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「人生、やり直しできます。ただし“選択のログ”は消えません」  作者: kaiくん
第1部 やり直しの快感編

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第10話 少しだけ理想の人生

理想の人生なんて、大げさなものじゃない。


 朝、目が覚めたときに少しだけ気分が軽いとか。

 会社へ向かう足取りが昨日より重くないとか。

 自分の言葉が誰かに届く感覚があるとか。


 たぶん本当は、そのくらいで十分なのだ。


 そんなことを考えながら、俺は朝の支度をしていた。


 洗面台の鏡に映る顔は、相変わらず劇的に何かが変わったわけじゃない。

 寝癖を直して、ネクタイを締めて、スーツの襟を整える。

 三日前までと同じような動作なのに、胸の奥に沈んでいるものだけが少し違った。


 前より、息がしやすい。


 その感覚をうまく言葉にできずにいたが、今朝は妙にはっきりとわかった。

 部屋を出る直前、いつものように視界の端に意識を向ける。


【選択ログ】

失敗:127

回避:3

保留:12

成功記録:9


 数字は昨夜と変わっていない。


 変わっていないのに、不思議とそれを確認するだけで気持ちが少し整う。

 まだ昨日までの流れは続いている。

 ちゃんと前へ進んでいる。


 そう思えるからだ。


「……依存してるな」


 小さく呟いて、自分で苦笑する。


 こんなもの、本来なら安心材料にしていいはずがない。

 なのに今の俺は、この表示があることで何とか立っていられる部分がある。


 それでも、三日前の自分よりはましだと思えた。


 駅へ向かう道すがら、朝の空気は少しだけ柔らかかった。

 季節が動き始めているのか、それとも自分の感じ方が変わったのか。


 ホームに立っても、今日はやけに周囲が見える。


 改札へ急ぐ学生。

 眠そうにあくびを噛み殺す会社員。

 売店で缶コーヒーを買う人。

 何も特別じゃない朝の光景。


 でも、その「何も特別じゃない」が少しだけ愛おしく思えた。


 彼女の姿は、今日も見えない。


 それを確認して、胸の奥に小さな空白が生まれる。

 けれど前みたいに落ち着かないわけではなかった。


 今は、目の前にやるべきことがある。


 提案同行まで、もうあまり日がない。

 今日はその最終確認に近い一日になるはずだ。


 会社へ着くと、フロアの空気がいつもより少しだけ忙しない。

 月末が近いせいか、皆どこか慌ただしい。


「おはようございます」


 自席へ向かう途中、何人かと自然に言葉を交わす。

 前なら会釈だけで終わっていたような場面でも、今日はちゃんと声が出た。


 その小さな違いを、自分でも意識していた。


「村上さん、おはようございます」


 高橋が手を上げる。


「おはよう」


「今日、だいぶ普通に見えますね」


「どういう意味だ」


「最近ずっと、どこか気合い入りすぎてたので」


 言われてみれば、そうかもしれない。


 ここ数日はずっと、何かを変えなきゃいけないという焦りと、変えられるかもしれないという高揚が同時にあった。

 だから少し、肩に力が入りすぎていたのだろう。


「今日は少し落ち着いてる」


「いいじゃないですか。そのくらいのほうが話しかけやすいです」


 高橋はそう言って笑った。


 話しかけやすい。

 その一言が、妙に嬉しかった。


 評価されるとか頼られるとか、そういうはっきりしたものじゃなくてもいい。

 ただ、前より人と自然に繋がれている感じがある。


 それだけで十分、今の俺には大きい。


 午前の打ち合わせでは、提案当日の流れを最終確認した。


 資料は整っている。

 課長の説明も、先輩社員の補足も、前回よりずっと頭に入ってくる。


 そして何より、以前より自分が“ここにいていい”と思える。


 それが何より大きかった。


「村上、このパートもう一回言ってみろ」


 課長に促されて、俺は立ったまま説明を始める。


 導入直後の運用フロー。

 先方の負担感を減らす見せ方。

 不安材料に対して、先に答えを置く順番。


 前回までより短く、少しだけ整理して話せている感覚があった。


 説明を終えると、課長が資料を閉じる。


「うん。これならいけるな」


 その一言に、肩の奥からゆっくり力が抜ける。


 いける。


 その言葉を、今の俺はようやく素直に受け取れるようになってきた。


 視界の端で、ログが淡く光る。


【選択ログ更新】

対象:提案説明最終確認

結果:安定通過

成功記録:10


 10。


 数字が一つ増えた。


 丸い数字だ、と思った。

 それだけのことなのに、胸の奥で静かに何かが満ちていく。


 10回。

 少なくとも今の俺は、10回、自分なりに成功を積み上げてきた。


 もちろん大きな成功ばかりじゃない。

 誰かにとっては取るに足らない、些細なものも含まれているはずだ。


 それでも、今までの俺にはその“些細な成功”を数える習慣すらなかった。


 だからこそ、この10は大きい。


 会議室を出て、廊下の窓際で一瞬だけ立ち止まる。


 ビルの隙間に見える空は青くて、春らしい光が街の輪郭を少し柔らかくしていた。


 こんなふうに昼の光を落ち着いて見る余裕が、前の人生の同じ時期にあっただろうか。


 たぶん、なかった。


 いつも何かに追われていた。

 追われているわりに、本気では走っていなかった。


 不思議なものだと思う。

 少しだけ前に進み始めた今のほうが、むしろ世界をちゃんと見られている気がする。


 昼休み、食堂の窓際の席で一人、定食の味噌汁を飲みながら、そんなことを考えていた。


 温かい。

 それだけのことが、少し沁みる。


 理想の人生なんて、もっと派手なものを想像していた気がする。

 仕事で成功して、収入が上がって、周囲から認められて、恋愛もうまくいって。


 でも今、胸にある満足感はもっと地味だった。


 ちゃんと朝起きられる。

 ちゃんと人と話せる。

 ちゃんと仕事に向き合える。

 少しだけでも、自分を信じられる。


 そのくらいのことが、今の俺にはひどく尊かった。


 スマホが震える。


 画面を見ると、彼女から短いメッセージが届いていた。


 


『お仕事落ち着いたらで大丈夫です。

 無理しないでくださいね』


 


 短い文面なのに、なぜか笑ってしまう。


 無理しないでください。


 今の俺には、その言葉が妙にやさしく響いた。


 まだ再会したわけじゃない。

 大きく関係が進んだわけでもない。

 でも、ちゃんと相手の生活の中に自分との接点が残っている。


 それだけで十分、嬉しかった。


 視界の端で、ログが更新される。


【関連分岐更新】

対象人物:接点維持

状態:安定

備考:心理負荷の緩和に寄与


「心理負荷の緩和って」


 少しだけ呆れて、小さく息を吐く。


 たしかにそうなのかもしれない。

 仕事の緊張感が続く中で、こういう別軸のやり取りが少し支えになっている。


 午後の業務は、驚くほど滑らかに進んだ。


 細かな修正依頼も、確認作業も、今日は妙に噛み合う。

 誰かに話しかけられても、変に身構えない。

 自分のやるべきことが見えていると、人はこんなにも楽なのかと思う。


「村上、ちょっといいか」


 課長に呼ばれて顔を上げる。


「はい」


「明日の提案、予定通りお前にも振る。緊張してるか?」


 問いかけは軽いが、内容は重い。


 明日。


 ついに本番だ。


「……してます」


 正直に答えると、課長は短く笑った。


「そりゃそうだ。してなかったら逆に困る」


 その言い方に、少し肩の力が抜ける。


「でも、お前この数日でだいぶ変わったよ」


 胸の奥が、静かに鳴る。


「変わった、ですか」


「ああ。前より、自分で考えて話してる顔になった」


 それは、誰かに褒められるより少し深いところへ届く言葉だった。


 資料が良いとか、意見が通ったとか、そういう結果よりも。

 自分のあり方そのものが少し変わったと言われるほうが、今の俺には重かった。


「……ありがとうございます」


 それしか言えなかった。


 課長が去ったあと、しばらく画面を見つめたまま動けない。


 少しだけ理想の人生。


 それは、もしかしたらこういうことなのかもしれない。


 劇的に何かを手に入れることじゃなくて、

 昨日までの自分よりほんの少しだけましな自分でいられること。


 その積み重ねが、いつの間にか“理想に近い日常”になっていく。


 定時を過ぎ、帰り支度をしながらも、気持ちは不思議と落ち着いていた。


 もちろん明日は怖い。

 本番で失敗する可能性だってある。


 でも今の俺には、それでもいいと思える部分が少しだけあった。


 怖くても、やる。

 不安でも、立つ。

 それ自体がもう、前の人生とは違う。


 帰り道、夕方の風が頬に当たる。


 街の光が少しずつ増えていく中で、俺はいつもよりゆっくり歩いていた。


 悪くない、と思った。


 この数日間。

 この変わり始めた未来。

 この少しだけ前向きな自分。


 完璧じゃない。

 たぶんこれからも失敗はする。

 それでも今は、人生が少しだけ自分の手に戻ってきたような気がしていた。


 そのときだった。


 視界の端で、ログがふいに赤く明滅した。


 今までの淡い更新とは違う、明らかな警告色だった。


【警告】

成功記録の上昇により、分岐誤差が拡大しています

現在の精神安定は、一時的な可能性があります


追加警告:

理想化された未来は、損失の予兆を見落としやすくします


 足が止まる。


 夕方の雑踏の中で、俺だけが一歩遅れたような感覚になった。


「……損失?」


 小さく呟く。


 さっきまで胸にあった穏やかさが、ゆっくりと冷えていく。


 理想化された未来。

 損失の予兆。

 見落とし。


 まるで、浮かれている今の自分に水を浴びせるみたいな言葉だった。


 でも否定はできない。


 前よりうまくいっている。

 少しだけ理想に近づいている。

 そう感じ始めたからこそ、見えなくなるものがあるのかもしれない。


 夜、部屋へ戻っても、その警告は頭から離れなかった。


 ベッドに腰を下ろし、ネクタイを緩める。


 今日は良い日だったはずだ。

 成功記録は10になった。

 課長にも変化を認められた。

 彼女からのやさしい言葉もあった。


 なのに、胸の奥には小さなざわつきが残っている。


 うまくいっているときほど、足元が見えなくなる。

 それはたぶん、今までの人生でも何度かあったことだ。


 ただ、その“予兆”を、俺はいつも気づかないまま通り過ぎてきた。


 視界の端に、最後のログが浮かぶ。


【本日の総合記録】

成功記録:10

精神状態:安定

自己評価:上昇

周囲評価:上昇傾向


注意:

次回、他者影響ログが更新される可能性があります


「……他者影響ログ」


 その言葉に、胸の奥が静かに冷えた。


 自分の成功の先で、何が動いているのか。

 何を見落としているのか。


 少しだけ理想の人生。

 その輪郭が見え始めた矢先に、世界はまた別の顔を見せようとしていた。

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