6話 名前を呼ばない声
そのアカウントは、
最初はただの一つだった。
〈この漫画、
正直しんどい〉
いいねは、三。
リポストは、ゼロ。
誰も気に留めない、
よくある感想。
——だったはずなのに。
数日後。
相馬は、スマートフォンを伏せた。
机の上に、
描きかけのネーム。
線が、止まっている。
〈作者の自己満〉
〈読者を置いていってる〉
〈編集、仕事しろ〉
言葉は、
どれも見覚えがあった。
だが、
一つだけ、
目が止まる。
〈これ、
昔切られた作家の恨み漫画でしょ〉
相馬の指が、
わずかに震えた。
——違う。
違うはずなのに、
否定する言葉が浮かばない。
⸻
画面の向こう側。
高校生の女子が、
スマートフォンを見つめている。
アカウント名は、
適当な文字列。
アイコンは、
どこかで拾った画像。
彼女は、
特別な理由でこの漫画を
読んでいるわけじゃない。
話題になっていたから。
炎上しているから。
ただ、それだけ。
「……意味分かんな」
小さく呟いて、
指を動かす。
〈主人公、
不快すぎ〉
送信。
それで終わりだった。
だが、
通知が鳴る。
いいね。
リポスト。
返信。
〈分かる〉
〈作者、何考えてんの〉
〈共感できない〉
彼女は、
少しだけ、
胸が軽くなる。
——誰かと、
繋がった気がした。
⸻
別の場所。
三十代の男が、
帰りの電車で
スマートフォンを見ている。
仕事は、うまくいっていない。
家庭も、ぎくしゃくしている。
TLに流れてきた、
切り抜き動画。
〈問題作〉
という文字。
「ふざけんなよ」
男は、
動画を止める。
主人公が、
自分勝手な選択をする場面。
——俺は、
こんなこと、できなかった。
〈こんなの、
リアルじゃない〉
投稿。
少し、
スッとする。
⸻
大学生。
主婦。
元漫画家志望。
それぞれが、
それぞれの理由で、
同じ作品を叩く。
誰も、
作者の顔を知らない。
名前も、
どうでもいい。
重要なのは、
「言った」という事実だけだ。
⸻
相馬は、
編集部の会議室にいた。
担当編集者が、
数字を映す。
「炎上は、
完全に拡散フェーズに入ってます」
相馬は、
黙って頷いた。
「止めますか?」
その言葉が、
静かに落ちる。
止める。
休載。
方向転換。
いくらでも、
選択肢はある。
相馬は、
しばらく考えてから、
首を振った。
「……いいえ」
編集者は、
何も言わなかった。
それは、
肯定でも、
突き放しでもない。
ただの、
判断の放棄。
あるいは、
尊重。
⸻
夜。
相馬は、
再びスマートフォンを開く。
自分の名前は、
どこにもない。
呼ばれているのに、
呼ばれていない。
〈こんなの、
誰が描いてんの〉
——俺だ。
声に出さず、
そう答える。
だが、
誰にも届かない。
ふと、
ある投稿が目に入る。
〈嫌いだけど、
読むのやめられない〉
その一文だけ。
いいねも、
ほとんどない。
誰にも、
拾われていない。
相馬は、
その画面を、
長く見つめた。
——これでいい。
理解されなくていい。
守られなくていい。
ただ、
誰かの中に
引っかかれば。
相馬は、
ネームに向かう。
線を引く。
その線は、
誰にも褒められないかもしれない。
それでも、
消えない。
画面の向こうで、
また誰かが
何かを書く。
名前を呼ばない声が、
増えていく。
それら全部が、
この漫画の
“読者”だ。
相馬は、
ペンを止めない。
——炎上は、
俺の外側で起きている。
——でも、
描く理由は、
俺の中にしかない。




