第3話 声をかけるという選択
彼女が振り向いた。
その一瞬だけで、喉の奥が詰まりそうになった。
近くで見ると、思っていたよりも表情が柔らかい。
驚いたように少し目を見開いているが、露骨に警戒しているわけではなかった。
「……はい?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
前の人生では存在しなかった声だ。
話しかけなかったせいで、永遠に生まれなかったはずの返事。
たったそれだけのことなのに、自分でもおかしいくらい動揺していた。
「えっと……この電車、少し遅れてるみたいです」
言い終えたあとで、自分の声が思ったより落ち着いていたことに驚く。
彼女は手にしていたスマホを見て、それからほっと息をついた。
「そうだったんですね……よかった」
「案内が流れてたので。たぶん数分くらいだと思います」
「ありがとうございます。ちょっと焦ってて」
小さく頭を下げられる。
その仕草だけで、心臓がまた変な跳ね方をした。
やっぱり、困っていたのか。
あの日の俺は、それに気づいていながら動かなかった。
けれど今は、そのわずかな違いだけで、確かに会話が生まれている。
視界の端に、文字が浮かぶ。
【選択ログ更新】
対象人物:接触成功
反応:良好
分岐変動:発生
思わず息を呑んだ。
見間違いじゃない。
本当に、選択が記録されている。
「……どうかしました?」
彼女が不思議そうに俺を見る。
「あ、いえ……」
慌てて視線を戻す。
「ちゃんと伝わったんだなって、少し安心してました」
「伝わりましたよ」
彼女はくすっと笑った。
「むしろ、助かりました」
助かりました。
その一言が胸の奥に沈んでいく。
前の人生では、聞けなかった言葉。
聞けないまま終わった可能性。
それが今、ちゃんとここにある。
ホームに電車接近のアナウンスが響き、人の流れが少し前へ動いた。
彼女はまだどこか落ち着かない様子で改札の方を見ている。
「乗り換えですか?」
気づけば、次の言葉も口から出ていた。
「え?」
「あ、何度も時間、気にしてたので」
「あ……はい。新宿で乗り換えがあって」
「じゃあ、ちょっと焦りますね」
「そうなんです。今日、大事な予定があって」
言いながら、彼女は困ったように笑う。
少しだけ、表情が和らいでいた。
前の俺なら、このあたりで会話を切っていただろう。
余計なことを話して変に思われるのが怖くて、曖昧に笑って終わらせていたはずだ。
でも今は、少なくとも一歩目は踏み出せている。
それだけで、世界の見え方が違った。
「大事な予定、ですか」
「面接なんです」
その言葉に、俺は一瞬だけ息を止めた。
知らない情報だった。
前の人生に存在しなかった会話だから、当然だ。
つまり今この瞬間、俺は本当に“別の未来”の入口に立っている。
「それは、なおさら間に合ってほしいですね」
「はい……もう遅刻だけはしたくなくて」
「大丈夫です。数分の遅れなら、たぶんまだ余裕あります」
根拠はない。
でも、そう言ったほうがいい気がした。
彼女は少しだけ驚いた顔をして、それからふっと肩の力を抜いた。
「……ありがとうございます。なんか、落ち着きました」
その言葉を聞いて、ようやく自分の肩にも力が入っていたことに気づく。
落ち着いたのは、たぶん俺も同じだった。
電車がホームに滑り込み、風が吹き抜けた。
ドアが開き、待っていた人たちが一斉に動く。
人の流れの中で、彼女が一歩出遅れる。
わずかな迷い。
その小さなためらいが、妙に目についた。
前の人生なら、きっとここでも何もしなかった。
でも――
「先、どうぞ」
自然に身体が動いていた。
混み合う流れを少しだけ受けるように立ち位置をずらすと、彼女は目を丸くした。
「え……」
「このタイミング、入りにくいですよね」
一瞬のあと、彼女は小さく笑った。
「……そうなんです」
そのまま車内へ乗り込んでいく。
俺もその後を追うように入った。
電車の中は、朝の通勤時間らしい混み具合だった。
ぎゅうぎゅう詰めではないが、気を抜けば人と肩が触れる程度には近い。
彼女はドアの近くに立ち、俺も少し離れた位置で吊り革を掴む。
話しかけすぎるのは違う。
かといって、ここで完全に切れるのももったいない気がした。
奇妙な高揚感と緊張が入り混じって、胸の内側が落ち着かない。
ふと視界の端に、また文字が浮かんだ。
【重要選択結果】
未接触 → 接触完了
機会損失(大) → 再計算中
未来変動率:12%
「……再計算」
思わず小さく呟く。
未来が、計算されている。
自分の行動一つで、数字として動いている。
気味が悪いと思うべきなのに、その一方で、妙な実感があった。
本当に変えたんだ、という実感だ。
窓に映る自分の顔は、いつもより少しだけ硬かった。
そのとき、不意に彼女と目が合った。
「大丈夫ですか?」
思わず、俺のほうが聞き返しそうになる。
「いや、えっと……」
「さっきから少し緊張してるように見えたので」
そこで初めて、自分がずっと強張っていたことに気づく。
未来を変えるだの、人生をやり直すだの、そんな現実離れした状況の真ん中にいるのだから無理もない。
「実は、俺もこういうふうに初対面の人に話しかけるの、慣れてなくて」
半分本音で言うと、彼女は少しだけ笑った。
「じゃあ、お互い様ですね」
「お互い様?」
「私も、こういうとき何て返せばいいか迷うので」
予想していなかった返しに、思わず肩の力が抜ける。
「じゃあ、今日はうまくいってるほうですね」
「そうかもしれません」
その笑顔を見た瞬間、また胸の奥が少し熱くなった。
たぶんこれは、劇的な出来事なんかじゃない。
人生が一瞬でひっくり返るような、そんな派手な場面でもない。
でも、俺にとっては違った。
選ばなかった未来を、今、自分の手で少しだけ変えている。
その手応えが、確かにあった。
電車が次の駅へ滑り込む。
扉が開き、また人が入れ替わる。
彼女は路線図を見上げ、それから俺のほうへ視線を戻した。
「あの」
「はい?」
「さっき、本当に助かりました」
「いえ。そんな大したことは」
「でも、朝ってみんな急いでるから、意外と誰も声かけてくれないんです」
その言葉が、不思議なくらい重く響いた。
誰も声をかけてくれない。
前の人生の俺も、その“誰も”の中にいた。
気づいていたくせに、通り過ぎる側にいた。
たぶん、ほんの少しの勇気があればよかっただけなのに。
「……そうかもしれませんね」
それしか言えなかった。
彼女は少し考えるようにしてから、小さく息をついた。
「だから、嬉しかったです」
嬉しかった。
たった一言。
それだけで、何かが報われた気がした。
もし人生がこういう小さな選択の積み重ねでできているなら、俺は今までどれだけの“嬉しかった”を取りこぼしてきたんだろう。
ログに並んでいた失敗や回避の数字が、急に現実味を帯びる。
電車が、彼女の降りる駅に着いた。
「あ、私ここです」
「面接、頑張ってください」
「ありがとうございます」
彼女はドアの前に立ち、開いた扉の向こうへ一歩踏み出す。
そのまま行ってしまうと思った。
でも、彼女はふいに振り返った。
「あの」
「はい?」
「また会えたら、そのときはちゃんとお礼させてください」
一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。
「……え?」
「では」
それだけ言って、彼女は人の流れの中へ消えていく。
閉まる扉の向こうで、白いブラウスの背中が見えなくなる。
電車が動き出しても、俺はしばらくその場から動けなかった。
また会えたら。
そんな言葉、前の人生にはなかった。
視界の端で、ログが静かに明滅する。
【選択ログ更新】
三年前・春・駅構内
結果:機会損失(大)
↓
結果:未来接続(中)
関連分岐を再計算しています
「未来接続……」
小さく呟く。
変わった。
確かに何かが変わった。
でも同時に、胸の奥に別の感覚が生まれていた。
嬉しさだけじゃない。
少しの戸惑いと、説明できない不安。
未来を変えるということは、元の未来を壊すということでもある。
今さらそんな当たり前のことに気づいて、背筋が少し冷えた。
車窓に映る自分の顔は、どこか知らない人間みたいに見えた。
本当にこれでよかったのか。
いや、少なくとも、選ばなかったことを後悔するよりはよかったはずだ。
そう思いながらも、視界の端に浮かんだ次の表示に、俺は息を止めた。
【新規ログを確認】
本日の変動により、未発生だった接点が生成されました
関連人物:未設定
関連事象:未設定
副作用:解析中
「……副作用?」
その文字だけが、やけに冷たく見えた。
さっきまで確かにあった高揚感が、少しずつ現実的な不安に変わっていく。
俺はただ、彼女に声をかけただけだ。
それだけで未来が変わる。
それだけで何かが生まれる。
そして、その影響はまだわからない。
電車が次の駅へ向かって揺れる。
その規則的な振動の中で、俺の人生は、確かに元の線路から外れ始めていた。




