第一話 終わる感じのする人
静かな話です。
大きな事件も、派手な展開もありません。
ただ、誰かがいなくなるかもしれない、
そんな予感の中で過ごした時間を書きました。
少しでも何かが残れば嬉しいです。
四月の教室は、いつも少しだけ嘘っぽい。
窓を開ければ春の匂いがして、
みんなが少しだけ優しくなって、
まだ何も壊れていないふりができる。
私は一番後ろの席で、黒板をぼんやり眺めていた。
チョークの粉が光に舞っている。
そのとき、隣の席の椅子が引かれた。
「よろしく」
短い声。
低くも高くもない、静かな声。
顔を上げると、見知らぬ男子が座っていた。
転校生だと気づくのに、少し時間がかかった。
「……よろしく」
遅れて返すと、彼は小さく頷いた。
笑いもしないし、無愛想というわけでもない。
ただ、必要なことだけをする人、という感じだった。
その日の帰り道、
私は理由も分からないまま何度も振り返った。
彼がついてきているわけでもないのに。
次の日から、教室の景色が変わった。
隣に人がいるだけで、こんなにも違うのかと思う。
消しゴムのカスを払う音。
ノートをめくる指。
シャーペンの芯が折れる小さな音。
全部、やけに近い。
彼は授業中ほとんど話さなかった。
休み時間も騒がない。
本を読むか、窓の外を見ている。
でも、不思議と浮いてはいなかった。
誰も無理に近づかず、遠ざけもしない。
ある日の放課後。
忘れ物を取りに戻ると、彼が窓際に立っていた。
夕焼けが教室を赤く染めている。
黒板も机も、全部が別の場所みたいだった。
「帰らないの?」
声をかけると、彼は少し驚いた顔をした。
「……もう帰る」
窓から目を離さないまま答える。
「夕焼け、好きなの?」
何気なく聞いたつもりだった。
彼は少しだけ黙ってから言った。
「終わる感じがするから」
意味が分からなかった。
「一日が?」
「……全部」
冗談には聞こえなかった。
それ以上は聞けなかった。
聞いたら取り返しがつかない気がした。
それから、少しずつ話すようになった。
特別なきっかけはなかったと思う。
消しゴムを貸したとか、
プリントを回したとか、
そんな小さなことの積み重ね。
彼は自分のことをほとんど話さなかった。
でも私の話は、ちゃんと聞いてくれた。
うなずくだけ。
ときどき短く返事をするだけ。
それでも、不思議と安心した。
気づけば私は、放課後を待つようになっていた。
梅雨に入る頃、
私たちはほとんど毎日一緒に帰るようになった。
傘と傘の距離が近い。
肩が触れそうで触れない。
「濡れるよ」
そう言って、彼は自分の傘を少し寄せる。
私は「うん」とだけ答える。
雨の音が、全部を隠してくれた。
信号待ちのとき、彼が言った。
「紗良、転校したことある?」
「ないけど……どうして?」
「別に」
赤信号を見つめたまま続ける。
「全部リセットされる感じ、するんだよ」
「いいことじゃないの?」
「……どうだろ」
青になって歩き出す。
「大事なものまで消えるから」
その言葉だけが重く残った。
夏休み前の日。
教室は浮かれていた。
ふと横顔を見て思う。
——この時間がずっと続けばいいのに。
理由は分からない。
好き、というはっきりしたものでもない。
ただ、失いたくないと思った。
そのとき、彼が突然こちらを見た。
「どうしたの」
「……別に」
慌てて目を逸らすと、
彼は少しだけ笑った。
初めて見る笑顔だった。
終業式の日。
「夏休み、会える?」
胸が少し跳ねた。
「……たぶん」
「じゃあ、連絡する」
でも——
連絡は来なかった。
二学期の初日。
教室に入った瞬間、違和感に気づく。
隣の席が空いていた。
「転校したよ。夏休み中に」
頭が真っ白になった。
放課後。
私は彼の席に座った。
机の中は空。
最初から誰もいなかったみたいだ。
でも、引き出しの奥に紙が一枚あった。
震える手で開く。
ごめん。
紗良は優しいから、忘れられるよ
涙は出なかった。
ただ息が苦しかった。
窓の外は、夏の終わりの夕焼けだった。
そのとき気づいた。
あの人は最初から、
いなくなる前提で私に近づいていたんだ。
よろしければ、評価や感想をいただけるととても励みになります。




