ひげの影
榎本は猫が好きだった。
休日の夕方、駅前ビルの二階にある猫カフェの看板前を通る。階段の途中から、消毒液とわずかな獣臭が混ざり合った匂いが降りてくる。ガラス越しに、受付で靴を脱ぐカップルや、小さなカウンターで手を消毒する女子高生たちの背中が見えた。
中へ入れば、毛並みの揃ったアメリカンショートヘアやロシアンブルーが、キャットタワーの上で丸くなっているはずだった。だが、券売機の前に男一人で立ち、店員から「ご利用規約はお読みになりましたか」と尋ねられる自分を想像した瞬間、首筋の毛穴が開くような不快な汗が流れた。榎本はポケットの中で固く拳を握り、そのまま通りへ引き返した。
地元の文房具卸会社で働き始めて八年になる。仕事で特に失敗することもなく、取引先の学校や事務用品店からは「落ち着いていて仕事が丁寧だ」と評価されていた。一人で居酒屋のカウンターに座り、文庫本を広げながら煮込みをつつくことには何の抵抗もない。会社の後輩が雑に散らかした書類を黙って整えてやるくらいの余裕もある。
それなのに、路地の角で痩せた野良猫を見かけると、心臓の奥が不規則に跳ね上がった。
撫で回したい。手帳の角で顎のあたりをガリガリと擦ってやりたい。しかし同時に、動物病院の初診料、狭いアパートの壁に付く爪研ぎの傷、部屋に充満する猫砂と糞尿の匂い、そして「榎本さん、家で猫飼ってるらしいよ」という社内の呑気な雑談が、一気に頭の中で組み上がっていく。
結局、榎本は猫を見ないふりをして、少し歩幅を広げて素通りするのだった。
ーーー
お盆休みの最終日、日曜日の夕方四時半過ぎ。
西日が住宅街のブロック塀を赤黒く染めていた。明日から始まる電話応対と注文書の処理を思い浮かべながら、榎本は履き古したスニーカーの踵を踏んで外へ出た。クーラーの冷気で冷え切ったアパートの部屋に一人でいると、自分の体臭ばかりが鼻につくからだった。
電柱の陰から、片耳の端が古傷で欠けた茶トラの猫がぬっと姿を現した。
榎本は足を止めた。猫は榎本を一度見上げると、喉の奥で「ナ」と短く鳴き、ゆっくりと路地の奥へ歩き出した。その太い尻尾の動きに引っ張られるように、榎本は二メートルほど距離をとって後を追った。
猫は時折、住宅の室外機の裏や自販機の隙間に鼻先を突っ込みながら、迷いのない足取りで進んでいく。榎本はポケットに両手を突っ込み、近所の住民とすれ違うたびに軽く会釈を交わしながら、散歩を装って猫の影を追った。
住宅街が途切れ、トタン屋根の古い資材置き場の裏手に出た。そこに、周囲を錆びた金網で囲まれた小さなため池があった。緑色の藻が油のように浮き、水の干上がったフチには泥がへばりついている。
茶トラの猫は、歪んだ金網の隙間をすんなりと潜り抜け、池のふちに生い茂る背の高い草むらの中へ消えた。
周りに誰もいないことを確認してから、榎本は金網に近づき、茂みを覗き込んだ。
捨てられたプラスチックコンテナの陰に、小さな毛玉が固まっていた。
子猫だった。掌に収まるほどの大きさの毛玉が五匹、重なり合って蠢いている。キジトラ、三毛、黒。母猫である先ほどの茶トラがその横に横たわり、子猫たちの頭を順番にざりざりと音を立てて舐め上げていた。
子猫の一匹が、短い足で草の茎を立ち上がらせようとしていた。その小さな鼻先から生えた細い白いひげが、夕日に透けて、草の葉に触れるたびにピンと細かく震えた。
「……っ」
榎本は呼吸を忘れて見入った。
ダンボール箱、動物病院、ミルク。実家の母親の声。会社を休む自分。狭い部屋で猫の匂いに囲まれながら年を取っていく日常。頭の中で計算が始まると、手のひらに冷や汗がにじんだ。
母猫がふと顔を上げた。黄色い目だった。そのまま何事もなかったように、再び子猫の耳の裏側へと舌を戻した。
榎本は金網の網目を指で強く握りしめた。硬い錆の粒が、指の腹に食い込んだ。
それから、ゆっくりと指を伸ばして手を離した。指先には茶色い錆の跡が付き、鉄の匂いが残った。
遠くの防災行政無線から、夕方五時を告げる「夕焼小焼」のメロディが聞こえてきた。雑音の混じった電子音が、湿った空気の中にぼんやりと広がっていく。
榎本は振り返り、ため池を後にした。
アパートへ戻り、鍵を回してドアを開けると、留守の間に溜まったぬるい部屋の熱気がそのまま顔にかかった。
靴を脱ぎ、鞄を床に置いた。明日持っていくハンカチをタンスから出し、畳まれたシャツを整えた。
部屋のどこにも猫の匂いはなかった。自分の使っている柔軟剤の匂いだけが漂っていた。




