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「人生、やり直しできます。ただし“選択のログ”は消えません」  作者: kaiくん
第1部 やり直しの快感編

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3/5

第3話 声をかけるという選択

 彼女が振り向いた。


 その一瞬だけで、喉の奥が詰まりそうになった。


 近くで見ると、思っていたよりも表情が柔らかい。

 驚いたように少し目を見開いているが、露骨に警戒しているわけではなかった。


「……はい?」


 その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


 前の人生では存在しなかった声だ。

 話しかけなかったせいで、永遠に生まれなかったはずの返事。


 たったそれだけのことなのに、自分でもおかしいくらい動揺していた。


「えっと……この電車、少し遅れてるみたいです」


 言い終えたあとで、自分の声が思ったより落ち着いていたことに驚く。


 彼女は手にしていたスマホを見て、それからほっと息をついた。


「そうだったんですね……よかった」


「案内が流れてたので。たぶん数分くらいだと思います」


「ありがとうございます。ちょっと焦ってて」


 小さく頭を下げられる。


 その仕草だけで、心臓がまた変な跳ね方をした。


 やっぱり、困っていたのか。


 あの日の俺は、それに気づいていながら動かなかった。

 けれど今は、そのわずかな違いだけで、確かに会話が生まれている。


 視界の端に、文字が浮かぶ。


【選択ログ更新】

対象人物:接触成功

反応:良好

分岐変動:発生


 思わず息を呑んだ。


 見間違いじゃない。

 本当に、選択が記録されている。


「……どうかしました?」


 彼女が不思議そうに俺を見る。


「あ、いえ……」


 慌てて視線を戻す。


「ちゃんと伝わったんだなって、少し安心してました」


「伝わりましたよ」


 彼女はくすっと笑った。


「むしろ、助かりました」


 助かりました。


 その一言が胸の奥に沈んでいく。


 前の人生では、聞けなかった言葉。

 聞けないまま終わった可能性。


 それが今、ちゃんとここにある。


 ホームに電車接近のアナウンスが響き、人の流れが少し前へ動いた。


 彼女はまだどこか落ち着かない様子で改札の方を見ている。


「乗り換えですか?」


 気づけば、次の言葉も口から出ていた。


「え?」


「あ、何度も時間、気にしてたので」


「あ……はい。新宿で乗り換えがあって」


「じゃあ、ちょっと焦りますね」


「そうなんです。今日、大事な予定があって」


 言いながら、彼女は困ったように笑う。


 少しだけ、表情が和らいでいた。


 前の俺なら、このあたりで会話を切っていただろう。

 余計なことを話して変に思われるのが怖くて、曖昧に笑って終わらせていたはずだ。


 でも今は、少なくとも一歩目は踏み出せている。


 それだけで、世界の見え方が違った。


「大事な予定、ですか」


「面接なんです」


 その言葉に、俺は一瞬だけ息を止めた。


 知らない情報だった。

 前の人生に存在しなかった会話だから、当然だ。


 つまり今この瞬間、俺は本当に“別の未来”の入口に立っている。


「それは、なおさら間に合ってほしいですね」


「はい……もう遅刻だけはしたくなくて」


「大丈夫です。数分の遅れなら、たぶんまだ余裕あります」


 根拠はない。

 でも、そう言ったほうがいい気がした。


 彼女は少しだけ驚いた顔をして、それからふっと肩の力を抜いた。


「……ありがとうございます。なんか、落ち着きました」


 その言葉を聞いて、ようやく自分の肩にも力が入っていたことに気づく。


 落ち着いたのは、たぶん俺も同じだった。


 電車がホームに滑り込み、風が吹き抜けた。

 ドアが開き、待っていた人たちが一斉に動く。


 人の流れの中で、彼女が一歩出遅れる。


 わずかな迷い。

 その小さなためらいが、妙に目についた。


 前の人生なら、きっとここでも何もしなかった。


 でも――


「先、どうぞ」


 自然に身体が動いていた。


 混み合う流れを少しだけ受けるように立ち位置をずらすと、彼女は目を丸くした。


「え……」


「このタイミング、入りにくいですよね」


 一瞬のあと、彼女は小さく笑った。


「……そうなんです」


 そのまま車内へ乗り込んでいく。

 俺もその後を追うように入った。


 電車の中は、朝の通勤時間らしい混み具合だった。

 ぎゅうぎゅう詰めではないが、気を抜けば人と肩が触れる程度には近い。


 彼女はドアの近くに立ち、俺も少し離れた位置で吊り革を掴む。


 話しかけすぎるのは違う。

 かといって、ここで完全に切れるのももったいない気がした。


 奇妙な高揚感と緊張が入り混じって、胸の内側が落ち着かない。


 ふと視界の端に、また文字が浮かんだ。


【重要選択結果】

未接触 → 接触完了

機会損失(大) → 再計算中

未来変動率:12%


「……再計算」


 思わず小さく呟く。


 未来が、計算されている。


 自分の行動一つで、数字として動いている。


 気味が悪いと思うべきなのに、その一方で、妙な実感があった。


 本当に変えたんだ、という実感だ。


 窓に映る自分の顔は、いつもより少しだけ硬かった。


 そのとき、不意に彼女と目が合った。


「大丈夫ですか?」


 思わず、俺のほうが聞き返しそうになる。


「いや、えっと……」


「さっきから少し緊張してるように見えたので」


 そこで初めて、自分がずっと強張っていたことに気づく。


 未来を変えるだの、人生をやり直すだの、そんな現実離れした状況の真ん中にいるのだから無理もない。


「実は、俺もこういうふうに初対面の人に話しかけるの、慣れてなくて」


 半分本音で言うと、彼女は少しだけ笑った。


「じゃあ、お互い様ですね」


「お互い様?」


「私も、こういうとき何て返せばいいか迷うので」


 予想していなかった返しに、思わず肩の力が抜ける。


「じゃあ、今日はうまくいってるほうですね」


「そうかもしれません」


 その笑顔を見た瞬間、また胸の奥が少し熱くなった。


 たぶんこれは、劇的な出来事なんかじゃない。

 人生が一瞬でひっくり返るような、そんな派手な場面でもない。


 でも、俺にとっては違った。


 選ばなかった未来を、今、自分の手で少しだけ変えている。

 その手応えが、確かにあった。


 電車が次の駅へ滑り込む。

 扉が開き、また人が入れ替わる。


 彼女は路線図を見上げ、それから俺のほうへ視線を戻した。


「あの」


「はい?」


「さっき、本当に助かりました」


「いえ。そんな大したことは」


「でも、朝ってみんな急いでるから、意外と誰も声かけてくれないんです」


 その言葉が、不思議なくらい重く響いた。


 誰も声をかけてくれない。


 前の人生の俺も、その“誰も”の中にいた。


 気づいていたくせに、通り過ぎる側にいた。


 たぶん、ほんの少しの勇気があればよかっただけなのに。


「……そうかもしれませんね」


 それしか言えなかった。


 彼女は少し考えるようにしてから、小さく息をついた。


「だから、嬉しかったです」


 嬉しかった。


 たった一言。

 それだけで、何かが報われた気がした。


 もし人生がこういう小さな選択の積み重ねでできているなら、俺は今までどれだけの“嬉しかった”を取りこぼしてきたんだろう。


 ログに並んでいた失敗や回避の数字が、急に現実味を帯びる。


 電車が、彼女の降りる駅に着いた。


「あ、私ここです」


「面接、頑張ってください」


「ありがとうございます」


 彼女はドアの前に立ち、開いた扉の向こうへ一歩踏み出す。


 そのまま行ってしまうと思った。


 でも、彼女はふいに振り返った。


「あの」


「はい?」


「また会えたら、そのときはちゃんとお礼させてください」


 一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。


「……え?」


「では」


 それだけ言って、彼女は人の流れの中へ消えていく。


 閉まる扉の向こうで、白いブラウスの背中が見えなくなる。


 電車が動き出しても、俺はしばらくその場から動けなかった。


 また会えたら。


 そんな言葉、前の人生にはなかった。


 視界の端で、ログが静かに明滅する。


【選択ログ更新】

三年前・春・駅構内

結果:機会損失(大)

結果:未来接続(中)


関連分岐を再計算しています


「未来接続……」


 小さく呟く。


 変わった。

 確かに何かが変わった。


 でも同時に、胸の奥に別の感覚が生まれていた。


 嬉しさだけじゃない。

 少しの戸惑いと、説明できない不安。


 未来を変えるということは、元の未来を壊すということでもある。


 今さらそんな当たり前のことに気づいて、背筋が少し冷えた。


 車窓に映る自分の顔は、どこか知らない人間みたいに見えた。


 本当にこれでよかったのか。


 いや、少なくとも、選ばなかったことを後悔するよりはよかったはずだ。


 そう思いながらも、視界の端に浮かんだ次の表示に、俺は息を止めた。


【新規ログを確認】

本日の変動により、未発生だった接点が生成されました


関連人物:未設定

関連事象:未設定

副作用:解析中


「……副作用?」


 その文字だけが、やけに冷たく見えた。


 さっきまで確かにあった高揚感が、少しずつ現実的な不安に変わっていく。


 俺はただ、彼女に声をかけただけだ。


 それだけで未来が変わる。

 それだけで何かが生まれる。

 そして、その影響はまだわからない。


 電車が次の駅へ向かって揺れる。


 その規則的な振動の中で、俺の人生は、確かに元の線路から外れ始めていた。

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