いいけど。なんで」
三日は、眼鏡を制服のポケットにしまった。
「美術室のまわりに、キノコがないの。ほかはどこもたくさん生えているのに、あそこだけぽっかりとないんだよ」
とてつもない生命力をほこるキノコの群れが、廊下のある一点をさかいに姿を消していた。
あたりまえのそんな景色が、際立って異質に見える。
「へえ。除草剤でもまいたのかな」
千佳がそんな冗談を口にして、二人は美術室へと足をむけた。
美術室のドアはあいていた。
イーゼルにたてかけられた、描きかけの絵が数点、壁際にあつめられている。
部屋の中央には、一人の少年がいた。
やわらかそうな褐色の髪をした、細身の一年生だ。
がらんとした室内で、ひとり絵を描いている。
(あれ?)
三日は目をまたたいた。
一瞬、懐かしいような気持ちにとらわれたのは、なぜだったのだろう。
絵の具の匂いが鼻をかすめた。
言葉もなく見つめていると、少年は二人に気づいたようで、おもてをあげてふっと穏やかな笑顔をみせた。
清らかな笑顔だと、そう思った。
(誰だろう)
意識がひきつけられて、気がつくとみとれていた。
特別にきれいな風貌をしているというわけではないのに、あっさりとした顔立ちには清廉さがあり、目をうばわれた。
少年が、二人に向かって手招きをする。
「こんにちは。望月 三日さんと、大瓦 千佳さんだね。そんなところに立っていないで、入っておいで」
まただ、と思った。
(どうしてこの学校の人たちは、ひとの名前を知っているんだろう)
同学年の生徒だとはいえ、初対面なのだろうに。
「ええと、あなたは?」
「僕は二組の浦和 涼一。二人はもしかして、美術部の見学?」
「いえ、ちょっとのぞきに来ただけなの。邪魔をしちゃってごめんなさい」
「いいよ、そんなの。今は僕ひとりしかいないから、気がねしないでどうぞ」
おじゃましますと声をかけて、二人は美術室に踏み入った。
「見てもいい?」
さっそく千佳が涼一のキャンバスをのぞきこみ、感嘆の声をあげた。
「うわあ、きれい!」
千佳に腕を引かれて絵を見た三日も、息をのんだ。
それは、海の絵だった。
生命にあふれた海の底から、かがやく水面を見上げるような構図の絵だ。
胸の奥が、痛みにも似た感動を覚えていた。
(なぜだろう。とても懐かしい感じがする)
三日は思わずあたりを見回した。
ここ数日、空を見上げれば、この絵とよく似た光景を目にしていたはずだった。
なのに、こうして現実にたゆたう水と、涼一の描く水中とはあきらかに異なるのだ。
絵の中に存在しているのは、現実よりもなお美しく深みをおびた水底だった。
目には見えない生き物が、ひしめきあう気配があった。
いまにもキャンバスの水がうねって、世界を包み込みそうな、そんな錯覚を覚えるほどに、力強く心をつかむ作品だ。
「すごい。生きているみたい」
陶然として言葉をもらすと、涼一は嬉しそうに笑みをうかべた。
「三日さんも絵は好きなの?」
「いいえ、いままであまり見ることはなかったの。でも、すごいわ。浦和くんの作品は命が込められているみたい」
「涼一でいいよ。君には名前で呼んでほしいんだ」
「え? あ、はい」
涼一と目があった。底の見えない澄んだ瞳が、まっすぐに三日を見据えた。
「……涼一さん」
なんとなく、「涼一くん」と呼ぶのははばかられた。
線の細い風貌なのに、大人びた表情をしているせいかもしれなかった。
千佳が、食いつくように見つめていた絵から視線をはずして、涼一に話しかけた。
「あたしも名前で呼んでもいい?」
「もちろん。千佳さん」
「ありがと。涼一くん、あたし、涼一くんの絵、すごく好き」
「嬉しいな。まだ未完成なんだけど、気に入ってもらえるのはとても嬉しい」
「となりのクラスなのに、こんなに絵の上手な人がいるなんて、ちっとも知らなかった。あたし、もっと見てみたいな。他の作品はないの?」
「うーん、ここにはクロッキー程度しかないかな」
「それでもいいよ」
席を立った涼一が、はい、と手渡したクロッキー帳を、三日と千佳はぱらぱらとめくった。
どれも、海にまつわるカットばかりだった。
「鉛筆の線なのに、色がついているみたい」
千佳がうっとりとした声をもらした。
三日はたずねた。
「涼一さんは海が好きなのね」
「好きなのかな、どうだろう。慕わしいとは思うけれど、……でもそれ以上に、僕にとってはなくてはならないものだという思いが強いんだ」
「いつも海の絵ばかりなの?」
「ほかは、必要ないから」
クロッキー帳を返すと、涼一は優しく目元をやわらげて、二人に言った。
「またいつでもおいで。歓迎するよ」
「ありがとう。きっとまた来るわ」
三日が告げると、千佳も瞳をかがやかせて同意を示した。
「すてきな絵を見せてくれてありがと。ぜひまたおじゃまさせてね」
「僕も会えてうれしかったよ」
美術室のドアまで見送った涼一が、去り際の三日の頭をそっとなでた。
振り向く三日に、彼は慈愛に満ちた笑顔をうかべて、手をふった。
三日も自然と笑みくずれて、彼にぺこりと頭をさげた。