4話 同じ廊下に立つ
出版社の廊下は、無駄に長い。
白い壁。
光沢のある床。
誰が通っても、足音だけが残る。
相馬は、その廊下を歩いていた。
連載作家用の入館証が、首元で揺れている。
何度も見たはずなのに、
それが自分のものだという実感は、まだ薄い。
「相馬さん、次の打ち合わせですが――」
声をかけられ、相馬は足を止める。
若い編集者だった。
自分より少し年下だろう。
「すみません、少しだけ時間をください」
編集者は頷き、
少し離れた場所で待つ。
相馬は、深く息を吐いた。
この廊下を歩くたび、
胸の奥がざわつく。
——ここで、切られた。
そう思ってしまう。
もう何年も前のことだ。
今さら引きずる必要なんて、ない。
そう言い聞かせて、
顔を上げた瞬間だった。
向こうから、
一人の男が歩いてくる。
背は高くない。
スーツも特別じゃない。
編集者だと分かるのは、
歩き方だけだ。
相馬は、足を止めた。
男も、止まった。
視線が、ぶつかる。
——あ。
名前が、出てこない。
それでも分かる。
あの時の編集者だ。
原稿を、
淡々とめくっていた男。
「今は、出さない方がいい」
そう言った声が、
遅れて耳の奥で響く。
男は、相馬を見たまま、
何も言わなかった。
謝らない。
気まずそうにも、しない。
ただ、
“判断した側”の顔をしている。
相馬の胸の奥で、
何かが熱くなった。
——言え。
言えよ。
「あなたのせいで、人生が変わった」
「切られたことを、ずっと忘れられなかった」
「今は連載している」
言葉はいくらでもあった。
だが、
どれも違う気がした。
相馬が欲しかったのは、
勝利の報告じゃない。
謝罪でもない。
——説明だ。
なぜ、切ったのか。
なぜ、自分だったのか。
だが、男は何も言わない。
そして、
相馬も、何も言えなかった。
廊下の時計が、
秒を刻む。
カチ、
カチ、
という音だけが、
二人の間を満たす。
やがて、男が、
ほんの少しだけ頭を下げた。
会釈とも言えない、
曖昧な角度。
それだけだった。
男は、歩き出す。
相馬の横を、
すり抜けていく。
香水でも、煙草でもない。
ただ、
仕事の匂いがした。
相馬は、
その背中を見送った。
怒りは、湧かなかった。
勝った、という感覚もない。
残ったのは、
一つの理解だけだった。
——あの人は、
——あの時も、今も、
——同じ場所に立っている。
誰かを救うためでも、
誰かを傷つけるためでもない。
ただ、
選ぶために。
「相馬さん」
後ろから声がする。
待っていた編集者だった。
「大丈夫ですか?」
相馬は、
少しだけ間を置いて頷いた。
「はい」
嘘ではなかった。
会議室に入り、
次の話数の打ち合わせが始まる。
展開。
読者の反応。
数字。
話は順調だった。
編集者は言う。
「ここ、もう少し
読者に優しくしてもいいかもしれません」
相馬は、
一瞬だけ、
廊下の男を思い出す。
そして、首を振った。
「いえ」
編集者が、少し驚く。
「今回は、
嫌われてもいいです」
自分の声が、
はっきり聞こえた。
会議が終わり、
夜。
相馬は、机に向かい、
白い原稿用紙を前にする。
ペンを握る。
線を引く。
その線は、
昔よりも、迷いがなかった。
——切られた線。
——拾われた線。
どちらも、
自分の線だ。
相馬は、
一コマ、
主人公に言わせる。
「選ばれなかったことは、
間違いじゃない」
誰に向けた言葉かは、
分からない。
編集者か。
過去の自分か。
あるいは、
あの廊下に立っていた男か。
相馬は、
ペンを置く。
もう、
答えをもらう必要はなかった。
判断は、
人を壊す。
同時に、
人を前に進ませる。
それを引き受ける人間が、
表に立つ必要はない。
ただ、
同じ廊下に立ってしまうことがある。
それだけだ。




