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転ぶ三日月  作者: 瀬野とうこ
第二章 : ひしめく欲望のキノコ狩り
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第一話

街は水中に没していた。

夜の繁華街を、最近親しくしている年上の女性と歩きながら、二階堂 皐月はつぶやいた。

「梅雨だね」

「六月だもの。水であふれているわ」


水のよく似合う女性だった。

彼女の髪が揺れるたび、ここは水中なのだと思い知らされる。

大気は青く、ネオンの光を歪ませる。

湿度は濃密な質感をもって、皐月の全身を包んでいた。


まるで水の中のような触感、水の中のような揺らめく視界、そして息苦しさに満たされる。

昼夜を問わず、幾度も上空を見上げた。

ここはいつもの街並みなのに、上空には海面がある。

街を満たしている水が海水なのだと教えてくれたのは、隣りを歩く彼女だった。


しずくは言った。

「海の中から、呼ぶ声がするの。かわいそうに、海から出ることができないから、街を海に沈めてしまおうと思ったのね」

「オレには何も聞こえないけど」

「今はまだ遠いから。そうね、声は聞こえなくても、姿は見えるようになると思うわ。皐月くんは目がいいから」


そう言って、しずくは海のあるほうを指さした。

建造物にはばまれて、ここから海を眺めることはできないけれど、きっと彼女は海で何が起こっているのかを知っているのだろう。

彼女は、海に愛されていたから。


皐月は、昨日から唐突にぶくぶくと浸水していった街並みを見やった。

なにも変わったことなど起こっていないかのように、人々は通りを行き交う。

時折、皐月と同じように空を見上げる人もいたけれど、そうでない人々には、この街はいつもと同じ乾いた雑踏にしか見えていないのだろうか。


(溺れないのが不思議なくらいなのに。へんなの)

生ぬるい風がふく。

街を覆う水は、おそらく幻覚なのだろう。


梅雨どきだから、という言葉ではすまされないほど、重く水をはらんだ空気が体にまとわりついていたけれど、呼吸に支障はきたさない。

海面ははるか上空に位置しているというのに、水圧に苦しむこともなかった。

ゆるく水につつまれる感覚をたのしんで、皐月は空を見上げた。


「きれいだね」

「そうね。たまには、こういう幻想的なのも悪くないわ」

「いつまで続くかな」

「さあ。彼の、探しものが見つかるまでじゃないかしら」

「海で呼んでいるという、彼?」

「ええ。彼は女官に恋をしたの。海の御遣いを探しているのよ」

「へえ」


海には海のルールがある。

皐月は陸地に属するものなので、海にはくわしくなかったけれど、そういえば、大切な幼馴染の少女は、海とはゆかりの深い存在なのだった。


(あとで行こうかな)

今の皐月には、選択肢がみっつある。

自宅に帰るものと、幼馴染の家に転がりこむものと、しずくとだらだら夜を過ごすものだ。


明日も平日で学校がある。

本来ならば、満月の近いこの時期は、目がさえて眠れないものだけれど、今日は恵みの曇り空だ。

厚い雲に覆われて、月も星も見えやしない。

(じめじめするのはイヤだけど、これに関しては梅雨もそう悪くないよな)


体が軽かった。

夜を通して、駆けつづけたいほどに。






しずくと別れた帰り道、気まぐれに海の見える岩壁にのぼった。

凪いだ夜の海に、鬼火が舞う。


ふわふわとただよう燐光の合間に、黒く人影があった。

おそらく、そうとうの距離があったはずなのに、人の頭部とわかる、不思議な影だ。

(あれが、例の彼?)


小さな人影は、まさしく影のようにしか見えない。

到底、街を水の幻影に沈めるほどの力があるようには見えなかった。

「女官に恋、ね」

波間にただよう黒い影と、どこの誰とも知れない女官とのラブロマンスなど想像もつかず、皐月は肩をすくめた。


街も木も、すっぽりと水に覆われている。

ただ、最奥に位置した白睡山だけは、一切の水の浸入を許さずに、変わらずそこに座している。

「さすが、山神は伊達じゃないってことか」


海でさすらう男の妄執など、ものともしないたたずまいだ。

「あの黒い人も、恋をしたのが山の巫女でなくてよかったんじゃないの」

そうであったなら、恋のかなう予感はしない。


なんにせよ、早く決着をつけて引き上げてくれるようにと願って、皐月はきびすを返した。

せめてあと数日のうちにはなんとかしてくれないと、物珍しさが失せるにつれて、ずっと水につかって過ごすというのにも嫌気がさしそうだ。


「山か。最近行ってないな」

高校に入学する前に一度、幼馴染とともにのぼったのが最後だ。

子どものころは、幼馴染の少女と一緒にいつもあの山で遊んだ。

禁山と呼ばれ、一般には立ち入る者のない山だが、皐月にとっては馴染みの山だ。


そしておそらく、皐月の母は今あの山中にいる。

一緒に暮らす母は、日本に越してきてからずっと、定期的にあの山に通っていた。

山の中で母親と顔を合わせるのも、どうにも気まずいから、時期をずらしてまた足を運ぼうと決め、皐月は幼馴染の待つマンションへと戻った。


――住宅街のはずれに、皐月の住むマンションはあった。

なるべく白睡山の近くに住みたいという母の希望のもとに選んだ物件だ。

仕事もあって単身異国に住む父が、毎月潤沢な生活費を振り込んでくれるから、快適な二人暮らしをおくっている。


その皐月の家の隣りに、幼馴染は部屋を借りていた。

どうせ無人とわかりきっている自宅には戻らず、皐月は隣りの家の鍵を取り出し、ドアを開けた。

「ただいま」

声をかけるが、扉をくぐった室内は暗く、個室のドアもとざされている。

「開けるよ」

いちおうドアをノックして、寝室へと入る。


「三日、寝てるの?」

時計を確認すると、針は午前の一時をさしていた。

室内の照明はおとされていて、ベッドにはひとりの少女がすやすやと寝息をたてている。

黒く長い髪が寝具に散り、白い陶器のような顔は、うすく口もとが開いて、あどけない表情を浮かべていた。


皐月はベッドの端に腰かけて、親指で彼女の頬をむにっとつぶした。

きめの細かい肌は、あたたかくて弾力がある。

むにむにとした、餅のような触感を、しばらく楽しむ。

どうやら寝室の窓が開いているようで、時折入り込む夜風にカーテンが揺れた。


「無用心だっていつも言ってるのに」

両の頬をぎゅっとつまむ。

寝つきのいい彼女は、ちょっとのことでは起きやしない。

湿度が高くて寝苦しかったのだろう。彼女は、エアコンが嫌いだから。


しかしここは三階だ。たとえば自分だったなら、この高さならば容易に窓から侵入できる。

「オレが暴漢だったらどうするんだよ」

そうつぶやいてはみたものの、彼女のことだ。身の危険が迫ったら、片手で相手の首くらいへし折るかもしれない。

たおやかな容姿の彼女は、怪力の持ち主でもあったから。


「でもやっぱりだめ」

皐月は立ち上がると、窓を閉めて鍵をかけた。

「今夜はそんなに暑くないよ。なんせ海の底にいるんだもの。めずらしいでしょう」

乱れていた薄いかけ布団を直し、皐月は寝室をあとにした。

「おやすみ」


扉を閉めて、リビングの電気をつける。

彼女の家にはテレビがないから、いつも静かだ。

今から自宅に帰る気分にはならなかったから、シャワーを借りて泊まっていくことにする。

まずはのどがかわいたので、冷蔵庫から水を出して、グラスに一杯飲み干した。

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