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死亡フラグが見える俺と、死にたがり優等生の放課後改変録  作者: 妙原奇天


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第十六話「真澄の逆提案」

 その夜、俺はまたベランダにいた。

 街の明かりは、いつもと同じだった。

 コンビニの看板、マンションの窓、遠くを走る車のライト。全部、何百回と見てきた日常の風景だ。

 だけど、今の俺の視界には、その上に無数の「フラグ」が重なって見えている。

【皿洗い中・指切る・三〇%】

【徹夜・翌日居眠り・六〇%】

【告白失敗・黒歴史・八〇%】

【老衰・家族に看取られながら・一五%】

 他愛ないやつも多い。

 でも、その中に混ざっている。

【交通事故・死亡・四五%】

【突然死・原因不明・三〇%】

【火災・逃げ遅れ・二五%】

 さっきまでテレビで見ていたニュースと、似た色のフラグたちだ。

 視線を上に上げる。

 自分の頭の上にも、小さなアイコンがぽつぽつと浮かんでいる。

【交通事故・二〇%】

【過労・一〇%】

【階段から足を滑らせる・一五%】

【老衰・一%】

「……俺だけが、特別なわけじゃないんだよな」

 当たり前のことを、今さら噛みしめる。

 俺にも、誰にでも、いろんな“可能性”がぶら下がっている。

 それを全部、一回俺のところに集めて。

 世界のどこかでまとめて爆発させる代わりに、別の形に組み替える——

「ほんと、バカみたいな話だ」

 自分で思って、自分で笑う。

 でも、そのバカみたいな話に、心のどこかがざわついているのも事実だった。

 体育館で照明が落ちてきたとき。

 佐藤が橋の欄干に立っていたとき。

 俺は結局、考える前に飛び込んだ。

 そういう性格なんだってことは、嫌でもわかってきた。

「だったら……」

 夜風が頬を撫でる。

 俺は、ベランダの手すりに額を預けて、目を閉じた。

 頭の中で、フラグの海が渦を巻いている。

 空の頭上に浮かんでいた、真っ黒な【自殺・今週中・一〇〇%】。

 あのとき見た、自分の無力さ。

 ショッピングモール火災のテロップ。

 そこで死んだ誰かの頭上に、本来立っていたはずの体育館フラグ。

 全部まとめて、どうにかできる方法があるのなら——

「……やるしか、ないんだろうな」

 小さく呟いた声は、夜空に溶けていった。

     ◇

 翌日。

 放課後の生徒会室には、四人だけがいた。

 芹沢、生徒会長。

 天城空。

 新郷千景。

 そして、俺。

「それで?」

 芹沢は、いつもの爽やかフェイスで、しかし目だけは真剣に、俺の言葉を待っていた。

 俺は、手のひらに汗をかくのを感じながら、正面から彼を見据える。

「管理局の“特異点計画”——」

 言葉を選びながら、口を開く。

「乗る」

「黒江!」

 横から、空の悲鳴みたいな声。

 それでも、視線は外さない。

「ただし、条件付きだ」

 芹沢の目が、わずかに細くなる。

「条件?」

「ああ」

 深呼吸をひとつ。

 胸の中に渦巻いているものを、そのまま言葉にする。

「まず、世界中の“死”を好き勝手にいじくり回す実験なんて、どんな理屈をつけたって、誰かの頭の上に“調整事故”を落とす口実にしかならない」

「それは……まあ、否定はしないよ」

 芹沢はあっさり認める。

「だから俺は、“世界のどこかで大規模事故を起こす前提の実験”には、絶対に乗らない」

「黒江くん……」

「その上で、だ」

 空の視線を背中で受け止めながら、続ける。

「俺の逆提案はこうだ」

 一拍置いて、宣言する。

「世界中の“死のフラグ”のうち——“俺に起こり得た死”だけを、俺の頭上に集めろ」

 芹沢が、目を細めた。

 千景は、「は?」と素で声を上げる。

「どういう意味?」

「文字通りだよ」

 俺は机の上のペンを取り、白紙に丸を描いた。

「この丸が、今の俺の“人生”だとして」

 その周りに、ちまちまとフラグっぽい三角形を描き足していく。

「交通事故で死ぬかもしれない」

 ひとつ。

「病気で倒れるかもしれない」

 ふたつ。

「自殺するかもしれない」

 みっつ。

「老衰まで生きるかもしれない」

 よっつ。

「……これ、全部“俺に起こり得る死”だよな」

 俺はペン先で、それぞれを突いた。

「管理局のシステムがどれだけ精度高く未来を読んでるのか知らないけど、“黒江真澄”って一人の人間に紐づいている死亡フラグは、世界のどこかに全部リスト化されてるんだろ」

「まあ、概念的には、そういうモデルになっているね」

 芹沢が、腕を組む。

「で、それをどうする?」

「それを一回、俺の頭上に全部集める」

 紙の端に、新しい丸を描き、さっきの三角を全部そこに移動させる。

「俺一人分の“死に方のパターン”だけをまとめて、“特異点”として扱う」

「……対象を、世界中の死じゃなく、君自身に限定するってこと?」

「そう」

 頷く。

「世界のどこかで、ランダムに誰かの頭上に落ちてくるはずだった“黒江真澄の死”を、先に全部ここに寄せる」

 自分の胸を指さす。

「それなら、少なくとも、そのぶんの“調整事故”は減らせるだろ」

「いやいやいや、ちょっと待った」

 千景が、慌てて手を上げた。

「それってつまり、黒江くんは“一生分の死に方”を一人でまとめて食らうって話じゃない? ひとりマルチバッドエンドコースじゃない?」

「言い方よ」

 思わず突っ込みかけて、やめる。

 実際、その通りだからだ。

「だから条件はもうひとつある」

 俺は、紙を裏返した。

「集めた後の“再分配”は——俺がやる」

 芹沢が、目を見開いた。

 空も、息を呑む。

「管理局のシステムに、特異点側から介入する権限をよこせ」

 できるだけ、はっきりと言う。

「“死の総量は変えられない”って前提は、とりあえず一回横に置いとく」

 ベランダで考え続けたことを、そのまま口に出す。

「でも、“死の質と意味”は、人間側から書き換えられる余地があるって、お前も言ってたよな」

 老衰、看取り、眠るような最期。

 空が執着している、「死に場所を選ぶ権利」。

「だったら、その“配分”を機械じゃなくて、俺たちがやる」

「……君たち、ってことは」

「俺と——」

 横を見る。

 空はまだ、何も言っていない。

 でも、その目は、もう決まっている目だった。

「空も、だ」

「勝手に決めないでほしいけど」

 空は、ため息まじりに言う。

 でも、否定はしなかった。

「つまり君は」

 芹沢が、ゆっくりと言葉を組み立てる。

「管理局が今まで“上から”やっていた死の管理を、一部“下から”——人間側の感情や価値観で操作させろ、と」

「ざっくり言うと、そうなる」

 自分で言って、自分で苦笑する。

「前代未聞だってことくらいは、わかってる」

「前代未聞どころじゃないよ」

 芹沢は、深く息を吐いた。

「管理局の根本ルールそのものに、穴を開ける提案だ」

「でも、“意味のない死”を減らしたいって気持ちは、上も同じなんだろ?」

「理論上は、ね」

 芹沢は、少しだけ視線を落とした。

「現場にいると、どうしても数字で見てしまう。“ここで百人死ぬ事故を起こせば、向こうの千人が救われる”っていう計算を」

「そうやって、トンネルの事故を見たんだっけ」

 前に聞いた話を思い出す。

 芹沢は、苦い笑みを浮かべた。

「だからこそ、“数字じゃ測れない価値観”を持ち込む意味は、あるのかもしれない」

「じゃあ——」

「ただし」

 芹沢は、すぐに首を横に振る。

「僕個人としては面白いと思うけど、これは僕一人で決められる話じゃない。上に通す。通すけど——」

「通らない、かも?」

「かなり高確率で、渋るだろうね」

 正直すぎる答え。

「“特異点”を観察対象として殺さないために、慎重に扱ってきた連中だ。わざわざ危険な実験の中心に自分から飛び込もうとしていることに、良い顔はしないと思う」

「それでも、“価値はある”って思うなら」

 俺は、真っ直ぐ彼を見る。

「お前の名前で、出してくれ」

「……君、本当に人の立場を気にせず言うね」

 呆れたように笑いながらも、芹沢の目はどこか楽しそうだった。

「いいよ。僕の責任で、“逆提案”として上に上げる」

「おい!」

 堪えきれなくなったように、空が椅子を蹴って立ち上がった。

「ちょっと待って、本当に待って。黒江くん、自分が何言ってるかわかってる?」

「一応は」

「絶対わかってない!」

 空は、机越しに身を乗り出してきた。

 涙こそ出ていないが、その目は今にも泣きそうだ。

「そんな計画、黒江くんが壊れるに決まってる。世界中の“真澄に起こり得た死”を一回で食らうとか、どう考えてもおかしいからね?」

「一回で食らうとは限らないだろ」

「そういう問題じゃないよ!」

 ばしん、と机を叩く。

「“自分の死を安売りしないで”って、この間私が言ったばっかりなの覚えてる?」

「……覚えてる」

「覚えててこれなの?」

 責めるような目。

 何も言い返せない。

「空」

 芹沢が、静かに名前を呼ぶ。

「落ち着いて聞いてほしい。僕はこの提案に賛成しているわけじゃない。ただ、“現状のままでも、いずれ別の形の大規模調整は避けられない”ってことも事実なんだ」

「だからって」

「だからって、“黒江一人に押しつけるのは違う”って思ってるんだろ」

 俺が口を挟むと、空は勢いよくこちらを振り向いた。

「当たり前でしょ!」

「でも、お前は今まで、“自分が死ねば丸く収まる”って考えてきたんだよな」

「……」

 言葉に詰まる空。

 自分で言っておいて、胸が痛む。

「お前の契約は、“お前が死ねば何十人か助かる”ってやつだ」

 旧資料室で見た端末の画面が、脳裏に浮かぶ。

 天城空。死亡肩代わり率・高。

「それ、最初に飲んだのはお前だ」

「……その話を今引っ張り出してくる?」

「引っ張り出すよ」

 目を逸らせないから。

「お前が弟を守りたくて、何も見えなくなって、クソみたいな契約を飲んだのは、お前の責任だ。でもだからって、“お前一人が死ねばいい”って話にはさせない」

「だからって、“黒江が死ねばいい”にすり替えないでよ!」

 空の声が、ひび割れた。

「私の存在が、“誰かの犠牲を正当化する理由”になるの、嫌なんだよ」

 その言葉は、思った以上に重かった。

 胸の奥を、ぎゅっと掴まれる感覚。

「——」

 言葉が出てこない俺の代わりに、千景が小さく手を挙げた。

「あのさ」

 彼女は、いつものへらっとした笑顔を浮かべていたけど、その目は全然笑ってなかった。

「前にも言ったけどさ、どっちも死ぬのはなしだからね?」

「千景……」

「こっちとしては、“死なないでほしい”以上の高尚な理由なんてないんだよ」

 肩をすくめる。

「世界の死の総量とか、管理局の実験とか、正直言ってスケールがデカすぎてよくわかんない。でも、クラスメイトが連ドラの最終回みたいな顔で“俺が全部背負う”とか言ってたら、止めるのが友達でしょ」

「ドラマ扱いすんな」

「いや、ラノベかもしれないけど」

 そこで、少しだけ笑いが生まれた。

 空の張り詰めていた表情も、ほんの少しだけ緩む。

「だから、交渉するにしてもさ」

 千景は、二人を交互に見た。

「“黒江だけが死ぬルート”も、“空ちゃんだけが死ぬルート”も、最初から選択肢に入れない前提で話してほしい」

「最初から、って言われてもな」

「じゃなきゃ、見てるこっちが胃に穴空く」

 お腹を押さえるジェスチャーをする。

「私は異能も契約もない、ただのオタク女子高生だけど、“死なないでほしい”って感情だけは全人類共通のやつだと思ってるから」

「……お前、たまに名言っぽいこと言うよな」

「たまに、でいいの。毎回だと重いし」

 そう言って笑う千景の存在が、この場の空気をギリギリのところで明るく保っていた。

 それでも、決めなきゃいけないことは変わらない。

 芹沢は、少しだけ椅子に深く腰掛け直すと、まとめるように口を開いた。

「とりあえず——黒江くんの“逆提案”は、僕の名前で上に通す」

「本当に?」

「うん」

 迷いなく頷く。

「“特異点本人からの条件付き承諾”という形で、ね」

 タブレットを取り出し、何かを素早く打ち込んでいく。

 それが、世界のどこかに繋がっていると思うと、背筋が少し冷たくなった。

「上の反応は?」

「まだ何も返ってきていないよ」

 すぐに苦笑が返ってくる。

「ただ、事前に共有されている“特異点観察データ”があるから、ゼロからの話し合いにはならないはずだ」

「観察データって」

「君の生活ログ、フラグの変動履歴、この街の死亡率の推移、体育館事故回避の影響——細かく取っている」

 聞かなきゃよかった情報だった。

「で、結論から言うと」

 短い沈黙のあと、芹沢が続ける。

「“限定的な実験”としてなら、真澄の提案を受け入れてもいい、という返答だ」

「……早いな」

「向こうも、こういう“尖った案”には食いつきがいいからね」

 白米良作品みたいな言い方をするな、と思った。

「ただし条件が付く」

「条件?」

「一度きりであること」

 芹沢は、指を一本立てる。

「それと、失敗した場合——黒江真澄本人の命の保証は、一切しないこと」

「そこは予想してた」

 予想していた、けど。

 改めて言葉にされると、胃の痛みがリアルに増す。

「実験の規模は、ごく限定的に。対象は当面、“この街とその周辺の死亡フラグ”に絞る。世界全体の再編は、その結果次第で判断——といったところかな」

「……あの人たちらしいね」

 空が、小さく吐き捨てた。

「失敗したら“やっぱり無理でした”で済ませるつもりなんだ」

「失敗したら、その時点で僕たちの管理体制自体が揺らぐから、簡単には済まないだろうけどね」

 芹沢は、淡々と続ける。

「ともかく、向こうは君の案に興味を持っている。それは確かだ」

「じゃあ、準備は?」

「必要だよ」

 端末の画面が切り替わる。

 そこには、「フラグ集約接続プロトコル」とかいう物騒な文字列が並んでいた。

「特異点の意識を、局の“フラグ海”に一時的に接続する必要がある。場所は、人目につきにくいところが望ましい」

「どこでやるつもり?」

「夜の学校」

 即答だった。

「管理局の簡易端末を、屋上か旧資料室に設置して、そこから接続する。電源や回線はこっちでどうにかするから、君たちは“来るだけ”でいい」

「来るだけ、ねえ」

 空が、呆れたように笑う。

「来るだけで、死ぬかもしれない接続儀式に参加するって、なかなかのブラックバイトだと思うんだけど」

「時給は出ない」

「冗談言わないで」

 そんな掛け合いができるのは、まだ“始まっていないから”だ。

 始まってしまえば、多分笑っている余裕なんてなくなる。

「……黒江くん」

 会議が一区切りついたところで、空が立ち上がる。

 芹沢と千景に「ちょっと借りる」と短く告げると、俺の腕を引っ張った。

「屋上、行こ」

     ◇

 夕焼けが、もうすぐ夜に飲み込まれる時間。

 屋上には、静かな風の音だけがあった。

「で」

 空はフェンスにもたれかかりながら、じとっとした目で俺を見る。

「本気なの?」

「さっき言った通り」

「“さっき”と“今”で気持ちが変わってないか確認してるの」

 真面目な顔。

 ごまかしは効かない。

「……変わってない」

 正直に答える。

「空の契約に全部押しつけるより、俺が前に出る方がまだマシだってのも、変わってない」

「前に出るっていうか」

 空は、遠くを見て、小さく笑った。

「ダンプカーの前に立ちはだかるみたいなこと、しようとしてるんだよ、黒江くんは」

「まあ、たとえとしては近いかもな」

「笑えないよ」

 小さく吐き出すような声。

「だったら——」

 ぽつり、と零れる。

「私も一緒にやる」

「は?」

「“特異点”に全部集めるんじゃなくて、“特異点”と“契約者”の二つに分ける」

 空は、真剣な目で言った。

「黒江くんに集まるはずの死の一部は、私が肩代わりする」

「ダメだ」

 即答だった。

「何で?」

「それは、お前の契約の範囲を完全に超えてる。管理局の連中だって、そんな勝手な使い方は許さないだろ」

「でも、“私の死で救える人”がいるんでしょ」

 空は、自分の胸元をぎゅっと掴む。

「それが“黒江くん”なら、それに使ってもいいでしょ」

「……」

 言葉に詰まる。

「これは、私の契約。私の権利」

 空は、静かに続ける。

「誰のために死ぬか、どこで死ぬか、どう死ぬかを選ぶ権利があるって、前に言ったよね。だったら、“黒江くんのために死ぬ権利”だって、私にはある」

「そんな歪んだ権利、認めるわけにいかないだろ」

「黒江くんの“俺が全部背負う権利”より、まだマシだと思うけど」

 やり返される。

 ぐうの音も出ない。

「……どっちも、バカだよ」

 フェンスの影から、千景の声がした。

「いつからそこにいた」

「さっきから。空ちゃんが“私も一緒に死ぬ”って言い出したあたりから」

 スマホを片手に、千景が顔を出す。

「正直さ、見ててしんどい」

 真剣な目で、二人を見る。

「“お前のためなら死ねる”って、ラブコメ的にはクライマックスの告白なんだろうけど」

「ラブコメ扱いすんな」

「でも、これラブコメじゃなくて“死の配分会議”だからね?」

 笑いながらも、その声には震えがあった。

「だからさ——」

 千景は、少しだけ息を吸い込む。

「誰がどれだけ死を背負うか、っていう“譲り合い”やめない?」

「……」

「“どっちがより死ねるか”を競うの、見てる側からするとマジでつらいんだよ」

 その言葉が、胸に突き刺さる。

 バカみたいだって、頭のどこかではわかっていた。

 それでも、止められなかった。

「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」

 思わず、弱音が漏れる。

「世界の死の総量が変えられないって言われて、それでも何かしようとしたら、どこかで誰かが割を食うのは変わらないんだぞ」

「うん」

 千景は頷いた。

「だからこそ、“誰かのせいで死ぬ”んじゃなくて、“みんなでマシな死に方を探す”方向に頭を使ってほしい」

「……急に、まともなこと言うな」

「褒めてる?」

「たぶん」

 空も、苦笑する。

「黒江くん」

 空は、フェンスから背中を離し、俺の前に立った。

「私は、多分一生、“死に場所を探す癖”が消えないと思う」

 自分の胸に手を当てる。

「契約なんかしなければよかったって、何度も思った。でも、あの日の私には、それしか選択肢がなかった」

「……」

「だから今は、“別の選択肢”があるって言ってくれる黒江くんに、すごく救われてる」

 まっすぐな目。

「でも、それが“黒江くんが全部死ぬ道”なら、救われたぶん、もっと苦しくなる」

「……わかってる」

「だったらさ」

 空は、小さく笑った。

「せめて、“一緒に生き残る前提”で、世界をいじくり回そうよ」

「一緒に、って」

「そう。私も、千景も、芹沢くんも」

 生徒会室の向こうで、黙って端末を操作している生徒会長の姿が目に浮かぶ。

「あの人はきっと、最後の最後まで“全体の最適化”を手放せない。でも、それでも揺れてる」

「……そう見えるか?」

「トンネル事故の話をするときの顔、見たでしょ」

 見た。

 忘れられない顔だった。

「だから、“誰か一人が全部背負う”って形じゃなくて、“それぞれができる範囲で死を引き受けて、それでも生き残る方法”を探そう」

「できるのか、そんな都合のいい話」

「知らないよ」

 即答だった。

「でも、やってみないとわかんない」

 それは、空らしい答えだった。

 死に場所を選ぶ権利にこだわりながら、それでも生きようとする人間の言葉。

 俺は、ゆっくりと息を吐いた。

「……わかった」

「ほんと?」

「“世界のフラグを集約する実験”に乗るって決意は、たぶんもう変えられない」

 自分の中を確認する。

 静かに、しかし確かに燃えている何か。

「でも、“俺一人で全部背負う”って前提は、やめる」

 空の目が、大きく見開かれた。

「上の連中がどう思おうと、この街の中だけでも、“死ぬのはなしで”ってルールでやる」

「千景ルール採用だね」

 空が、少し笑う。

「それでも死にそうになったら、そのとき考えろ」

 自分で、自分に言い聞かせる。

「そのとき、空がどうするのか、千景がどう動くのか、芹沢がどっちに転ぶのか——それ見てから、もう一回決める」

「……先送りじゃん」

「先送りでいいよ」

 夜風が、少し冷たくなってきた。

「どうせ、死ぬのを急ぐ必要なんかないんだから」

     ◇

 そして、夜が来る。

 校舎の窓には、ほとんど明かりが灯っていない。

 門は閉まっているはずなのに、なぜか鍵は開いていた。

「やっぱり、管理局って便利だよね」

 千景が、場違いな感想を漏らす。

「こういうときだけは、な」

 俺たちは四人で、人気のない校舎の中を進んでいく。

 空は、少しだけ緊張した面持ち。

 芹沢は、いつもの生徒会長の顔ではなく、管理局員としての顔をしていた。

「屋上でやる?」

「いや、今日は旧資料室だ」

 芹沢は首を振る。

「屋上は、上と下の両方の“目”が届きすぎる。もう少し閉じた空間の方がいい」

「閉じた空間って言い方やめて……棺桶に入れられる前みたいな気分になるから」

 千景の愚痴を背中に聞きながら、俺たちは例の部屋へと向かった。

     ◇

 旧資料室の中は、昼間と同じようでいて、どこか違っていた。

 中央の机の上には、昼間よりも大型の端末が設置されている。

 その周囲に、見慣れないケーブルと、円形の金属板。

 床には、淡い光を放つ線が描かれていた。

「何だこれ」

「簡易接続陣、みたいなものだと思ってくれればいい」

 芹沢が、あっさり言う。

「本来はもっと大掛かりな設備が必要だけど、今回は“限定的実験”だから、これで十分だと上は判断したらしい」

「十分て……」

 心臓の鼓動が早くなる。

 端末のモニターには、見慣れない文字列が流れている。

【特異点接続準備中】

【死亡フラグ海・限定領域ロード中】

「ここから先は」

 芹沢が、俺たちを見回した。

「もはや誰にも、結果を予測できない」

「管理局さえ?」

「管理局さえ」

 その言葉は、妙に爽快だった。

 死の管理を生業にしてきた連中が、「わからない」と言う領域。

 そこに、今から足を踏み入れる。

「黒江くん」

 空が、そっと俺の袖をつかむ。

「最後まで、嫌ならやめていいからね」

「うん」

 頷く。

「でも、今はやめない」

「知ってた」

 空は、小さく笑った。

 千景が、何も言わずに親指を立ててくる。

 その仕草に、少しだけ肩の力が抜けた。

「じゃあ——始めようか」

 芹沢が、端末の前に立つ。

 俺は、床に描かれた光の輪の中心に進んだ。

 金属板の上に、ゆっくりと座る。

 頭上に、俺自身のフラグが浮かんでいるのが見えた。

【不安・恐怖・でも進む・一〇〇%】

「最後に、確認しておく」

 芹沢の声が、少しだけ低くなる。

「黒江真澄。君は、自分の提案に基づく“限定的フラグ集約実験”に、自発的な意思で参加することに同意するか」

「……同意する」

 喉が渇いて、声が少しかすれた。

「天城空。君は、契約者として——」

「私は」

 空は、俺の隣に一歩進み出る。

「“黒江くんのフラグが全部暴走しても、勝手に死なせない権利”を行使する」

「そんな権利は聞いたことないけど」

「今作った」

 強気な笑顔。

「契約内容に、“自分の意思で死ぬかどうかを選ぶ”ってあるんだから、“他人を勝手に死なせない”って解釈もギリギリセーフでしょ」

 芹沢が、少しだけ目を細めた。

 そして、諦めたように小さく笑う。

「……本当に、君たちは管理局泣かせだ」

「褒め言葉として受け取っておく」

 立ち位置は、もう変えられない。

 なら、胸を張るしかない。

「じゃあ、黒江くん」

 空が、俺の横にしゃがみ込んだ。

 目の前に、そっと手のひらを差し出す。

「手、貸して」

「何の儀式だよ」

「ただの応援」

 少しだけ頬を膨らませる。

「“一緒に生き残る前提”で世界をいじくり回すんでしょ。だったら、最初くらい一緒につかまっててよ」

「……わかったよ」

 俺は、その手を握った。

 温かい。

 心臓の鼓動が少し落ち着く。

「真澄」

 芹沢が、俺の名前を初めて呼び捨てにした。

「ここから先は、誰かのルールじゃなく、君自身のやり方で見てくればいい」

「生徒会長にそう言われると、変な感じだな」

「次に会うときに、君がどんな顔をしているのか楽しみにしているよ」

 端末の画面が、強く光る。

 床の光の輪が、じわじわと輝きを増していく。

 空気がぴりぴりと張りつめる。

 窓の外では、遠くの空に雷雲が立ちこめていた。

 光と影が、校舎の壁をゆらゆらと揺らしている。

「じゃあ——いくよ」

 芹沢の指が、決定ボタンに触れる。

【接続開始】

 電子音が、頭の奥で反響した。

 視界の端に、無数のフラグが一斉に立ち上がるのが見える。

 街の上に。

 校舎の上に。

 俺自身の頭の上に。

 全部、全部、全部——

 世界中から、「黒江真澄に起こり得た死」が集まってくる。

 喉が渇き、心臓がうるさい。

 それでも、俺は。

「——だったら、自分で見に行くしかないだろ」

 小さく呟いて、目を閉じた。


第十七話「世界中から集まる“俺の死”」

 落ちていく、と思った。

 足場が外れたとか、高いところからとか、そういう具体的な感覚じゃない。

 音も、光も、匂いも、全部が遠ざかっていく。代わりに、耳鳴りみたいな高い音だけが残って、世界が紙みたいに薄くなっていく。

 ふっと、何かが切れた。

 次の瞬間、俺は「そこ」に立っていた。

     ◇

 真っ暗、という言葉では足りなかった。

 色がない、という感じでもない。

 視界いっぱいに広がっているのは、夜空……にしては低すぎる、何かだ。上も下も、右も左も、よくわからない。重力も、体の境界も曖昧で、立っているのか浮いているのか、自分でも判然としない。

 それでも、「そこ」に「何か」があるのだけは、はっきりわかった。

 無数のアイコン。

 頭上に浮かんでいる、あの「フラグ」のアイコンが、見渡す限り、どこまでも続いている。

 信号機のライトみたいな緑や黄色。

 警告灯みたいなオレンジ。

 血のように赤いもの。

 どれも形が少しずつ違っていて、そこに小さな文字が浮かんでいた。

【交通事故・即死・九八%】

【転落・頭部強打・九五%】

【刺殺・路地裏・九九%】

【溺死・海・九二%】

【急性心不全・睡眠中・九〇%】

【老衰・看取られながら・一五%】

 読んだ瞬間、理解した。

「……全部、俺の……?」

 声は、自分の喉を通らずに、頭の中だけで響いた。

 それでも、この空間には届いている気がする。

 どこからともなく、淡々とした声が返ってきた。

『はい。対象・黒江真澄に紐づいた全死亡フラグの、集約領域です』

 機械みたいに平板な声だった。

 管理局のシステム、そのものだろうか。

『本実験に伴い、対象に起こり得た全ての死因が、一時的にこの領域へと移送されています』

 ざわり、と空間が揺れたように感じた。

 目を凝らすと、遠くの方からまた新しいフラグがゆっくりと流れ込んできている。

【階段からの転落・七七%】

【自転車での衝突事故・六二%】

【通り魔事件に巻き込まれ・四九%】

 さっきまで、どこか別の場所にバラバラに浮かんでいた「可能性」が、今この瞬間も、ここへ吸い寄せられている。

「……気持ち悪いな」

 思わず漏れていた。

 正直、怖い。

 一つ一つが、全部「俺の死に方」だ。

 これが全部、いつかどこかで現実になってたかもしれないって考えると、足がすくむ。

 けど——。

「一個一個は、“俺が死ぬだけ”なんだよな」

 口に出してみると、その事実が少しだけ形を持った。

 事故で死ぬ俺。

 病気で死ぬ俺。

 誰にも知られずに、ひっそりと死ぬ俺。

 どのフラグにも、「俺」の名前が刻まれている気がした。

『対象の認識、確認。感情値・恐怖・七一%、興味・二五%、その他・四%』

「実況やめろ、うるさい」

 思わずツッコむ。

 だが同時に、胸のどこかで冷静な自分が顔を出す。

 ここに集まっているのは、あくまで「俺の死に方」だけだ。

 今まで見てきた、「知らない誰かの頭上に立っていたフラグ」とは少し違う。

 もしもシステムが本当にルール通りに動いているなら、本来これらは、世界のいろんな場所に散らばって、「事故死」「突然死」「自殺」として、どこかの誰かの頭上に貼り付いていたはずだ。

 それが今、ここにあるということは——

「……少なくとも、そのぶんの“死”は、まだどこにも落ちてないってこと、だよな」

 感じたのは、安堵よりも重さだった。

 このフラグの海の向こう側に、街がある。

 見たこともない国があり、言葉も知らない子どもがいて、名前も知らない老人がいる。

 その誰かの頭上に浮かんでいたかもしれないフラグが、今は全部、ここに。

 俺の足元に、集められている。

「……やっぱり、こっちの方が、よっぽど重いな」

 自分が死ぬことよりも、それが誰かの死とリンクしているって事実の方が、圧倒的に怖かった。

     ◇

 現実世界。

 深夜の学校の一室で、誰かの息を呑む音がした。

 旧資料室の床に、少年が倒れている。

 黒江真澄。

 彼の瞳は閉じられ、身体はぴくりとも動かない。

 金属板の上に横たわったその胸は、かすかに上下しているものの、呼吸は不規則で、汗が額ににじんでいた。

「真澄!」

 真っ先に駆け寄ったのは、天城空だった。

 彼女は膝から崩れ落ちるように真澄の横に座ると、その肩を強く揺さぶる。

「黒江くん、聞こえる? ……返事して!」

 答えはない。

 代わりに、簡易端末のモニター上で、波打つ線が激しく上下する。

「脳波は、まだこちらにある」

 芹沢玲央は、端末を見つめたまま冷静に告げた。

「意識は完全に離脱していない。今は“フラグ海”の限定領域に接続している状態だ」

「こんなの、どこが“限定的”ですか」

 後ろで、千景が唇を噛みしめる。

「どう見ても、精神世界ダイブ型ブラック企業研修なんですけど」

「例えがいちいち極端だな君は」

 と言いつつ、芹沢も顔色は良くない。

 真澄の心拍数の乱高下。

 体温の上昇。

 端末の数字が、淡々と異常を告げていた。

 そんな現実世界のざわつきはしかし、今の真澄には届かない。

     ◇

 フラグの海は、静かだった。

 音がないのに、賑やかだ。

 無数のアイコンがゆっくりと漂い、その一つ一つが、不気味な存在感を放っている。

 その中を、俺は漂うように歩いていた。

 歩いているのか、流されているのかもよくわからない。ただ、意識を向けた方向に、景色が滑っていく。

【通り魔事件・刺殺・九九%】

 ひとつ、フラグを見上げる。

 その文字列を読んだだけで、嫌なイメージが脳裏をよぎった。

 夜道。

 帰り道。

 誰もいない路地裏で、知らない誰かに——。

「……」

 思わず視線を逸らす。

【工事現場・落下物直撃・九七%】

【電車ホーム転落・九〇%】

【飲酒運転車両との衝突・八八%】

 どのフラグも、いやなリアリティを持っている。

 でもこれらは、全部「あり得たかもしれない未来」だ。

 システムのルールが変わらなければ、どれか一つ、あるいはいくつかが現実になっていたのかもしれない。

 それが今は、「予約状態」として宙に浮かんでいる。

『対象・黒江真澄。現状、死亡フラグ総数・九九九件。重複要素整理後、実質的フラグパターン数・二五七件』

「多いな、おい」

 思わずツッコむ。

『人間一人の一生における死因の可能性としては、標準的な範囲です』

「標準的でこれかよ……」

 ぶつぶつ言いながらも、どこか冷静な自分がいる。

 数字として見ると、むしろわかりやすいのかもしれない。

 九九九のフラグのうち、「どうやっても避けられないもの」がどれくらいで、「工夫次第で軽くできるもの」がどれくらいか。

「……調べるしかないか」

 俺は近くのフラグに手を伸ばした。

 指先が触れると、ぱっと映像が広がる。

 路地裏。

 雨。

 スマホの光。

 誰かの足音。

 刃物の光——。

「はいストップ!」

 慌てて手を離した。

 映像が霧散する。

『対象の拒否反応・確認。感情値・嫌悪・八二%』

「いちいち数値化すんなって」

 心の中が丸裸にされている感じで、落ち着かない。

 でも同時に、理解も深まる。

 このフラグは、俺が深夜にひとりで出歩かなければ、発動しにくくなる。

 逆に言えば、「そういう行動を取る条件」を世界から減らせば、フラグ自体の存在理由も薄くなる。

 ……多分。

「“どう死ぬか”の前に、“どうそこまで行くか”をいじるってことか」

 自分で言いながら、空との話を思い出した。

 死の編集。

 意味のある死と、意味のない死。

 その境目を、俺たちの側から塗り替えていく。

『対象の思考パターン・変化。解析中——』

「黙って見てろよ」

 無機質な声を振り払い、もう一つ、違うフラグに手を伸ばす。

【老衰・看取られながら・一五%】

 それに触れた瞬間、今度は柔らかい映像が広がった。

 薄暗い病室。

 白いシーツ。

 ベッドの周りには、誰かのシルエットが見える。

 手を握っている感触。

 笑い声。

 泣き笑いの顔。

 心臓の鼓動が、静かに、穏やかに、弱まっていく——。

「……」

 気づいたら、息を詰めていた。

 これは、怖くない。

 寂しさはあるかもしれないけど、少なくとも「一人ぼっちで、理由もわからないまま終わる」死に方じゃない。

 これを、「消すべき」とは思わなかった。

『対象の感情パターン・安定。老衰フラグに対する拒否反応・低』

「老衰に文句言う人間は、あんまりいないだろ」

 苦笑しながら、映像を手放す。

 ここにある全部をゼロにすることはできない。

 それは最初からわかっていた。

 そもそも人間は、いつかは死ぬ。

 それ自体は、どうしようもないことだ。

 だったら——。

「どう死ぬか、だよな」

 空の声が、頭のどこかで蘇った。

 死に場所を選ぶ権利。

 延命か、苦痛の軽減か。

 誰のために生きて、誰のために死ぬのか。

 それを考える余裕もなく、ただ「調整事故」の数字に使い捨てられる死が、俺は嫌だった。

 世界の死の総量をどうこうする前に、まずそこをいじりたい。

 そんなことを考えていた、そのとき。

 背後で、ふっと空気が変わった。

「——勝手に一人で背負おうとしないでって、さっき言ったよね」

 懐かしい声が、すぐ近くで響いた。

 振り返る。

 そこにいたのは、制服姿の天城空だった。

「……お前、本当に来るなよ!」

 思わず叫ぶ。

「来るに決まってるでしょ」

 空は、肩をすくめた。

 現実世界と同じ制服。

 ただ、髪は少しふわふわと浮かんでいて、スカートの裾も風もないのに揺れている。

 ここが現実じゃない証拠みたいに。

「どうやって入ってきたんだよ、ここ」

「契約者特典」

 あっさり答えが返ってきた。

「管理局との契約ラインを通じて、君の意識に“同乗”した」

「簡単に言うな」

『契約者・天城空。対象フラグ領域へのアクセス・確認。死の肩代わり契約に基づき、限定的操作権限を付与』

 機械音声が、淡々と宣言する。

「ほら」

 空が、指を立てて笑った。

「公式に認められたから、文句ないでしょ」

「めちゃくちゃ文句あるけどな」

「文句はあとで聞く」

 空は、くるりとその場で一回転した。

 周囲を見回しながら、顔をしかめる。

「うわ……思ってた以上に、えげつないねこれ」

「だろ」

 俺は、近くを漂っていたフラグを指さす。

【孤独死・発見遅れ・八九%】

【睡眠薬過量・自殺未遂・七五%】

【未遂後の後遺症・長期入院・八四%】

 空は、それを見て眉をひそめた。

「……こういうやつは、本当に嫌い」

「同感」

 思わずうなずく。

 自殺未遂。

 失敗しても、苦しみが伸びるだけ。

 そういうフラグは、見ているだけで胸がざわつく。

「じゃあ」

 空は、俺の方を向いた。

「やろうか、“死の編集”」

「軽く言うなよ」

「軽い方がいいでしょ」

 わざと明るい声で言いながらも、その手は少し震えていた。

 怖くないはずがない。

 ここは、俺と空の死に方が集まる場所だ。

 でも、怖いからこそ——。

「……そうだな」

 俺は息を吸った。

「空、まず基準決めよう」

「基準?」

「どの死は“必要”で、どの死は“意味を変えられる”か」

 自分の言葉に、自分で頷く。

「老衰とか、病気で長い時間をかけて納得していく死は、多分“本来の寿命”に近い。いきなり全部消すのは、むしろ不自然だ」

「うん」

 空も真面目な顔で聞いている。

「でも、“意味のない事故死”とか、“誰にも看取られない孤独な死”とか、“理不尽な暴力で一瞬で終わる死”とか」

 指で、一つ一つ数えながら言う。

「そういうのは、できる限り削りたい」

「削るっていうか」

 空は、少し考えるように目を細めた。

「“段階”を作るイメージかな」

「段階?」

「例えば、“交通事故・即死フラグ”を、“車が壊れる・運転手が軽傷で済むフラグ”に変えるとか」

 空は、近くのフラグに手を伸ばした。

【交通事故・即死・九八%】

 指先が触れる。

 映像が広がる。

 夜の交差点。

 赤信号を無視して突っ込んでくるトラック。

 歩道を歩いている、俺。

 トラックのライトが、目の前で眩しく光って——。

「はいカット」

 空は映像を止めた。

「この“即死”を、“直前でブレーキが利く”に変える」

「そんなこと、できるのか?」

「やってみる」

 空は、映像の中でトラックを指さした。

 その瞬間、アイコンの数字が揺らぐ。

【交通事故・即死・九八%】から、【交通事故・重傷・八〇%】へ。

「まだ足りないね」

 空は続けて、交差点の信号機に触れた。

【信号故障・三〇%】の小さなフラグが現れ、それを【信号機の誤作動・直前に点検・五〇%】へと書き換えていく。

 映像の中で、信号が一瞬だけ点滅し、トラックが急ブレーキを踏む。

 俺は転んで膝をすりむくだけで済んでいる。

【交通事故・擦り傷・六〇%】

 フラグの色が、少し淡くなった。

「ほら」

 空は、得意げに笑った。

「完全な“ゼロ”にはできないけど、“即死”を“擦り傷”に変えることなら、できる」

「……すごいな」

 素直に、感嘆が漏れた。

 さっきまで、真っ赤に点滅していた死の塊が、少しだけ優しく見える。

「でもこれ、全部やるのか?」

「全部は無理」

 空はきっぱり言った。

「だから、優先順位をつける」

「優先順位……か」

 管理局の連中が好きそうな言葉を、自分の口から言うことになるとは思わなかった。

 でも、必要だ。

 どの死から“意味を変える”のか。

 どれを“受け入れる”のか。

「じゃあ、こうしよう」

 空は、自分の胸に手を当てた。

「“本来の寿命に近い死”は、そのまま。老衰とか、長い闘病の末に、本人と周りが納得して迎える死とか」

「“どうしようもないやつ”は、敢えて手をつけないってことか」

「うん」

 空は頷く。

「その代わり、“調整事故”として用意されていた大事故とか、大量死イベントは、徹底的に分解する」

 調整事故、という単語に、体育館の光景がよぎった。

 頭の上に浮かんでいた巨大フラグ。

 照明が落ちてきた瞬間の、鈍い音。

「分解、って?」

「ひとつの大きな死を、世界中の“厄日”に細かくばらまく」

 空は、フラグの海の向こうを指さした。

 遥か彼方に、黒い影が見える。

「例えば、“百人が一日で死ぬフラグ”があるとするでしょ。それを、“百日間、世界のどこかで誰かが一人ずつ不運に見舞われるフラグ”に変える」

「それでも百人は死ぬんだろ」

「死ぬよ」

 空は、嘘をつかなかった。

「でも、“意味のない大量死”よりは、まだマシだと思わない?」

「……」

 返事ができない。

 でも、体育館で全員が押し潰される映像を思い出すと、喉の奥にこみ上げてくるものがあった。

 あの場で千人が死ぬよりは、どこかで一人ずつ、時間をかけて——。

 それも、本当に正しいのかはわからない。

 でも、「いきなり全員死ぬ」よりは、まだ。

「……俺たち、ほんとに“死の編集者”みたいだな」

 思わずこぼした言葉に、空が笑った。

「でしょ」

「メタなこと言うな」

「メタじゃないよ。これはもう、そういう仕事だよ」

 空はフラグの海を見渡して、静かに言う。

「誰かがずっと機械的にやってきた“死の配分”を、少しだけ人間の側に取り戻す。それが今の、私たちの役目なんだと思う」

『対象・黒江真澄および契約者・天城空に、限定再配分権限を付与。再配分作業に伴い、現実世界への影響を随時反映します』

 システムの声が、冷たく響いた。

『但し、総死亡数をゼロにすることはできません』

「うるさい」

 俺と空は、同時に言った。

     ◇

 現実世界。

「脳波、変動パターンが変わった」

 芹沢が、端末に顔を近づける。

 さっきまで乱高下していた波形が、今は一定のリズムを刻み始めていた。

 高すぎず、低すぎず。

 何かに集中しているときのパターン。

「意識が、完全に“向こう側”の作業に入ったんだと思う」

 芹沢の言葉に、空の身体が小さく震えた。

 真澄の隣に座り込んだ空は、額に汗を滲ませながら、同じように呼吸を乱している。

「二人とも……」

 千景は、唇を噛んだ。

 手に持ったスマホは、もう何も映していない。

 さっきからずっと、画面を見ていないからだ。

 ただ、指先だけが不安そうに震えていた。

「これ、ほんとに大丈夫なんですか」

「保証はできない」

 芹沢は、誤魔化さなかった。

「でも、ここで止めると、彼らが今やっている作業が全部無駄になる。それは多分、一番やってはいけないことだ」

「無駄っていうか」

 千景は、鼻の奥がつんとするのを誤魔化すように笑った。

「もう十分自傷行為なんですけどね、これ」

「違わない」

 芹沢は真剣に言った。

「ただ、彼らにとっては、“それでもやらなきゃいけないこと”なんだろう」

「……そういう顔、してたもんね」

 千景は、床に横たわる二人の顔を見つめた。

 真澄の眉間には、うっすらと皺が寄っている。

 空の目尻は、少し赤い。

「ねえ」

 千景は、二人に届くはずもないのに、声をかけた。

「死ぬのはなしだからね。そこだけは、絶対守ってよ」

 その言葉は、フラグの海のどこかに、小さな波紋を落としていた。

     ◇

 フラグの海の中で、俺と空は、ひたすら作業を続けていた。

 フラグを手に取る。

 中身を見る。

 「即死」や「孤独死」や「理不尽な暴力」を、可能な限り別の形に分解する。

【通り魔事件・刺殺・九九%】を、

【通り魔事件・被害者軽傷・七〇%】【通り魔犯人拘束・九〇%】に。

【孤独死・発見遅れ・八九%】を、

【倒れているところを近所の人に発見・七〇%】【入院・看護師に看取られながらの死・六〇%】に。

 ここは現実じゃない。

 だから、こういう「編集」が許される。

 ただ、そのたびに、胸の中に針が刺さるような痛みが走る。

『対象の負荷値、上昇中』

 システムの声が、遠くで聞こえた。

 意識が、何度もかすれる。

 視界が歪む。

 でも、手は止められない。

 ここで手を止めたら、このフラグの海は元通りになる。

 体育館で、照明が落ちてきたみたいに。

 ショッピングモールで、炎が回ったみたいに。

 あんな死に方をする人間を、これ以上増やしたくない。

「……真澄」

 隣から、かすれた声がした。

 見ると、空も額に汗を浮かべていた。

 それでも、目はまだしっかりしている。

「大丈夫か」

「大丈夫じゃないよ」

 空は正直だった。

「でも、やる」

「だろうな」

 苦笑しながら、また一つフラグに手を伸ばす。

 どれくらい時間が経ったのか、わからない。

 ここには、時計がない。

 感覚だけが、頼りだ。

 作業を続けていくうちに、気づくこともあった。

 「事故死」のフラグには、大きく分けて二種類ある。

 避けようと思えば避けられたもの。

 どうしようもなかったもの。

 前者は、原因をちょっといじるだけで、結果を変えられる。

 信号機。

 天気。

 周囲の人間の注意力。

 救急車の到着時間。

 細かい条件を少しずつ変えていくことで、「即死」を「重傷」に、「重傷」を「軽傷」に、「軽傷」を「ヒヤッとするだけ」で済む失敗に、変えていける。

 後者は、難しい。

 地震。

 突然の病。

 交通インフラ全体の問題。

 一人や二人の工夫ではどうにもならない、「理不尽」の塊。

 それでも——。

「それでも、“どう死ぬか”はちょっとはいじれるはずだ」

 俺は、一つのフラグに手を伸ばした。

【急性心不全・睡眠中・九九%】

 映像が広がる。

 暗い部屋。

 布団。

 意識が遠のいていく。

 誰もいない。

 誰にも気づかれない。

 ただ、身体が静かに止まっていく。

「これは、これで“楽な死に方”なのかもしれないけど」

 呟く。

「……寂しいな」

「うん」

 隣で空が頷いた。

「だったら、誰かに気づいてもらえるようにすればいい」

 映像の中に、小さな光が灯る。

 携帯電話の着信画面。

 メッセージの通知。

 誰かが、「何かがおかしい」と感じるきっかけになる、小さな変化。

 それをトリガーに、翌朝早く家族が部屋を覗きに来る。

 心臓は止まっている。

 それでも、「誰かが手を握ってくれる」タイミングには間に合う。

【急性心不全・発見早期・家族に看取られながら・七〇%】

 フラグの文字が、静かに書き換わった。

「こういうのなら、“受け入れられる死”だと思う」

 空が、静かに言った。

 その声は、少し震えていた。

 きっと、彼女自身の記憶や恐怖に触れているのだろう。

 弟の病室。

 病院の白い壁。

 あの日の廊下。

 そういう光景が、頭をよぎっているのかもしれない。

「……空」

「ん?」

「ありがとな」

「何が?」

「一人で、こういう作業やるの、多分無理だったから」

 本音だった。

 ここで、意味のある死とか、意味のない死とか、そんなこと全部、一人で決めろと言われても、絶対心が折れる。

 そもそも俺は、そんな大層な正義を持っている人間じゃない。

 ただ、自分の目の前で誰かが死ぬのを、見ていたくないだけだ。

 だから、空がいてくれるのは、心底ありがたかった。

「……こっちの台詞」

 空は、ふっと笑った。

「私一人だったら、“自分が死ねば丸く収まる”って思考に絶対戻ってたと思うから」

「簡単に死のうとするな」

「簡単じゃないよ」

 空は、少し目を伏せた。

「でも、“自分が死ぬ”って選択肢を、自分の中から消すのは、多分一生できない。契約しちゃったから」

「だったら、その選択肢を“最後の最後の最後の手段”まで遠ざけようぜ」

 自分でも驚くくらい、すんなり言葉が出た。

「十回くらい“生き残る手段”を試してからでも、遅くないだろ」

「十回どころじゃ済まなくなると思うよ」

 空は、肩をすくめる。

「でも、それでいい」

 その言葉には、少しだけ救われたような響きがあった。

     ◇

 どれくらいフラグをいじっただろう。

 事故。

 病気。

 自殺未遂。

 孤独死。

 一つ一つの色と形が、少しずつ柔らかくなっていく。

 真っ赤だったものが、オレンジに。

 オレンジだったものが、黄色に。

 中には、どうしても変えられないものもあった。

 世界のどこかで起こる戦争。

 止められない自然災害。

 それでも、「誰にも知られずに死ぬ」よりは、「誰かと一緒にいるときに、手を握られながら死ぬ」方を選べるなら、その方向に少しでも傾ける。

 そんな作業を続けていた、そのとき——。

 空間の遠くで、何かが、ずしん、と鳴った。

 振動が、足元から伝わってくる。

「……何だ?」

 俺は顔を上げた。

 フラグの海の向こう。

 今まで遠くの影としか見えなかった“何か”が、はっきりと形を取って現れていた。

 巨大なアイコン。

 他のどのフラグよりも、桁違いに大きい。

 色は、真っ黒に近い深紅。

 そこに刻まれている文字を、俺は読み上げてしまっていた。

【大規模災害・数千人死亡・調整イベント】

「……ッ」

 喉の奥が、キュッと締まる。

 一目でわかった。

 これは、「管理局が最終手段として用意していたフラグ」だ。

 戦争。

 大地震。

 津波。

 パンデミック。

 そういう名前で語られてきたものの、元になっている“塊”。

 数千人単位で、一度に命を奪うための仕組み。

 体育館で見かけた巨大フラグなんて、可愛く見えるくらいの規模だった。

「……これだけは」

 無意識に、足が前に出ていた。

 近づくだけで、全身の毛穴が総立ちになる。

 触れた瞬間に、全てが終わりになりそうな気配。

 それでも、目を逸らせなかった。

「これだけは、絶対に発動させたくない」

 はっきりと、口に出していた。

「真澄」

 隣に並んだ空の声も、震えている。

「これ、もともと……」

「“体育館で回収できなかった死”の、先の先にあるやつだろ」

 自分で言って、吐き気がした。

 体育館事故。

 ショッピングモール火災。

 観光バス横転。

 それでもなお、「帳尻」が合わなかったときに発動させるための、最後のカード。

 そんなものを、平然と用意している仕組みが、心底嫌だった。

「どうする?」

 空が、横顔で尋ねてくる。

 怖いのだろう。

 俺だって怖い。

 こんなフラグに触れた瞬間、何が起こるかわからない。

 でも——。

「決まってる」

 息を吸う。

 胸の奥にある、得体の知れない熱を、言葉にする。

「細かく砕く」

 空が、目を見開いた。

「世界中の“厄日”に、変えてやる」

 大きな塊のまま、数千人を一日で飲み込むフラグなんて、絶対に認めたくなかった。

 だから——。

「なあ、空」

「うん」

「一緒にやってくれるか」

「もちろん」

 空は、微笑んだ。

 その笑顔は、怖がりながら、それでも前を向こうとする人間の顔だった。

 俺たちは並んで、その巨大なフラグの前に立つ。

 真っ赤なゲージが、一〇〇%に張り付いて震えている。

 今にも、世界のどこかで現実として噴き出しそうな、圧。

「真澄」

 空が、小さく手を差し出す。

「さっきと同じ。手、貸して」

「またかよ」

「こういうときは、手をつないどくのがセオリーなの」

「どこのセオリーだよ」

「ラブコメのセオリー」

 こんな場所でラブコメを持ち出すな、と思いながらも、その軽さに救われる。

 俺は素直に、その手を握った。

 温かい。

 その温度だけが、この異様な空間で唯一「現実」と繋がっている感覚だった。

「いくぞ」

「うん」

 息を合わせる。

 同時に、両手をその巨大フラグへと伸ばした。

 指先が、黒紅の表面に触れる。

 その瞬間——。

 視界が、真っ白に弾け飛んだ。


第十八話「フラグの再分配戦」

 真っ白な光が、ぱん、と爆ぜた。

 次の瞬間、俺はどこかの教室にいた。

 黒板。

 机の列。

 窓から差し込む午後の光。

 見慣れたはずの光景なのに、どこか違和感がある。

 教卓の横を通り抜けたと思ったら、視界がぐにゃりとねじれて、次の瞬間には病院の廊下に立っていた。

 消毒液の匂い。

 白い壁。

 車椅子の老人がゆっくりと進んでいく。

 また一歩踏み出すと、今度は戦場跡のような瓦礫の山。

 次は、老人ホームのロビー。

 遊園地の観覧車の足元。

 世界中の街角が、モンタージュのように切り替わっていく。

 俺と空は、そのどれにも同時に存在しているような、変な感覚に包まれていた。

「……これが、“世界側”か」

 思わずつぶやく。

「フラグの海の、裏側だね」

 隣を見れば、空も同じものを見ていた。

 制服の袖が、ふわりと揺れる。

 けれど、風は感じない。

 身体の重さも、足の裏の感触も、よくわからない。

 ここは現実じゃない。

 でも、確かに「世界」につながっている。

 そんな場所だった。

 目を凝らすと、教室の生徒たちの頭上に、小さなアイコンが浮かんでいるのが見えた。

【テスト赤点・五〇%】

【部活の大会・怪我・三〇%】

【告白失敗・七〇%】

 病院の廊下では——。

【手術成功・八五%】

【合併症・二〇%】

【老衰・看取られながら・六〇%】

 遊園地では——。

【ジェットコースターで具合悪くなる・五〇%】

【財布落とす・六五%】

 そんな日常レベルのフラグに混じって、ところどころに、真っ黒な塊が残っている。

【調整事故・死亡者数:数千名】

 さっき砕いたはずの、大規模災害フラグの欠片だ。

 完全には消えていない。

 砕かれた破片が、あちこちに散っている。

「ここからが本番ってことか」

 唾を飲み込む。

『対象・黒江真澄および契約者・天城空。再配分フェーズに移行しました』

 頭の奥に、無機質な声が響いた。

『大規模災害フラグの分割片を、世界全体に再配置します。総死亡数の削減行為は、規約上認められていません』

「うるさいな、規約規約って」

 思わず悪態が出る。

「でも」

 空が小さく笑った。

「“どう死ぬか”を変えるのは、禁止されていない」

「そこ、突きどころか」

「うん」

 空は、軽く拳を握る。

「じゃあ始めよう、“再分配戦”」

 言い方がいちいち厨二っぽいのは、もう突っ込まないことにした。

     ◇

 最初の破片は、病院の廊下にあった。

【院内火災・多数死亡・調整イベント】

 黒いアイコンが、天井近くに貼り付いている。

 その真下では、夜勤の看護師がカルテを抱えて歩いていた。

 白いマスク。

 疲れた目。

「これ、放っておいたら……」

 映像の端で、電源タップに埃がたまっているのが見える。

 酸素ボンベの並ぶ倉庫。

 火花。

 煙。

 慌てて逃げる患者たち。

 逃げ遅れる人。

 そういう未来が、一瞬で頭の中に流れ込んできた。

「——やだね」

 空が、きっぱりと言った。

「じゃ、砕こうか」

「どうやって?」

「まず、“火”を“小さくする”」

 空は、電源タップにそっと手を伸ばした。

 指先が触れた瞬間、アイコンがぱきりと割れる。

【院内火災・多数死亡】が砕けて、いくつかの小さなフラグに変わった。

【ブレーカーの異常・停電・七〇%】

【ナースステーションの業務停止・五〇%】

【階段で転びかける患者・三〇%】

「それじゃ、“死なない不運”に変えていく」

 空は、停電フラグに触れた。

 映像の中で、ブレーカー室の監視ランプが赤く点滅する。

 看護師がそれに気づいて、早めに点検を入れる。

【停電・夜間の一時間・九〇%】に数字が変わり、その代わりに【復旧時に大きな事故は起きず】という小さな文字が付け足される。

 患者たちは不安がる。

 看護師は走り回る。

 でも、「誰も死なない」。

 それだけで、空気が変わる。

「階段で転びかける患者は?」

「これも、膝ぶつけるくらいで済むようにすればいい」

 俺は、階段の手すりに意識を向ける。

 そこに、別の小さなフラグが見えた。

【付き添いの家族・今日はいつもより心配性・五〇%】

 それを、少しだけ引き上げる。

【心配性・七〇%】

 その瞬間、映像の中の家族が、患者の腕をしっかりと掴む。

 階段を降りるときに、ちょっとぐらついても、すぐ支えられる。

【階段で軽くよろける・擦り傷・四〇%】に書き換わった。

「……こういう細工、性格悪いって言われるかな」

 呟くと、空が笑った。

「性格悪い方が、管理局向きなんじゃない?」

「向きたくないんだけど」

 ため息をつきながら、次の破片に目を向ける。

     ◇

 画面が切り替わる。

 次は、どこか外国の高速道路だった。

【多重衝突事故・死亡者数一〇〇名・調整イベント】

 雨に濡れたアスファルト。

 ライトが反射して、視界が悪い。

 トラック。

 バス。

 乗用車。

 それらが、一つの巨大な黒いフラグにまとめられている。

「ここは、どうやって砕く?」

「“悪条件の重なり”をほどく」

 空が即答する。

「雨、ブレーキの故障、運転手の居眠り、道路の老朽化……」

 それぞれに、小さなフラグがぶら下がっているのが見える。

【タイヤの摩耗・七五%】

【運転手の寝不足・八〇%】

【道路管理の手抜き・六〇%】

「これ全部が揃ってるから、“一〇〇人死亡”になる」

 空は、指を鳴らすような仕草をした。

「なら、そのうちいくつかを、“違う不運”に変えればいい」

「不運の大バーゲンだな」

「その方が、まだマシだよ」

 俺は、運転手の寝不足フラグに手を伸ばした。

 映像の中で、トラック運転手がコンビニの前であくびをしている。

 そこに、小さな別のフラグが見えた。

【運送会社の上司・今日はやけにうるさい・五〇%】

 それを、少しだけ強くする。

 上司が「休憩取れ」としつこく言う。

 運転手は不満げにしながらも、一時間だけ仮眠を取る。

【居眠り運転・二〇%】に数字が下がり、その代わりに【納品時間の遅れ・八〇%】と表示が増えた。

「納品遅れて怒られるのと、事故で死ぬの、どっちがマシかって話だよな」

 自分で言いながら、苦笑する。

 次はタイヤ。

 整備工場の小さなフラグ。

【今日も手を抜く・七〇%】を、

【なぜか今日は真面目モード・六五%】に書き換える。

 道路管理の手抜きフラグも、「たまたま事故前日に点検が入る」に変える。

 重ねていくうちに。

【多重衝突事故・死亡者数一〇〇名】は、

【スリップ事故・車両数台・軽傷数名】に変わっていく。

「……ギリギリだな」

「ギリギリでも、ゼロじゃないよりずっといいよ」

 空の声は、少し掠れていた。

 それでも、手は止まっていない。

     ◇

 作業を続けていくうちに、わかってくることがある。

 全部の不運を「ラッキー」に塗り替えることはできない。

 それをやった瞬間、多分世界はどこかで一気に壊れる。

 だから、あくまで方向を変えるだけだ。

 「罰」みたいな死に方を、「試練」みたいなトラブルに。

 「意味のない大量死」を、「小さな厄日」の積み重ねに。

 時々、その厄日が、誰かの人生を変えるきっかけになるように。

 例えば——。

 どこかの会社。

 サラリーマンの頭上に浮かぶフラグ。

【リストラ・鬱・自殺・八〇%】

 それを、「リストラ」から「部署異動」に変える。

【部署異動・七〇%】

【新しい上司との出会い・五〇%】

 給料は下がるかもしれない。

 環境も変わる。

 でも、その代わりに出会う人間がいて、そこで救われるかもしれない。

 遊園地では、ジェットコースターから落下しかけるフラグを、「乗り物酔いでひどく吐く」に変える。

 最悪だ。

 本人にとっては、きっと最悪の一日になる。

 でも、それで命を落とすよりは、百倍マシだ。

 そうやって、世界中の「死に直結していた不運」を、「死なない不運」や「後から振り返れば笑い話になる失敗」に変えていく。

「……不運のセールスしてる気分だな」

「でも、案外嫌いじゃないでしょ、こういうの」

「まあな」

 自分の性格を自覚すると、ちょっと複雑だ。

 誰かが階段で転ぶ映像を見て、「うわ」としか思えない自分と。

 その転び方を「骨折」から「尻もち」に変えて、ちょっとスッキリしている自分。

 どっちも、本物だ。

     ◇

 もちろん、全部が全部、うまくはいかない。

 戦場跡。

 崩れかけた建物。

 爆発音。

 そこに浮かぶフラグは、重かった。

【紛争地域・空爆・多数死亡】

 これを、「不運」で済ませることは、ほとんど不可能に近い。

「……ここは、どうしようもない」

 空が、ぎゅっと拳を握る。

「さすがに、“大ケガして転機になる”とか、そんなレベルじゃ済まない」

「だろうな」

 俺も、無理に楽観的なことは言えなかった。

 それでもできることはある。

 空爆のタイミング。

 避難情報。

 避難所。

【誰にも看取られない死・八〇%】を、

【家族と一緒にいる状態での死・四五%】に。

【即死・一〇〇%】を、

【意識を失ったまま・苦しまずに死ぬ・六〇%】に。

 救いにはならないかもしれない。

 それでも、「苦痛を減らす」「孤独を減らす」ことなら、少しだけできる。

 そういう“限界”も、ここに来て初めて、ちゃんと見せつけられた。

「全部は変えられない」

 空が、かすれた声で言う。

「世界中の戦争も、差別も、貧困も、一瞬で無くすなんて無理」

「うん」

 俺は、素直に頷いた。

「でも、“誰も知らないまま忘れられていく死”を少しでも減らせるなら、それだけでも意味がある。そう思う」

 自分でも驚くくらい、まっすぐな言葉が出た。

 それは、体育館で全員を逃がそうとしたときの気持ちとも、佐藤を引きずり下ろしたときの気持ちとも、繋がっている。

『再分配作業、進行中。危険フラグの色調、オレンジから黄色へ移行』

 システムの声が、遠くで響く。

 フラグの海全体の色が、確かに変わってきていた。

 さっきまで真っ赤だったアイコンが、少しずつ淡くなっていく。

 赤からオレンジへ。

 オレンジから黄色へ。

 黄色から、青へ。

『警告。死の総量削減行為、検出。規約違反の可能性があります』

「来た」

 空が、少しだけ顔をしかめる。

「“総量削減”ってことは、やっぱりちょっと減ってるね、死」

「いいことじゃねえか」

「でも、向こうからしたらエラーなんだよ」

 言っているそばから、視界の端でいくつかのフラグが、元の形に戻ろうと跳ねた。

【交通事故・軽傷】が、一瞬【重傷】に戻りかける。

 そのたびに、胸の奥が強く締めつけられるような痛みが走る。

「っ……!」

 思わず膝をつきそうになる。

 その肩を、空が支えた。

「真澄、意識持ってって。戻されちゃう」

「わかってる……」

 歯を食いしばりながら、フラグを押さえつける。

 軽傷。

 失敗。

 小さな厄日。

 そういう方向に、必死で引き戻す。

     ◇

 同じ頃、現実世界。

 屋上に設置された簡易端末の前で、芹沢は眉をひそめていた。

「システム側が、再分配を巻き戻そうとしている」

 モニターに並ぶ文字列。

 英数字がずらりと並び、その中に「エラー」「規格外」「ロールバック」といった単語が混じっている。

「ってことは?」

「彼らが“死の総量”そのものを減らそうとしているのが、バレ始めた」

 芹沢は、端末のキーボードに指を走らせた。

「本来、今回の実験は“配置の変更”だけが許可されている。総数は変えちゃいけない。システムは、それを必死に守ろうとしてる」

「じゃあ、止めるんですか」

 千景が、不安そうに問う。

「逆」

 芹沢は、目を細めた。

「こっちから、システムの権限を書き換える」

「……普通に犯罪の匂いがしますけど」

「今さらだよ」

 短く笑ってから、芹沢は端末にコマンドを打ち込んだ。

「本来、地上側エージェントには“観測権限”と“微修正権限”しかない。だけど今は、特異点が二人も向こうにいる」

「特異点って、真澄と空ちゃん?」

「そう」

 芹沢は、画面から目を離さない。

「特異点がいる場所には、本部もバカみたいに権限を集中させる。そこを逆に利用する」

 画面の表示が変わる。

【権限要求:人間側再分配権限】

【承認ルート:地上エージェント・芹沢玲央】

「自分でやってて何だけど、完全に反逆だな、これ」

「今さら気づいたんですか」

「君たち、ほんと容赦ないね」

 皮肉を返しながら、芹沢は最後のキーを叩いた。

【権限付与:特異点ペアに限定再分配権限】

 画面の警告が、一瞬だけ赤く点滅する。

 次の瞬間——。

     ◇

 フラグの海に、風が吹いた。

 色とりどりのアイコンが、ざわり、と揺れる。

『権限更新。人間側再分配権限、一部承認』

 機械の声が、微妙にトーンを変えた。

『総死亡数削減の試行を、一時的に許可します。ただし、システムが許容量を超えたと判断した場合、自動的にロールバックが発生します』

「……やったな、芹沢」

 俺は思わず、笑いそうになった。

 向こうから見れば、完全に裏切りだ。

 でも、だからこそ意味がある。

「あと少し、踏み込める」

「うん」

 空も、息を整えながら頷く。

「“死ぬはずだった人”を、“死ななくて済む人”に書き換える。少しでも」

「ただし、そのぶんの“負荷”は——」

「多分、こっちに来る」

 同時に言ってしまって、苦笑いになる。

 胸の奥が、さっきからずっと焼けるように熱い。

 呼吸が浅くなっている気がする。

 視界の端が、時々ノイズを走らせる。

 それでも、手を止める気にはなれなかった。

     ◇

 どれくらい作業を続けたのか、わからない。

 世界中の教室。

 バス。

 電車。

 路地裏。

 屋上。

 工場。

 遊園地。

 病院。

 老人ホーム。

 そのすべてで、「死に直結していた不運」を「死なない不運」や「転機」へと変えていく。

 財布を落とす。

 階段で転ぶ。

 好きな人に振られる。

 テストで凡ミスする。

 仕事で大失敗する。

 全部、最悪だ。

 本人にとっては、「今日はツイてない」としか思えないかもしれない。

 それでも、その裏側で「死んでいたはずの自分」がいると思えば、少しだけ意味が変わる。

 そして、そういう不運が、時に人生を変えるきっかけにもなる。

 怪我をして部活をやめた結果、別の趣味に出会うとか。

 会社をクビになった結果、自分に合った仕事を見つけるとか。

 振られたからこそ、本当に大事な人に気づけるとか。

 全部が全部、ハッピーエンドになるとは思わない。

 でも、「意味のない死よりは、ずっとマシだ」と胸を張って言える。

『大規模調整フラグ、分割率・九八%。残存コア・二%』

 システムの声が、息を詰めるように告げる。

 視界の片隅に、まだ一つだけ残っている黒い欠片が見えた。

 さっきまで巨大だったフラグの、最後の一片。

 そこに浮かんでいる文字を見て、息が止まりかけた。

【特異点・黒江真澄・あらゆる死に方の集約】

「……お前、かよ」

 思わず悪態が出る。

 この最後の欠片だけは、「世界中の不運を引き受ける代わりに、特異点一人がありとあらゆる死に方を味わう可能性」を示していた。

 さすがに、笑えなかった。

「これは……」

 空も、顔を歪める。

「やっぱり、“そういう結末”を用意してたんだね、向こうは」

『特異点に全死因を集約し、そこで再分配することで、世界全体の死のバランスを最適化する——』

 システムの声が、半ば説明、半ば自分への言い訳のように続ける。

『それが、本来計画されていた実験です』

「知るかよ」

 吐き捨てる。

 こんなもん、「合理的」とか「最適化」とかいう言葉で片づけられてたまるか。

「で、どうする?」

 空が、真剣な目で俺を見る。

「ここまで来て、“やっぱりやめます”は、多分通らないよ」

「わかってる」

 息を吸う。

 胸の奥で、誰かの声がする。

 佐藤の「さよなら」。

 体育館で震えていた生徒たちのざわめき。

 ニュースで見た、事故現場の映像。

 病室で聞いた、誰かの泣き声。

 全部が混ざって、ひとつの問いになる。

 俺一人が全部背負えば、本当に世界はマシになるのか。

 ……なりはするだろう。理屈の上では。

 でも、その代わりに、「お前の死を必要経費にしました」って顔をして生きていく人間が、世界中に増える。

 それは、やっぱり嫌だ。

「なあ、空」

「うん」

「俺が死んだら、お前、絶対自分を許さないだろ」

「許さないね」

 即答だった。

 間髪入れずに返ってきた言葉に、笑うしかなくなる。

「……じゃあ、やっぱ、死ねないな」

「その理屈はよくわからないけど、結論には賛成」

 空も、苦笑した。

「でも」

 空は、すぐに真顔に戻る。

「それでも、“誰か一人のひどい死”で全体を丸く収めるやり方は、私も嫌いじゃない。だって私はずっと、“自分が死ねばいい”って思ってきたから」

「やめろ」

 反射的に言い返す。

「そんなクソみたいな発想、簡単に肯定すんな」

「だけど——」

 空は、自分の胸に手を当てた。

「このフラグ、私にも引き寄せられる」

 言うが早いか、空は黒い欠片に手を伸ばした。

 フラグが、びくんと震える。

 文字が、一瞬だけ書き換わる。

【特異点・天城空・死の肩代わり】

「おい!」

「これだけは、私が引き受ける」

 空は、俺の言葉を遮った。

「黒江くんの死が誰かの転機になる世界なんて、見たくない」

 その声は、いつになく強かった。

「黒江くんが生きていることが、誰かの救いになる世界を、私は見たい」

 喉が、詰まる。

 ずるい。

 そんなこと言われたら——。

「……なあ、空」

「何」

「俺の方が、空に救われてきた回数、多いと思うんだけど」

「そう?」

「そうだよ」

 佐藤を止めたときも。

 体育館で走り回ったときも。

 河川敷で、契約の話を聞いたときも。

 さっき、フラグの海で手をつないだときも。

 俺が「もう嫌だ」と思った瞬間に、いつも隣にいたのは空だ。

「だからさ」

 息を吸う。

「お前が自分を犠牲にして世界を救おうとする世界なんて、俺も見たくない」

「……」

 空が、黙る。

 その沈黙の間に、黒い欠片が揺れた。

 文字が、また変わる。

【特異点・黒江真澄・天城空・どちらかの死】

 どっちか一人は死ぬ。

 そういうフラグになりかけていた。

『対象不明。再配分エラー。対象不明。再配分エラー』

 システムの声が、ノイズ混じりに崩れる。

 俺と空、両方が全力でフラグを引っ張り合っているせいで、「誰が死ぬのか」が決まらないのだろう。

 黒い欠片に、ひびが入る。

 亀裂が走るたびに、胸の奥が痛む。

「だったら——」

 唇の奥から、言葉がこぼれた。

「どっちも死なない世界を、選ぼうぜ」

 空が、目を見開く。

「そんなの——」

「無茶だって?」

 自分でもわかっている。

 死の総量がどうとか、バランスがどうとか、そんなルールを全部無視した話だ。

 でも、ここまできて、「はい死にます」「はい犠牲になります」で終わらせたくない。

 それこそが、多分、俺のわがままなんだろう。

「なあ、システム」

 俺は、空を見ずに、上を見上げた。

 どこにあるとも知れない、管理局の中心に向かって。

「今から俺が言うの、多分めちゃくちゃだ」

『承知しました。提案内容を記録します』

「真澄」

 空が、不安そうに俺を見る。

「何する気?」

「簡単だよ」

 笑って見せる。

「このフラグ、砕いてばらまく」

「……は?」

 空が、素で固まった。

「どっちか一人が死ぬフラグなんて、いらねえよ」

 黒い欠片を指さす。

「全部、“小さな厄日”に変えて、世界中にばらまく」

「ちょっと待って」

 空が慌てる。

「それって、つまり」

「つまり」

 俺は指を折って数える。

「俺が一日風邪ひいたり」

「うん」

「空がテストで一問ミスしたり」

「嫌なんだけど」

「千景が推しの限定グッズ買い逃したり」

「それ多分一番怒るの千景だよ」

 くだらない会話を挟みながらも、目は真剣だった。

「そういうレベルの“不運”を、これから先の人生にちょっとずつ散らしていく」

「そのぶん、“今ここで誰かが死ぬ可能性”を削る」

「それって」

 空は、少しだけ笑った。

「世界規模の“今日はツイてない日”?」

「まあ、そんな感じ」

 馬鹿みたいだ。

 でも、悪くない。

 世界中の人が、一日だけ「なんかツイてないな」と思って終わるなら、その日一日、大事故が起きない世界の方が、俺は好きだ。

「できるかな、そんなこと」

「できるかどうかじゃなくて——」

 息を吸う。

「やるかどうか、だろ」

 空が、ふっと目を伏せる。

 次に顔を上げたとき、その目には迷いがなかった。

「……ほんと、黒江くんって時々バカだよね」

「よく言われる」

「でも」

 空は、手を差し出した。

「そのバカに、乗ってみるのは嫌いじゃない」

「ありがと」

 俺も、その手を握り返す。

「じゃ、お揃いのバカで」

「うん」

 息を合わせて。

 二人で同時に、黒い欠片から手を離した。

 捕まえるんじゃない。

 握りしめるんじゃない。

 突き放す。

 その瞬間——。

 黒いフラグが、ぱきん、と音を立てて割れた。

 ひびが広がり、欠片が粉々に砕けていく。

【どちらかの死】という文字列が消え、その代わりに——。

【風邪をひく・三〇%】

【テストで一問ミスる・五〇%】

【待ち合わせに十分遅刻する・四〇%】

【推しグッズを買い逃す・六〇%】

【傘を忘れて突然の雨に降られる・七〇%】

 みたいな、くだらない不運のフラグが、次々と生まれては、世界中に飛んでいった。

『総死亡数・微減。大規模調整事故発生率・低下』

 システムの声が、どこか戸惑っていた。

『世界中の“厄日”指数、一時的に上昇』

「厄日指数って何だよ」

 思わずツッコむ。

 同時に、視界の色が変わった。

 真っ赤だったフラグの海が、柔らかい色に塗り替えられていく。

 オレンジ。

 黄色。

 ときどき青。

 世界中の人間が、「今日はツイてないな」と感じる一日。

 でも、その裏で「死ぬはずだった誰か」が、当たり前のように家に帰っていく。

 それを想像した瞬間、胸の奥が、じんわりと熱くなった。

「真澄」

 隣で、空が笑っていた。

「やったね」

「……ああ」

 息を吐く。

 全身の力が、一気に抜けた。

 意識が、遠のく。

『再分配フェーズ・完了。特異点ペアの接続を解きます』

 機械の声が、遠ざかる。

 最後に俺が見たのは——。

 世界中の街角で、ちょっとだけついてない一日を過ごしている人たちの、どこか呆れたような、でも確かに生きている顔だった。

     ◇

 屋上に、夜風が吹き抜けた。

 黒い空。

 街の明かり。

 その真ん中で、二人分の身体がぴくりと動いた。

「っ……!」

 真澄の指が震える。

 次に、空のまぶたがわずかに開いた。

「……ここ、どこ」

 かすれた声。

「学校の屋上」

 頭上から、安堵と呆れの入り混じった声が降ってきた。

 芹沢玲央。

 生徒会長は、椅子もない屋上に座り込んで、端末を抱えたまま、こちらを見下ろしていた。

 その隣で、千景が半泣き顔で叫ぶ。

「生きてるううううう!」

「うるさい……頭に響く……」

 真澄が、顔をしかめながら起き上がる。

 全身汗だくだ。

 制服が肌に張り付いて気持ち悪い。

 でも、確かに息はできている。

 心臓はちゃんと動いている。

 空も同じように上半身を起こして、ふらふらとした動きであたりを見渡した。

「……芹沢先輩」

「うん」

 芹沢は、少し目を細めた。

「本当に、やりやがったな、君たち」

 その声には、心底からの驚きと、少しの笑いが混じっていた。

「世界中の“死の配置”をいじって、“大量死イベント”をつぶして、“厄日指数”を上げて……」

「厄日指数って何ですか」

 千景が、涙目のままツッコむ。

「さっきからシステムログに出てくる。今日一日、世界中の人間の小さな不運が三割増しになってるらしい」

「三割増しって地味に嫌だな!」

 千景が叫ぶ。

「でも、大事故は?」

 真澄は、息を整えながら問う。

「起きてない」

 芹沢は端末を掲げて見せた。

「今のところ、予定されていた大規模調整事故は、全部“軽度のトラブル”レベルに変わっている。死者数も、統計上は僅かに減少傾向にある」

「……僅かに?」

「世界規模だからな。いきなりゼロにはならない」

 芹沢は、肩をすくめた。

「それでも、“意味のない大量死”がひとつ消えた。これは、よくやったと認めざるを得ない」

「じゃあ」

 空が、恐る恐る尋ねる。

「管理局は、どう出ると思いますか」

「さあ」

 芹沢は、空を見た。

「少なくとも、“特異点ペアは制御不能”っていう報告書は、もう書いちゃったけど」

「書かなくていいことをさらっと書くな」

「それでも、だ」

 芹沢は、夜空を一度見上げてから、真澄たちに視線を戻した。

「僕は、今日この瞬間に関しては、君たちの側に立った」

「……そうだな」

 真澄は、素直に頷く。

「ありがとな、会長」

「礼を言われるほどじゃない」

 芹沢は、少しだけ目を伏せた。

「僕の正義は、今でも“全体の最適化”の方にある。多数を救うために、一人を切り捨てることを否定はできない」

「うん」

「でも、今日みたいに、“わがままな選択”がたまたまうまくいくこともある。そこに賭けてみる価値くらいは、認めてもいいかなと思った」

 その言葉は、いつもの生徒会長のスピーチよりずっと不器用で、ずっと人間らしかった。

 千景が、にやりと笑う。

「会長、ちょっとカッコいいっす」

「ちょっとでいいのか」

「めちゃくちゃカッコいいって言うと調子に乗るでしょ」

「正解」

 そんなやり取りを聞きながら、真澄は仰向けに寝転んだ。

 星は見えない。

 街の光が強すぎて、薄い雲が白んでいる。

 でも、その下で、確かに誰かが息をしている。

 世界中で、「今日はツイてない」とか「最悪」って愚痴ってる人がたくさんいる。

 財布を落としたり、傘を忘れたり、テストで凡ミスしたり、推しのグッズを買い逃したり。

 その全部の裏に、「本当はここで死んでたかもしれない自分」がいる。

 そう思うと、少しだけ笑えた。

「真澄」

 横から、空の声がした。

「ん」

「……生きてるね、ちゃんと」

「まあな」

 苦笑して、空の方を見る。

 彼女も地面に寝転がって、こちらを見ていた。

 額に汗。

 髪が頬に貼り付いている。

 それでも、目はちゃんと生きている。

「お前もな」

「うん」

 空は、ふっと笑う。

 その笑顔は、今までで一番、年相応に見えた。

「ねえ、黒江くん」

「なんだよ」

「明日さ」

 空は、少しだけ躊躇ってから言った。

「一緒に、遅刻しない?」

「は?」

「今日、世界中にばらまいた“小さな厄日”のせいで、きっと明日は何かしらツイてない日になると思うの」

「まあ、そうかもしれないけど」

「だったら、一人で“ツイてない”より、誰かと一緒に“ツイてない”方がマシじゃない?」

 その理屈は、よくわからないようで、妙に納得できた。

「……じゃあ、ついでにテストで一問ミスるのも一緒にやるか」

「それは嫌」

「なんでだよ」

「そこはちゃんと取りたい」

「欲張りだな、おい」

 くだらない会話が、夜の屋上に溶けていく。

 その向こうで、街のどこかから、救急車じゃない、普通の車のクラクションが聞こえた。

 誰かが舌打ちしているかもしれない。

 誰かが「最悪」と呟いているかもしれない。

 でも、少なくとも今夜は——。

 体育館は、無事だ。

 ショッピングモールも、観光バスも、大規模災害も、静かに眠っている。

 それでいい。

 それがいい。

「……なあ、空」

「ん?」

「これからもさ」

 言いながら、自分でも笑ってしまう。

「俺たちの“わがまま”で、世界をちょっとだけいじくっていこうぜ」

「うん」

 空は、迷いなく頷いた。

「その代わり、ちゃんと“ツケ”も払ってね」

「ツケ?」

「風邪ひいたり、テストで凡ミスしたり、財布落としたり」

「千景に怒られたり?」

「それが一番重いかもね」

 三人で笑う。

 そんな夜だった。


第十九話「死にたがり優等生の、初めての本音」

 数日たっても、世界は相変わらずだった。

 朝になればニュース番組が流れて、コメンテーターが適当なことを言い、通学路には眠そうな顔の高校生があふれる。信号は赤と青を繰り返し、コンビニからは揚げ物の匂いが漏れてくる。

 見た目だけなら、何も変わっていない。

「……はずなんだけどな」

 俺は、リビングのローテーブルに頬杖をつきながら、テレビ画面を眺めていた。

『ここ最近、大規模な事故や災害が減っている、というデータも出ていまして——』

 スーツ姿の専門家が、指し棒でグラフを示している。

 折れ線グラフの赤い線が、ここ数週間、じわりと右肩下がりになっていた。

『もちろん、たまたまの可能性もありますが……』

 そう言いながら、アナウンサーは次の話題に切り替える。

『一方で、SNS上では“最近ツイてなさすぎ”という投稿が増えていて——』

 スマホ画面のスクショがいくつか映し出された。

「電車遅延に巻き込まれた」「スマホ落とした」「傘忘れた」「推しのグッズ買い逃した」——。

 そんな愚痴ツイートが、スタジオのモニターを埋める。

『小さなトラブルが続いている、という声が多いようです』

「……そりゃそうだろ」

 思わず、テレビに向かってぼそっとつぶやく。

 世界中の大事故の代わりに、無数の「ちょっとツイてない」がばらまかれた結果だ。

 俺の視界の端にも、ちらちらとアイコンが浮かんでいる。

【朝寝坊・遅刻ギリギリ・七〇%】

【体育で転んで膝をすりむく・六〇%】

【好きな子の前で噛む・八〇%】

 どれもこれも、死にはほど遠い。

 恥。

 ミス。

 軽い怪我。

 そんな文字ばかりだ。

 テレビの中で、芸人が笑いながら言う。

『まあでも、命に関わるわけじゃないですからね。笑い話で済むなら、それが一番ですよ』

「……そうだな」

 小さく同意して、リモコンを取る。

 ニュースを消すと、リビングは急に静かになった。

 代わりに聞こえてきたのは、外を走る車の音と、風が窓を叩く気配。

 高校に行く時間は、とっくに迫っている。

 立ち上がって、カバンを肩に掛ける。

 玄関を出る直前、ふと自分の頭上に意識を向けてみた。

【交通事故・一五%】

【階段で足を滑らせる・二〇%】

【授業中に居眠り・九九%】

「最後のやつ、もう確定じゃねえか」

 一人でツッコミながら、靴紐を結び直す。

 前みたいに、突然【死亡・今日・何時何分】なんて文字が光っているわけじゃない。

 それだけで、世界が少しだけ優しくなったような気がした。

     ◇

「聞いてよ黒江、今日さあ——」

 登校して教室に入るなり、千景が机に突っ伏していた。

 髪は少し乱れて、目は半分涙目だ。

「電車一本乗り遅れてさ、そのあとバスで振替輸送でさ、そのバスでも酔ってさ、さらにスマホ落としかけてさ」

「生きてるなら十分だろ」

「いや生きてるけど! 今日一日で運全部使い果たした気がするんだけど!」

 クラスのあちこちからも、似たような声が聞こえてくる。

「昨日から三回もコケたんだけど」

「テスト勉強してた教科じゃなくて別の教科が抜き打ち小テストだった」

「靴下左右違ってた」

「分かる、“なんかツイてない”週間マジで来てる」

 みんな、口々に文句を言いながらも、どこか楽しそうだ。

 SNSネタにできるレベルの不運は、話の種になる。

 俺の視界に浮かぶアイコンも、教室中ほとんどがそんな感じだ。

【上履き忘れ・友達に借りる・八〇%】

【数学小テスト・ケアレスミス連発・六五%】

【体育で顔面にボール・五五%】

 以前なら、ちらちらと【自殺】【暴力】【家庭不和】【事故死】なんて文字が混ざっていた。

 今は、重い色のアイコンがほとんど見えない。

 ゼロじゃない。

 遠くの方で、薄く光っている重たいフラグも確かにある。

 でも、教室の空気を塗りつぶすほどじゃなくなった。

「そういえば、体育館も立ち入り禁止のロープ張られてたね」

 女子の一人が、窓の外を見ながら言う。

「天井の設備、全部点検し直してるって」

「この前の落下事件、ニュースにはならなかったけど、さすがに学校も焦ったんだろ」

「命の授業、またあるらしいよ。今度は地震と火災の避難訓練もセットで」

「ちゃんと避難経路とか見直すってさ。あの校長にしては珍しく本気」

 クラスメイトの会話に耳を傾けながら、俺は窓の外を見た。

 体育館の屋根。

 その上に、前みたいな巨大な黒いフラグは見えない。

 代わりに、小さく【避難訓練・転倒・軽傷・三〇%】なんてアイコンが浮かんでいるくらいだ。

「……悪くねえな」

 ぼそっとつぶやいたところで、千景がぐいっと顔をのぞき込んできた。

「で?」

「何がだよ」

「これから保健室行くんでしょ。空ちゃんのお見舞い」

「なんで知ってんだよ」

「そりゃあ、情報屋だし?」

 千景は胸を張る。

「最近空ちゃん、体調不良で授業休みがちでしょ。体育館の後も保健室に運ばれてからなかなか戻ってこなかったし。黒江が上の空で窓ばっか見てるのも、全部チェック済み」

「お前、どんだけ暇なんだよ」

「推しカプの観察は暇じゃないよ?」

「推しカプって言うな」

 反射的に否定すると、千景はにやにや笑った。

「まあまあ。真面目な話、空ちゃん今どういう状態か、ちゃんと確認してきなよ。フラグ的にも、彼女の方が危なっかしいでしょ?」

 そう言われて、俺は無意識に視界の端を探った。

 保健室の方向。

 薄くて、掴みにくいが——確かにそこに、一つだけ揺れるフラグが見えた。

【体調不良・肩代わり契約の反動・三〇%】

 数字は高くない。

 それでも、俺の胸をざわつかせるには十分だった。

「……ちょっと、顔出してくる」

「うんうん。お見舞いっていう名の保健室ラブコメ、しっかり堪能しておいで」

「変な実況つけんな」

 そう言い残して、俺は教室を出た。

     ◇

 保健室は、静かだった。

 授業中だから当然だ。

 カーテンで仕切られたベッドがいくつか並び、薬品棚が壁際を埋めている。

 消毒液の匂いと、窓から差し込む柔らかな日差し。

 遠くから、体育館の方角でボールの弾む音が聞こえる。

「失礼します」

 軽くノックして入ると、椅子に座っていた保健の先生が顔を上げた。

「黒江くん? どうしたの、具合悪い?」

「いえ、その……天城の様子を見に」

「ああ、天城さんね」

 先生は、少しだけ目を細めた。

「今日は熱も下がってるし、だいぶ楽そうよ。声かけてあげて」

「ありがとうございます」

 俺は小さく頭を下げてから、奥のカーテンに向かう。

 一番窓側のベッド。

 白いカーテンが半分だけ開いていて、その隙間から、見慣れた黒髪が見えた。

「おーい、死にたがり優等生」

「その呼び方、やめない?」

 ベッドの上で、空がこちらを見た。

 制服の上着は脱いでいて、白いシャツの襟元を少し緩めている。

 頬の血色は、この前屋上で倒れたときよりずっといい。

 でも、まだ本調子とは言いがたい薄さが残っていた。

 それでも、笑顔はちゃんと空のものだった。

「体調は?」

「うーん、六割回復くらい?」

 空は、ベッドの上でちょこんと体育座りをしながら言う。

「肩代わり契約の反動っていうか、システムに無茶しすぎたっていうか。しばらく身体がだるいのは仕方ないって、向こうの人にも言われた」

「向こうの人って表現やめてくれ。背筋が寒くなる」

「じゃあ、“死神のバイト仲間”とか?」

「余計に怖えよ」

 自然と、口調は軽くなる。

 それでも、胸の奥にはずっと引っかかっていたものがあった。

 ベッドの横の丸椅子に腰を下ろす。

 窓からの光が、空の横顔を照らしている。

 目を細めて、その光を見ている空は、いつもより年相応に見えた。

 このまま他愛ない話で時間を潰すこともできた。

 でも——。

「なあ、空」

「ん?」

「お前、まだ——」

 言葉を選ぶ暇はなかった。

 考えれば考えるほど、誤魔化せる言い回しを探してしまいそうだったから。

「まだ、死にたいのか?」

 空のまぶたが、ゆっくりと瞬いた。

 保健室の時計の針が、かちりと音を立てる。

 小さな沈黙が挟まった。

 前なら、ここで空は軽く笑って、「うん、相変わらず死にたいよ」なんて言っただろう。

 死ぬことを冗談みたいに扱って、自分の本心から目を逸らすように。

 だけど今日は——。

「……分からなくなった」

 空は、窓の外を見たまま言った。

 自分でも驚いているような、かすかな声で。

「今までだったら、迷わず“はい”って言えたのにね」

「分からなくなったって、どういう意味だよ」

「そのまんまの意味」

 空は、自分の膝をぎゅっと抱えた。

「この前の、あの実験のときさ」

 あの、と言われて、俺の背中に冷たいものが走る。

 フラグの海。

 世界中の死に方が一箇所に押し込まれた、あの場所。

 そこで、空と二人で、死をいじくり回した夜。

「あのとき、何度か本気で“あ、私、死ぬかも”って思った」

 空は、膝に額を押しつけるみたいにしながら続けた。

「契約のときより、ずっとリアルに。心臓も苦しかったし、息もできなくて、頭も割れるみたいに痛くて」

「……ああ」

 俺も、あの感覚を思い出す。

 身体が焼けるみたいだった。

 あれが“死の総量”ってやつの重さなら、冗談じゃない。

「で、そのとき」

 空は、少しだけ笑った。

「めちゃくちゃ怖かったんだ」

 顔を上げた彼女の目の縁は、うっすら赤かった。

「死ぬのが?」

「うん」

 迷いなく頷いた。

「今まで、“どうせいつか死ぬし”“弟のためなら自分が死ねばいいし”“誰かの死の肩代わりになれるなら、死ぬ方がマシだし”って思ってた」

 淡々とした口調。

 だけど、そこに少しずつひびが入っていくのが分かる。

「でも、実際に“今ここで終わるかもしれない”ってところまで行ったら——」

 空は、喉の奥で息を飲み込んだ。

「すっごく、いやだった」

 ぽつりと落ちた本音は、あまりにも普通で、あまりにも重かった。

「まだ弟と話したいこと、いっぱいあったし。やってみたいことも、案外たくさんあったし。黒江くんたちのことも、途中で投げ出して消えるのはずるいなって思ったし」

「ずるいって表現そこなのかよ」

「うん、そこ」

 空は、自嘲気味に笑った。

「私、ずっと“死ぬ意味”ばっかり考えてたんだよね」

「死ぬ意味?」

「“弟のために”“誰かのために”“世界のために”って理由をつければ、自分の死に納得できると思ってた」

 空は、小さく息をついた。

「死に方に意味を見つけようとする方が、楽だったんだよ。本当は、“自分の生きる意味”を考えるのが怖かっただけなのに」

 それを聞いた瞬間、胸の奥が妙に静かになった。

 ああ、そうか。

 空はずっと、自分の死を「誰かの物語のクライマックス」にしようとしていたのかもしれない。

 弟のため。

 世界のため。

 誰かを救うため。

 そう言えば、死ぬ自分に価値があるような気がするから。

 でも、それは同時に、自分の人生を誰かのための道具にしてしまう考え方でもある。

「……で、今はどうなんだよ」

 言いながら、自分でも声が少し震えているのが分かった。

「死にたいのか、死にたくないのか」

「だから、分からないってば」

 空は、困ったように笑った。

「前ほど、“死にたい”って簡単に言えなくなったのは確か」

「それは……」

「多分、“生きたい”って気持ちも、ちゃんとあるんだって気付いちゃったから」

 空は、胸に手を当てた。

「黒江くんに“生きててほしい”って言われたときとか。千景ちゃんに“死なないでよね”って普通に泣かれたときとか。弟とテレビ電話して、“また遊ぼうね”って言われたときとか」

 ひとつひとつ、指折り数えるみたいに。

「そういうの、全部“死ぬ理由”じゃなくて、“生きる理由”なんだなって思った」

 保健室の空気が、静かに揺れる。

 窓からの光。

 薄いカーテンの影。

 遠くから聞こえる体育館の音。

 全部が、妙に鮮やかだった。

「だからさ」

 空は、膝を抱えたまま、顔だけこちらに向けた。

「“死にたがり優等生”って肩書き、そろそろ返上してもいいかなって思ってる」

「勝手に名乗って勝手にやめんのかよ」

「うん。自己プロデュースってそういうものでしょ?」

 いつもの調子で返してから、空は少しだけ真面目な顔に戻る。

「代わりに、“生き方が下手な優等生”くらいなら名乗ってもいい」

「だいぶ長い肩書きだな」

「いいじゃん。黒江くんの方は、“死にフラグを折るのが下手な凡人”」

「俺のディスり強くね?」

 口ではそう言いながらも、どこかほっとしている自分がいた。

 死ぬ意味じゃなくて、生きる意味。

 その話を、空の口から聞けたことが、嬉しかった。

「……じゃあさ」

 俺は、少しだけ視線を外しながら言った。

「その“生きる意味”ってやつ、これから一緒に探せばいいんじゃねえの」

「一緒に?」

「お前一人で探してたら、また変な方向に走りそうだし」

 弟のため。

 誰かのため。

 世界のため。

 そうやってすぐ、自分のことを後回しにするから。

「だから、俺も巻き込め」

「巻き込め、って」

「死ぬ意味じゃなくて、生きる意味。どうせなら、三人で探した方が効率いいだろ」

「三人?」

「千景も入れないと、絶対拗ねる」

「それはそう」

 空は、堪えきれないというように笑った。

 目尻にうっすら涙が溜まっている。

「黒江くんがさ」

「ん?」

「そんなこと言う日が来るなんて、思わなかった」

「俺だって、自分で言ってて気持ち悪いわ」

「でも、嫌いじゃない」

 空は、枕に顔をうずめるみたいにしながら、くぐもった声で言った。

「黒江くんが、私の“死にたい”を止め続けてくれるなら、多分私はもう、“死にたい”って簡単には言えなくなる」

「それは、止めがいがあるってことか?」

「うん」

 布団の中から、小さく頷きが見えた。

「よろしくお願いします、私の“死にたがり卒業プログラム担当”さん」

「そんな担当イヤだわ」

 そう言いながら、伸ばしかけた手を、迷った末にそのまま空の頭にぽん、と乗せた。

 黒い髪が、少しだけ指にまとわりつく。

 空が、不思議そうに目を瞬かせた。

「……何」

「いや」

 何でもない、とは言えなかった。

 ただ、ちゃんとここに生きていることを、手のひらで確かめたかっただけだ。

「ほんとに、ちゃんと生きてるなって」

「そりゃあ、死んだら保健室じゃなくて霊安室行きだよ」

「そういう生々しいこと言うな」

 そうやって軽口を叩けていること自体が、何よりの救いだった。

 そのとき——。

「はーい、ここで場の空気ぶっ壊しに来ましたー」

 勢いよくカーテンが開いた。

「うおっ!」

「わっ」

 俺と空が同時に声を上げる前に、千景がずかずかとベッドに近づいてきた。

「二人とも、生きててよかったー!」

 そのまま、空に抱きついた。

 空の身体が、ベッドの上でぐらっと揺れる。

「ちょ、千景ちゃん、苦しい苦しい」

「尊い尊い尊い。保健室ラブコメ現場押さえた私の情報屋力、神」

「お前な……!」

 俺がツッコむと、千景は悪びれもせず振り向いた。

「だってさ、黒江が教室から真っ赤な顔で保健室に向かった時点で、“これは何かある”って思うじゃん?」

「誰が真っ赤だ」

「耳まで赤かったよ?」

「……見てんじゃねえよ、そういうとこ」

「観察は情報屋の基本です」

 胸を張る千景。

 空が、笑いながら千景の背中を軽く叩いた。

「千景ちゃん、ありがとうね」

「何が?」

「生きててって、言ってくれたこと」

 千景の動きが、一瞬止まる。

 次の瞬間には、また笑顔に戻っていた。

「当たり前じゃん。私の推しが、勝手に物語から退場するの、許さないからね?」

「推しって言うな」

 俺がまたツッコむ。

 保健室のベッドの上で、三人分の笑い声が重なった。

 さっきまでぎこちなかった空気が、少しだけ軽くなる。

 そんな時間だった。

     ◇

 保健室の窓の外。

 廊下の角の陰に、芹沢は立っていた。

 手には、いつものタブレット端末。

 画面には、学校全体の簡易マップと、いくつかの統計グラフが表示されている。

 その片隅で、保健室の位置が小さく点滅する。

 中から聞こえてくる笑い声に、芹沢は目を細めた。

「……やっぱり、君たちは規格外だよ」

 誰にともなく囁く。

 ふと、視界の端に違和感を覚えた。

 自分の頭上に、何かが浮かんでいる気がして、無意識にそこへ意識を向ける。

 普段なら見えないはずだ。

 管理局側の人間には、基本的に自分自身のフラグは視認できない。

 それでも、今は——。

【進路の迷い・管理局との決別・五〇%】

 小さなアイコンが、一つだけ浮かんでいた。

「……やれやれ」

 芹沢は、苦笑した。

「僕まで影響されるのは、想定外なんだけどな」

 そのとき、保健室の中から視線を感じた。

 窓際のベッド。

 カーテンの隙間から、黒江真澄と目が合った。

 黒江は、こちらをじっと見て——少しだけ口角を上げた。

 まるで、「あんたにも、選び直すチャンスがある」とでも言うように。

 芹沢は、肩をすくめた。

「……検討しておくよ、黒江くん」

 小さくそう呟いて、その場を離れた。

     ◇

 夜。

 天城空は、自分の部屋で机に向かっていた。

 ベッドの上には、病院から持ち帰ってきた書類や、飲み薬の袋が散らばっている。

 机の上に広げているのは、小さな手帳。

 表紙には、シンプルな文字で「メモ」とだけ書かれている。

「やりたいことリスト」

 ボールペンをくるくる回しながら、空は小さくつぶやいた。

 ページの一行目には、すでにいくつかの言葉が並んでいる。

「弟と、もう一回映画に行く」

「海を見に行く」

「バイトをしてみる」

 それから少し間を空けて——。

「旅行に行きたい」

 書きながら、自分で吹き出しそうになる。

「生きる前提じゃん、これ」

 窓の外には、夜の街の明かりが広がっていた。

 遠くのビルの窓。

 コンビニの看板。

 車のライト。

 その一つ一つの上に、小さなフラグが浮かんでいる。

【残業・しんどい・四〇%】

【友達とゲームしながら夜更かし・六〇%】

【テスト勉強・眠い・九〇%】

 どれもこれも、当たり前の日常だ。

 ページに視線を戻す。

 ペン先を咥えながら、しばらく考えて——。

「恋をしてみたい」

 と書き足して、慌てて手帳を閉じた。

「な、何書いてんの私」

 羽ペンでも燃え上がりそうな羞恥の熱が、顔に一気に上る。

 そんな自分がおかしくて、空はひとりで笑った。

「……でもまあ、いいか」

 死ぬ意味じゃなくて、生きる意味。

 やりたいことリストは、そのためのメモ帳だ。

 ページの端に、もうひとつだけ、小さく書き足す。

「死ぬ時は、笑っていたい」

 以前なら、その言葉にはどこか投げやりな響きがあっただろう。

 「どうせ最後は終わるんだから、笑っていればいい」という諦め。

 でも今書いたそれは、少し違う。

 いつか来る自然な終わりを、自分らしく受け入れたい。

 そのときまでに、「ああ、いろいろあったけど、生きててよかったな」と思えるだけの何かを、この手で掴んでいたい。

 そういう意味だった。

 手帳を閉じて、机の引き出しにそっとしまう。

 ちょうどそのタイミングで、部屋のドアがノックされた。

「ねえねえ、姉ちゃん。ゲーム一緒にやろうよ」

 弟の声だ。

 空は振り返って、ドアに向かって笑った。

「今行く」

 立ち上がる。

 椅子が床をきしませる音。

 その瞬間、窓の外で、小さなアイコンがふわりと浮かんだ。

【遠い未来・老衰・看取られながら・やすらかに・一%】

 ほんの一瞬だけ。

 すぐに消えてしまう。

 空は、それに気づいていない。

 でもそれでいい。

 そういう未来が「あり得る」と分かっているだけで、今は十分だから。

「よし、今日は負けないからね」

「えー、この前も言ってたー」

 廊下に、弟との他愛ない会話が響く。

 手帳の中の「やりたいことリスト」は、まだ数行しか埋まっていない。

 けれど、そのどれもが、はっきりと「生きる前提」で書かれている。

 死にたがり優等生の初めての本音は——。

 誰にも聞かれないところで、静かにページの間に挟まれていた。


第二十話「フラグだらけの日常と、これから」

 季節が、少しだけ進んだ。

 朝、玄関を出た瞬間に肌を撫でる風が、前より少しだけ柔らかい。

 冬の冷たさが薄れて、制服のブレザー一枚でもそこまで苦じゃない。歩道脇の植え込みには、小さなつぼみがちらほら混ざっている。

 通学路の風景は同じなのに、色だけがじわじわ変わっていく感じだ。

 駅へ向かう道。

 眠そうにあくびをするサラリーマン、イヤホンをしてスマホを睨むOL、制服姿の中学生たち。その頭上に、相変わらず、俺にはフラグが見えている。

【寝坊・遅刻確定・九〇%】

【スマホ置き忘れ・気づく・七五%】

【上司に怒られて凹む・六〇%】

 色は薄い。形も小さい。

 以前みたいに、突然【交通事故・死亡】だの【自殺・今日中】だの、見るだけで吐き気がするようなやつは、ほとんど見えなくなった。

 ゼロじゃない。

 駅のホームの向こう側、線路ぎりぎりに立っている男の頭上には、薄く【転落・重傷・二五%】なんてアイコンが揺れているし、改札近くのカップルの上には【別れ話・口論・五〇%】なんて文字が浮かんでいる。

 それでも、前に比べたら世界全体の「死」は、明らかに遠のいている気がした。

 ホームに電車が滑り込んでくる。

 風が巻き起こって、誰かのコートの裾がばさりと揺れた。

 俺はいつもの位置に立って、窓ガラスに映る自分の顔を眺める。

 その頭上にも、小さなフラグがいくつか浮いていた。

【テスト勉強し忘れ・小テスト撃沈・八五%】

【帰りに千景に冷やかされる・九九%】

【空のことで悩む・一〇〇%】

「最後のやつ確定かよ」

 ぼそっと突っ込んでから、苦笑する。

 死なないフラグばっかりになって、世界は相変わらず面倒くさい。

 でも——悪くない。

 電車に揺られながら窓の外を眺めていると、駅のホームの上を、一羽のカラスが飛ぶのが見えた。その上に浮かんでいるアイコンは、何もない。

 カラスのフラグまでは見えないらしい。

「そこまで管理対象じゃないってことかね」

 どうでもいいことを考えながら、俺は最寄り駅で降りる。

 いつもの道を歩いて、いつもの校門をくぐる。

 校庭では、ブレザーの下にまだセーターを着ているやつもいれば、すでにネクタイだけで平気そうにしているやつもいる。女子たちのスカート丈も、じわじわと春仕様に短くなってきた。

 そんな中——。

「おっはよー黒江くん。今日も元気にフラグ監視ご苦労さまです」

 背後から軽い声が飛んできた。

 振り返ると、いつものポニーテールが揺れている。

 新郷千景。

 片手にスマホ、もう片方に紙パックのコーヒー牛乳。

 制服のリボンは、微妙に校則ギリギリの位置で結ばれている。

「誰が監視員だ。こっちは勝手に見えてるだけだ」

「はいはい。で、今日はどう? “やばめフラグ”何パーセントくらい?」

「今のところ、三十を超えてるのは——」

 視界に軽く意識を走らせる。

 校門の近くでふざけている男子の頭上に【遅刻・生活指導に捕まる・八〇%】、自転車で突っ込んできたやつに【ブレーキ不調・転倒・五〇%】。

 でも、命までは持っていかない。

「一番高いので“生徒指導室送り・八〇%”だな」

「それただの自業自得やつ」

「そう。死なないから放置」

「なるほど、放課後フラグ改変クラブの判断基準は今日も平常運転ですね」

「正式名称みたいに言うな」

 口では否定しながらも、その名前はいつのまにか定着していた。

 クラスメイトの間で、「なんか困ったことあったらあの三人に相談すれば?」みたいな空気が出来上がっていて、いつの間にか俺たちの机の周りには、放課後になると相談希望者が集まるようになっている。

 部室も看板もない、非公認クラブ。

 それでも、俺たちにとっては十分だった。

「ところで黒江くん」

「ん?」

「今日の放課後、相談二件入ってます」

 千景は、スマホ画面をこちらに突きつけてきた。

 そこには、クラスのグループチャットのログが表示されている。

『新郷ー、ちょっと相談いい?』

『わたしも、放課後時間ある?』

「このアイコン、二年の先輩と一年の子。どっちも人間関係っぽい匂いするから、空ちゃん呼んで三人で聞こう」

「お前、いつの間に受付窓口になったんだよ」

「情報屋兼マネージャーですから」

 胸を張る千景の頭上にも、ついさっき立ったばかりのフラグが見えた。

【調子に乗って足を踏み外す・階段で尻もち・六〇%】

「おい、前見て歩け。階段でコケるフラグ立ってる」

「うそ、どこ!? やだ私のおしりデリケートなのに!」

「おしりのデリケートさは知らねえけど、とりあえず手すり持っとけ」

 そんな他愛のない会話をしながら、俺たちは教室へ向かった。

     ◇

 午前中の授業は、相変わらず退屈だった。

 数学教師の単調な声。

 眠気を誘う暖かい空気。

 窓の外には、体育で走っている別クラスの姿。

 教科書にペンを走らせながら、俺は頭の片隅でフラグの色だけをチェックしていた。

 最近、学校の中では、命に関わるフラグはほとんど見ない。

【家庭不和】【いじめ】【自殺念慮】みたいな重めのやつも、ゼロではないが、前より格段に薄くなった。大半は【テスト失敗】【告白失敗】【部活の大会で負ける】レベルのものだ。

 もちろん、それが本人にとっては大問題なのは分かっている。

 でも、少なくとも「明日が来ない」みたいなフラグを見続けるよりは、ずっとマシだ。

「黒江。黒江」

「……はい」

 名前を呼ばれて顔を上げると、前の席から振り返った空と目が合った。

 いつのまにか席替えで、空は俺の前の席になっていた。

 振り返るたびに髪がふわっと揺れて、後ろの俺の集中力を平然と削り取ってくる配置だ。

「ノート、一行ずれてるよ」

「見てんじゃねえよ」

「だって、明らかに眠そうなんだもん」

 空は、教科書の陰で、こそっと笑った。

 頬の血色は、この前よりずっといい。

 保健室通いもほとんどなくなって、最近は体育以外の授業にも普通に出ている。

 彼女の頭上には、薄いフラグがふわふわと浮かんでいた。

【小テストでケアレスミス・七〇%】

【帰りに弟にゲームで負ける・六五%】

 本当に、ただの日常。

 死にたがり優等生、なんて肩書きは、もうどこにも見当たらない。

     ◇

 昼休み。

 教室の隅、いつものメンバーで机をくっつけて弁当を広げる。

「でさあ、聞いてよ」

 千景が、たまご焼きをつつきながら言った。

「この前もさ、先生たち“命の授業”の会議してたんだって。防災マニュアル全部見直すとか、避難経路もう一回整備するとか、なんか本気」

「そりゃまあ、前にあんなことあったからな」

「体育館の設備も最新のに変えるらしいよ。生徒会長が提案したって」

 千景の視線が、窓の外に向かう。

 校庭を挟んだ向こう側、生徒会室のある棟の窓に、芹沢の姿がちらりと見えた。

 相変わらず、何を考えているのか分からない笑顔を浮かべながら、先生と話している。

 あいつの頭上に浮かぶフラグは——。

【進路の迷い・管理局との距離感・五五%】

【生徒会長としての責任・八〇%】

 このあいだ見たときより、ほんの少しだけ「管理局との決別」の数字が上がっている気がする。

 俺がじっと見ているのに気づいたのか、芹沢はこちらを振り向いた。

 視線がぶつかる。

 あいつは、軽く手を上げて笑った。

 その笑顔は、「監視対象」に向けるそれじゃなかった。

 普通に、「同じ学校の生徒」に向ける笑顔だった。

「……まあ、あいつはあいつで足掻いてんだろ」

 ぼそっとつぶやくと、空が首を傾げる。

「芹沢くん?」

「ああ」

「真面目だからね、あの人。世界規模で真面目」

「規模がおかしい」

 笑いながら、空は箸を口に運ぶ。

 弁当箱の端には、少し崩れた卵焼きが乗っていた。

「それ、弟が作ったのか?」

「うん。最近、料理練習中だから」

 自慢げに見せてくる空の頭上に、ひっそりと浮かぶフラグがあった。

【弟と一緒に晩ご飯を作る約束・忘れないように・九〇%】

 死ぬフラグじゃない。

 生きる予定のフラグ。

 そんなものが見える世界なら、悪くない。

     ◇

 放課後。

 教室の一角に、自然と三人が集まる。

「えっと、今日の案件は二件だっけ?」

「はいこちら、情報屋からの報告です」

 千景が、スマホとノートを同時に開いた。

「二年三組の先輩から、“友達との距離感が分からない”って相談。あと一年の子から、“部活で浮いてる気がする”って相談」

「思ったよりふわっとしてんな」

「でも、ふわっとしたやつが後々こじれて重症化するんだよ。ね、空ちゃん」

「うん」

 空は、小さく頷いた。

「“死にたい”って言葉になる前に、話してもらえた方がいい」

 空の役割は、いつのまにか完全に「聞き役」になっていた。

 彼女自身が、きつい時期をくぐり抜けてきたからこそ、同じような場所にいる誰かの言葉を、途中で遮らずに聞いてやれる。

 千景は、噂とSNSから周辺情報を集める。

 誰と誰が距離が近いのか。

 どこで何が炎上しかけているのか。

 誰がどんな裏垢を持っていて、どこまでが本音でどこからがネタなのか。

 そういうのを、信じられない速さで掘ってくる。

 俺の役目は、その全部を「フラグ」という形で俯瞰することだ。

 危険度の高いものから優先して手を付ける。

 先に大人に繋いだ方がいい案件かどうかを判定する。

 直接声をかけるか、環境を変える方向で動くか。

 俺たちは、その都度、その場で決めていく。

 きれいな答えなんてない。

 ただ、誰かの頭上にある「最悪の未来」のゲージを、少しでも下げられれば、それでいい。

「これさあ」

 ノートにメモを書きながら、千景がふと顔を上げた。

「部活にできないかな」

「は?」

「いやほら、放課後フラグ改変クラブ、正式名称にして、生徒会に申請して——」

「余計なこと言うんじゃねえ」

 即座に否定すると、空がくすっと笑った。

「でも、非公式のままでもいいと思うな」

「なんでだよ」

「公式になったら、“やらなきゃいけないこと”が増えるでしょ?」

 空は、窓の外を見ながら言った。

「今のこれは、“やりたいからやってること”のままの方が、きっと続けやすい」

「……そうかもな」

 義務になった瞬間、窮屈になることは、俺たち全員分かっている。

 世界の死のバランスだの、総量だの、難しい話はたくさんあるけれど。

 今この教室でやっていることは、もっと単純でいい。

 目の前の誰かの「やばいフラグ」を、ほんの少しだけマシなものに変える。

 それだけだ。

     ◇

 管理局との関係も、少しずつ形を変えつつあった。

 空の肩代わり契約は、一部見直されたらしい。

「“私一人の死で多数の死を帳消しにする”条項は、さすがに理不尽すぎたって」

 と、空は笑っていた。

「今は、向こうの“相談窓口”みたいな立場。現場で見つけた“おかしな死の分布”とか、“この仕組みだと人間側が持たない”とか、そういうフィードバックを送る係」

「バイトのシステムエンジニアみたいなもんだな」

「時給出ないんだけどね」

 真澄の能力も、「例外」として正式に登録された。

 監視対象であることには変わりないが、同時に「人間側の観測者」として扱われることになったらしい。

「君みたいな視点からのデータは、管理局にとっても貴重だからね」

 と、芹沢は言った。

 どこまで本音かは分からない。

 でも、あの夜、芹沢がシステム側にハックをかけてくれなければ、俺たちは今ここにいなかった。

 あいつもまた、「全部を守れない世界」で、自分なりに足掻いている一人なんだろう。

     ◇

 その日の放課後。

 相談二件をこなし終えたあと、俺たちは珍しく屋上に上がった。

 風はまだ少し冷たいけれど、頬を刺すほどじゃない。

 柵にもたれてジュースの缶を並べる。

「かんぱーい」

 千景が言って、三つの缶が軽くぶつかった。

 オレンジジュースと、リンゴジュースと、ただの炭酸水。

 味はバラバラでも、缶の冷たさは同じだ。

「なあ」

 缶を口に運びながら、千景が空に顔を向けた。

「この活動さ、卒業してからも続けるんでしょ?」

「え」

 空が目を瞬く。

「だってさ、世界中フラグだらけなんだし、黒江と空ちゃんがどっか行ったら、残りの人類どうすんのって感じじゃん」

「人類の命運預けんな」

「じゃあ“身の回りの人類”くらいで」

 千景は、当たり前みたいな顔で言った。

「高校卒業してもさ、SNSとかオンラインとか、いくらでも繋がれるじゃん。相談窓口、全国対応しよ?」

「軽く言うなよ、お前は」

 俺が呆れると、空は少し考えてから笑った。

「でも、確かに」

「何が」

「この活動、ここだけで終わらせるのは、もったいないかも」

 空は、校庭を見下ろした。

 部活帰りの生徒たち。

 ボールを追いかける一年生。

 ベンチでお菓子を食べている女子グループ。

「私たちだけじゃ世界中は救えないけど」

 空は、いつかどこかで聞いた台詞を、そのまま口にした。

「目の前くらいは、なんとかなりそうだし」

「……お前、それ」

「黒江くんの受け売り」

 振り返った空の笑顔は、あの日よりずっと自然だった。

「最初にそれ聞いたとき、“何カッコつけてんの”って思ったけど」

「言った本人の前で言うな」

「でも今は、結構本気でそう思ってる」

 空は、缶を軽く持ち上げた。

「目の前くらいは、私たちのエゴで守ってもいいかなって」

「エゴ、か」

 俺は、自分の缶を見つめた。

 そうだ。

 世界全体で見れば、俺たちのやっていることなんて、誤差みたいなもんだ。

 管理局がどう計算しているのか知らないけれど、全世界の死の総量から見れば、高校生三人の足掻きなんて、きっと数字にもならない。

 それでも——。

「俺たちが“守りたい”って思ったやつくらい、守れたらいいな」

 小さく言うと、千景がニヤッと笑った。

「ねえねえ空ちゃん。今の告白っぽくなかった?」

「なってない」

「なってないから」

 二人同時に否定すると、千景が肩をすくめる。

「えー、つまんないの」

「お前は何の観測者なんだよ」

「人間関係フラグの観測者?」

 まあ、それはそれで必要かもしれない。

 俺たち三人で、世界中のフラグ全部をどうにかしようなんて、本気で思ってはいない。

 そんなのは不可能だ。

 テレビをつければ、今も別の国で紛争が続いているニュースが流れるし、どこかの街で自然災害が起きている映像も目に入る。

 この瞬間にも、世界のどこかで誰かが死んでいる。

 その現実を、俺たちはもう知ってしまった。

 それでも、だ。

     ◇

 その日の夜、リビングでニュースを見ていると、ちょうどそんな映像が流れた。

『続いてのニュースです。内戦状態が続く海外の都市で——』

 荒れた街並み。

 瓦礫の山。

 泣いている子どもを抱きしめる大人の姿。

 テレビの画面の中にも、フラグは浮かんでいる。

【紛争・負傷・死亡・四〇%】

【空腹・病気・三五%】

 数字は決して低くない。

 けれど、そのすぐ隣には、別のアイコンも見えた。

【医療支援・到着・五〇%】

【ボランティア・物資配布・六〇%】

【復興に向けた会議・三〇%】

 画面の端。

 ヘルメットを被った人たちが、テントを張っている。

 白い腕章には、見慣れないマーク。

 その頭上に浮かぶフラグは、どれも【助けようとする意思】に紐づいていた。

 死のフラグと同じくらい、「何とかしよう」と足掻いている人間もいる。

「……全部は無理だ」

 ぽつりとつぶやく。

 カメラが映す範囲の外にも、フラグは無数にあるはずだ。

 その全部に手を伸ばすことはできない。

「でも、あそこで誰かがフラグを折ろうとしてるなら」

 画面の中の誰かの頭上のアイコンが、ほんの少しだけ色を変えるのを見ながら、心の中で続けた。

「きっと世界は、そう簡単には終わらない」

 俺たちみたいなやつが、この街にも、あの国にも、どこかにいる。

 そう思えたら、少しだけ胸のざわつきがおさまった。

     ◇

 数日後。

 放課後の廊下。

 窓から夕日が差し込む時間帯。

 俺はプリントを職員室に届ける途中で、階段の前で足を止めた。

 ちょうど、一年生くらいの小さな男子が、両手いっぱいに教科書を抱えて階段を上っていくところだった。

 その頭上に、くっきりとアイコンが一つ。

【転倒・階段から落ちる・擦り傷・七〇%】

「おい」

 思わず声をかけていた。

「え?」

 振り返った一年生の顔は、少し驚いている。

 教科書の山で前がよく見えていない。

「それ、持ち過ぎ。前見えねえだろ」

「あ、はい……」

「どれか一回置いていけ。階段でコケたら痛いぞ」

「だ、大丈夫です!」

 そう言って、一歩踏み出した瞬間——。

 教科書の角から、ノートが一冊つるりと滑り落ちた。

 それを慌てて追いかけようとして、足元がぐらっと揺れる。

 俺は反射的に腕を伸ばした。

「うおっと」

「わっ!」

 一年生の腕を掴んで、引き寄せる。

 ノートは階段の途中で止まり、彼の足は空を踏まずに済んだ。

 その頭上のフラグが、ふわりと揺れて——。

【転倒・擦り傷】の文字が消えていく。

【ちょっと驚く・先輩にお礼を言う・九五%】

 代わりに、そんなアイコンが浮かんだ。

「前見て歩けよ」

「す、すみません! ありがとうございます!」

 ぺこぺこと頭を下げる一年生を見ながら、俺は肩をすくめた。

 今日もまた、世界のどこかでフラグが立って、誰かがそれを折る。

 たまたま今は、それが俺の番だった、というだけだ。

     ◇

 放課後。

 いつものように教室で、俺たちは机を囲んでいた。

 窓の外では、夕日が校舎の壁を赤く染めている。

「ねえ、黒江くん」

 ジュースのストローをくわえながら、空が言った。

「なに」

「いつかさ」

 空は、少しだけ遠くを見る目をした。

「世界中のフラグ、見に行ってみたくない?」

「世界中?」

「うん。今はこの街とニュースの向こう側くらいしか見えてないけど、本当はもっとたくさんあるんでしょ。いろんな国の“死にそうだったのに死ななかった人”とか、“すごくツイてないのに笑ってる人”とか」

 空は、ペンで机に小さな丸を描いた。

「いつか、旅行とかで実際に見て回って、“あ、ここにも誰かがフラグ折ってるな”って確認してみたい」

「……物好きだな」

「黒江くんもでしょ?」

「まあ、ちょっとはな」

 そんなことを言えるようになった自分が、少しだけ不思議だった。

「じゃあそのときは、うちのチャンネルで世界フラグレポート配信するね」

「いつの間にチャンネル開設したんだ、お前」

「まだしてないけど、脳内ではもう十万人登録者いるから」

 千景が、相変わらずのテンションで話に入ってくる。

「世界中のフラグ事情を配信する女子高生三人組。絶対バズるね」

「いやバズらなくていいわ、それは」

 くだらない話。

 未来の話。

 進路の話。

 就職か、大学か、別の道か。

 三人の会話の重心は、いつのまにか「死」ではなく、「どう生きるか」の方に移っていた。

 きっと、また大きなフラグが立つ日も来る。

 俺たちの手には負えないようなやつが、どこかで動き出すかもしれない。

 それでも。

 これはそんな、フラグだらけの世界で、少しだけ足掻いてみようと思った俺たちの、放課後の記録だ。

     ◇

 エピローグ。

 夜の街を見下ろす、高層ビルの窓辺。

 管理局の本部ビルの一室で、一人の人物がガラスに手を触れていた。

 黒いスーツに、簡素なネクタイ。

 顔は窓に映るシルエットでしか分からない。

 部屋の中のモニターには、いくつもの数字とグラフが表示されている。

「特異点の観測、継続」

 誰かの声が、静かに言う。

 モニターの一枚には、日本のとある地方都市のマップが映っていた。

 学校のマーク。

 住宅街。

 河川敷。

 その上に浮かぶ、無数の小さなアイコン。

 赤や黄色ではなく、青や緑の穏やかな色が増えている。

「次の調整候補地、海外都市Aブロック」

 別のモニターには、遠くの国の地図。

 まだ赤いフラグが多いエリアが、点滅している。

 窓辺の人物は、それをしばらく見つめていた。

 やがて、小さく息を吐く。

「……さて」

 誰ともなしに呟く。

「彼らのやり方が、どこまで通用するか」

 窓の外、ビルの上空に、誰にも見えないフラグが一つだけ浮かんでいた。

【世界中で、また別の物語が立ち上がる・九九%】

 そのアイコンは、今にも弾けそうに揺れていた。



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