第4話 小さな成功
電車が次の駅へ向かって揺れる。
規則正しい振動に身体を預けながら、俺はさっきから何度も同じ表示を見ていた。
【選択ログ更新】
三年前・春・駅構内
結果:機会損失(大)
↓
結果:未来接続(中)
関連分岐を再計算しています
未来接続。
その四文字が、妙に現実味を持って胸に残っていた。
変わったのだ。
たしかに、ほんの少しだけ。
前の人生では生まれなかった会話が生まれた。
見過ごしただけだった誰かと、ちゃんと目を合わせて言葉を交わせた。
たったそれだけのこと。
でも、今の俺にはそれが信じられないほど大きかった。
視線を上げると、窓に映る自分と目が合う。
少しだけ強張っている。
けれど、いつもの覇気のない顔とも違っていた。
言葉にするなら――ちゃんと「今」にいる顔だった。
そんな自分に、少しだけ戸惑う。
次の駅で人が入れ替わり、車内の空気が少し動いた。
その流れに紛れるように、俺はスマホを取り出す。
画面は古い機種の見慣れたホーム画面のままだった。
三年前の俺のスマホ。
三年前の朝。
三年前の人生。
なのに、自分の中にある感覚だけが、明らかに今の俺のままだ。
「……本当に戻ってるんだな」
小さく呟いた瞬間、また視界の端が淡く光った。
【短期分岐変動を確認】
精神状態:微改善
行動傾向:前向き
次回重要選択までの猶予:未定
「精神状態まで出るのかよ……」
思わず苦笑する。
不気味なはずなのに、少しだけ救われる気持ちもあった。
微改善。
誰に言われるでもなく、自分の変化をそう表示されただけで、胸の奥の重さが少し軽くなる。
今までの人生では、こんなふうに自分の行動が“良かった”と可視化されることなんてなかった。
失敗したときだけ記憶に残って、できたことはすぐ埋もれていく。
人間なんて、だいたいそういうものだ。
だからこそ、この小さな成功は、思っていた以上に嬉しかった。
会社の最寄り駅に着いた頃には、朝の緊張は少しだけ薄れていた。
改札を抜けて、見慣れた通勤路を歩く。
前の人生でも何百回と歩いた道だ。
コンビニの角。
信号待ちの人の列。
交差点の向こうに見えるオフィスビル。
なのに今日は、その景色のすべてが少しだけ違って見えた。
俺が変わったからなのか。
それとも、もう本当に未来そのものが変わり始めているのか。
会社の自動ドアが開く。
受付前を通り過ぎ、エレベーターに乗り込む。
中にいた数人の社員たちは、もちろん三年前の顔ぶれだった。
名前も、性格も、これからどんな会話をするかも、少しだけ覚えている。
それが妙な優位感と、説明しづらい気持ち悪さを同時に連れてくる。
「おはようございます」
先に声をかけてきたのは、同期の高橋だった。
前の人生でも、たしかこの朝はこうして顔を合わせていたはずだ。
でも、そのあとの会話は曖昧だ。
「ああ、おはよう」
「珍しいですね。今日はちょっと顔つき違いません?」
「……そうか?」
「なんか、朝から生きてる顔してます」
思わず笑いそうになった。
生きてる顔。
それは案外、的を射ていたかもしれない。
「寝起きが良かっただけだよ」
「それなら俺にも分けてほしいです」
軽口を交わしながら、エレベーターが上がっていく。
前の人生ではたぶん、こういう何でもない会話すら、もっと無感情に流していた。
今日はそれが、少しだけ面白く感じた。
フロアへ着き、自席へ向かう。
まだ始業前の静かな空気。
パソコンを立ち上げ、デスクの上を整える。
そして、画面を開いた瞬間――
胸の奥が、小さく跳ねた。
今日提出予定の資料。
前の人生で、この資料は修正を食らった。
しかもかなり厳しめに。
理由も覚えている。準備不足だった。詰めが甘かった。最後の確認を怠った。
その失敗の記憶が、唐突に鮮明によみがえる。
「……そうだ」
あの日、俺は前日の時点で“なんとなく嫌な予感”を覚えていた。
でも面倒で見直しを後回しにして、そのまま出した。
結果は散々だった。
視界に、新しい文字が浮かぶ。
【重要選択候補を確認】
対象:提出前資料
前回結果:失敗
修正可能性:高
思わず息を呑む。
駅での出来事だけじゃない。
今、この瞬間もまた分岐点になっている。
なら――やることは一つだ。
俺は席に座るなり、すぐに資料を開いた。
数字の表記揺れ。
引用元の抜け。
説明順の不自然さ。
前の人生で指摘された箇所が、面白いほど目に入る。
自分が一度失敗した道を、もう一度歩いている。
そう思うと、奇妙な感覚だった。
まるでテストの答えを先に知っているみたいだ。
卑怯だという気持ちがないわけではない。
けれど、それ以上に思った。
失敗を知っているなら、今度は避ければいい。
それはズルじゃない。
少なくとも今の俺には、そう思えた。
修正に集中しているうちに、始業時間が近づいてくる。
キーボードを打つ指が、いつもよりずっと軽い。
前の人生なら、こういう朝はどこか投げやりだった。
どうせ怒られるかもしれない、どうせ完璧にはならない。
そんな気持ちが、どこかでブレーキになっていた。
でも今日は違う。
少しでも変えられるなら、やる意味がある。
「お、珍しいな」
顔を上げると、課長がこちらを見ていた。
「朝からずいぶん集中してるじゃないか」
「提出前に少し見直しておこうと思って」
「いい心がけだ。じゃあ、その資料、午前の会議で使うから後で持ってきてくれ」
「わかりました」
課長が去っていく。
その背中を見送りながら、視界の端でまたログが光った。
【選択ログ更新】
対象:提出前資料
未確認 → 修正実行
期待結果:改善
小さく拳を握る。
地味だ。
駅で誰かに声をかけるより、よほど地味な選択かもしれない。
でも、こういうことなのだと思った。
人生を変えるのは、劇的な奇跡じゃない。
誰にも見えないところで選び直した、小さな一手の積み重ねだ。
午前の会議室。
前の人生では、ここで資料の甘さを指摘され、言葉に詰まり、気まずい空気を味わった。
その記憶があるぶん、椅子に座った瞬間に緊張がぶり返す。
会議が始まり、順番が回ってくる。
「では、こちらが今月分の提案資料です」
声が少しだけ固い。
けれど、逃げ出したいほどではなかった。
説明を進める。
ページをめくる。
前回詰まった箇所も、修正した部分も、ちゃんと頭に入っている。
数分後、課長が資料から顔を上げた。
「……うん。前より見やすくなってるな」
その一言が、予想以上に深く刺さった。
「ありがとうございます」
「数字の整理もいいし、この順番なら説明も通りやすい。これで進めよう」
他の参加者も特に異論はないらしく、そのまま話が進んでいく。
終わった。
怒られなかった。
詰まらなかった。
前の失敗を、そのまま繰り返さなかった。
会議室を出たあと、廊下で一人になった瞬間、ようやく息を吐く。
「……マジか」
口から出たのは、それだけだった。
派手な成功じゃない。
表彰されたわけでもない。
世界が劇的に変わったわけでもない。
でも俺にとっては、十分すぎるほどの“成功”だった。
また視界の端に、文字が現れる。
【選択ログ更新】
提出前資料
前回結果:失敗
今回結果:改善成功
短期自己評価:上昇
行動信頼値:微増
「行動信頼値……」
自分で自分を信じる値、ということだろうか。
そんなものがあるのなら、今までの俺はきっとずっと低いままだった。
失敗して、落ち込んで、次は最初から諦める。
そうやって自分の中の信頼を削ってきたのかもしれない。
だとしたら今、この小さな成功は確かに意味がある。
たとえ誰にもわからなくても。
たとえ世界にとってはどうでもいい一件でも。
俺にとっては、大きかった。
昼休み、給湯室で紙コップのコーヒーを受け取りながら、俺は少しだけ笑っていた。
駅で彼女に声をかけたこと。
資料を修正して失敗を避けたこと。
その二つだけで、朝よりもずっと呼吸がしやすい。
やり直しなんて胡散臭いと思った。
ログだって不気味だ。
得体の知れない何かに監視されているようで、気持ち悪さは消えない。
それでも。
もしこの力で、過去の自分が取りこぼしてきたものを少しずつ拾い直せるのなら。
もしこの先も、失敗を減らして進めるのなら。
――悪くないかもしれない。
そう思った瞬間だった。
視界の端で、ログが不意に明滅した。
【新規変動を検知】
本日の成功により、未発生イベントが生成されました
関連人物:1
関連事象:未設定
影響範囲:拡大中
さっきまでの穏やかな気分が、一気に冷える。
「……未発生イベント?」
紙コップを持つ手に、わずかに力が入った。
成功した。
たしかに、今のところはうまくいっている。
でも、その“うまくいった結果”が、何を生むのかまではわからない。
影響範囲、拡大中。
その表示は、妙に不吉だった。
ただ一つ確かなのは――
俺の選択は、もう俺一人だけの問題じゃなくなり始めている、ということだった。




