3話 切られた線
原稿は、まだ机の上にあった。
描き終えてから、三日。
何度もページをめくったが、
一文字も直せなかった。
直せば、
「まだ信じている」ことになる気がした。
漫画家・相馬は、
部屋の隅に積まれたスケッチブックを見ないようにして、
コーヒーを冷ました。
スマートフォンが震える。
編集部からではない。
分かっていた。
通知を閉じる。
——返事は、もう来ない。
持ち込みの日。
編集部の会議室は、やけに静かだった。
向かいに座った編集者は、
ほとんど表情を動かさず、
原稿をめくっていた。
ページをめくる音だけが、
時間を削っていく。
相馬は、
その音を聞きながら思っていた。
——この人は、
——どこを見ているんだろう。
描いた夜のこと。
失敗したコマ。
それでも消さなかった線。
それらを、
この人は全部、同じ目で見ている。
「率直に言います」
編集者は、顔を上げずに言った。
「上手くはありません」
それは、想定内だった。
「構成も甘い。
読者に優しくない」
それも、分かっていた。
相馬は、続きを待った。
「……でも」
その一言を、
どれだけ待っていたか分からない。
「でも」の後に続く言葉で、
人生が決まる。
編集者は、少しだけ間を置いた。
「今は、出さない方がいい」
その瞬間、
相馬の中で、何かが切れた。
「今、じゃない?」
声が、自分のものじゃないみたいだった。
「いつなら、いいんですか」
編集者は、少しだけ考えた。
「……分かりません」
正直だ、と思った。
だからこそ、
残酷だった。
「これは、守りに入っています」
編集者は、淡々と続けた。
「嫌われるのを、避けている」
相馬は、何も言えなかった。
——避けていたんじゃない。
——怖かっただけだ。
でも、その違いを、
この場で説明する言葉は見つからなかった。
「才能はあります」
最後に、編集者はそう言った。
それが、一番きつかった。
⸻
編集部を出た後、
相馬は、しばらく歩けなかった。
駅までの道が、
やけに長く感じた。
才能がある。
だから、今は出さない。
——それは、
——切るってことじゃないのか。
家に戻り、
原稿を机に置く。
描き直そうとして、
ペンを握る。
線が、引けなかった。
引いた瞬間、
自分が「間違っていた」と
認めることになる気がした。
数日後。
別の編集部に、
同じ原稿を持ち込んだ。
対応は、驚くほど違った。
「荒いですね」
最初の一言は、同じだった。
「でも」
相馬は、息を止めた。
「これは、嫌われますよ」
編集者は、笑った。
「多分、叩かれます」
その言葉に、
なぜか、救われた気がした。
「それでも、
続きを読みたいと思いました」
相馬は、
その場で、何も答えられなかった。
帰り道。
原稿の重さが、少しだけ変わった。
——同じ線なのに。
連載が決まったとき、
相馬は喜べなかった。
喜ぶには、
あまりにも多くのことを
置いてきた気がした。
連載第一話。
反応は、最悪だった。
「意味がわからない」
「不快」
「主人公が嫌い」
エゴサーチは、すぐにやめた。
やめたはずなのに、
指が勝手に動く。
夜中、
スマートフォンの光だけが部屋を照らす。
——やっぱり、
——間違ってたのか。
そんな時、
ふと思い出す。
最初に切った編集者の顔。
感情のない目。
しかし、
一瞬だけ、
原稿のあるページで止まった指。
——あの人は、
——どこを見ていた?
次の話数のネームを描きながら、
相馬は、初めて
あの時の言葉を思い返す。
「嫌われるのを、避けている」
今は、違う。
嫌われてもいい。
失敗してもいい。
だが、
守りに入ってはいない。
ネームを送り、
返事を待つ。
編集者からの返信は、短かった。
〈このまま行きましょう〉
それだけ。
余計な言葉はない。
相馬は、少しだけ笑った。
——編集者なんて、
——本当は、
——何もしていないのかもしれない。
それでも。
切られたから、
今がある。
肯定されたから、
描けている。
どちらが正しかったかは、
分からない。
ただ一つ、
確かなことがある。
あの時、
最初に切った編集者が
「間違っていた」とは、
相馬は言えなかった。
あれは、
判断だった。
そして、
判断は、
誰かの人生に
必ず、傷を残す。
相馬は、
次のページに、線を引く。
その線は、
以前より、
少しだけ、強かった。




