一話 読まれる側に立つな
会議室の空気は、いつも不機嫌だ。
誰かが怒っているわけじゃない。
ただ、ここに集まっている全員が知っている。
——ここで決まるのは、作品じゃない。
——人の“続き”だ。
「で、この原稿、どうする?」
デスクの編集者が、机の中央に原稿を置いた。
少しだけ、雑に。
新人編集者・湊は、その束を見下ろしたまま、すぐには答えなかった。
ページはすでに読み終えている。
線は荒く、構図は甘い。
言い訳みたいな台詞も多い。
それでも、描いた人間が
どんな夜を越えてきたのかは、分かる。
——分かる。
だからこそ。
「連載は、厳しいです」
湊は、淡々と言った。
会議室に、ほんの一瞬だけ沈黙が落ちる。
「理由は?」
「読者に、甘えている」
空気が、わずかに動いた。
「“分かってもらえる前提”で描かれています。
でも、連載は説明する場所じゃない」
誰かが、舌打ちをしそうになるのを、湊は気配で感じた。
「この人は、まだ“読者に嫌われる覚悟”がない」
一人の編集者が、苦笑する。
「ずいぶん厳しいな」
「事実です」
湊は視線を上げない。
「嫌われる前に、守りに入ってる。
それは優しさじゃなくて、逃げです」
原稿は、静かに脇へ寄せられた。
それで終わりだった。
会議が終わり、編集部に戻る途中。
背後から、小さな声が飛んできた。
「……お前さ、もうちょっと言い方あるだろ」
先輩編集者だった。
「才能がないわけじゃないだろ、あれ」
「才能はあります」
湊は立ち止まらずに答える。
「だから、今は出さない方がいい」
先輩は、何か言いかけて、やめた。
湊は、自分が嫌われていることを自覚していた。
新人のくせに、情を見せない。
空気も読まない。
だが、それでいい。
編集者が好かれる必要はない。
午後二時。
持ち込みの時間。
ノックの音がして、ドアが開く。
「失礼します」
入ってきたのは、二十代半ばの男だった。
原稿の入った紙袋を、胸に抱えるように持っている。
湊は、形式通りに名刺を差し出した。
挨拶。
着席。
原稿を受け取り、ページをめくる。
線は荒い。
構図も不安定。
さっき会議で落とした原稿と、正直、大差はない。
——でも。
数ページ進んだところで、湊の指が止まった。
主人公が、間違える。
言い訳をして、失敗して、取り返しがつかなくなる。
救いはない。
フォローもない。
(……嫌われにいってる)
読み終えるまで、時間はかからなかった。
顔を上げると、男が緊張した表情でこちらを見ている。
「率直に言います」
湊は、前置きなく言った。
「上手くはありません」
男の顔が、少しだけ曇る。
「構成も甘いし、線も荒い。
正直、今すぐ連載できるレベルじゃない」
沈黙。
湊は、そこで言葉を切った。
男が、続きを待っているのが分かる。
「でも」
湊は、少しだけ間を置いて言った。
「これは、嫌われます」
男が、きょとんとする。
「え……?」
「多分、最初は叩かれます。
読者に不快なところも多い」
湊は、原稿を机に置いた。
「でも、僕は続きを読みたい」
男の目が、わずかに揺れた。
「それは……」
「僕が“最初の読者”だとしたら、です」
湊は、視線を男に合わせない。
合わせてしまうと、
“評価する側”に立ってしまう気がした。
「連載の保証はできません。
でも、直すなら、僕は最後まで読みます」
男は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吸って言った。
「……僕、
嫌われてもいいと思って描きました」
その言葉に、湊の胸の奥が、わずかに鳴った。
「それなら」
湊は、静かに言った。
「多分、大丈夫です」
男が帰った後。
湊は、自分の席に戻る。
先輩編集者が、遠くから声をかけてきた。
「さっきの持ち込み、どうだった?」
「……分かりません」
「珍しいな」
湊は、少しだけ考えてから答えた。
「僕がいなくても、
あの漫画は多分、面白いです」
先輩は、一瞬、言葉を失った。
「それって……」
「だから、見ます」
湊は、原稿を引き出しにしまう。
「編集者がいらない瞬間を、
見届けるために」
夜。
編集部を出ると、街は静かだった。
スマートフォンを取り出し、メモを見る。
そこには、短い一文だけが残っている。
〈読まれる側に、立つな〉
湊は、それを消さなかった。
編集者は、表に出ない。
評価される必要もない。
熱狂が生まれるなら、
そこに自分の名前はいらない。
——嫌われ役で、十分だ。
湊は、歩き出す。
まだ、誰にも気づかれていない場所で。




