第九話
ガラスの割れる音がして、三日は窓の向こうに目をやった。
先日ツルバラを眺めた、外へ続く窓ガラスが割れ、破片が室内に散乱していた。
突然のできごとに、きょとんとする三日の背後で、千佳の悲鳴がひびきわたった。
「なぜこんなものが……」
体をふるわせた芽衣が、よろめくように後ずさるのを、京子が外をにらみすえたまま、背にかばった。
「逃げて」
京子が硬い声で、たたきつけるように言った。
「早く!」
ふたたび、千佳の口から悲鳴があがる。
「先生が、先生が消えちゃった!」
慌てて室内を見回すが、元から見えない教師の不在は三日には認められず、はっとして眼鏡をはずす。
目にうつる光景は激変し、三日は息をのんだ。
とても大きな、クモがいた。
見た目は昨夜の夢にでたクモによく似た、赤い斑点模様をしていたが、大きさは段違いだった。
縦にも横にも、二メートルはあろうかという大グモだ。
なにより、昨夜のクモとの最大の違いは、その目に意志をやどした光があることだ。
自然に存在するものとは思われない。千佳が怯えるのも当然だった。
クモの吐いたとおぼしい白い糸の束が、教壇に巻きついていた。
皆の視線から察するに、そこに朝倉がいたのだろう。壇上には、ノートと筆記用具が散乱している。
「先生のことはいい。あの人は大丈夫だから。おねがい、逃げて」
京子の言葉に、三日は千佳の腕をとった。
「行こう。助けを呼ばないと」
「でも……」
「芽衣さんも。はやく」
必死な声音の京子に、青ざめた芽衣がうなずいた。
「わかった」
京子が芽衣の肩を押したのを合図に、三人は扉に向って駆け出した。
京子がクモに向って立ちはだかるのが、視界のすみにうつった。
しかし巨大なクモは、思わぬ敏捷さをみせて京子をかわすと、最後尾を走る芽衣の背後に迫り、尖った足をふりかぶった。
「芽衣さん!」
京子が叫び、クモに体当たりをする。
クモはわずかに足をすべらせ、動きをとめると、持ち上げた足を再び芽衣に向ってふりおろした。
京子が芽衣をつきとばす。
身をていしてかばった京子の腹部を、クモの足がつらぬいた。
じわりと血がにじみ、京子の体がくずおれる。
芽衣ののどが鳴った。
「京子」
かすれた声で名を呼ぶが、京子は身じろぎもせずに床に伏した。
「うそ……。いやだ、京子先輩」
千佳がはげしく首をふる。
「なんてこと」
ふるえる声をしてクモを見据える芽衣に、クモが噴出した糸の束がおそいかかった。
微かな声をもらして、芽衣の体がとらわれる。
全身に嫌な汗がつたう。
こちらに向きなおったクモから、奔流のような糸が襲いかかるのを、まばたきもせずに見つめた。
千佳が泣き声で助けを求めるのが聞こえていた。
全身を締め上げるクモの糸は、粘つくというよりも、弾力のあるゴムのような質感で、きつく体をはんでいた。
全員の動きをとめた大グモは、他には見向きもせずに芽衣に這い寄り、糸の束に拘束された芽衣の体を口にくわえた。
「待ちなさい」
場にふさわしくない静かな声で、三日は言った。
汗で手のひらが濡れていた。
三日は、どうにか自由になる指を動かし、体を覆う糸をつかんだ。
糸が、ほろりとくずれた。
あいた隙間から手をのばし、縛りつけていた糸をつかみ、はがしていく。
両腕が自由になると、首すじをつたう汗を手でぬぐい、さらに糸をほどいていった。
やがて全身の自由をとりもどした三日は、割れた窓から外に出ようとしていたクモへと駆け寄った。
クモの胴体を蹴り上げて動きをとめ、芽衣をくわえた顎を両手ではさみあげる。
「その人をはなしなさい。こんなまねは許さない」
力まかせに顎をひらくと、芽衣の体は外の草地にどさりと落ちた。
三日はクモの顎から手をはなし、こわい毛に覆われた胴体を両腕でぐいと持ち上げた。
自分の何倍もありそうな胴体も、三日にとってはどうということはない。
腕力には自信があった。
有無をいわせず頭上にかかげ、教室の床に叩きつける。
クモは衝撃にびくりと痙攣し、動きをとめた。
「クモならば、糸を分解する溶液も持っているでしょう。お腹をかっさばいて、取り出してあげる」
調理台から包丁を取り出し、三日はクモに向かい、ふりかぶった。
――ふいに、窓の外から場違いなまでに穏やかな声がかけられた。
「おやまあ。お嬢ちゃん、見た目によらずおっかないなあ。そこらで勘弁してくれない?」
クモの体を足で押さえつけたまま、首をまわすと、あきれたような苦笑をうかべる京堂がいた。
「あなた、体操部の。なぜ」
言葉みじかく、三日が問う。
「んー、家庭科部に遊びにいくって言ったでしょ。約束は守るんだよね、オレはさ」
「そうではなく」
なぜ止めるのかとききたいのだ。
京堂は、糸に覆われたあたりの惨状になど目もくれず、軽い口調で言葉をつぐ。
「そのクモ、オレのなの。あまりいじめないであげてくれる?」
三日の視線がするどくなった。
京堂は、へらりと笑って手をふった。
「やだな、そんなににらむことないじゃない。部室荒らしたのは悪かったよ。クモは撤収させるし、部屋も片付けるからさ」
「このクモは人を傷つけました」
「人は傷ついてないよ。肉体的な意味では、誰ひとりとして傷ついてない」
三日は目をすがめた。
「尾上さんが血を流して倒れるのを見ました。なぜこんなことになったのかは知らないけど、笑ってすませられることじゃないでしょう!」
「うーん、そうだねえ。だったら尾上 京子は修理にだそうよ」
「……修理?」
「そう。ほうっておいても、すぐに情報屋が引き取りにくるさ。まあ、こっちから送り届けてもいいけど」
「どういう意味です」
京堂は窓枠を越え、三日に歩み寄った。
「知らなかった? 尾上 京子は人間じゃない。情報屋の所有するアンドロイドなんだよ」
三日は言葉がでなかった。
「だから、あのくらいならすぐに修理できる。安心したかい」
「あなた」
「京堂だよ、お嬢ちゃん。友哉でもいい」
「京堂さん」
「なにかな」
「あなたが、わざと引き起こしたんですか」
京堂の瞳がたのしそうにまたたいた。
「ご明察」
「なぜ!」
三日の声がうわずった。
「人を傷つけて、たのしいですか」
「いいや。そういう野蛮なことはオレはいやだね」
「だったら」
「仕事なんだ」
なんでもないことのように、京堂は言った。
「妖精をひとり、連れてくるように言われている。ボスにね。……オレは仕入れ業者だからさ、依頼があったら運ばないと」
「それで、小八木さんを?」
「そう。まさかお嬢ちゃんにジャマをされるとは思わなかったけど」
三日はゆるくかぶりをふった。
「信じられない。それはやっちゃだめなことだよ」
「ふうん、お嬢ちゃんはそんな人間ばなれした怪力を秘めているのに、案外モラリストなんだね」
いいね、と、京堂はささやいた。
「ねえ、今日のところは引き上げるし、もう家庭科部で暴れたりもしないから、そのクモを放してあげてくれないかなあ」
反省の色のみえない京堂に、三日は歯がみした。
「それにしても、お嬢ちゃんには驚かされるね。その馬鹿力もそうだけど、クモの糸もひきちぎったでしょう。力任せに引っ張ったっていうより、触ったら溶けたようにも見えたけど、どうやったの?」
「知りたいですか」
正体の知れない京堂の考えをすこしでも探ろうとして、三日は彼の目をじっと見上げた。
いつしか、腕をのばせばとどくほどの距離にいた。
「痛いのはやだな。無理に体に教え込むとか、そういうの?」
「いいえ。ちっとも痛くはないです、ほら」
そう言うと、三日は包丁を手ばなした。
「教えてあげます」
そうして、背伸びをして両手をのばした。
京堂の頬をつつみこみ、三日はそっとくちびるをよせた。
三日のくちびるが、京堂のすこし乾いたくちびるに触れる。
あっけにとられた様子の京堂のくちびるを割って、三日は舌を差し入れた。
唾液をのせて、口内を蹂躙する。
(さあ、教えてちょうだい。あなたは誰なの)
彼の正体をあばこうと、三日はおのれの唾液を京堂の体内に流し込んだ。
舌がからまり、しめった音がして二人のくちびるが離れた。
沈黙がながれ、三日の探る視線と、京堂のたのしげな視線がからまった。
「いいね。これってもしかして、求愛行動なのかな。粋だね」
三日が言葉をうしなった。
「美人のキスか。役得だなあ。仕事は失敗しちゃったけど、請け負った価値はあったかな」
「……うそ」
「ん、なにが?」
信じられない思いで、まるで態度の変わらない京堂を見つめる。
「あなた、……人間なの?」
「やだなあ、人間じゃなかったらなんだっていうのさ。まあ、この学校はバケモンばっかりだけどね」
「うそ」
「ほんとだって。なに? お嬢ちゃんは人間じゃない男のほうが好みなの?」
(信じられない)
てっきり、害意のある妖怪かなにかだと思った。
(人間)
くらりと目まいのするような思いがした。
三日は胸の内でつぶやいた。
(ああ。私、人間のことなにもわかってないのね)
三日は途方にくれた。
人間が相手だと思うと、とたんにどうしてよいのかわからなくなる。
三日は、人間にくわしくないのだ。
「京堂さん。小八木さんと千佳を、解放してください。それから、尾上さんを、その……、手当てできる人のところへ大至急つれていってあげてください」
「りょーかい、わかった。どいてくれる?」
京堂にうながされて、三日はクモを床にぬいとめておいた右足を、素直にどかした。
京堂は、「おー、よしよし」と、クモをねぎらって、手にした水晶球をかかげた。
彼がなにごとかをつぶやくと、こぶし大ほどの水晶があわい光をはなち、クモと、クモのまきちらした糸が、球に吸い込まれていった。
見る間にクモのいた痕跡はなくなり、ガランとした印象の室内に、血だまりに倒れ伏す京子と、扉のそばで昏倒している千佳が目にはいった。
「尾上さん。千佳……」
まずは出血の量が多い京子のもとへ向おうとした三日を、差し置いて駆け寄る少女がいた。
「京子!」
白い顔をして意識のない体にすがりついたのは、窓の外で放置されていた芽衣だった。
芽衣は、悲痛な声をあげて、京子の体を抱きしめた。
「ごめん。ごめんね……」
目の前でくりひろげられる愁嘆場に、元凶たる京堂は心をゆさぶられた様子もなく、肩をすくめる。
「あっちの嬢ちゃんは、びっくりして気絶してるだけでしょ。じゃあオレ、尾上 京子を連れて行くよ。部活、ジャマしちゃってごめんね」
京堂の言葉に、芽衣は京子の頬をさすりながら、振り向くことなく怒鳴りつけた。
「京子に近寄らないで!」
言われるがまま足を止めた京堂は、頭をかき、
「ふうん、だったらオレもう帰っていいかな。小八木 芽衣の代わりも用意しないといけないし、忙しいんだよね」
「いいわけないでしょう、そんないいかげんな」
千佳を抱き上げた三日が、眉をしかめる。
「尾上 京子はこちらで引き受けよう。それに、京堂 友哉。お前もだ」
窓の外から、新たにかけられる声があり、見ると、きびしい表情をした十夜と秋が立っていた。
「あらま、さすがにはやいね」
困ったように顔をゆがめる京堂に、秋が底冷えのする笑顔を向ける。
「まいったね、京堂。あんたとはじっくり話し合う必要がありそうだ」
「京堂、お前のしわざか。何が目的だ」
二人にすごまれて、京堂はやれやれと息をついた。
「妖精の調達を頼まれたんですよ」
「誰に」
「うーんと、ボスに」
十夜の眉間に深いシワが寄る。
「コレクターか」
秋が舌打ちをした。
「あんなヤツのいうことなんかきくなよ。バカじゃないの」
「しかたないです。仕事だもの」
「それでこの騒ぎか」
「解せないな、妖精だったら他にもいるじゃない。なぜ小八木 芽衣を狙うのさ。あんたなら身近にいるでしょう、誘えばどこにでもついてきてくれそうなのが」
そうきかれて、京堂ははじめて嫌そうな顔をみせた。
「一之瀬さん、それ、五島さんのこといってますよね。いやいや、ないでしょう。あの人のどこに妖精らしさがあるんです。全身筋肉の妖精なんてありえませんって。妖精っていったらやっぱりほら、可憐な女の子じゃないと」
「……あの人、妖精だったんですか」
千佳を抱えたままで、たたずむ三日がつぶやいた。
京堂が顔をゆがめて何度もうなずく。
「ねえ、お嬢ちゃんだって、そんなん詐欺だと思うでしょう。あの人、風の申し子だけあって、あれでめちゃくちゃ歌が上手いんだよ。気持ち悪いったらもう」
どちらかといえば、無骨な風貌の、がたいのよい男だった。
男気あふれた五島の風体を思いおこし、そういえば彼のまわりには心地よい風が吹いていたかと、ひとりうなずく。
「ともかく京堂。お前には生徒会室に来てもらう。壊れた結界の補償と、学園を荒らした責任をとれ」
「あーあ、おてやわらかに頼みますよ」
「あんたに手心くわえる義理がどこにあるのさ。きっちり話をつめようじゃないか」
「それと、尾上 京子は情報処理部へ運ぼう。九条に言って、人手をまわしてもらうか」
京子の名に、うずくまる芽衣の背中がびくっと跳ねた。
「情報処理部って、クラブハウスですか? 私、運びますよ」
三日が申し出ると、十夜はきいた。
「運べるのか」
「うんうん、お嬢ちゃん、力自慢だもんなあ。かっこいいね。でも、今抱いてる女の子を先に、保健室に連れていってやりなよ。人間優先でしょ」
秋の目が光る。
「へえ。たしかに今も、人ひとり抱いて、腕も震えていないんだ。なにかと規格外だね、三日ちゃん」
「腕力に自信があるなら、そのほうが早い。その一年を保健室に寝かせたら、尾上 京子を情報処理部へ運んでくれ。クラブハウスの二階だ」
「わかりました」
「よし、たのんだね。もし無理そうだったら、生徒会室においで。こっちでやるから」
三日がうけおうと、十夜と秋は、しぶる京堂をひったてて、家庭科室から出ていった。
三日は、芽衣の背中に声をかけた。
「千佳を置いてきます。急いで戻りますから」
芽衣はうなずいた。
「ごめんね、三日ちゃん。……ありがとう」
涙まじりの、痛ましい声だった。