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死亡フラグが見える俺と、死にたがり優等生の放課後改変録  作者: 妙原奇天


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第十二話「俺たちのやり方で世界をいじくる」

 翌日、朝のホームルーム。

 担任が黒板に今日の連絡事項を書いているあいだ、俺はノートを開いて、ひとりで別のことをしていた。

 教科書でも、予習でもない。

 ページの上に、タイトル。

「死亡フラグのパターン」

 自分で書いておいて、ひどい字面だと思う。

 でも、今の俺には必要な整理だった。

 まずは、ざっくり分類。

 事故死、病死、自殺、他殺、老衰。

 それぞれの横に、今まで見てきたフラグの例を書き出していく。

【交通事故・即死】

【転落・致命傷】

【急性心不全・深夜】

【自殺・今夜・屋上】

【刺傷・取り返しのつかない一撃】

 ペン先が走るたびに、頭の奥から嫌な記憶も一緒に浮かんでくる。

 橋の欄干に立った佐藤。

 屋上のフェンスに手をかけた空。

 ニュースで流れた、トラック事故の映像。

「黒江。始業前からそんな真剣な顔して何を書いている」

 不意に頭の上から声が落ちてきて、慌ててノートを閉じた。

「あ、いえ、ちょっとしたメモで」

「授業と関係ない落書きは禁止だぞ」

 担任が冗談めかして笑う。

 いや、ある意味めちゃくちゃ関係あるんだけどな、とは口が裂けても言えない。

 席に戻った空と目が合う。

 彼女は、俺のノートを閉じる手元を見て、ほんの少しだけ目を細めてにやりとした。

「……後で見せて」

 唇だけが、音にならない言葉を形作る。

 俺は、ため息をひとつついた。

 昨日、河川敷で聞いた空の過去。

 「死の肩代わり」の契約。

 「死の総量は変えられない」という管理局の前提。

 どれも、重たい現実だ。

 でも、その上でなお、俺は思ってしまう。

 それでもなお、別の道があるはずだ、と。

     ◇

「要するにさ」

 放課後のファミレス。

 いつもの端っこの席に、トレイとドリンクバーと大量のポテト。

 テーブルの真ん中には、千景が集めてきた紙ナプキンの山。

 そこに太いペンで、やたら楽しそうに文字を書きなぐっていく。

「“死ぬ”は変えられないけど、“どう死ぬか”と“いつ死ぬか”は、ある程度いじれるってことでいい?」

「雑にまとめるとそう」

 ストローをくわえたまま、空が頷いた。

「管理局的には『総量不変』が大前提。私の契約は、『特定の誰かの死を先送りにして、そのぶん自分に寄せる』みたいな運用」

「で、黒江くんは、“見える側”」

 千景が、じっと俺を見る。

「その三人で、“世界いじくりチーム”結成ってわけだ」

「そんな軽い名前でくくるな」

「でもさぁ」

 千景は、ペン先で紙ナプキンをトントン叩く。

「ここまで設定聞いておいて、普通の部活なんてやってられないでしょ」

「お前、これ現実だからな? ラノベの打ち合わせじゃないからな?」

「えー、現実でラノベっぽいことが起きてるって最高じゃん」

 この人は、この状況を心の底から楽しんでいる節がある。

 不謹慎だ。でも、その不謹慎さが場の空気を救っている面もあるから、強く言えない。

「でさでさ」

 千景は、紙ナプキンに大きく三つの丸を書いた。

「“死の質”と」

 一つ目の丸に書き込む。

「“死のタイミング”と」

 二つ目の丸。

「“死の意味”」

 三つ目の丸。

「この三つが重要ポイントってことでよくない?」

「なんだその急に文学部みたいなワード」

「オタクの脳内では、いつだって物語の言葉で考えるのだよ、黒江くん」

 どや顔だ。

 空は、その丸をしばらく眺めてから、小さく笑った。

「……でも、たしかに一理ある」

「でしょ?」

「同じ“死”でも、質は変えられる」

 空が、ペンを受け取って一つの丸の横にさらさらと書き足す。

「即死か、苦しみの末か。孤独か、誰かに手を握られながらか」

「タイミングも」

 俺もつられて口を挟む。

「十代で死ぬのと、八十代で死ぬのじゃ、全然違うだろ」

「意味は……」

 千景がペンをくるくる回す。

「物語的に言うと、“納得できる死”か“理不尽な死”か」

「物語的?」

「例えばさ」

 千景は、ポテトを一本つまんで、振ってみせた。

「長年のライバルと最後の試合を終えたあと、満足げに眠るように死ぬおじいちゃんと」

「うん」

「歩道を普通に歩いてただけなのに、いきなり車が突っ込んできて死ぬモブ一般人」

「ひでぇ比較だな」

「前者は、『ああ、そうなる運命だったんだな』って読者も受け入れやすいでしょ」

 千景は、前者を「意味のある死」の丸に書き込む。

「でも後者は?」

「バッドエンドのモブ」

「そう、ただの“理不尽な不幸”。物語的には、読者がぶちギレるやつ」

 なんとなく、わかる気がした。

「現実にそんな『納得できる死』がどれだけあるかはわかんないけど」

 千景は、ペンを紙ナプキンの上で止める。

「少なくとも、何も知らないまま殺されるよりは、何かをやり遂げた上で死ぬ方がマシって人もいるじゃん」

「だから、空は“死に場所を選ぶ権利”にこだわってる」

 俺がぽつりと言うと、空は照れくさそうに視線をそらした。

「そういうのをさ」

 千景は、視線を上げる。

「できる範囲で増やして、どうしようもない理不尽はちょっとずつ削れたら、世界的にはだいぶマシになるんじゃない?」

「簡単に言うなよ」

「簡単にはいかないよ」

 空が、苦笑しながらも頷いた。

「でも、“フラグを折る”だけが方法じゃないことは、はっきりしてきた」

「どういう意味だ」

「今まではさ」

 空が、紙ナプキンにもう一つ丸を書く。

「【自殺・今日・屋上】みたいなフラグが見えたら、それ自体を直接折ろうとしてたでしょ」

「佐藤の時みたいにな」

「でも、それって、ある意味一番乱暴な介入なんだよね」

「乱暴」

「フラグって、条件がいくつか重なって発動する“結果”でしょ」

 例えば、疲れと水分不足と無理な練習が重なった結果の【熱中症・倒れる】。

 例えば、連日の残業と家庭不和とちょっとしたトラブルが重なった結果の【自殺・今夜】。

「だったら、『フラグそのもの』をどうこうするんじゃなくて」

 空が、丸の外側に小さな点をいくつも描き足す。

「前提条件の方をいじればいいんじゃないかなって」

「前提条件」

「熱中症なら、練習メニューとか、休憩とか」

「自殺なら、孤立とか、家庭環境とか、相談できる相手とか」

 俺の口から自然に出た言葉に、空が少しだけ目を見開く。

「黒江くん、けっこうわかってきたじゃん」

「いや、まあ……」

 ノートに書き出したパターンが、少しずつ頭の中で線になっていく。

「だから、今日からのテーマは」

 千景が、紙ナプキンの真ん中に大きく書いた。

『フラグが立つ前提条件そのものをいじる』

「長いな」

「じゃあ、略してFPCいじりで」

「言いにくい」

 どこまでいってもネーミングセンスはアレだ。

 でも、その発想自体は、たしかに新しい。

     ◇

「じゃ、まずは小さいところから実験ね」

 ファミレス会議の翌日。

 昼休み、空が窓の外を見ながら言った。

「お、案件きた?」

 千景も、身を乗り出す。

 俺も視線を外に向ける。

 グラウンドでは、サッカー部が練習をしていた。

 秋の大会が近いらしく、いつも以上に気合が入っている。

 その中で、一人。

 華奢な体格の一年生の頭上に、見慣れた色のフラグが立っていた。

【熱中症・倒れる・七〇%】

「昨日までは六〇%くらいだったのに、今日は上がってる」

 空が、俺の視界と同じものを見ているように言う。

 見えてはいないはずなのに、確信めいているのが少し悔しい。

「今までだったらさ」

 千景が言う。

「黒江くんが『お前、水飲め』って直接言いに行ってたでしょ」

「だな」

「でもそれって、『その子』のフラグを折るだけで、チーム全体のコンディションは変わらない」

「今日はもうちょっと広くいじってみよう」

 空が、いたずらっぽく笑った。

「行く先、決めてるのか」

「保健室と、顧問の先生と、生徒会」

 空は、指を一本ずつ折りながら言う。

「熱中症対策を、『その一年生のため』じゃなくて、『部全体の方針』にしちゃう」

「なるほど」

 俺が頷くと、千景がニヤリとした。

「タイトル、『夏のグラウンドと熱中症フラグ撲滅大作戦』って感じ?」

「お前、なんでもタイトルつけないと気が済まないのか」

「だってアニメ化するときに各話タイトル必要じゃん?」

「まだアニメ化してねえよ」

 そんなやりとりをしながら、俺たちはそれぞれ持ち場に散った。

     ◇

 保健室。

 空は、少しだけ具合が悪そうな顔をして扉を開けた。

「先生、ちょっといいですか」

「天城さん? また貧血?」

「今日じゃなくて、夏の話なんですけど」

 空は、サッカー部に一年生の女子が新しく入ったこと。最近の暑さ。練習中に頭痛を訴えている人がいること——全部、「友達から聞いた」で押し通した。

「熱中症の予防って、部活全体で何を気をつければいいんでしょうか」

 真面目な顔で相談すれば、保健の先生も当然真面目に返してくる。

 定期的な水分補給。休憩時間。タオルや帽子の使い方。

「できれば、全クラスにプリント配ってほしいなあ」

 保健の先生が言う。

「最近ニュースでも騒がれてるし」

「じゃあ、生徒会にも話してみます」

 空は、きっちりそこで生徒会につなげる。

     ◇

 一方その頃、生徒会室。

「熱中症対策の啓発ポスター?」

 芹沢が、首を傾げる。

「うん。保健の先生も、全校で呼びかけたほうがいいって言ってた」

 空は、少しも嘘を混ぜずに言った。

「運動部だけじゃなくて、文化部の人も体育館とかでやってると危ないし」

「たしかにね」

 芹沢は、机の上の資料に目を落とす。

 その頭上には、今日も何のフラグも浮かんでいない。ぽっかり穴が空いたみたいに、そこだけ空白だ。

「なら、来週の全校集会で校長先生に一言話してもらおうか」

「ポスターも、保健委員に作ってもらえばいいんじゃないかな」

 空の提案に、芹沢は「了解」と印をつける。

「それと、部活ごとの『水分補給タイム』も校則で明文化した方がいいかもしれない」

「そんな細かいところまで」

「熱中症で倒れられると、僕らの仕事が増えるからね」

 軽い冗談めかして言いながら、芹沢の目が一瞬だけ空を見る。

 その視線に、別の意味が混ざっていることを、空は気づかないふりをした。

「君たちがやろうとしていることは、理解しているつもりだよ」

 芹沢が、ふっと笑う。

「『個人のフラグを折る』んじゃなくて、『環境のフラグ』をいじる」

「名前つけないで」

「その方が報告書に書きやすいから」

「報告書に書かないで」

 生徒会室に、少しだけ柔らかい空気が流れた。

     ◇

 数日後。

 サッカー部の練習では、練習メニューの合間に「水分補給タイム」がきっちりと設けられるようになった。

 顧問の先生が、「はい、一列になって水飲んで!」と声を張り上げる。

 1年生の女子も、先輩たちと一緒にペットボトルに口をつけている。

 俺の視界に浮かぶフラグは——

【熱中症・倒れる・七〇%】

 だったものが、今は

【練習後の軽い疲労・四〇%】

 くらいまで下がっていた。

 代わりに、部全体に【筋肉痛・八〇%】【翌日のだるさ・六〇%】といった小さなフラグがばらまかれている。

「分散してる」

 なんとなく、そう感じた。

「一人が倒れる未来が、『全員ちょっとしんどい』未来に変わった」

 空が、隣で呟く。

「こういうのなら、たぶん管理局も文句は言わない」

「たぶん、ね」

 俺が言うと、空は「たぶん」と笑い返した。

     ◇

 次の実験は、通学路だった。

 学校近くの横断歩道。

 朝のラッシュで、車と自転車と生徒たちがごった返す。

 その中に、一人。

 イヤホンで音楽を聴きながらスマホをいじっている女子生徒の頭上に、赤いフラグが浮かんでいた。

【接触事故・骨折・八〇%】

「今までだったら、俺が前に立って止めに入るところだが」

「今日は、“動線”いじりでいきましょう」

 千景が、腕を組んでニヤリとした。

「動線?」

「この横断歩道、ずっと問題になってるんだよね」

 千景は、クラスのSNSグループや地域掲示板から拾った情報を見せてくる。

「車通り多いのに信号短いし、見通しも悪いし」

「たしかに、危ねえとは思ってた」

「だから、生徒会経由で学校に『先生の見守り当番』増やさせる」

 千景は、人差し指を立てる。

「通学時間帯だけでいいから、ここに教師を立たせれば、それだけで事故率は下がる」

「そんな簡単に動くか?」

「生徒会長が本気出せばね」

 というわけで、その日の放課後。

 生徒会室で芹沢に“二度目のお願い”が行われた。

「通学路の安全確認の件?」

 芹沢は、打ち合わせ資料をめくりながら言った。

「保護者からのアンケートにも、同じような意見がよく出ています」

 と、空。

「事故が起きてからじゃ遅いので、先生の立ち番を増やせないかって」

「そうだね」

 芹沢は、少しだけ考えてから頷いた。

「教員の数にも限りはあるけど、週替わりで担当を回せばいけるかもしれない」

「市の方にも相談して、『見守り隊』の協力をお願いできるようにしたいです」

 空は、少しだけ畳みかけるように言う。

 芹沢は、それを止めもしない。

「君たちがやろうとしていることは、理解できる」

 彼は、窓の外の校門の方を見た。

「ルールや環境を変えて、『フラグの前提条件』をいじる」

「また名前つけてる」

「“FPC操作”」

「それ略になってない」

 軽口を挟みながらも、芹沢の目は真剣だった。

「一つ忠告しておくなら」

「何」

「環境を変えるのもまた、別種のバランスに影響する」

 さらりと言う。

「『一つの交差点』の事故率が下がれば、『別の場所』の事故が増えることもある」

「……やっぱそうなるか」

「ただし」

 芹沢は、少しだけ口元を緩めた。

「局所的な分散効果は、たしかにある」

「分散効果?」

「一人の大きな不幸を、複数人の小さな不運に分配する」

 芹沢の言い方は、やっぱりどこか冷静すぎる。

「そのやり方が、どこまで通用するかは、僕にも興味がある」

 生徒会長としての顔と、管理局のエージェントとしての顔。

 その両方で、俺たちを観察している。

「好きにやってみるといい。ただし——」

「死ぬ覚悟を決めろ、とか言う?」

「まさか」

 芹沢は、肩をすくめた。

「責任を取る覚悟は、少しずつ持っておきなさい」

「それってだいたい同じ意味じゃね?」

 空のツッコミが飛ぶ。

 芹沢は、それには答えずに「申請書は出しておくよ」とだけ言った。

     ◇

 翌週の朝。

 例の横断歩道の前には、ジャージ姿の教師が一人立つようになった。

「車、止まってから渡るんだぞー」

 赤い旗を持って、生徒たちに声をかけている。

 イヤホン女子も、さすがに教師の目の前でスマホは見ない。

 頭上のフラグは——

【接触事故・骨折・八〇%】

 だったものが、じわじわと色を薄めていき。

【軽い接触・謝って終わり・二五%】

 くらいになったところで、ふっと消えた。

 代わりに、教師の頭上に【朝から立ちっぱなし・足のだるさ・七〇%】という小さなフラグが立っている。

「先生、ご苦労さまです」

 横を通りながら声をかけると、教師は「おう」と照れくさそうに笑った。

「これで事故が一件でも減るならな」

「……」

 そういう言い方をされると、余計に「この人の足のだるさ」を無駄にしたくなくなる。

     ◇

 こうして、小さい実験をいくつも積み重ねていくうちに、見えてきたことがある。

 一人の死を丸ごと他人に押しつけるんじゃなくて。

 複数人の「ちょっとした不運」に分散させる。

 俺の視界に見えるフラグの色も、形も、前とは少し違って見えるようになってきた。

【致命傷】の真っ赤なフラグが。

【骨折】のオレンジに変わり。

さらに細かく砕かれて【打撲】【擦り傷】【恥ずかしい失敗】の黄色に散っていく。

「……ゲームのダメージ分散みたいだな」

 思わずそんな例えが頭に浮かぶ。

「一人に一〇〇〇のダメージを食らわせるんじゃなくて、十人に一〇〇ずつばらまく感じ」

「わりとしっくりくるのが悔しい」

 千景が、ノートに「ダメージ分散ビルド」と書き足している。やめろ。

 ただ、どれだけ工夫しても、どうにもならないものもある。

 テレビのニュースでは、相変わらず遠くの高速道路で大型事故が起きたり、工場火災が発生したりしていた。

『原因は調査中です』

『設備の老朽化が指摘されており』

『人的ミスの可能性も——』

 ニュースキャスターの言葉は、もっともらしい原因で事件を説明しようとする。

 でも、その画面の向こうで、俺には別のものも見えていた。

【大規模調整・死亡十数名】

 画面に映らない、透明なフラグ。

 俺たちの小さな分散作戦が、どこまで全体のバランスに影響できているのか。

 正直なところ、確信は持てなかった。

「……やっぱ、簡単じゃないな」

 自室のテレビを消して、ベッドに寝転がる。

 天井を見上げると、そこにも見えないフラグが浮かんでいる気がした。

【選択を迫られる・近いうちに・九〇%】

 空の頭上に浮かんでいたものと、似た色。

「選択、ね」

 芹沢の警告。

 空の契約。

 管理局の大規模調整。

 それ全部を踏まえたうえで、「それでも俺たちはこうやる」と言えるかどうか。

 その答えを出せるのは、多分そう遠くない。

     ◇

 生徒会室。

 芹沢は、パソコンの画面に映るデータを眺めていた。

「局所的な分散効果は確認できるが、マクロレベルでは総量不変」

 淡々とした文字で、管理局へのレポートに打ち込む。

「ただし、環境改変を通じて『死の質』と『死の意味』に影響を与えている可能性あり」

 自分で書いた文章に、芹沢はかすかな違和感を覚える。

 管理局が扱うのは、数字とグラフ。死者数。その分布。

 そこに、「意味」なんてものを持ち込むのは、本来の業務外だ。

 でも——。

「黒江真澄と天城空の方法に、賭ける価値はあるのか」

 思わず、そんな一文を打ち込んでしまう。

 すぐに消す。

 報告書に感情を混ぜるべきじゃない。

 そうわかっていても、「興味」という感情は完全には消えなかった。

     ◇

「なあ」

 数日後の放課後。

 教室でカバンを背負いながら、ふと口を開いた。

「俺たちのやり方ってさ」

「うん?」

 窓際に寄りかかっていた空が、顔を上げる。

「この学校の中だけなら、けっこう効いてる気がする」

 熱中症フラグ。接触事故フラグ。いじめやSNSトラブルのフラグ。

 全部、ゼロになったわけじゃないけど、「致命傷」まで行く前に小さく分散させられている実感はある。

「でも、街全体で見たら、まだ“調整事故”みたいなのは起きてる」

「うん」

 空も、それはわかっていた。

「だったらさ」

 つい、口に出てしまった。

「この学校を、もっと本気でいじってみないか」

「本気で?」

「今までは、サッカー部とか通学路とか、ピンポイントでやってただろ」

 俺は、教室のドアの方を見る。

 その向こうには、廊下。階段。特別教室。体育館。グラウンド。

 この学校全体が、一つの「箱庭」みたいなものだ。

「学校全体を巻き込んだ実験、みたいなことをやれたら」

 フラグの立ち方も、消え方も、きっと今までと違うパターンが見えてくる。

「管理局が『大規模調整』の必要性を感じなくなるくらいには、学校内の死のバランスを自前で回せるようになるかもしれない」

「……黒江くん」

 空が、少しだけ目を丸くした。

「それ、わりととんでもないこと言ってる自覚ある?」

「ある」

 自覚した上で、あえて言った。

「でも、やってみる価値はあると思ってる」

 学校という、小さくて閉じた世界。

 一日のほとんどを過ごす場所。

 そこを、「俺たちなりのルール」で回してみる。

「そのためには、生徒会も、先生も、もっと巻き込まないといけないけどな」

「芹沢くん、絶対めんどくさそうな顔する」

「想像つく」

 でも、その顔も見てみたい。

「やる?」

 空が、問いかける。

 その目は、完全に「面白がっている」方に傾いていた。

「やらない理由がない」

 俺は、笑って答えた。

「俺たちのやり方で、世界をいじくってやろうぜ」

 その「世界」は、今のところ学校の敷地の中だけ。

 それでも、世界は世界だ。

 その小さな世界から、死のバランスのルールを書き換えていく。

 それが、本当に「大きな世界」に届くのかどうかは、まだわからない。

 それでも、やってみる。

 俺と、空と、千景とで。

 世界を少しだけマシな方向に、でもちょっとワガママな方向に。

 いじくり回してやるために。


第十三話「全校集会と、大量死亡フラグ」

 新学期の最初の週、ホームルームの終わり際に、それはさらっと告げられた。

「えー、最後にお知らせ。来週の水曜日の四限から六限にかけて、『命の授業』があります」

 担任がプリントを配りながら、適当なトーンで言う。

「交通安全とか、防災とか、メンタルヘルスの講演とか。外部の講師の先生が来てくれるそうです。場所は体育館。全学年参加」

 ざわざわ、と教室が軽く沸く。

「また長いやつかよ」「どうせ寝るわ」「メンタルヘルスって何するんだ」

 そんな声があちこちから聞こえる中で、俺はプリントを受け取った瞬間、背中を冷たい指でなぞられたような感覚に襲われた。

 全校生徒が、一箇所に集められる。

 体育館に、ぎっしりと。

 今までの経験上、そういう「人が大量に集まる場所」は、ろくなことにならない。

 祭りの会場で【将棋倒し】のフラグが立っていた日。

 駅のホームで【転落・列車接触】のフラグがいくつも重なっていた朝。

 人の密度が上がるほど、「大規模フラグ」が立ちやすくなるのを、嫌というほど見てきた。

「……嫌な予感しかしねえ」

 思わず呟くと、隣の席から小声が飛んできた。

「プリント、私の分も見せて」

 空だ。

 俺の手元の紙を覗き込んで、「命の授業」というタイトルを目で追う。

「交通安全、防災、メンタルヘルス……なるほど」

「なるほどって顔してるけど、顔色微妙に悪いぞ」

「黒江くんの顔色もね」

 空は、わざとらしく首を傾げる。

「大量死亡フラグ、って感じ?」

「言うなよ」

 図星すぎる言葉を、さらっと口にしないでほしい。

 前の席でプリントを丸めている千景が、くるっと振り向いた。

「何なに? またフラグ案件?」

「お前の耳は都合よくいいな」

「そういうワードには自動反応する仕様なのだよ」

 千景は、プリントを片手でひらひらさせながらニヤリと笑う。

「全校集会と『命の授業』なんて、どう考えてもイベント回の匂いしかしないでしょ。アニメなら間違いなく一クールの山場」

「現実で言うな」

「現実で言ってるから面白いんだよ」

 不謹慎なこの人が、今日はいつも以上に頼もしく見えた。

 嫌な予感は、外れてくれればいい。

 でも、これまでだいたい当たってきた自分の「嫌な予感」を、都合よく信じないふりもできなかった。

     ◇

 そして、当日。

 四限目のチャイムが鳴ると同時に、「体育館に集合するように」という放送が入り、生徒たちがわらわらと廊下へあふれ出した。

 クラスごとに整列して体育館へ向かう。

 体育館の入口で、体育教師が「もっと詰めろ」「列乱すな」と声を張る。

 体育館の中は、すでにむわっとした熱気に包まれていた。

 床一面に並べられたパイプ椅子。

 前方には演台と大型スクリーン。

 天井には、バスケットゴールや照明、スピーカー。鉄骨が蜘蛛の巣みたいに組まれている。

 そこに、全校生徒と教師たちが流れ込んでいく。

 席に座る前から、俺の視界はうるさかった。

【転倒・恥ずかしい・三〇%】

【居眠り・先生に怒られる・四〇%】

【スマホバレ・没収・二五%】

 日常レベルのフラグが、頭上にぽこぽこと浮かぶ。

 それ自体はいつもの光景だ。

 問題は、そのさらに上——

 体育館の天井付近。

 鉄骨のあたりに、見慣れない種類のアイコンが、じわじわと滲んでいた。

【落下物・頭部直撃】

【火災・煙吸引】

【パニック・圧死】

【出口封鎖・逃げ遅れ】

 今まで、こんな「まとめて」見たことはない。

 アイコンはまだ薄く、ゲージも二〇%くらいで止まっている。

 それでも、数が多すぎた。

「……最悪だ」

 思わず口の中で吐き出す。

 隣で席に着いた空が、すぐに俺の表情を察して、視線を天井に向けた。

 彼女にはフラグは見えないはずなのに、眉がぴくりと動く。

「やっぱり?」

「やっぱりだ」

 俺は、小さく頷く。

「上に、でかいのがいくつも浮いてる。落下物とか、火災とか、圧死とか」

「ゲージは」

「二〇から三〇くらい。でも、ゆっくり上がってる」

「ふーん」

 空は、顎に指を当てて考え込むポーズをした。

 その横から、「お、始まる感じ?」とお気楽な声が飛んでくる。

 後ろの列に座った千景だ。

「何パーくらいなら『セーフライン』なんだろうね。やっぱ五〇パー超えたらアウト?」

「ゲームじゃないんだから」

「でも、指標は必要でしょ。こっちだって命張ってんだから」

 言葉の軽さと中身の重さが噛み合ってない。

 でも、そのバランスが、今はありがたかった。

 ステージ上に、校長と教頭、数人の教師、そしてスーツ姿の外部講師らしき人たちが並んだ。

「それでは、これより『命の授業』を始めます」

 マイクがキーンと不快な音を立てたあと、校長がいつもの眠くなる声で話し始める。

 交通事故で亡くなった人の数。

 震災で犠牲になった人たち。

 メンタルヘルスの重要性。

 真面目な話のはずなのに、その声はどこか遠くに聞こえた。

 俺は、視界の端で天井のアイコンたちを見続ける。

 さっきまで二〇%だったゲージが、二五%、三〇%と、じわじわ伸びていく。

 それに連動するように——

 今度は、生徒個人の頭上にも、別種のフラグがぽつぽつと立ち始めた。

【逃げ遅れ・将来悪夢に見る・三〇%】

【転倒・骨折・四〇%】

【窒息・意識朦朧・二五%】

 範囲指定された攻撃スキルの予兆みたいに、体育館全体に同じ系統のフラグが散らばっていく。

「黒江くん」

 空が、小声で囁く。

「個人のフラグ、さっきより増えた?」

「ああ」

「種類は」

「逃げ遅れ、転倒、窒息。あと……“パニック”系」

 ホームルームのときとは違う、嫌なカテゴライズだった。

「やっぱり、ここが『調整ポイント』ってことか」

「……あいつら、マジでやる気満々だな」

 管理局。

 芹沢の言っていた「大規模調整」。

 校内で救われたぶん、先送りされたぶんの死を、一気に回収する場所。

 それが、今この体育館に設定されている。

 そう考えると、背筋が冷えた。

     ◇

「続いては、生徒会長の芹沢くんから、一言もらいましょう」

 校長の言葉に促されて、ステージ袖から制服姿の男子が一歩進み出る。

 芹沢玲央。

 この学校の生徒会長であり、管理局の「地上側エージェント」。

 マイクを受け取った芹沢は、いつもの爽やかな笑顔で体育館を見渡した。

「みんな、こんにちは」

 ざわ、と空気が揺れる。

 女子たちから、ひそひそとした声が漏れる。

「今回の『命の授業』は、少し堅苦しく感じる人もいるかもしれません」

 芹沢は、淡々とした口調で話し始めた。

「交通ルールとか、防災マニュアルとか、メンタルヘルスとか。どれも、『テストには出ない』と思う人もいるでしょう」

 何人かの生徒が、小さく笑う。

「でも、今日ここで聞いたことは、もしかしたら“明日”とか“来週”とか、“十年後”に、君たちの命を守ることになるかもしれない」

 真面目な台詞。

 それ自体は正しい。普通なら拍手したいくらいだ。

 だけど——

 芹沢の視線が、一瞬だけ俺と空をまっすぐ捉えた。

 何百人もいる生徒の中で、ただ二人だけを射抜くように。

 そのとき、俺の耳の奥で、別の声がした気がした。

『全員、入場を確認。対象数、八百二十三』

 直接聞こえたわけじゃない。

 でも、芹沢の口が微かに動いたのを、俺は見逃さなかった。

『これより調整ポイントを起動。死の再配分を開始する』

 管理局との、「あっち側」の通信。

 そうとしか思えない。

「不安になったとき、“誰に相談すればいいか”、“どこに助けを求めればいいか”」

 芹沢のスピーチは、表向きは完璧だ。

「それを、今日の授業で少しでも考えてくれたら嬉しいです」

 体育館に、自然な拍手が広がる。

 芹沢は、にこやかに一礼してマイクを校長に返した。

 完璧な“生徒会長”として。

 でも、俺には見えてしまう。

 彼の頭上だけが、相変わらず「空白」であること。

 そこに浮かぶはずのフラグが、きれいに削ぎ落とされていること。

 まるで、「ここだけ別のレイヤーに属している」みたいに。

     ◇

 ビデオが流れ始めた。

 交通事故の再現ドラマ。

 災害現場での避難行動。

 メンタル不調を抱えた高校生の物語。

 スクリーンの中の誰かが泣いていて、誰かが叫んでいて、誰かが救われている。

 体育館のあちこちで、「リアル」「重い」といった囁きが漏れる。

 でも俺の視界には、別の映像が重なっていた。

 天井近くに浮かんでいたアイコンのゲージが——

 三五%、四〇%、四五%。

 じわり、じわりと上がり続ける。

 そして、それと同期するように。

 ステージ裏で、照明器具のネジが一本、かすかに振動していた。

 体育館の隅に束ねられた電源ケーブルの一部が、わずかに熱を帯びている。

 非常口の前に積まれた段ボール箱が、一つ、二つと押し出されて、通路を狭めていく。

 どれも、単体では「よくある不備」だ。

 誰も、「大事故の種」だとは思わない。

 でも、フラグのゲージは、五〇%を越えていた。

 背中に汗が伝う。

「……黒江くん」

 隣の席で、空が俺の袖をつまむ。

「ゲージ、どこまでいった」

「五〇から六〇の間……いや、今六五%くらい」

 自分で言って、喉が乾いた。

「個人の方は」

「【逃げ遅れ】と【転倒】が増えてる。あと、教師側にも【生徒を守ろうとして負傷】とか」

「うわ」

 後ろから千景の声がした。

「それ、完全に“感動的ニュース”のテンプレじゃん」

「なんでそこでテンプレ分析するんだよ」

「先生が生徒をかばって重傷、そのあと『命の授業』は語り継がれる——みたいな」

「語り継がれてたまるかよ」

 そんなエンドロール、絶対に見たくない。

 ビデオの中で、画面が暗転し、「命の電話」だとか「スクールカウンセラー」だとかの文字が流れている。

 その間も、天井の上では砂粒みたいなものがぱらぱらと落ち始めていた。

 鉄骨の接合部あたりから、白い粉が舞っている。

「……今、砂落ちてきてる」

「見えてる」

 空も、眉をひそめる。

 彼女にはフラグは見えない。でも、物理的な異変ならわかる。

「電源の方は?」

「左側の照明の裏。ケーブルが危なそうな色してる。あれ、ショートしたら一気に火花飛ぶぞ」

「非常口は?」

「後ろの二つのうち、一つが段ボールで半分塞がれてる。もう一つは、ドアの前に机が出されてる」

「パーフェクト詰み構成だね」

 千景が、顔面蒼白で言った。

「何か起きたら、全員パニックで出口に殺到して、通路で詰まって、圧死コース」

「それ、笑い事じゃないからな」

「笑ってないよ」

 千景は、唇を噛んでスマホを握りしめる。

 体育館全体の写真を何枚も撮っているのは、「もしものときの証拠」なのか、「物語資料」なのか、もはやわからない。

     ◇

 ゲージが、七〇%を越えたところで、俺は限界に達した。

「……無理だ」

 椅子から立ち上がる。

 一斉に、周囲の視線が集まる。

「黒江、どうした」

 前の方の教師が、眉をひそめた。

「トイレか? 今はダメだ。ビデオが——」

「すみません、ちょっと」

 言い訳を作る暇もない。

 背中に突き刺さる視線。

 「なにやってんのあいつ」とか、「また黒江か」とか、勝手なラベルが貼られていく。

 俺の頭上にも、別のフラグが浮かんだ。

【教師に怒られる・指導室行き・七五%】

 そんなものはどうでもいい。

 今は——

「黒江くん」

 袖を強く引かれた。

 空だ。

 彼女は、真剣な目で俺を見上げる。

「まだ動いちゃダメ」

「ふざけんなよ、このまま何もしなかったら——」

「今むやみに走り回ったら、それだけでパニックのトリガーになる」

 低い声。

 耳もとで囁かれるようなトーン。

「ここで一人が突然叫んで走り出したら、周りもつられて動く。出口に雪崩れ込んで、フラグが一気に跳ね上がる」

「……」

「だから今は、“原因”を見つけなきゃ」

 空の手が、俺の腕をぎゅっと掴む。

 震えているのは、俺の方か、彼女の方か。

「何がきっかけで、どういう流れで事故になるのか」

 空は視線だけで体育館全体をなぞる。

「照明? 配線? 非常口? 講演者の言葉?」

 千景も、後ろから必死にフォローを入れる。

「黒江くん、落ち着いて。今、原因を特定できれば、ピンポイントで止められるかもしれない」

「……」

 深呼吸する。

 肺に入るのは、汗とワックスとホコリの匂い。

 脈がやたらとうるさい。

 俺は、渋々椅子に座り直した。

「わかった。見る」

 今やるべきなのは、闇雲に飛び出すことじゃない。

 フラグの「全体像」を把握すること。

 どこで何が起きる予定なのか。

 それを見極めるまでは、動けない。

     ◇

 講演の内容は、だんだんとメンタルの話に移っていった。

 外部講師の女性が、柔らかい声で言う。

「最近は、『生きづらさ』を感じている人も多いと思います」

「自分なんていなくなってもいい、とか、消えてしまいたい、とか」

 そういう言葉に、ところどころで視線が下を向く。

 佐藤の横顔が、視界の端に映った。

 彼の頭上には、以前のような真っ赤な【自殺】フラグはない。

 代わりに、淡い色の【希死念慮・慢性的】が、うっすらと漂っている。

 完全には消えていない。

 それでも、以前よりはずっと薄い。

 こういう小さな変化を、俺は信じたい。

 なのに——

 体育館の上部では、別の数字が容赦なく跳ね上がっていく。

 七五%。七八%。

 天井近くの鉄骨から、再び砂がパラパラと落ちる。

 左側の照明の裏で、赤いフラグが点滅する。

【ショート・火花・引火・八〇%】

 非常口の前では、誰かがふらついて段ボールに手をつき、箱がさらに通路を塞ぐ形で崩れた。

【非常口狭窄・パニック時機能不全・八五%】

 体育館の空気が、少しずつ重くなっていく。

 一人の女子生徒が、「気分が悪い」と言って隣の友達にもたれかかった。

 周囲がざわつく。

 教師が駆け寄って、「大丈夫か」と声をかける。

 その小さなざわめきが、体育館全体に一瞬だけ波紋のように広がった。

 それでも、まだ「事故」ではない。

 ただの「よくある全校集会の一幕」。

 でも、その下でフラグのゲージは、八〇%を越えた。

「……空」

 囁く。

「そろそろ限界だ」

「うん」

 空も、唇を噛んで頷いた。

「原因は、だいたい見えた?」

「照明、ケーブル、非常口。あとは——」

 俺は、ステージの上を見る。

 スクリーンの後ろ。

 そのさらに上の鉄骨に、ひときわ大きなフラグが浮かび上がっていた。

【調整事故・死亡者数:数百名・発動待機】

 さっきまで薄っすらとしか見えなかったその文字が、今ははっきりと形を持っている。

 ゲージは、一気に八〇%まで跳ね上がっていた。

 体育館全体を覆うような、巨大な黒いアイコン。

 それは、今にも落ちてきそうな雲みたいに、重く垂れ込めている。

「……」

 喉が、カラカラに乾く。

 手のひらにじっとりと汗が滲む。

 ここで何もせずに座っていたら——

 たぶん、本当に「ニュースになる事故」が起きる。

 たまたまその場に居合わせた誰かの名前が、テロップに流れる。

 「命の授業の最中に起きた悲劇」として、しばらくワイドショーで消費される。

 俺も、その中の一人になっているかもしれない。

 空も、千景も、佐藤も。

 それでも、管理局的には「帳尻が合った」ということになる。

 最初から決められていた「死の配分表」に、チェックマークがつくだけだ。

 ふざけるな。

 俺の中で、何かがぷつんと切れた。

「黒江くん」

 空が、俺の名を呼ぶ。

 その声には、「止める」でも「行け」でもない、ただの問いかけの色があった。

 どうする。

 どうしたい。

 答えは、とっくに決まっている。

 河川敷で言ったばかりだ。

 管理局にも、空の契約にも従わない。

 俺は俺のやり方で、お前を死なせないまま、できる限り救う。

 ここで何もせずに見ているなら、俺は、俺じゃなくなる。

「……行く」

 椅子の背もたれを押して、立ち上がった。

 もう一度、全てのフラグに睨みをきかせながら。


第十四話「フラグ乱立の体育館からの脱出戦」

 立ち上がった瞬間、自分の心臓の音が、体育館中に響いているんじゃないかと思った。

「黒江?」

 隣の空が、驚いたように俺を見上げる。

 後ろから千景の小声も飛んでくる。

「お、ついにイベント発動?」

 周りの視線が集まる前に、俺は身をかがめて、二人にだけ聞こえる声で言った。

「……ここから、全員逃がす」

 言ってから、自分でも「何言ってんだ俺」と思った。

 芹沢の警告も、管理局のルールも、全部踏み越えるってことだ。

 でも、もう決めていた。

 ここで何もせずに座ってるなら、俺は俺じゃなくなる。

「黒江くん」

 空の目が、ほんの一瞬だけ揺れる。

 反対意見も、呆れも、何も出てこない。

 かわりに、空は小さく笑った。

「じゃあ、やろうか。うちの“放課後フラグ改変クラブ”、本気出そ」

「名前ダサいままなの、今つつくとこ?」

 千景が、場違いなツッコミを入れる。

 でも、その軽さで少しだけ呼吸が整った。

「とりあえず、全員を一気に動かすのはダメ」

 空が、早口で続ける。

「パニック起きた瞬間に、あの巨大フラグが一〇〇%まで跳ね上がる」

「じゃあどうする」

「“理由付き”で、少しずつ外に出す」

 言いながら、空はさっと視線を巡らせる。

「千景ちゃん、防災アプリ持ってる?」

「もちろん。学校指定のあれでしょ」

「それで、不具合通報送って。“避難訓練のテストアラートが誤作動した”ってやつ」

「なるほど、誤報系ね」

「教師に見せれば、『いったん外に出すか』って判断を引き出せるかもしれない」

「了解。とりあえず一発バグらせてくる」

 千景は、スマホを胸の高さまで持ち上げ、素早く画面を叩き始めた。

「私は、ステージ裏の先生のところに行く」

 空は、腰を浮かせる。

「“外に救急車が来てる”って嘘混ぜて、正面入口を開けさせる」

「それ、バレたら絶対怒られるやつだぞ」

「怒られたら、そのとき考える」

 あっさり言い切って、空は席を立った。

「黒江くんは……まだ動かないで」

「なんでだよ」

「黒江くんがうろつくと、芹沢くんの警戒レベルが一気に上がるから」

 それは、なんとなくわかる。

「あの人、多分“今回の調整”の監督役だし」

 空は、ステージ上の芹沢にちらっと視線を送った。

 芹沢は、外部講師の横でメモを取っているふりをしながら、観客席を俯瞰している。

「まず私たちの“前座”で、どこまで揺らせるか試そう」

「……わかった」

 そう言うしかなかった。

     ◇

 数分後。

 千景が、体育館の後方で教師にスマホ画面を突き出していた。

「先生、これ見てください」

「ん?」

「防災アプリ、誤作動してません? さっきからアラート鳴ってて」

 教師が画面を覗き込む。

 そこには、「避難訓練テストアラート」の文字と、謎の警告表示。

 もちろん、千景の手によるフェイクだ。

「これ、誤作動ですよね。だけど、こういうの放置するのもまずいんじゃ……」

「む……」

 教師が眉間にしわを寄せる。

 その頃、ステージ裏では——

「先生、ちょっといいですか」

 空が、裏方の教師に声をかけていた。

「さっき、外で救急車のサイレンが聞こえたって保健の先生が」

「救急車?」

「はい。体育館のすぐ近くまで来てるかもしれないって」

 もちろん嘘だ。

 でも、保健室の先生の名前を出されると、教師も無視はできない。

「ちょっと確認してくる。出入口、開けといて」

 裏方の教師が、慌ててステージ横の扉に向かう。

 空は、その背中を見送ってから、小さく息を吐いた。

(これで、少しは出口が——)

 と思った、そのとき。

「失礼します」

 涼しい声が、ステージ裏に響いた。

 芹沢が、カーテンの隙間から入ってきた。

 いつもの穏やかな微笑み。

 でも、目は笑ってなかった。

「今、何をしているのかな、天城さん」

「先生に、救急車の件を——」

「さっき、職員室から連絡があったよ」

 芹沢は、ポケットからスマホを取り出し、画面を見せるふりをする。

「防災アプリの誤作動疑い。『避難訓練のテストアラート』が一部の生徒にだけ表示されている。心当たりは?」

「……さあ?」

 空はすっとぼけてみせる。

「そう」

 芹沢は、そのままステージ袖へ歩いて行った。

 マイクを受け取り、軽く咳払いをする。

「——少しだけ、予定を変更します」

 体育館のざわめきが、すっと静まる。

「今、防災アプリの不具合で、一部の生徒に『避難訓練』の通知が出ているようです」

 ざわ、と空気が揺れた。

 千景が「バレた」と顔をしかめる。

「ですが、これはあくまで不具合です。誤作動です」

 芹沢は、落ち着いた声で続ける。

「避難訓練ではありません。ですから——」

 一拍置いてから、はっきりと言った。

「その場で、静かに座っていてください。勝手に立ち歩かないように」

 ざわめきが、今度は不満の方へと傾く。

「えー」「訓練じゃないの?」

「アプリに出てるのに?」

 教師たちも、「そういうことだ」と生徒に着席を促す。

 ステージ裏に戻ってきた教師が、扉の前で鍵を確認しているのが見えた。

「非常口は、念のため施錠します」

 マイク越しに、芹沢の声が体育館に響いた。

「出入りは、ステージ側の正面扉だけに限定します。安全のためです」

(最悪だ)

 俺は、拳を握りしめた。

 非常口が潰された。

 脱出ルートは、ステージ横の扉だけ。

 それも、教師がきっちり管理する形になった。

 その上——

 俺の視界で、天井の巨大フラグのゲージが、さらに跳ね上がる。

 九〇%。

 天井近くのアイコンたちが、ほとんど実体化しかけている。

【落下物・頭部直撃・致命傷】

【火災・煙吸引・パニック】

【圧死・複数名】

「……間に合わない」

 思わず漏れた言葉に、空がこちらを振り返る。

「“何か”がトリガーになる。数分以内に」

「何が?」

「わからない。照明か、ケーブルか、誰かの悲鳴か……」

 特定できないのが、一番怖い。

 どこを先に潰せばいいのか、優先順位が決められない。

 そこへ空が、深く息を吸い込んだ。

「たぶん——三つ、だと思う」

「三つ?」

「火花、落下、押し合い」

 空は、指を三本立てる。

「さっき言ってた照明のケーブルと、天井のネジと、非常口の詰まり。それぞれ単体なら、小さい事故で済む」

「でも、連鎖したら」

「ショートして火花が散って、照明が落ちて、悲鳴が上がって、出口に殺到して、通路で詰まって——」

 想像しただけで吐きそうになるシナリオ。

「だから、三つとも潰す」

 空は、迷いのない声で言った。

「黒江くんは、ステージ裏行って照明と配線。フラグの色を頼りに、危険度の高いやつから優先して」

「いや、俺電気とか詳しくねえぞ」

「詳しくない素人でも、『やばそうな赤色』くらいはわかるでしょ。今までもそうやってきたじゃん」

 言われてみれば、そうだ。

「私は、生徒を少しずつ外に出す。『貧血の生徒が多い』ってことにして、保健室とか廊下とか」

「そんなにうまくいくか」

「やる前から諦めない」

 空は、にっと笑った。

「千景ちゃんは、パニック要因を潰して」

「パニック要因?」

「この中で一番声が通る人たち。クラスのリーダー、運動部の部長、委員会の人。事故が起きたとき、叫び散らかすんじゃなくて、『落ち着け』って叫んでくれる人たち」

「なるほど、“現場の指揮官”役ね」

 千景の目がぎらっと光る。

「うん、それなら任せて。あいつら、『責任』ってワードに弱いから」

 あっという間に役割分担が決まった。

 あとは——走るだけだ。

「黒江くん」

 空が、俺の腕を一瞬だけ握る。

「生きて戻ってきてね」

「縁起でもないこと言うな」

 そう返して、俺はステージ裏へと駆け出した。

     ◇

 ステージの袖は、思った以上に狭かった。

 ケーブルが床を這い、照明器具やスピーカーが頭上を占拠している。

 そこかしこに、「危ない」「触るな」の札。

 その全部に、赤や黄色のフラグがくっついていた。

【ショート・火花・発火・九五%】

【ネジ緩み・落下・頭上直撃・九〇%】

【断線・火花・カーテン燃焼・八五%】

「……マジかよ」

 どこもかしこも、やばいスイッチだらけだ。

 その中から、「一番やばい」を選んで潰さなきゃいけない。

 電気設備なんて素人だ。

 けど、フラグの“色”と“数字”だけは、誰よりも見えている。

「だったら、それでやるしかねえだろ」

 まず目に入ったのは、左側の照明器具。

 天井から吊り下げられた大きなライトの根元に、真っ赤なフラグが張り付いていた。

【ネジ緩み・落下・頭部直撃・九二%】

「お前からだ」

 脚立も何もない。

 ステージの端に手をかけて、必死に背伸びして、金属部分に指先を伸ばす。

 ざらついた鉄の感触。

 ボルトの頭をつかんで、力任せに回した。

「……固っ」

 何度か力を込めるうちに、ギギ、と嫌な音がする。

 それでも、少しずつ締まっていく感覚があった。

 同時に、フラグの色が、真っ赤からオレンジへと薄まる。

【落下・軽い揺れ・五〇%】

「よし……」

 いつまでもここに張り付いているわけにはいかない。

 次は、配線だ。

 壁際の電源盤から伸びるケーブル。

 その一つに、黒い焦げ跡のようなものが見えた。

 フラグが点滅する。

【ショート・火花・カーテン引火・九〇%】

「お前もかよ……」

 コンセントの差し込み口を見て、まだ余裕のあるタップを探す。

 電気が全部落ちたらそれはそれで混乱だが、火花よりはマシだ。

 比較的フラグの薄いケーブルを抜いて、「やばいケーブル」のタップをそっと引き抜く。

 フラグが、ふっと消えた。

 代わりに、抜いた方のケーブルに【突然の停電・ざわめき・五〇%】がつく。

「ごめん。あとで許して」

 誰に謝っているのか自分でもわからない。

 それでも、手は止めない。

 他にも、緩んだクランプを締めたり、布テープを巻き直したり。

 そのたびに、頭上のフラグが少しずつ色を変えていく。

【致命傷】が【軽傷】に。

【火災】が【一時的な煙】に。

【パニック】が【ざわめき】に。

 すべてを完璧にゼロにはできない。

 でも、「最悪」を削ることはできる。

(俺は、そういうのをずっとやりたかったんだろうな)

 気づけば、背中は汗でびっしょりだった。

     ◇

 一方その頃、体育館の客席では——

「なんか、暑くなってきたね」

 空が、周囲の女子たちに声をかけていた。

「顔色悪い人、いない?」

「え、あー、ちょっと頭痛いかも」

 ひとりの子が、こめかみを押さえる。

「先生、すみません。この子、貧血かもしれません」

 空はすかさず手を挙げた。

 前方の教師がこちらを見て、渋い顔をする。

 全校集会の最中に、生徒を外に出したくはないだろう。

 でも——

「顔色が、本当に悪いんです。吐いたりしたら、大変です」

 空が、真剣な目で言う。

 そのあまりの説得力に、教師も折れた。

「……保健室に行ってこい。他に体調悪い人は?」

 空は、すかさず数人の名前を挙げる。

 実際にちょっと具合が悪そうだった子と、「少しでも顔色がくすんでる」子をピックアップして。

 少人数の列が作られ、教師に付き添われて体育館を出ていく。

 そのたびに、彼らの頭上に浮かんでいた【逃げ遅れ】【圧死】系のフラグが、するりと消えていく。

「ふふん、脱出第一陣」

 後ろで千景が小さくガッツポーズした。

 彼女はすでに、体育館内の「声の大きい人リスト」を脳内で作り上げていた。

「あのバスケ部キャプテンと、生徒会の書記と、文化祭実行委員長と……」

 千景は、それぞれの後ろに移動して、耳元で囁いて回る。

「ねえ、もし何かあったとき、あんたがパニック起こしたら終わるからね」

「は?」

「こういうときに、『落ち着け!』って言えるのが“リーダー”ってやつだから」

「な、何の話だよ」

「責任重大だよー? もしみんなが怪我したら、『リーダーらしい行動しなかったせいだ』って陰口叩かれるかも」

「おい!」

 脅しとも励ましともつかない言葉。

 リーダー格の生徒たちは、微妙な顔をしながらも、妙に姿勢を正して座り直す。

 頭上のフラグが、少しだけ形を変えた。

【パニックを煽る・八〇%】が——

【周囲を落ち着かせる・六五%】に。

「よし。現場指揮官、何人か確保」

 千景は満足そうに頷いた。

 空も、それを横目で確認しながら、さらに少しずつ「体調不良組」を増やしていく。

 貧血。腹痛。頭痛。

 嘘半分、本気半分。

 体育館の中の「人数」が少しずつ減るほど、大規模フラグのゲージもわずかに下がる——かと思いきや。

「……ダメ。まだ八五〜九〇%のあたりをうろうろしてる」

 空が、眉を寄せて呟いた。

「黒江くんの方、間に合って……」

 その言葉が終わる前だった。

     ◇

 ステージ裏で最後のネジを締め直した瞬間、俺の視界の端で巨大フラグが一瞬だけ揺らいだ。

 九二%。

 九〇%。

 八八%。

「あ……」

 減っている。

 でも、足りない。

 すべての「種」は潰せていない。

 そのとき——

 甲高い金属音が、体育館全体に響き渡った。

 キィィン、と。

 天井の鉄骨の一部が、きしんだ。

「マズい」

 見上げる。

 照明器具の一灯が、さっき締め直した位置とは別の場所で、金具からずり落ちかけていた。

 フラグが、一気に真っ赤に変わる。

【落下・直下の生徒を直撃・頭蓋骨陥没・九九%】

「——ッ!」

 考えるより先に、身体が動いていた。

 ステージを飛び出し、体育館の床に飛び降りる。

 視界の中で、落下地点の真下に座っている生徒の姿が、スローモーションみたいに浮かぶ。

 俺たちのクラスの、一番前の列。

 あいつ——名前、なんだっけ。体育のときよくしゃべる、あのサッカー部のやつ。

 頭上に、真っ黒なフラグがぴたりと張り付いている。

【死亡・即死・ニュースになる】

「させるかよ!」

 椅子を蹴飛ばしながら突っ込む。

 呆然と座っていたそいつの肩を、全力で突き飛ばした。

「うわっ!」

 彼の身体が横に転がる。

 同時に——

 上から、重いものが落ちてきた。

 ガシャンッ!!

 耳をつんざく破砕音。

 視界が、白い火花と金属片で埋まる。

 左肩に、鈍い衝撃。

「——っっ!」

 肺から空気が全部押し出された。

 床に叩きつけられた衝撃で、一瞬、世界がぐにゃりと歪む。

 転がった照明器具が、床の上を跳ねて止まる。

 周囲から、悲鳴が上がった。

「きゃあああああ!」

「何今の!」

「落ちてきた!」

 座っていた生徒たちが、一斉に立ち上がる。

 椅子が倒れ、ガチャガチャと耳障りな音を立てる。

 俺の頭の中にも、別の音が響いていた。

【死亡・即死・ニュースになる】のフラグが——

【落下物・軽傷・数名】に書き換わる音だ。

 真っ赤だったゲージが、オレンジに、黄色に。

 巨大フラグの数字が、九五%から——七〇%まで一気に落ちていく。

「……っっだ、大丈夫か!」

 支えようとしてくる手に、俺はなんとか笑い返した。

「死ん……でねえ……」

 左肩が焼けるように痛む。

 骨まではいってない。たぶん。

 それでも、腕を上げようとすると、鈍い痛みが電流みたいに走った。

「黒江!」

 空の声が聞こえる。

 彼女が駆け寄ってきて、俺の顔を覗き込んだ。

 すぐさま、俺の頭上のフラグを確認する。

【左肩打撲・痛い・三日で治る】

「うん、生きてる」

「そこ、もうちょっと心配の言い方なかったか」

 無理やり冗談を言うと、空は少しだけ目を潤ませて笑った。

「痛い?」

「まあ、そりゃな」

「よし。じゃあ、まだ働けるね」

「ブラック企業かよ、うちのクラブは」

 くだらないやりとりの隙間にも、体育館の空気はどんどんざわついている。

「やばくね?」

「天井落ちたんだけど!」

「これ、マジで避難した方が——」

 不安と恐怖の声。

 それが混ざり合って、「パニック」の火種になりつつあった。

 天井の巨大フラグが、再び数字を上げようとする。

 七〇%、七二%——

 そのとき、体育館の後方で、甲高い声が響いた。

「お前ら、落ち着け!」

 千景の声ではない。

 バスケ部のキャプテンだ。

 千景に「責任」を吹き込まれた一人。

 その隣で、生徒会の書記や、他の部長たちも口を開く。

「立ち上がるな! 椅子に座ったまま、指示を待て!」

「出口に殺到すんな! 詰まるから!」

「スマホのライト点けろ! 先生のいる方を照らせ!」

 ちょうどその瞬間——

 電源盤の一部が、バンッと音を立ててショートした。

 一瞬だけ、体育館内の照明がすべて落ちる。

 真っ暗。

 誰かの悲鳴。

「うわっ!」

「暗っ!」

「マジかよ!」

 闇の中で、千景の声が飛んだ。

「動くなって言ってんだろーが! スマホあるやつ、ライトオン!」

 あちこちで、白い光が点る。

 スマホのライトが、小さな灯を次々と生み出していく。

 教師たちも、「慌てるな!」「静かに!」と叫ぶ。

 リーダー格の連中が、それぞれのクラスで「とりあえず座れ!」と怒鳴る。

 パニックの芽が、大きく膨らむ前に、上から押さえつけられていく。

 天井の巨大フラグのゲージが——

 七二%から、六五%、六〇%と下がる。

「……っしゃあ」

 痛む肩を押さえながら、俺は小さくガッツポーズを握った。

     ◇

 数分後。

 非常灯だけが灯る薄暗い体育館で、教師たちが生徒を誘導していた。

 倒れた照明器具の周囲には近づかないようにテープが張られ、怪我をした生徒は保健室へ運ばれていく。

「頭打った人いるか」「足捻った人」「気分悪い人は手を上げて」

 指示は、驚くほどスムーズだった。

 バスケ部のキャプテンも、生徒会の書記も、さっきまで千景に脅されていた顔とは別人みたいに、真剣な表情で動いている。

「列になって、ゆっくり出口に向かって!」

「慌てない! 押すな!」

 出口の方に目をやると、ステージ側の扉が大きく開かれ、その向こうに校舎の廊下が続いていた。

 数人の教師が立って、一人一人外に出している。

 非常口は——

 施錠されたままだ。

 でも、今はそれでいい。

 細い出口でも、急がなければ詰まらない。

 俺の視界で、体育館全体に覆いかぶさっていた巨大なフラグが、ゆっくりと形を失っていく。

【調整事故・死亡者数:数百名】

 その文字が、薄くなり、崩れて、霧散する。

 かわりに、小さなフラグがいくつも浮かぶ。

【打撲・痛い・三日で治る・五〇%】

【軽い火傷・冷やせば平気・三〇%】

【転倒・擦り傷・恥ずかしい・四〇%】

 それらも、やがて薄まっていく。

「……やった、のか」

 口の中で呟く。

 体育館での「大事故」は——

「設備の一部が落下し、数名が怪我をした」というレベルで収束した。

 ニュースになったとしても、「管理の不備」とか「設備点検の徹底」くらいで終わる。

 死亡者ゼロ。重傷者もいない。

 俺たちの、勝ちだ。

 少なくとも——この場所では。

     ◇

 外に出ると、眩しい光と涼しい風が迎えてくれた。

 校庭の隅には、すでに救急車が一台来ていた。

 サイレンは止まっているが、赤いランプだけがゆっくり回っている。

 生徒たちは、校庭や廊下に並んで点呼を受けていた。

「一組、全員います!」

「二組も!」

「三組、黒江が保健室!」

「黒江くん、怪我したの?」

 クラスメイトが騒ぐ。

 空は、「大したことないよ」と笑ってごまかした。

 左肩には、応急処置用の冷却パックが当てられている。

 痛いけど、我慢できる。

 それより——

 俺の視界のずっと遠く。

 校舎の向こう。街の方角。

 そこに、別種のフラグが一斉に立ち上がるのが見えた。

【高速道路・大型バス横転・死亡】

【ショッピングモール・電気系統トラブル・火災】

【工場地帯・爆発事故・負傷多数】

「……っ」

 喉の奥が、ぎゅっと詰まる。

 体育館の上から消えたはずの「死」が、別の場所に貼り付けられていく。

 ここで回収できなかったぶんを、管理局が別のポイントに転送した。

 そうとしか思えない。

 勝ったのか。

 負けたのか。

 わからない。

 ただ、目の前にいるこいつらは、今、生きている。

 それだけは確かだ。

「黒江くん」

 横から、静かな声がした。

 芹沢だ。

 生徒会長用の腕章を外し、少しだけネクタイを緩めている。

 さっきまで体育館で見せていた「完璧な生徒会長」より、年相応の男子高校生の顔をしていた。

「怪我は」

「まあ、これくらいなら」

 肩を軽く動かしてみせると、痛みで顔が歪んだ。

 見栄を張るんじゃなかった。

「無理しなくていいよ」

 芹沢は、ふっと笑った。

「君たちの勝ちだ。少なくとも、この学校では」

「……」

 勝ち。

 その言い方が、妙に胸に引っかかる。

「でも、知ってるよね」

 芹沢の目が、街の方角に向く。

 その瞳には、俺と同じものが映っているのかもしれない。

「別の場所で、別の『調整』が動いていること」

「……ああ」

 認めたくないけど、認めざるをえない。

「それでも」

 芹沢は、ほんの少しだけ目を細めた。

「ここを守ろうとしたことには、意味があると思うよ」

「生徒会長の言葉としてか」

「管理局のエージェントとして、だね」

 軽く訂正された。

「上の連中は、君たちのやり方を“例外処理”として扱うだろう。でも、その例外がいくつも積み重なれば——」

 言いかけて、芹沢は口をつぐむ。

「それ以上は、今は言えない」

「ケチ」

 空が割り込んできて、わざとらしく口をとがらせる。

「少しくらいヒントくれてもいいじゃん」

「ヒントなら、もう十分渡したよ」

 芹沢は、二人を順番に見る。

「君たちがどこまで行けるのか。“死の総量不変”ってルールを、どこまで揺らせるのか」

 その目の奥には、はっきりとした影があった。

 ここでは救われた命。

 あっちで奪われる命。

 その両方を知っている者だけが持つ色。

 救われた嬉しさと、救えなかった悔しさ。

 その両方を抱えた、複雑な影。

「少なくとも——」

 芹沢は、校庭の生徒たちをぐるりと見渡した。

「この学校の今日のニュースは、『設備の落下で数名軽傷』で済む。『悲惨な大事故』にはならない」

「それは、君たちのおかげだ」

 そう言って、芹沢は本当に、少しだけ笑った。

 その笑顔は、いつもよりずっと人間くさかった。

「……じゃあ」

 俺は、左肩を押さえながら言った。

「次は、学校の外だな」

「簡単に言うね、黒江くん」

 空が、呆れたように笑う。

「でも、嫌いじゃないよ、その無茶苦茶なところ」

「私も」

 千景が、いつの間にか隣に来ていた。

「ていうか、これ、完全に二期決定フラグじゃない?」

「黙ってろ情報屋」

 救急車のサイレンが、遠くでまた一つ鳴った。

 街のどこかで、新しい「調整」が始まっている。

 それでも——俺たちは、ここからまたやる。

 フラグだらけの世界で、俺たちなりのやり方で。

 誰かの死を、誰かに押しつけるんじゃなく。

 せめて、「マシな死」と「マシな生」を、少しでも増やすために。


第十三話「忘れさせたのは大人だ」

 刻印が「12」になった朝、白凪ゆきは、初めてその数字を、はっきりと「少ない」と感じた。

 首元の鏡に映る光る数字。

 昨日までの十三という数字は、どこか現実感が薄かった。

 でも十二は違う。

 片手の指を二回分数えたら、もう終わりだ。

「律……」

 小さく名前を呼ぶ。

 昨日、図書館の個室で思い出した弟の存在。

 雨の日が苦手で、よく泣いて、でも笑うと誰よりうるさかった、小さな男の子。

 愛しさと、一緒に襲ってくる罪悪感が、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まっている。

(私が、ちゃんと手を握ってなかったから?)

 夢の中の光景と、実際の記憶の断片が、ごちゃ混ぜになっていく。

 ヘッドライト。

 ブレーキ音。

 誰かの悲鳴。

 真っ白に飛んだ瞬間、その先をどうしても思い出せない。

 でも、「律が死んだ」という結果だけは、逃げようがなく目の前にある。

「……」

 ゆきは、いつものように青いノートを開いた。

 ページの上に、ゆっくりペンを走らせる。

 律。

 私の弟。

 事故の日、私もそこにいた。

 そこまで書いて、ペン先が止まる。

(私が、律を連れ出したんじゃないか)

(私が、「雨でも大丈夫だよ」って、強がったんじゃないか)

(私が、手を離したんじゃないか)

 そう考え出した瞬間、胸の奥から冷たいものがせり上がってきた。

 ペンを握る手が震える。

「……こわい」

 ぽつりと零れた言葉は、自分でも驚くほど子どもっぽかった。

 怖い。

 律が死んだ日のことを、全部思い出すのが。

 でも同時に、思い出さずにいることも、同じくらい怖かった。

 全部思い出したら、自分を嫌いになりそうで。

 思い出さなかったら、律のことを「二度殺す」気がして。

 ――おはよ、今日の私。

 ページの端に、昨日の自分が残した挨拶が見える。

「……うん」

 ゆきは、小さくうなずいた。

 ペンを握り直し、震える文字で書き足す。

 律のことを思い出せたのは、多分、痛い記憶だけど嬉しいこと。

 事故に、私も関わっていたかもしれない。

 それでも、律が「いた」ことだけは、絶対になかったことにしたくない。

 書き終えてから、ぎゅっとノートを胸に抱きしめる。

「ごめんね」

 誰に向けての言葉か、自分でも分からない。

 律にか。

 事故の夜の自分にか。

 これからの自分にか。

 ただ、謝ることしかできない朝だった。

     ◇

「じゃ、今日のミッションを確認します」

 その頃、学校の保健室では、雨宮空良が真面目な顔でホワイトボードを指していた。

 「今日のミッション」という文字の下に、丸で囲まれた三つの項目が並んでいる。

 一、事故当時を知る大人に話を聞く。

 二、「忘れたほうが楽」という発言の出どころを探る。

 三、その夜、何が行われたかの手がかり集め。

「……ちゃんと書くと、余計重く見えるな」

 椎名が苦笑する。

「でも内容は重いんだから仕方ないでしょ」

 空良は、マーカーのキャップをぽんと閉じた。

「で、ターゲット候補は?」

「病院の関係者と、近所の人と、小学校の先生」

 圭斗が、ノートを見ながら答える。

「椎名先生のコネと、うちの母さんが口を滑らせた情報で、何人か当たりがついてる」

「口を滑らせたって、あんたまたなんかケンカした?」

「ケンカじゃない。話し合いだ」

「声のボリュームは?」

「ちょっと大きめの話し合いだ」

 空良がじとっとした目で見る。

「それ、世間一般ではケンカって言うんだよ」

 保健室の隅で、ゆきが小さく笑った。

 笑ってはいるけれど、顔色はまだ悪い。

 刻印が十二になったせいだけじゃない。

 弟の存在を思い出してから、彼女の精神はずっと揺れっぱなしだった。

「具合はどう?」

 椎名が、ゆきの枕元に座る。

「頭痛とか、めまいは?」

「ちょっとだけ、くらくらするけど」

 ゆきは、苦笑いを浮かべた。

「昨日に比べたら大丈夫。ノートも書けたし」

「そう」

 椎名は、安堵と不安の入り混じった表情を浮かべる。

「今日は、なるべくここで休んでて」

「……私も行きたい」

 ゆきが、ぽつりと呟いた。

「律のこと、私もちゃんと聞きたい」

「気持ちは分かるけど」

 椎名は、首を横に振る。

「今日は遠回りして、少しずつ外堀から埋めるつもり。直接心臓を刺しに行くような話は、まだしないわ」

「外堀」

「そう。大人たちが、あの日何を話して、どんな空気だったのか。まずはそこから」

「……うん」

「だから、今日は保健室で『受信側』を担当して」

 椎名は、ゆきの青いノートを指さした。

「新しいことが分かったら、必ずここに戻って報告するから」

「約束?」

「もちろん」

 椎名は、笑って指切りを差し出した。

 ゆきも、おずおずと自分の小指を伸ばす。

「指切り、って高校生がやるやつかな」

「高校生だからやるんでしょ」

 空良が笑って、そこに自分の指も混ぜた。

「ついでに私とも約束ね。情報を隠したら、雨宮法律事務所が黙ってないよ」

「そんなの開業した覚えないんだけど」

 圭斗がツッコみつつ、自分の小指も輪の中に入れる。

 小さな四人分の指の輪。

 それは子どもっぽくて、でも今の彼らにとっては、なにより頼りになる「契約」の形だった。

     ◇

 最初の目的地は、駅前から少し離れた小さなクリニックだった。

 古いビルの一階にあるその医院は、外観こそ年季が入っているが、ガラス戸越しに見える待合室はきちんと整頓されている。

 ドアを開けると、消毒液の匂いと、一昔前のドラマの再放送の音が出迎えた。

「こんにちは。お久しぶりです」

 椎名が受付に声をかける。

「あら、椎名先生。珍しいわね」

 カウンターの向こうから顔を出したのは、小柄な年配の女性だった。

 白衣は着ていないが、背筋の伸びた立ち姿に、かつての看護師らしさが残っている。

「今日は患者さんとして?」

「いえ、ちょっとお話をうかがいたくて」

「話?」

 女性――名札には「元看護師・久住」とある――は、少し目を丸くした。

「病院に関係することで?」

「十数年前、この近くであった交通事故のことです」

 椎名の言葉に、久住の表情が一瞬で変わった。

 ほんのわずかに、目尻が強張る。

「ああ……あの事故ね」

 ため息まじりに言った声には、重さが宿っていた。

「覚えていらっしゃるんですね」

「忘れようとしても、忘れられないわよ」

 久住は、奥の休憩スペースを顎で示した。

「ちょっとだけなら、時間取れるから。そっちで話しましょうか」

     ◇

 休憩スペースの丸テーブルを囲むように座ると、久住は麦茶を三つ出してくれた。

 三人分なのは、「高校生には聞かせる話じゃないかも」と一瞬迷った結果らしい。

 でも結局、三人とも椎名の隣に座り、正面から話を聞くことになった。

「何から聞きたいの?」

 久住は、手元のカップを両手で包みながら言った。

「事故の状況? お母さんたちの様子?」

「……その、両方です」

 圭斗が、喉を鳴らしながら答える。

「覚えている範囲でかまいません」

「覚えてるわよ。あの日のことは、きっと死ぬまで忘れない」

 久住は、窓の外に視線を投げた。

「夜の七時ごろだったかしら。雨がひどくてね。びしょびしょになった三人の子どもが救急車で運ばれてきたの」

 三人。

 ゆき。

 律。

 そして、幼い頃の篠森圭斗。

「一人は、もうその時点で意識がなかった」

 久住の声が、少し低くなる。

「小さな男の子。息はあったけど、すぐに集中治療室に運ばれた」

「……律だ」

 圭斗が、膝の上で拳を握りしめる。

「女の子は、頭を打っててね。出血もあったけど、命に別状はなさそうだった。もう一人の男の子は、外傷は比較的軽かった。でも――」

 そこで、久住は言葉を切った。

「でも、ずっと『ごめんなさい』って繰り返してたわ」

 その光景が、圭斗の脳裏に鮮やかに浮かぶ。

 白い天井。

 消毒液の匂い。

 涙で滲んだ視界。

 何度も、何度も。

「ごめんなさい」

「俺がちゃんと見てなかったから」

「俺のせいだ」

「ごめんなさい」

 口の中で転がる言葉が、十年の時を飛び越えて、今の自分の耳に戻ってくる。

「……」

 喉がひどく乾いていた。

 テーブルの麦茶に手を伸ばすが、指先が微かに震えている。

「でね」

 久住は、静かに続けた。

「あの子たちの親御さんたちが、病院に駆けつけてきたでしょ」

「はい」

「そりゃあもう、大変な騒ぎだった」

 母親の泣き声。

 父親の怒号。

 控え室の空気は、悲鳴と謝罪でぐちゃぐちゃになっていたという。

「加害者の家族も来たわ。警察もいた」

「加害者……」

 圭斗が、息を呑む。

「名前は、教えられないけどね」

 久住は、少しだけ苦い笑みを浮かべる。

「でも、あの日の夜、あの小さな控え室で、大人たちは同じことを何度も言ってた」

「同じこと?」

「『あの子たちが全部忘れてくれたらいいのに』」

 その言葉は、やけに冷たくテーブルに落ちた。

 圭斗の心臓が、どくん、と大きく跳ねる。

「……忘れてくれたら」

「子どもたちが何も覚えていなければ、この先、あの夜のことに一生苦しまなくて済むって」

 久住の目が、少しだけ遠くなる。

「加害者の家族も、被害者の家族も、口をそろえてそう言ってた」

 椎名が、息を呑む。

 圭斗も、空良も、言葉を失った。

「もちろん、その場にいた全員が、同じ思いだったとは言わない」

 久住は、両手の指を組み合わせて、ぎゅっと握る。

「『そんなのは逃げだ』って怒った人もいた。『忘れられるわけがない』って泣いた人もいた」

「それでも」

「でも、最終的には、みんな疲れ果てて、同じ言葉にすがったのよ」

 忘れてほしい。

 忘れられたほうが楽だ。

 忘れないと、前に進めない。

 祈りとも、わがままともつかない願望が、狭い控え室で渦巻いていた。

「……俺の母も」

 圭斗は、声を絞り出した。

「その場にいましたか」

「いたわ」

 久住は、うなずく。

「ずっとあなたの手を握って、泣いていた」

「……」

「『この子だけは、覚えてなくていい』って」

 その一言が、刃のように刺さった。

「それは、あなたを守りたかったからだと思う」

 久住は、すぐに付け加える。

「小さな子どもが自分を責め続けるのは、見ていられなかったんでしょう」

「守りたくて」

「そう。守りたかったのよ」

 守るために。

 忘れさせようとした。

 その結果が、今の歪な状況に繋がっているのだとしたら――。

「……あの夜」

 圭斗は、震える指で自分のこめかみを押さえた。

「俺も、その場にいたのかもしれません」

「意識は朦朧としてたけどね」

 久住は、首を傾げる。

「でも、多分聞こえてたと思うわよ。大人たちの言葉」

 忘れてくれ。

 忘れたほうがいい。

 忘れさせたい。

 その願望が、幼い圭斗の心にも、白凪家の子どもたちにも、どんな影響を与えたのか。

 答えはまだ出ない。

 ただ一つはっきりしているのは、「忘れさせようとしたのは、子どもたちではなく大人たちだった」という事実だけだ。

     ◇

 次に向かったのは、事故現場の近くで何十年も店を構えている古い商店だった。

 店内には、駄菓子と日用品と、なぜか子供向けのおもちゃが雑多に並んでいる。

「いらっしゃい」

 奥から現れた店主は、背中が少し丸まったおじいさんだった。

 白髪混じりの頭に、ねじり鉢巻き。

 いかにも「昔からここにいます」と言わんばかりの風格だ。

「椎名先生じゃねえか。こないだ健康診断の書類で世話になったよ」

「こちらこそ」

 椎名が笑って頭を下げる。

「今日は、生徒たちと一緒に、ちょっと昔話を聞きに来ました」

「昔話?」

「十年前の、あの交差点の事故のことです」

 店主の表情が、ぴたりと固まった。

 そして、すぐに諦めたようなため息をつく。

「……ああ、あれか」

 レジ横の椅子に腰を下ろしながら、ぽつりと言った。

「忘れろと言われた話ほど、よく覚えてるもんだな」

「忘れろ、と?」

「あの夜な」

 店主は、店の外の道路に視線を投げた。

「事故のあと、近所の大人たちが集まったんだよ。加害者の家族と、被害者の家族と、うちみたいな店やってる連中と」

「集会、みたいな?」

「そんな立派なもんじゃねえ」

 店主は苦笑した。

「警察が帰って、病院からも一段落したって連絡が来て。それでも興奮して眠れねえもんだから、みんなでこの店の裏に集まったのさ」

「その場で、何を?」

「何をって」

 店主は、指を折りながら数えるようにして言った。

「誰が悪いとか、どうしてあんなことになったとか、そんな話を延々と」

「……」

「大人はな、こういうとき、自分が悪くない理由を探すのに必死になる」

 苦味の混じった声。

「『運が悪かった』とか、『雨で見えなかった』とか、『誰がつき添ってたんだ』とかよ」

「それで、『忘れろ』って?」

「誰が言い出したのかは覚えてねえ」

 店主は、頭をかきむしった。

「ただ、誰かがぽつりと言ったんだ。『あの子らが全部忘れてくれたらいいのに』って」

 その言葉は、重なる。

 病院で聞いた話と、同じフレーズ。

「最初は冗談みたいな空気だった」

 店主は続ける。

「『そうだそうだ、全部忘れてくれたら、この街も、この家も、前に進める』って」

「……」

「『あの子たちが覚えてたら、一生この街は“人殺しの街”って言われる』って、誰かが叫んだ」

 圭斗の喉が、きゅっと締めつけられる。

「その場に、白凪さんの家族もいましたか」

 椎名が、静かに尋ねる。

「いたよ」

 店主は、迷わず答えた。

「お母さんは泣きながら首振ってたけどな。お父さんは、途中から何も言わなくなった」

「……」

「加害者の家族は、ずっと頭下げてた」

 店主の視線が、一瞬だけ圭斗に向く。

 その意味を、彼は聞き返せなかった。

「でな」

 店主は、膝の上で手を組む。

「最後のほう、みんな疲れ果ててきて。誰が言ったかは覚えてねえが、『だったらもう、全部なかったことにしよう』って話で、場がまとまりかけた」

 全部、なかったことに。

 その言葉に、空良が眉をひそめる。

「なかったことって」

「看板からも、噂からも、子どもたちの記憶からも」

 店主は、ぽつりと言った。

「『今日は何もなかった。明日からも、何もなかった』って、全員でそう思おうってな」

「そんなの」

 空良が、思わず口を挟む。

「そんなの、ただの現実逃避じゃん」

「そうだよ」

 店主は、あっさりと認めた。

「だからこそ、みんな必死だった」

 必死に逃げようとしていた。

 罪悪感から。

 恐怖から。

 自分の子どもたちに向けられる憎しみから。

「今になって思う」

 店主は、小さく笑った。

「あの場にいた大人たちは、みんな“世界の書き換え”でもできるつもりだったんだろうな」

「世界の、書き換え」

「都合の悪い記憶だけ、なかったことにする」

 それは、椎名が読み解いた「刻印のルール」と、妙に重なる響きだった。

 強烈な忘却願望。

 集団での記憶改変のイメージ。

 その負荷が、一人の身体に集中する。

「……」

 圭斗は、ぞくりと背筋を震わせた。

(あの夜の「話し合い」が)

(刻印のきっかけになったのか)

 誰かの祈りとも呪いともつかない言葉が、現実を歪めてしまったのだとしたら。

「結局な」

 店主は、大きく息を吐いた。

「翌朝になっても、何も“書き換わって”なんかいなかった」

「……」

「ガキどもは、きっちり記憶を失くしてたけどな」

 その一言に、空気がぴたりと止まった。

「白凪の娘さんは、事故の前後のことを、すっぱりと」

 店主は、自分のこめかみを指で叩いた。

「お前さんのところの坊主も、そうだろ?」

 視線の先には、圭斗。

 彼は、何も言い返せなかった。

 自分の頭の中の「空白」が、初めて具体的な形を持った気がした。

     ◇

 その日の夕方。

 保健室のベッドに座っていたゆきのもとに、三人が戻ってきた。

 ノートと、コピー用紙と、記憶とを、たくさん抱えて。

「おかえり」

 ゆきが、少し不安そうに笑う。

「どうだった?」

「……とりあえず」

 空良が、ぐったりと椅子に腰を下ろした。

「大人って、思ってた以上にズルい生き物だった」

「え?」

「ごめん、説明する」

 圭斗が、黒いノートを開いた。

 病院の元看護師の証言。

 店主の話。

 「忘れたほうが楽」という言葉が、何度も繰り返された夜のこと。

 ゆきは、黙って聞いていた。

 眉を寄せて。

 時々、唇を噛みしめながら。

「だからね」

 説明を終えたところで、椎名が、ゆきの青いノートに視線を落とした。

「仮説だけど、こんなことが言えると思う」

「仮説?」

「刻印は、“個人の心の問題”だけじゃない」

 椎名は、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「大人たちが、『嫌な記憶をなかったことにしよう』って集団で強く願った結果、その“負荷”が誰か一人の身体に集中した」

「誰か一人……」

「刻印持ちとして」

 それが、白凪ゆきだ。

「つまり」

 空良が、指を折りながら整理する。

「ゆきの記憶リセットは、ゆきが弱かったからとか、心が壊れたからじゃなくて」

「大人たちの選択の結果として生まれた“歪な奇跡”」

 椎名が、言葉を引き継いだ。

「忘れたかったのは、大人たち。忘れさせられたのが、ゆきちゃん」

 保健室の空気が、重く沈んだ。

 ゆきは、膝の上で手を握りしめる。

「……みんなの優しさが」

 ぽつりと、呟いた。

 声は震えているのに、どこか静かだった。

「私の身体を削ってるんだね」

 圭斗の心臓が、ぎゅっと締めつけられる。

「優しさ、って言っていいのかどうかは、正直微妙だけど」

 空良は、苦笑いを浮かべた。

「でも、あの夜の大人たちは、『忘れてほしい』って本気で願ってたんだと思うよ」

「自分のためにも、子どもたちのためにも」

 椎名が続ける。

「結果として、それが一番きつい形でゆきちゃんに乗っかってるわけだけど」

「……」

 ゆきは、うつむいたまま、しばらく何も言わなかった。

 保健室の時計の針が、やけに大きく音を立てている。

 やがて、彼女は顔を上げた。

 目尻には涙が光っているのに、不思議と笑っていた。

「それでもね」

 ゆきは、ゆっくりと言った。

「その大人たちを、一方的に責める気にはなれないや」

「……なんで」

 圭斗が、思わず聞き返す。

「優しさって、いつも綺麗な形してるわけじゃないから」

 ゆきは、自分の胸に手を置いた。

「『忘れてほしい』って願いも、きっとどこかでは優しさだったと思う」

 子どもを守りたい。

 これ以上苦しませたくない。

 自分たちも、立ち直りたい。

 その全部が、ごちゃ混ぜになった感情。

「でも、その優しさが、こんな風に歪んで出ちゃったんだよね」

「……」

「だから、間違ってたって言われたら、そうなんだと思う」

 ゆきは、視線を天井に向けた。

「でも、私も、もしあの時大人だったら、同じこと言ってたかもしれない」

 その想像は、ひどくリアルだった。

 自分の子どもが、弟を失った記憶に毎晩うなされていたら。

 事故の現場を指さして、「あそこには怪物がいる」って号泣していたら。

 「全部忘れさせてあげたい」と、きっと思う。

「だから、憎みきれない」

 ゆきは、小さく笑った。

「大人たちも、ちゃんと弱かったんだなって思うだけ」

 その言葉に、圭斗は胸を突かれた。

(俺の母さんも)

 事故の夜、「この子だけは覚えてなくていい」と泣いた母の顔が浮かぶ。

(弱くて)

(優しくて)

(そして、間違えた)

 忘れさせようとして。

 守ろうとして。

 その結果、ゆきを刻印持ちにしてしまったかもしれない。

「……俺は」

 圭斗は、自分の膝を見つめながら口を開いた。

「ずっと、『忘れさせられた側』だって思ってた」

「うん」

「でも」

 喉がひどく乾いている。

「もしかしたら、俺もあの夜、『忘れたい』って思ってたのかもしれない」

 その可能性に、全身が冷たくなる。

 律が倒れる瞬間。

 血の匂い。

 自分の手に残る温度。

 それ全部から、目をそらしたくて。

 「忘れたい」と、子どもだった自分も願ってしまったのだとしたら。

「それって」

 空良が、少しだけ優しい目をした。

「そんなにダメなことかな」

「え?」

「だって、あんた、ガキだよ? その頃」

 ストレートな言い方だったが、そこに責める響きはない。

「自分の弟みたいな子が死にかけてて、自分も血まみれで、それでも『全部覚えてます』って言い張れる小学生、そこまで多くないって」

「……」

「忘れたいって思った自分も、本当の気持ちだと思うよ」

 空良は、椅子の背にもたれながら天井を見上げた。

「だからって、今『忘れない』って決めた自分まで、否定しなくてよくない?」

 その言葉に、圭斗は目を瞬いた。

「十年前のあんたと、今のあんた、同じ人だけど同じじゃないでしょ」

「……まあ」

「だったら、『あの時は忘れたかった』『今は忘れたくない』って両方あっていいんだよ」

 それは、救いにも、呪いにもなり得る言葉だった。

 でも少なくとも今は、救いの方が勝っていた。

「……ズルいな」

 圭斗は、思わず笑った。

「何が」

「そんな言い方されたら、簡単に楽になっちゃうだろ」

「楽になっときなよ」

 空良は、肩をすくめる。

「どうせこの先、もっとしんどくなるんだから」

 それはそれで、妙に説得力があった。

     ◇

「じゃあさ」

 ひと通り話が落ち着いたところで、ゆきが、おずおずと手を上げた。

「決めてもいい?」

「何を?」

「誰を、責めるか」

 その言葉に、三人の視線が集まる。

 ゆきは、少しだけ笑った。

「大人たちのこと、全部許すってわけじゃないけど」

 事故の夜のことをなかったことにしようとした大人たち。

 名簿を書き換えた誰か。

 「忘れたほうが楽」と安易に言った人たち。

「一番責めるのは、自分ってことにする」

「……え?」

 三人が同時に声を漏らした。

「もちろん、『全部私のせい』って意味じゃないよ」

 ゆきは、慌てて手を振った。

「そうじゃなくて」

 言葉を探しながら、青いノートを手に取る。

「律のことを忘れてた自分を責める」

 そう書き込みながら、続けた。

「律が『いた』ことを、ちゃんと覚えてない自分に、ちょっと怒る」

「……」

「でも同時に、『じゃあ覚えていようね』って、自分に言ってあげる」

 罪悪感と、決意を、同じ自分の中に置く。

「大人たちが間違えたことも、世界が私を消そうとしてることも、全部簡単に許すわけじゃないけど」

 ゆきは、ノートを胸に抱きしめた。

「一番ちゃんと責めて、一番ちゃんと許す相手を、自分にしておきたい」

 それは、苦しみを抱え込む選択でもある。

 でも、「被害者」でいることだけを拒否する、一歩でもあった。

「……強いな」

 椎名が、小さく笑った。

「強くないよ。めちゃくちゃ弱いから、そう決めないと多分壊れるだけ」

 ゆきは、あっさりと言う。

「だから、せめて自分くらい、自分の味方でいたいなって」

 その笑顔は、少し泣きそうで、でも確かに前を向いていた。

「じゃあ」

 圭斗も、自分の黒いノートを開く。

「俺は、『忘れさせた大人たち』を責める役をやめる」

「……え?」

「代わりに、『これから忘れないでいる大人』になる準備、しとく」

 ページの上に、ペンを走らせる。

 大人たちは、あの夜「忘れてほしい」と願った。

 俺は、これから「忘れないでいたい」と願う。

「俺も弱かったし、今も弱いけど」

 ノートを閉じて、ゆきの方を見る。

「少なくとも、白凪と律のことを、『なかったこと』にはしない」

「……うん」

「それが、あの夜の大人たちができなかったことなら」

 圭斗は、少しだけ笑った。

「俺たち三人セットのバカで、やり直せばいい」

 その言葉に、空良がどや顔をした。

「名言出た」

「やめろ、そういうの恥ずかしい」

「でもさ」

 空良は、ゆきと圭斗を交互に見て、にっと笑う。

「『忘れさせたのは大人だ』って、ちゃんと言葉にできただけでも、今日の成果でかくない?」

「……確かに」

 椎名もうなずく。

「今まで漠然と『不具合』って感じていたものに、名前をつけられたんだから」

 忘れさせたのは大人だ。

 忘れたくなかったのは子どもだ。

 その構図がはっきりしたことで、ようやくスタートラインに立てた気がした。

「じゃあ今日のまとめ」

 空良が、ホワイトボードの写真をスマホで撮りながら言う。

「大人、ズルい。私たち、バカ。でも、そのバカで戦う」

「雑すぎない?」

「だいたい合ってる」

 保健室に、少しだけ笑い声が戻ってきた。

 刻印の数字は、容赦なく減り続ける。

 でも、「忘れさせたのは誰か」「忘れないのは誰か」をはっきりさせた今日という日は、きっと無駄にはならない。

 ゆきは、ページの端にそっと一行書き足した。

 今日の私は、「忘れさせた大人たち」をちゃんと知れた。

 それでも、「忘れない私たち」を選びたいと思った。

 ノートを閉じるとき、胸の奥の痛みは消えていなかった。

 けれど、その痛みの形だけは、前より少しだけはっきりしていた。


第十五話「芹沢玲央の正義」

 数日後。

 テレビの中では、まだあの日の続きみたいな映像が流れていた。

『市内大型ショッピングモールで発生した火災から一夜——』

 アナウンサーの落ち着いた声。

 画面の隅には、「死者三十二名・重軽傷者多数」というテロップ。

 スローモーションみたいに、焦げたフロア、割れたガラス、担架で運ばれていく誰かの姿が映る。

 俺は、リモコンを握ったまま固まっていた。

 体育館の天井から、照明器具が落ちてきた瞬間の音が、まだ耳に残っている。

 もし、あそこで何もしなかったら。

 ここに映っている数字のいくらかは、この学校の生徒や教師のものになっていたはずだ。

 そんなこと、わかっているのに——

「……あれは、本来、体育館で死ぬはずだった人たちの死、なのかよ」

 呟いた声は、思ったよりしゃがれていた。

 リモコンのボタンがカチリと鳴る。

 画面が真っ暗になって、部屋の中が一気に静かになった。

 無音のテレビ台の黒い画面には、自分の顔がぼんやり映っている。

 疲れた高校生の顔。

 あと、頭の上に浮かぶ、自分のフラグ。

【自責・胃痛・不眠・七〇%】

「……だよな」

 笑えない。

 そのまま布団に倒れ込もうとしたタイミングで、スマホが震えた。

『芹沢:放課後、生徒会室裏の旧資料室に来てくれるかな。天城さんも一緒に』

 旧資料室。

 名前からしてろくな場所じゃなさそうだ。

 でも、行かないという選択肢は、最初からなかった。

 体育館のあのフラグ。

 ショッピングモールの火災。

 全部まとめて、聞かなきゃいけないことが山ほどある。

 俺は短く「了解」と返して、スマホを裏返した。

     ◇

 放課後の生徒会室は、いつもより静かだった。

 窓から差し込む西日が、木製の机をオレンジ色に染めている。

 生徒会役員の姿はない。部屋の真ん中にいるのは、芹沢と空だけだった。

「黒江くん、こっち」

 空が手を振る。

 その笑顔はいつも通りなんだけど、少しだけ硬い。

 芹沢は、生徒会長用の机に腰をかけていた。

 腕章は外していて、ネクタイも少し緩めている。

「来てくれてありがとう」

 いつもの爽やかボイス。

 だけど、その目の奥にあるものは、体育館の日よりずっと濃い影だった。

「ここじゃ、少し狭いからね」

 芹沢は立ち上がると、生徒会室のさらに奥にあるドアの前に立った。

 ドアのプレートには、「資料室」とだけ書かれている。

 でも、そのドアは、俺がこの学校に来てから一度も開いているところを見たことがなかった。

 芹沢はポケットから鍵を取り出し、ガチャリと回す。

「ようこそ、“あっち側”の仕事場へ」

 冗談めかした声色。

 けれど、その言葉に笑える余裕は誰にもなかった。

     ◇

 旧資料室の中は、思ったよりも広かった。

 壁一面に、古い書棚とファイルキャビネット。

 その隙間に、やけに浮いた新しさのある機械が鎮座している。

 灰色の筐体に、薄いモニター。

 コンセントの差し込みや配線は、妙に綺麗にまとめられていた。

 いかにも、「学校にあるはずだけど絶対ないタイプ」の端末だ。

「それ、もしかして」

「管理局の簡易端末。地上拠点用の、簡単なやつだけどね」

 芹沢は、モニターに軽く触れる。

 画面がふっと明るくなって、地図とグラフが浮かび上がった。

「まずは、数字から見てもらった方が早いと思う」

 淡々とした口調。

 画面には、市内の地図が表示されていた。

 ところどころに、赤や青の点。

 それぞれの色には、「死因」や「人数」のラベルが付いている。

 俺たちの学校の周辺は、青色の点が多かった。

【死亡見込み地点・キャンセル済み】

 そう書かれた小さなマークが、体育館のあたりにいくつも重なっていた。

「……これが、体育館で死ぬはずだった人たち?」

「厳密には、“死に関わるフラグ”だね」

 芹沢は、別のタブを開く。

 棒グラフが並んだ画面に切り替わった。

 縦軸は件数、横軸は日付。

 体育館事故の日付には、「予定値」と「実際値」の棒が二本立っている。

 予定値の棒は高い。

 実際値の棒は、ほとんどゼロだ。

「学校周辺の、“死の密度”は一時的に下がった」

 芹沢は、それを指で示した。

「その代わり——」

 画面が切り替わる。

 今度は、市内全域のグラフだ。

 ショッピングモールの位置に、真っ赤な大きな丸が浮かぶ。

【火災・死者三十二名】

 観光バスの横転事故地点にも、赤。

【交通事故・死者十二名】

 その他にも、小さな赤い点がいくつも散っている。

「こっちでは、予定値より“上振れ”した」

 淡々とした説明。

 数字から感情を切り離した、事務的な声。

「君たちのやり方は、局所的には成功だよ」

 芹沢は素直に認めた。

「この学校で死ぬはずだった何十人かは、確かに生きている」

「……でも、世界全体で見れば、死者の数は変わってない」

 空が、ぽつりと言う。

 芹沢は頷いた。

「正確には、統計上は微妙に増えている。管理しづらい“予測不能な事故”が増えたぶんだけね」

「予測不能?」

「本来なら、体育館という“閉じた空間”でまとめて回収する予定だった死を、別々のタイミングで、別々の場所に散らしたから」

 画面に表示されたグラフには、管理局の予測ラインと実績ラインが重ねて描かれている。

 真っ直ぐだった予測ラインから、実績のグラフがところどころ飛び出しているのが見て取れた。

「君たちがやったことを、簡単に言うとこうだ」

 芹沢は、ペンを取り、ボードに丸と矢印を書き始める。

「大きな“調整事故”という一個の丸を——」

 丸から、細い矢印がいくつも伸びる。

「たくさんの小さな事故や病死に、分散させた」

「……それって」

 喉の奥から、言葉が漏れた。

「俺たちが救ったぶん、どこかで誰かが死んでるってことは、変わってないってことだよな」

「そうだね」

 あっさりと言われる。

 胃のあたりが、ぎゅっと痛んだ。

「世界全体で見れば、“死の総量”は変わらない」

 芹沢は、昔から知っている事実を確認するみたいに、当たり前の声で続ける。

「君たちは、体育館という一点で予定されていた大量死を、別の場所に“移動”させた。配置を変えただけだ」

「配置……」

 言葉を噛みしめる。

 俺の頭の中では、ショッピングモールのニュース映像と、体育館で笑っているクラスメイトの顔がぐちゃぐちゃに混ざっていた。

 どっちか一方だけを守ることは、できなかったのか。

 そう思った瞬間、画面がふっと切り替わった。

 今度は、別の時期のグラフだ。

「これは、僕がまだ“こっち側”に来る前の話」

 芹沢の声に、少しだけ色が乗った。

 淡々とした事務口調ではない。

 誰かの昔話を語るときの、柔らかさが混ざっていた。

「当時、僕は、君たちと同じように“目の前の人間を救う”ことだけを考えていた」

「……想像つかねえ」

 思わず口を挟んでしまう。

 芹沢は、肩をすくめた。

「今よりも、もう少しだけ子どもだったから」

 画面に映し出されたのは、ある交差点の地図だった。

 赤い丸と青い丸が、何個も重なっている。

「大規模な交通事故が予定されていた交差点があった。大型トラックのブレーキ故障で、バス停に突っ込む予定だった」

「予定って言い方、やめろよ」

「でも、正確なんだ」

 軽く、たしなめられる。

「そこにいたのは、通勤途中の会社員、買い物帰りの主婦、保育園児。僕は、見えていた」

 芹沢の目が、遠くを見た。

 その頭上に浮かんでいるフラグは——

【昔話・トラウマ・再燃・六〇%】

「ここのバス停で、誰が死ぬか。何人死ぬか」

「……それで、助けようとしたのか」

「当たり前だろう。あの頃は、“そういうのを全部止めるのが正義だ”って、本気で信じてた」

 芹沢は、うっすら笑った。

「通行人の流れを変えて、信号を操作して、警察に匿名通報をして——結果として、事故は起きなかった」

「じゃあ、それでよかったじゃねえか」

「そう思うよね」

 そこで、画面が別の地図に切り替わった。

 さっきより広い範囲。

 今度は、高速道路とトンネルが映っている。

 そこに、大きな赤丸。

【多重衝突事故・死者四十七名】

「その二時間後、ここで大事故が起きた」

 芹沢の声は、もう淡々とはしていなかった。

「交通量は減っていたのに、死亡者数は予測より増えた。原因は、“本来バス停で死ぬはずだった人間が、別の場所で一緒くたに死んだ”ことだと分析されている」

「分析って……」

 胃の痛みが、さらに増した気がした。

「その事故で、僕の家族も死んだ」

 短く、あっけなく告げられた。

 その一言だけで、この部屋の空気が一気に変わる。

 空も、千景も思わず息を呑んだ。

「それまでは、個人的な感情だけで動いていた」

 芹沢は、自分の胸に手を当てるみたいな仕草をした。

「“目の前の人を救えれば、それでいい”って。でも、あのとき初めて知った」

 画面に映る赤丸を、指先で軽く叩く。

「個人的な正義と、“全体の最適化”は別物だって」

「……だから、管理局に入ったのか」

「スカウトされた、が正しいかな」

 自嘲気味の笑み。

「“君みたいな奴は、こっち側に来た方がいい”ってさ。現場で暴れるより、計算して配置を決める側に回れって」

「そして、今は“誰か一人の犠牲で多くを救えるなら、それが合理的”って理屈を信じてるってわけか」

 俺の声は、自分でもわかるくらい尖っていた。

「ああ」

 芹沢は、それを否定しなかった。

「感情は、邪魔でしかない。僕が昔、バス停で救った数人の命より、トンネルで死んだ四十七人の命の方が重い。そう考えないと、やっていけない」

「……本気で言ってんのかよ」

 拳が震えた。

「“必要経費”みたいに言うなよ。人の死を、数字で割り切った瞬間に、人間じゃなくなるだろ」

「黒江くん」

 空が、そっと袖を引く。

 止めようとしているのか、支えようとしているのか、自分でもわからない。

 芹沢は、俺の言葉を正面から受け止めていた。

「数字で割り切らないと、あの日みたいに何も守れなくなる」

 静かに、淡々と。

「僕は、逆に思うよ。“一人の死を必要経費だと言えない人間”は、大勢の死の責任なんて背負えない。だからこそ、君たちみたいな人間は、“現場側”にいてくれた方がいい」

「現場側?」

「目の前の人を救おうとする側。泣き叫んで、怒って、納得できないって言い続ける側」

 ふっと笑う。

「それがいない世界は、きっと僕みたいな人間だけの世界より、もっと最悪だ」

 褒められているのか、馬鹿にされているのか、わからない。

 どっちにしろ、ムカつくことには変わりない。

「……私」

 そのとき、空がぽつりと言った。

「私は、“犠牲になる側”として選ばれたんだよね」

 その声には、笑いも怒りもなかった。

 ただ、事実だけを確認するような冷たさがあった。

 芹沢は、ほんの少しだけ目を伏せた。

「君の契約内容について、詳しく話す権限は僕にはない。でも——」

 端末の画面に、別のウィンドウが開く。

 そこには、「契約者一覧」という項目が表示されていた。

 名前の欄に、「天城空」。

 その横に、小さな文字で条件が並ぶ。

【死亡肩代わり率・高】

【延命対象・複数名】

【自己犠牲フラグ・優先配置】

 空は、その文字列を黙って見つめていた。

 頭上に、薄いフラグが浮かぶ。

【自己嫌悪・再燃・五五%】

「空が死ねば、何十人も救われる」

 芹沢は、あえて冷たい言い方をした。

「それは、管理局の観測による“事実”だ」

「ねえ」

 空が笑う。

 今まで見たことのない笑い方だった。

 どこにも届かない、ひび割れた笑い。

「“私が死ねば丸く収まる”って、やっぱり便利な考え方なんだね」

「そうだよ」

 芹沢は、ためらわずに肯定した。

「でも、便利だからって、必ず選ばなきゃいけないわけじゃない」

「じゃあ、何があるの?」

 空が、顔を上げる。

 その目は少し赤くなっていた。

「死の総量は変わらない。誰かの死を誰かに押しつけるだけ。私が死ねば何人か助かる。でも、それでも救われない人もいる」

「うん」

「そんな世界で、“他の選択肢”なんて、あるの?」

 俺も、それは何度も考えたことだった。

 体育館で助けた数十人の顔と、ニュース画面の三十二という数字が、何度も天秤にかけられる。

 どっちも同じ重さに感じられて、結局答えが出ない。

 芹沢は、そこで初めて、言葉を選ぶような間を置いた。

「——もし」

 静かな声。

「死の総量そのものを、変えられる可能性があるとしたら?」

「は?」

 あまりに突拍子もない言葉に、間抜けな声が出た。

 空も、目を瞬かせる。

「今、何て」

「“死の総量”」

 芹沢は、端末の画面を指でスクロールした。

 そこには、長々とした報告書と、数式の羅列が並んでいる。

「管理局の上層部が、新しい実験案として検討している計画がある」

「計画?」

「“特異点”を使って、世界中の死亡フラグの総量を再調整する」

 空気が、一段階冷たくなった気がした。

「特異点って……」

「黒江くんのことだよ」

 迷いなく言われた。

 頭の中が真っ白になる、ってこういう感覚なんだろう。

「お、俺?」

「君は、生まれつき“可視化権限”を持っている。管理局側にしか許されないはずの権限をね」

 芹沢は、淡々と説明を続ける。

「それに加えて、君のフラグは他人のフラグに干渉しやすい。自覚はないかもしれないけど、小学生の頃から、君の周囲だけ死亡率が微妙に変動している」

「……は?」

「あの親友の事故の前後もそうだし、この学校に来てからもそう。君の視界に入る範囲の“死”は、他の地区と比べて偏っている」

 言われてみれば、思い当たる節がないわけじゃない。

 妙に事故が多い区域だったり、逆に不自然なほど何も起きない期間があったり。

 それが全部、自分のせいだなんて考えたことはなかったけど。

「上の連中は、それを“特異点”と呼んでいる」

 芹沢は、画面の一部分を拡大した。

 そこには、「特異点候補:黒江真澄」と、確かに日本語で書かれている。

 ぞわり、と背筋が粟立った。

「計画の内容を簡単に言うと——」

 芹沢は、白い紙を一枚取り出し、丸を描いた。

「世界中に散らばっている死亡フラグを、一度ここに集約する」

 丸の中心に、点。

「全部、君一人の上に」

 喉が、音を立てた。

 それは、飲み込んだ唾の音だったのか、それとも別の何かなのか。

「集めたうえで、再分配する」

 丸から、細い線がいくつも伸びる。

「“意味のない大量死”を減らして、“必要な死”にだけフラグを残す。老衰とか、避けられない病気とか、君がさっきベランダで見ていた“マシな死”の方にね」

 第九話の夜景が、頭に浮かぶ。

 老衰とか、看取られながらとか、そんな柔らかいフラグ。

「成功すれば、多分、世界全体の“死の質”は今よりマシになる」

 芹沢は、あくまで仮定として話している。

「少なくとも、ショッピングモール火災や、体育館の大量事故みたいな“調整イベント”の頻度は減るかもしれない」

「……夢物語に聞こえるけど」

 空が、かすかに震える声で言った。

「失敗したら?」

 芹沢は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

「失敗すれば——」

 そして、はっきりと言った。

「君一人が、あらゆる死に方で何度も死ぬことになる」

 空気が凍りついた。

 旧資料室の古い蛍光灯の音だけが、やけに大きく響く。

「集約した死亡フラグが暴走した場合、特異点に対して“全パターンの死”が一気に流れ込む。火災、交通事故、溺死、病死、自殺、他殺。想像できるだけの死に方を、何度も何度も繰り返すことになる可能性が高い」

「おい、やめろ」

 自分でも驚くくらい、低い声が出た。

「そんなふざけた計画、よく平然と口にできるな」

「ふざけてはいないよ」

 芹沢は、真剣な顔だった。

「君一人の犠牲で、何万人、何十万人の死の質が変わる可能性がある。上から見れば、魅力的な“尖った企画”なんだろうね」

「企画とか言うな」

 吐き捨てるように言うと、芹沢は「ごめん」とだけ小さく呟いた。

 でも、その目は変わらない。

 冷静で、残酷なくらいに現実を見ている目。

「……黒江くん」

 隣から、小さな声。

 空が俺の袖をぎゅっと掴んでいた。

 顔は真っ青だ。

 頭の上には、真っ黒なフラグが浮かんでいる。

【黒江を止めたい・でも止められないかもしれない・恐怖・八五%】

「君が決めることだ」

 芹沢は、あくまで中立的な言い方をする。

「僕たち管理局は、“提案”はするけど、“強制”はできない。特異点の自発的な意思なしに、この計画は成立しないとされている」

「本当に、強制できないのか?」

 疑いの視線を向けると、芹沢は肩をすくめた。

「僕が知る限りはね。少なくとも、僕には君を無理やり連れていく権限はない」

「じゃあ……」

 口が勝手に動いた。

 自分でも、その言葉が出るとは思っていなかった。

「俺は、やる」

「黒江!」

 空の悲鳴みたいな声が、旧資料室に響いた。

 自分の胸の中で、何かがカチリとはまった感覚があった。

 体育館で照明が落ちてきたとき。

 俺は、考えるより先に飛び込んだ。

 たぶんこの先、何度同じ状況になっても、同じことをする。

 だったら——

「世界中のフラグを一回俺のところに集めて、やり直せる可能性があるなら」

 震える手を、ぎゅっと握る。

「やらない理由、ねえだろ」

「あるでしょ!」

 空が、机を叩いた。

 普段の彼女からは想像できないくらい、大きな音だった。

「あるに決まってるでしょ! そんなの、絶対に許さない」

「空……」

「黒江くんが死ぬかもしれない実験に、“はい”って言えるわけないじゃん」

 空の目からは、もう涙がこぼれていた。

「今までだって、何度もギリギリで助かってきたのに。それを、最初から“何度も死ぬ前提”で突っ込むなんて、おかしいよ」

「でも——」

「でもじゃない!」

 初めて見た。

 空が、怒鳴るところ。

「私が死ねば、“丸く収まる”って話なら、まだわかる。私の契約は、そのためのものだから」

 自分の胸を指さす。

「でも、黒江くんは違う。黒江くんは、“見てしまう側”で、“選ぶ側”でいてよ」

「俺だって、“肩代わり”すればいいだろ」

 口から出た言葉の意味に、自分で驚いた。

「今までずっと、空に割りを食わせてきた。お前が死ななくて済む道があるなら、そっちを選ぶのが筋だろ」

「筋とか言わないでよ!」

 空は、涙でぐしゃぐしゃになりながら、俺の胸ぐらをつかんだ。

 軽いはずの手が、やけに重く感じる。

「私の契約は、“私の選択ミス”の結果だよ。弟を守りたくて、何も見えなくなって、あんな条件飲んじゃった。でも、それは私の責任であって、黒江くんの責任じゃない」

 震える声で続ける。

「だから、“私の分まで死ね”なんて、絶対に言わないで」

 その言葉は、刃みたいに鋭かった。

 胸のど真ん中に突き刺さって、動けなくなる。

「……空」

 芹沢が、珍しく名前を呼んだ。

 空は、ハッとしたように手を離す。

 それでも、涙は止まらない。

 頭上のフラグが、忙しなく形を変えていた。

【黒江を守りたい・自分が死ねばいい・でも嫌だ・生きたい・全部矛盾・混乱・九〇%】

「君たちの気持ちは、よくわかった」

 芹沢は、静かに言った。

「だからこそ、すぐに答えを出す必要はない。上層部も、まだ“実験案”の段階で、具体的なスケジュールまでは決まっていない」

「でも、時間をかければかけるほど、どこかで“調整事故”が必要になるんだろ」

 俺が言うと、芹沢は苦笑した。

「そうだね。そこが、一番のジレンマだ」

「お前はどうなんだよ」

 気づいたら、問いかけていた。

「芹沢玲央としては、その計画に賛成なのか。反対なのか」

 生徒会長としてでも、管理局エージェントとしてでもなく。

 一人の高校生として。

 芹沢は、少しだけ考え込むような素振りを見せた。

 そして——

「今のところ、“それ以外の方法を知らない”」

 答えは、どこまでも正直だった。

「だから、賛成でもあり、反対でもある。人間の感情としては、“そんなのやりたくない”し、“誰か一人に全部押しつけたくない”。でも、今の管理方法のままでも、いずれ限界が来る」

 端末の画面を見やる。

 そこには、増え続ける人口と、変わらない“死の総量”のグラフが描かれていた。

「僕の正義は、今のところ“全体の最適化”に寄っている。だから、“一人の犠牲で多くが救われる”案を、完全には否定できない」

 そこで、ふっと表情を緩めた。

「でも、個人的には——君たちには最後まで足掻いてほしいと思ってる」

「足掻く?」

「僕ができなかったやり方で、世界をいじくりまわしてほしい」

 どこか楽しそうに言う。

「死の総量不変っていう、管理局の前提を、君たちみたいな“バグ”が壊してくれたら、きっと気持ちいいだろうなって」

「お前、それ……」

「無責任、だよね」

 芹沢は、自分で笑った。

「でも、僕はもう“こっち側”に深く足を突っ込んでしまっている。だからこそ、“あっち側”の可能性に期待することしかできない」

 あっち側。

 俺たちの側。

 放課後フラグ改変クラブなんてふざけた名前をつけて、目の前のフラグを折ったり、分散させたりしている俺たちの側。

 空は、まだ涙を拭いきれていなかった。

 でも、その目には、少しだけ光が戻っていた。

「……じゃあ」

 俺は、深く息を吸った。

 痛む胸の真ん中に、手をぎゅっと当てる。

「俺は、今のところ“やる方向”で考えてる」

「黒江くん!」

「でも、それは“今のところ”だ」

 空の抗議を手で制す。

「このまま黙って、誰かがショッピングモールで燃えて死ぬのを見てるくらいなら、自分が燃えた方がマシだって思う。たぶんこれは、俺の性格の問題だ」

「知ってる」

 空が、小声で言った。

「体育館で照明に突っ込んだ時点で、知ってる」

「じゃあ、それを前提にして——それでもなお、“別の道”があるなら、全力で探す」

 自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。

「死の総量そのものをいじるやり方。世界中のフラグを一回集めて、マシな方に振り分ける方法。そういう“尖った企画”に、俺たちのやり方を突っ込んで、書き換える」

 端末の画面に映る「特異点」の文字を、睨みつける。

「その上で、“やっぱ無理でした”“黒江が何度も死にました”で終わるなら、そのとき改めて考える」

「……それ、全然安心できないんだけど」

 空が、呆れと不安が混ざった声を出した。

「でも、たぶん止めても聞かないんだろうなってことも、知ってる」

「いや、止めてくれよ」

「止める。でも、支える。両方やる」

 空は、涙でぐしょぐしょの顔で笑った。

「私の契約だって、まだ終わってないんだし。“死の肩代わり”って、世界中のフラグが集まってきたときに、一番役に立つかもしれないじゃん」

「お前、自分の命もっと大事にしろよ」

「お互い様」

 旧資料室の中に、少しだけ笑い声が戻った。

 芹沢は、その様子を見て、肩の力を抜いたように息をついた。

「……やっぱり、君たちを“現場側”に置いた判断は正しかったのかもしれないね」

 その言葉に、皮肉や諦めは混ざっていなかった。

 純粋な、本音。

「僕の正義は、多分この先も変わらない。全体の数字を見て、最悪を避ける道を選ぶ」

 端末の画面を閉じる。

「でも、君たちの正義が、“それとは別の何か”を連れてきてくれるなら——」

「そのときは?」

「喜んで、自分のやり方を捨てるよ」

 芹沢は、はっきりと言った。

「そういう意味で、僕はずっと“君たちの敵”であり、“君たちの味方”であり続けるつもりだ」

「ややこしいな」

「人間だからね」

 小さく笑う。

 その笑顔は、体育館の壇上で見せた完璧な生徒会長のものじゃなかった。

 家族を失って、それでも世界を管理しようとしている、一人の高校生の顔だった。

「——よし」

 空が、鼻をすすって立ち上がる。

「じゃあ、とりあえず今日のところは、“世界の死の総量”じゃなくて、“明日の小テストの点数”からどうにかしよ」

「話のスケール急に下げるな」

「だって、英語の単語テスト、死のフラグ見えてるもん。黒江くんの頭上に“赤点・親に怒られる・九〇%”って」

「それは普通に努力不足のフラグだろ!」

 思わず盛大にツッコむ。

 芹沢が吹き出した。

 千景がいたら絶対「今のいいシーンなのに!」って騒いでただろう。

 でも、こういうどうでもいい会話が、今は何よりありがたかった。

 死の総量。

 特異点。

 フラグ集約実験。

 全部、重たい話だ。

 でも、それでも明日は来る。

 小テストも、部活も、昼休みも。

 その全部の隣に、俺たちの“放課後フラグ改変クラブ”がある。

 世界のルールがどうであろうと——

 俺たちは、俺たちのやり方で世界をいじくる。

 それが、芹沢玲央の正義と、黒江真澄の正義と、天城空の正義がぶつかり合う場所になるとしても。



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