2話 判断
朝の編集部は、うるさい。
コピー機の音。
キーボードを叩く音。
誰かの笑い声。
湊は、そのすべてを「情報」として処理していた。
感情は、混ぜない。
机の上には、二つの原稿が置かれている。
一つは、昨日の会議で落とした原稿。
もう一つは、昨夜遅くに届いたネーム。
——どちらも、才能はある。
そして、
——どちらも、危険だ。
「湊」
デスクが声をかけてくる。
「次の新連載枠、一本だけ空けられる。
どっちを出す?」
選択肢は、最初から決まっていた。
編集者の仕事は、
“よりマシな未来”を選ぶことじゃない。
“より燃える未来”を選ぶことだ。
湊は、昨夜届いたネームを手に取った。
絵は粗い。
構成も破綻しかけている。
だが、ページをめくるたびに、
胸の奥に小さな違和感が積もっていく。
——不快だ。
——整理されていない。
——優しくない。
それでも。
(……読んでしまう)
主人公は、完全に嫌な人間だった。
言い訳をして、他人を責めて、失敗しても学ばない。
救いはない。
カタルシスもない。
——なのに、目が離れない。
「こっちです」
湊は、迷わず言った。
会議室が、ざわつく。
「こっち? 本気か?」
「荒れすぎてるだろ」
「読者、ついてこれないぞ」
湊は、反論しなかった。
「嫌われます」
ただ、それだけ言った。
「でも、嫌われなかったら、残りません」
沈黙。
デスクが、腕を組む。
「……責任、取れるな?」
湊は、一瞬だけ考えた。
——取れない。
——編集者は、責任なんて取れない。
それでも。
「はい」
そう答えた。
その瞬間、
もう一つの原稿が、静かに外された。
⸻
数週間後。
連載第一話が、公開された。
反応は、想像以上だった。
「不快」
「意味がわからない」
「主人公に共感できない」
炎上、と呼ぶほど大きくはない。
だが、確実に燃えていた。
湊は、数字を見つめていた。
初動は悪くない。
だが、離脱率が高い。
——想定内。
「湊」
先輩編集者が、声を落として言う。
「切った方の作家、どうなったか知ってるか」
湊は、顔を上げなかった。
「別の編集部に持ち込んだ」
一瞬、胸が鳴る。
「……連載、決まった」
その言葉が、
湊の中で、音を立てて崩れた。
「しかも」
先輩は続ける。
「向こうで、かなり評価高い」
湊は、何も言えなかった。
——そんなはずはない。
——あれは、守りに入った作品だった。
夜。
一人になった編集部で、
湊は机に突っ伏していた。
間違えた?
いや。
判断としては、間違っていない。
嫌われる覚悟のある作品を選んだ。
理屈は、通っている。
それでも。
——俺は、何を切った?
ふと、思い出す。
あの原稿の最後のページ。
主人公が、ほんの一瞬だけ、
自分を恥じるコマ。
あれを、
「弱い」と判断したのは、誰だ。
——俺だ。
湊は、立ち上がる。
引き出しを開ける。
奥にしまっていた、
切った原稿のコピー。
ページをめくる。
今読むと、
違って見える。
荒さの奥に、
続く“余地”があった。
「……」
スマートフォンが震える。
連載作家からのメッセージ。
〈読者の反応、正直きついです〉
〈このまま描いていいんでしょうか〉
湊は、画面を見つめたまま、動けなかった。
——俺は、前に出すぎた。
判断をした。
責任を取ると言った。
それは、
編集者が一番やってはいけないことだった。
湊は、ゆっくりと入力する。
〈描いてください〉
〈判断したのは僕です〉
送信。
そして、メモを開く。
〈編集者は、
作品より前に立った瞬間に、
間違える〉
湊は、その一文を、消さなかった。
この失敗を、
自分の名前で背負うために。




