第12話 うまくいきすぎる日々
うまくいくときほど、人は足元を見なくなる。
そんな言葉を、前の俺はどこか他人事のように聞いていた。
うまくいくことなんて、そうそうない。
少なくとも自分の人生では、いつだって何かが少し足りなかった。
仕事は大崩れしない代わりに、手応えも薄い。
人間関係は悪くない代わりに、深くもならない。
恋愛に至っては、始まる前に終わることのほうが多かった。
だから、今みたいな数日間には、まだ慣れない。
朝、目を覚ました瞬間から少しだけ気分が軽い。
顔を洗って、鏡を見ても、昨日までよりわずかにましな顔をしている気がする。
会社へ向かう支度が、ただの義務じゃなく、ちゃんと一日の始まりとして感じられる。
それだけのことなのに、妙に新鮮だった。
部屋を出る前、いつものように視界の端へ意識を向ける。
【選択ログ】
失敗:127
回避:3
保留:12
成功記録:10
数字は変わっていない。
だが、それがむしろ落ち着いた。
昨日の再会も、提案同行も、ちゃんと現実として繋がっている。
まだ崩れていない。
少なくとも今朝の時点では、何かが急に壊れた気配はない。
「……確認するのが癖になってるな」
小さく呟いて、ネクタイを締め直す。
ログに頼りすぎるのは危ない。
そんなことはわかっている。
それでも、前に進めている感覚を数字で見せられると、どうしても安心してしまう。
駅へ向かう道も、今日は少しだけ明るく見えた。
同じコンビニ。
同じ信号。
同じように急ぎ足の人たち。
それなのに、まるで自分だけ違う景色の中を歩いているみたいだった。
ホームに立つ。
彼女の姿を探すのは、もう半ば無意識だった。
見つからない。
でもそれで必要以上に落ち着かなくなることもなかった。
また会える。
少なくとも、もう“二度と接点がない”未来ではない。
その事実だけで十分だった。
会社へ着くと、フロアの空気は昨日までより少し柔らかかった。
いや、正確には、自分がそう感じているだけかもしれない。
「おはようございます」
自然に声が出る。
前なら会釈で済ませていた相手にも、今日は普通に言葉が出た。
そのたびに、ごく小さな手応えがある。
「おはよう、村上くん」
別部署の女性社員が軽く笑って返してくれる。
それだけのやり取りが、不思議なくらい引っかからずに通り過ぎていく。
席につくと、高橋がすぐに振り返った。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日はだいぶ機嫌いいですね」
「そう見えるか?」
「見えます。最近の中でも一番、顔が穏やかです」
言われて少しだけ戸惑う。
穏やか。
そんな評価をもらうのは、たぶんかなり珍しい。
「昨日、提案終わったからじゃないですか?」
高橋は軽く言う。
たしかにそれもある。
提案同行という山を一つ越えた。
仕事面の緊張が、今朝は少しだけ薄い。
でも、それだけじゃない気がした。
奈緒と会えたこと。
ちゃんと“また”と言えたこと。
そういう仕事とは別の場所で心が軽くなっているのも大きい。
「まあ、一区切りついたのはあるかもな」
「ですよね。昨日の午後、課長も機嫌よかったですよ」
「またその情報か」
「村上さん関連の空気は追ってますから」
高橋はそう言って笑う。
前なら少し面倒に感じていたかもしれない、こういう軽口も、今日は悪くなかった。
午前中の仕事は驚くほど滑らかに進んだ。
メールの返信。
軽い修正依頼。
打ち合わせ後のフォロー。
どれも大仕事ではない。
だが、その一つひとつが今日は妙に噛み合う。
話しかけられたときに変に構えない。
頼まれたことの優先順位が自然に見える。
少し先の段取りまで頭が回る。
前も同じ仕事をしていたはずなのに、今のほうがずっと楽だった。
たぶん、気持ちが散っていないからだ。
失敗を恐れて縮こまると、目の前のことしか見えなくなる。
だが少しだけ自分を信じられると、人はそのぶん周りも見えるようになる。
その単純な事実を、今さらのように実感していた。
視界の端で、ログが淡く光る。
【短期分岐変動】
対人反応:安定
業務効率:上昇
精神状態:軽快
軽快。
その表現が、今日は妙にしっくりきた。
ずっと好調が続く保証なんてない。
それでも、少なくとも今は少し軽い。
その事実を、前より素直に受け取れるようになっていた。
昼前、課長に呼ばれる。
何か問題があったのかと一瞬身構えたが、違った。
「昨日の提案、先方の反応は悪くなかった」
その一言に、胸の奥が静かに熱を持つ。
「ありがとうございます」
「お前の説明パートも、伝わってたみたいだ」
短い言葉だった。
でも、十分だった。
前の俺なら、“でもたまたまかもしれない”とすぐに打ち消していたと思う。
今もそういう癖が完全に消えたわけではない。
それでも、今日は少しだけ違った。
ちゃんと受け取ろう、と思えた。
「引き続き、野上の件もある。今のうちに流れ作っとけ」
「はい」
それだけの会話なのに、席へ戻る足取りが少し軽い。
評価される。
任される。
次に繋がる。
そんな流れが、自分の人生にもちゃんと来るのだと、ようやく実感が追いつき始めていた。
昼休み、食堂で一人トレーを前にしていても、不思議と沈んだ気持ちにはならない。
窓の外の光が明るい。
周囲の話し声も、今日は妙に遠く感じない。
スマホを見ると、奈緒から短いメッセージが入っていた。
『昨日はありがとうございました。
ちゃんと話せて、すごく安心しました』
その文面を見た瞬間、口元が少し緩む。
安心した。
その言葉が、昨日の自分の時間をまるごと肯定してくれるようだった。
ただ会っただけじゃない。
あの時間は、ちゃんと相手にとっても意味があった。
俺は少し考えてから、短く返す。
『こちらこそ、ありがとうございました。
自分も、昨日はかなり救われました』
送信してから、少し照れくさくなる。
こういう言葉を、前の俺はたぶん送れなかった。
重いと思われるかもしれない。
変に受け取られるかもしれない。
そんなことばかり気にして、結局無難な文面で逃げていたはずだ。
でも今は、それよりも“ちゃんと伝える”ほうを選びたかった。
視界の端でログが更新される。
【関連分岐更新】
対象人物:相互安心感の形成
関係状態:安定上昇
相互安心感。
妙に機械的な言い方なのに、内容は少しだけ温かかった。
午後、野上主任の案件の下準備に入る。
提案資料の初期構成。
先方の課題整理。
営業と企画の接点の確認。
前なら、こういう作業はどこか“与えられた仕事”としてこなしていただけだと思う。
だが今日は違う。
ここをこうしたほうが伝わりやすい。
この順番だと不安が先に立つ。
この表現は強すぎる。
小さな判断が、前より自然に出てくる。
「村上、そこ気づいたか」
野上主任が資料を覗き込みながら言う。
「はい。先方、最初に“何を失うか”を気にしそうだったので」
「そうだな。導入のメリットより、今のやり方を変える不安が先に来るタイプだ」
会話が噛み合う。
その感覚が、やっぱり気持ちいい。
「ここ、お前が叩き台まとめとけ」
「わかりました」
任されることにも、少しずつ慣れ始めていた。
いや、慣れるというより、逃げなくなってきたのかもしれない。
やればできるとはまだ思わない。
でも、やらなければ何も変わらないことだけは、もう知っている。
夕方になる頃には、かなりの作業が片付いていた。
高橋が隣で感心したように言う。
「今日の村上さん、だいぶ無双してません?」
「無双はしてない」
「いやしてますよ。朝から全部噛み合ってる感じです」
その言い方に、少し笑う。
「たまたまだ」
「そう言う人ほど、たまたまじゃないんですよ」
たまたまじゃない。
その言葉は嬉しい。
でも同時に、どこか落ち着かなくもある。
うまくいきすぎている。
今日は朝からずっとそうだ。
仕事も、人との会話も、奈緒とのやり取りも。
全部が少しずつ、自分にとって都合よく回り始めている。
視界の端に、ログがふっと浮かぶ。
【継続成功傾向】
短期間における正方向分岐が連続しています
注意:連続成功時は判断の粗さが増加しやすくなります
「……判断の粗さ」
小さく呟く。
連続成功。
その言葉に、自分が少し浮かれていたことを認めざるを得なかった。
たしかに今日はうまくいっている。
でも、うまくいっているからこそ雑になる部分も出てくるのかもしれない。
帰り支度をしていると、別部署の女性社員が声をかけてきた。
「村上さん、最近ちょっと雰囲気変わりましたよね」
思わず、手が止まる。
「そうですか?」
「前より話しやすいです。なんていうか、柔らかくなった感じで」
それだけ言って、彼女は笑って去っていく。
話しやすい。
柔らかい。
そういうふうに自分が見られる日が来るなんて、少し前の俺なら想像もしなかった。
会社を出る頃には、空はもう薄暗くなっていた。
駅までの道を歩きながら、今日一日を順番に思い返す。
課長からの反応。
野上主任とのやり取り。
高橋の軽口。
奈緒からのメッセージ。
悪くない。
どころか、かなりいい。
こんな日が続くなら、本当に人生が変わるかもしれないとすら思える。
その瞬間、ふと立ち止まりたくなるような不安が胸をよぎる。
変わるかもしれない。
その期待が大きくなるほど、崩れたときの反動も大きい。
前よりよくなった日常に慣れてしまったら、もう前の場所へは戻れない。
視界の端で、ログが赤く明滅した。
【注意】
現在の安定は、複数の選択成功による一時的均衡です
未処理の影響は残存しています
備考:
うまくいきすぎる日々は、見落としを生みやすい状態です
胸の奥が、少しだけ冷える。
未処理の影響。
見落とし。
前に出ていた他者影響ログのことが頭をよぎる。
今はまだ、はっきりした損失は見えていない。
でも、見えていないだけなのかもしれない。
部屋へ戻り、ベッドに腰を下ろしてネクタイを外す。
今日もいい日だった。
たぶん、間違いなく。
なのに、その“いい日”をそのまま喜びきれない自分がいる。
うまくいきすぎる。
その言葉自体が、どこか警告みたいに聞こえる。
視界の端に、最後のログが浮かんだ。
【本日の総合記録】
業務評価:上昇
対人評価:上昇
関連人物接点:安定
成功記録:11
注意:
連続する成功は、過去の失敗修正欲求を増幅させる場合があります
「……失敗修正欲求」
その言葉に、息が止まりそうになる。
たしかに思っていた。
ここまで変えられるなら、もっと変えられるんじゃないかと。
もっと失敗を減らせるんじゃないかと。
もっと、今よりいい人生にできるんじゃないかと。
それは希望であり、たぶん危うさでもある。
うまくいきすぎる日々の中で、俺は少しずつ次の欲望を覚え始めていた。
消したい失敗は、まだたくさんある。




