8話 いない
編集部の朝は、いつもと同じだった。
コピー機が鳴り、
電話が鳴り、
誰かが笑っている。
デスクの上には、
新しい原稿の山。
誰も、
何かが欠けていることに
気づいていなかった。
「……あれ?」
昼前、
若い編集者が首を傾げる。
「この企画、
前は誰が見てましたっけ」
周囲が、
一瞬だけ考える。
「……誰だっけ」
「デスク?」
「いや、違う」
結論は出ない。
でも、
仕事は進む。
会議は始まり、
原稿はめくられ、
判断は下される。
誰も困っていない。
それが、
少しだけ、
奇妙だった。
⸻
相馬は、
自宅の机に向かっていた。
連載は、
静かに終わった。
最終話は、
ほとんど話題にならなかった。
炎上も、
称賛も、
もうない。
——想像していたより、
——ずっと、
——普通の終わりだった。
机の引き出しに、
古いメモがある。
〈嫌われてもいい〉
いつ書いたか、
思い出せない。
ペンを持つ。
線を引く。
この線は、
掲載されない。
評価も、
数字も、
もう関係ない。
それでも、
引く。
——描く理由が、
——誰にも奪われなくなったから。
相馬は、
編集部のことを考える。
あの男のことを、
考えようとして、
やめる。
もう、
確かめようがない。
⸻
編集部。
新人が、
古い議事録を整理している。
一枚の紙が、
指に引っかかる。
連載終了報告。
責任者欄。
そこには、
名前が一つだけ、
残っていた。
湊。
新人は、
眉をひそめる。
「この人、
今どこにいるんですか?」
先輩編集者は、
一瞬だけ、
間を置く。
「……さあな」
本当に、
知らなかった。
異動の記録も、
退職の記録も、
ない。
まるで、
最初から
いなかったみたいに。
「変ですね」
新人が言う。
「編集者なのに、
何も残ってない」
先輩は、
少しだけ笑った。
「……だからだろ」
新人は、
意味が分からない。
でも、
それ以上、
聞かなかった。
⸻
夕方。
廊下を、
一人の男が歩いている。
背は高くない。
地味なスーツ。
目立たない歩き方。
名札は、
つけていない。
誰も、
声をかけない。
男は、
会議室の前で、
一瞬だけ立ち止まる。
中では、
新人編集者が
原稿をめくっている。
真剣な顔。
男は、
その様子を見て、
何も言わずに
踵を返す。
歩き出す。
外に出る。
夕焼けが、
ビルの隙間に沈んでいく。
男は、
立ち止まらない。
振り返らない。
ポケットの中で、
スマートフォンが震える。
通知。
〈連載、終わりました〉
誰からかは、
表示されていない。
男は、
画面を見て、
一度だけ、
親指を動かす。
〈了解〉
送信。
それだけ。
⸻
翌週。
新しい連載が、
始まる。
編集部は、
また忙しくなる。
誰も、
欠けた椅子を
数えない。
誰も、
名前を呼ばない。
ただ、
判断が続く。
誰かの人生に、
触れてしまう判断が。
⸻
最後のページ。
白い余白。
そこに、
小さな文字がある。
〈編集者は、
作品の後ろに立つ〉
誰の言葉かは、
書いていない。
書く必要も、
ない。
なぜなら、
その人はもう、
いないからだ。




