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死亡フラグが見える俺と、死にたがり優等生の放課後改変録  作者: 妙原奇天


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第六話「生徒会長・芹沢玲央の微笑み」

 朝の体育館って、どうしてこうも眠くなるんだろうな。

 全校集会。全学年、きっちり整列。前の方には一、二年、後ろが三年。俺たち二年は、ちょうど真ん中くらい。

 蒸し暑い。床は固い。スピーカーからは、校長の落ち着きすぎた声が流れている。

「……先日の痛ましい事故を受け、改めて命の大切さについて、皆さんと一緒に考えていきたいと思います」

 マイクがキーンと鳴って、数人が肩をすくめた。

 体育館の中には、制服の群れが広がっている。

 その頭の上に。

 俺には、フラグが、見える。

【眠気・居眠り・八〇%】

【立ちくらみ・貧血・六〇%】

【転倒・擦り傷・三五%】

【告白決行・昼休み・七五%】

 いちいち見てたらキリがない。

 でも、こういう「人がぎっしり詰まってる場所」だと、嫌でも目に入ってくる。

 視界いっぱいに、色とりどりのアイコンが浮かび上がる。ほとんどは、日常レベルの小さなフラグだ。

 ただ、中には。

【自殺・家出・六〇%】

【いじめ・エスカレート・七〇%】

【家庭不和・両親離婚・八五%】

 重たいやつも、混じっていた。

 数が多すぎて、頭がクラクラする。

 今まで、なるべく見ないようにしてきた現実が、この体育館の中に凝縮されてるみたいだ。

「大切なのは、ひとりで抱え込まないことです」

 校長の声が、マイク越しに響いた。

「友人に、先生に、家族に……。皆さんの周りには、必ず話を聞いてくれる人がいます」

 そう言いながら、校長の頭の上にも【持病悪化・要検査・五五%】とか出てるの、なかなかシュールなんだよな。

 笑えないけど。

「……というわけで、最後に生徒会長の芹沢くんからも、一言もらいたいと思います」

 校長が振り返る。

 壇上の横に控えていた生徒会長が、一歩前に出た。

 芹沢玲央。

 整った顔立ちに整った黒髪。背は高くて、姿勢もいい。ブレザーの着こなしも完璧。いわゆる「絵に描いたような優等生」ってやつだ。

 女子の間から、小さくため息が漏れるのが聞こえる。

 男子の中にも、「あいつならまあしゃべらせていいか」みたいな空気があるのが、なんか悔しい。

「えー、生徒会長の芹沢です」

 マイクに向かって、落ち着いた声が響く。

「突然の全校集会で驚いた人も多いと思いますが……」

 声がいい。滑舌もいい。聞き取りやすい。

 この時点で、俺よりコミュ力高いのが確定している。

「今回の事故のニュースを見て、不安になった人もいると思います」

 芹沢は、ゆっくりと体育館を見渡した。

「『もし自分が、あの車に乗っていたら』とか、『もし自分の家族が巻き込まれたら』とか。そういう想像をして、怖くなった人もいるはずです」

 ざわめきはない。ただ、空気が少しだけ引き締まる。

「怖がることは、悪いことじゃありません」

 芹沢は、言葉を続ける。

「むしろ、『自分のこととして想像できる』のは、とても大事な力です。大切なのは、その怖さをどう扱うか、です」

 抽象論だけで終わらないのが、この人のいやらしいところだ。

「例えば、怖くなったとき。まずは、今自分がしていることを一度止めてみてください」

 芹沢は、指を折りながら話していく。

「深呼吸をして、今の場所から少し離れる。友達にラインする。先生に声をかける。それが難しかったら、スクールカウンセラーの先生にメールを送る」

 具体的だ。

「この学校には、皆さんが『不安だ』と感じたときに頼れる人が、たくさんいます。先生たちも、僕たち生徒会も、そのためにいます」

 そんな大層なもんか、と思う反面。

 こうやって言葉にしてくれる人がいるだけで、救われるやつもいるんだろうな、ってのも、なんとなくわかる。

「だから、一人で抱え込まないでください」

 最後に、芹沢は穏やかな笑みを浮かべた。

「僕たちは、皆さんの味方です」

 体育館のあちこちから、自然と拍手が起こる。

 校長のときにはなかった反応だ。

 ……まあ、校長の話は大体テンプレだしな。

 拍手の中で、俺は、芹沢の頭の上を見た。

 そこに――何も、なかった。

 フラグが、ひとつも浮かんでいない。

 日常の小さなフラグすら、ゼロ。

 まるで、その部分だけ、穴が空いているみたいに。

「……は?」

 思わず声が漏れそうになって、慌てて飲み込んだ。

 普通は、どんな人間でも、なにかしらのフラグが立っている。

 「転びそう」「頭痛」「テストでミス」「寝不足」「モテ期」みたいなくだらないやつだっていい。とにかく、何かはある。

 でも、芹沢玲央には、何もない。

 完璧すぎて「問題がない」って意味じゃない。

 そこだけ、「俺の能力が届いていない」みたいな、変な空白。

 ぞわり、と背筋に寒気が走った。

 その違和感だけが、体育館の熱気とは別の温度で、ずっと残った。

     ◇

 全校集会が終わると、体育館から教室へ戻る行列が始まった。

 狭い廊下に、何百人もの生徒が押し寄せる。

「ねえねえ、芹沢先輩、やっぱスピーチうまいよね」

「なんか本物のアナウンサーみたいだった」

「顔がいい。声もいい。性格もいい。なにあれ」

「生徒会長だし、成績学年一位だし、スポーツもそこそこできて、家庭も裕福で――」

「スペック高すぎて逆に怖い」

 女子たちの声が、後ろから聞こえてくる。

 その全部が、事実っぽいから余計に腹立たしい。

「黒江くん」

 横から袖を引かれた。

 振り向くと、天城空がいた。

「大丈夫?」

「何が」

「さっき、体育館で顔真っ青だった」

「……まあ、フラグ見えすぎて目がチカチカしただけだ」

「そっか」

 空は、ほんの少しだけ眉を寄せた。

「無理しないでね」

「優等生ぶるな」

「優等生だもん」

 さらっと言い切られると、反論しづらい。

 そうこうしているうちに、二年の廊下に辿り着いた。

 クラスの前で列が途切れ、ぞろぞろと教室に入っていく。

 その流れの中で。

「黒江くん、天城さん」

 柔らかい声が、後ろからかけられた。

 振り向くと、そこに立っていたのは、生徒会長だった。

「芹沢先輩」

 空が、ほんの少しだけ目を丸くする。

「お疲れさま」

「うん。二人とも、ちゃんと話聞いてくれてありがとう」

 すらっとした笑顔。

 近くで見ると、やっぱり顔がいい。目元が涼しげで、口元が優しい。

 その頭の上には――やっぱり、何も浮かんでいない。

 真っ白な空間が穴のように広がっていて、そこだけ俺の能力が滑っていく感じがする。

「最近、君たちのこと、よく見かける気がしてね」

 芹沢は、何気ない口調で続けた。

「工事現場の件とか。SNSのトラブルとか」

「……え?」

 心臓がひとつ、跳ねた。

「後輩が通りかかったときに、先生を呼びに行ってくれたの、君たちだろう」

「まあ、たまたま近くにいただけで」

「SNSの方も、生活指導の先生から聞いたよ」

 芹沢は、目を細めた。

「『同じクラスの生徒が、問題が大きくなる前に相談に来てくれた』って」

「……」

 空が、一拍遅れて笑顔を作る。

「たまたまです。たまたま、そういう場面に居合わせただけで」

「たまたま、ね」

 芹沢の視線が、俺と空の間をゆっくり往復する。

 穏やかな笑顔は崩れないのに、その目だけが、やけに冷静だ。

「でも、そういう『たまたま』って、学校にとってはとてもありがたいんだ」

 芹沢は、少しだけ声のトーンをやわらげた。

「困っている人に気づいて、動いてくれる生徒がいるのは、嬉しいことだから」

「……はあ」

「だから、これからも、何かあったら遠慮なく相談してほしい」

 芹沢は、ふっと笑った。

「先生たちも忙しいし、全部には手が回らないからね。生徒同士でできることがあるなら、僕も協力したい」

 言っていること自体は、別におかしくない。

 むしろ、生徒会長としては百点満点の台詞だ。

 ただ、その「全部見てますよ」みたいな言い方が、妙に引っかかった。

「じゃあ、また」

 そう言って、芹沢は人波の中に紛れていった。

 去り際の背中まで、きれいに整っているのが腹立たしい。

「……ねえ、天城」

 俺は小声で言った。

「お前、芹沢と知り合いなのか」

「前の学校で、ちょっとだけ」

 空は曖昧に答えた。

「仲、よかったのか?」

「どうだろうね」

 空は視線を逸らす。

「あまりいい思い出じゃないよ」

 その一言に、軽い冗談を挟める空気はなかった。

     ◇

 昼休み。

 教室の隅のいつもの席で、俺と空と新郷千景は、コンビニパンと購買の焼きそばパンを並べていた。

「で?」

 ポテトチップスの袋を開けながら、千景がずいっと顔を近づけてくる。

「生徒会長と空ちゃんって、どういう関係?」

「どこからそういう話になるんだよ」

 思わずツッコんだ俺に、千景は冷ややかな視線を向けた。

「あの完璧会長様がさ。わざわざ教室まで来て、転校生ちゃんと黒江くんに話しかけるって、どう考えても意味深でしょ」

「意味深って言うな」

「意味深だよ。工事現場の話とか、SNSの件とか、完全に把握してるっぽかったし」

 千景は、ポテチを一枚口に運びながら空を見る。

「前の学校で知り合いって、本当?」

「本当だよ」

 空は、笑っているのに笑っていないような顔をした。

「生徒会で、少しだけ一緒だったの」

「生徒会?」

 なんか似合う。

 って思った自分が、少し悔しい。

「空ちゃん、生徒会役員だったの?」

「うん。書記」

「うわ、字がきれいそう」

「まあ、普通」

 さらっと言うあたり、本当に普通じゃないんだろう。

「で、会長が芹沢先輩だった、と」

「そう」

 空はパンをちぎりながら、視線を落とす。

「あまり、いい終わり方じゃなかったから」

「終わり方?」

「うん」

 千景が身を乗り出す。

「なになに、もっと詳しく」

「千景」

 空は、苦笑いでその好奇心をかわした。

「ごめん。今は、あんまり話したくない」

「そっか」

 千景は、あっさり引き下がった。

 意外と空気は読む。

「でも、あの人が関わってるってことはさ」

 ポテチをもう一枚つまみながら、ぼそっと言う。

「うちらの『フラ改』、たぶん学校公認になる日も近いんじゃない?」

「絶対やだ」

「だよね」

 俺と千景の声がそろった。

 放課後にこっそりやるからこそ、まだギリギリ続けられてるんだ。

 これで「公式の活動」とかになったら、監視と責任が一気に増えるだろう。

 そんなの、願い下げだ。

 空はパンの端っこをちぎりながら、窓の外を見ていた。

 その頭の上に浮かぶ【自殺・今週中・七五%】は、まだ消えていない。

     ◇

 放課後。

 教室には、部活へ向かうやつと帰宅するやつと、ダラダラ残るやつが入り混じっていた。

 俺たち三人は、黒板横の隅に集まって、今日のターゲット候補について話し合っていた。

「で、候補としては」

 千景が、メモ帳を広げる。

「一人目、最近やたらと欠席が増えてるAくん」

「頭上のフラグは?」

「【不登校・引きこもり・六五%】」

「結構高いね」

 空が、真剣な顔になる。

「二人目は?」

「生徒会の一部で噂になってる、カップルのトラブル」

 千景は、ニヤッと笑う。

「【ストーカー化・トラブル・六〇%】」

「やめろよ、その言い方」

「だってそういうフラグなんだもん」

 そこまで話したところで。

「放課後も、精が出るね」

 聞き慣れた落ち着いた声が、教室の入り口から響いた。

 視線を向けると、生徒会長が立っていた。

「芹沢先輩」

 空の肩が、ほんの少しだけ強張る。

「こんにちは、天城さん。黒江くん、新郷さん」

 名前を呼ばれて、少しだけギョッとした。

「……俺の名前、知ってたんですね」

「クラス名簿くらい、目を通してるよ」

 さらっと答えられると、何も言い返せない。

「放課後、少し時間あるかな」

 芹沢は、柔らかく笑った。

「よかったら、生徒会室に来ない?」

     ◇

 生徒会室って、もっと殺風景な場所だと思ってた。

 実際は、意外と居心地のいい部屋だった。

 大きな机がいくつか並んでいて、壁には行事のタイムテーブルやポスター。隅には観葉植物まである。

 窓際の棚には、ティーセットとお菓子の入った缶。

「どうぞ、座って」

 芹沢は、俺たちをソファに促した。

 生徒会室にソファがある時点で、なんかずるい。

「お茶でいいかな。コーヒーは、さすがにここにはないから」

「十分です」

 空が、少し緊張気味に答える。

 芹沢は手際よくティーバッグをカップに入れ、お湯を注いでいく。その動きも、無駄がなくてきれいだ。

 なんなんだ、この人。欠点ないのか。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

 俺たちの前に、湯気の立つカップと、個包装のクッキーが置かれた。

 新郷千景は、クッキーを見て目を輝かせる。

「わ、これちょっと高いやつだ。会長、やるじゃん」

「差し入れでもらっただけだよ」

 芹沢は苦笑した。

「文化祭の準備、大変だったからね。先生方が」

「先生方が、なのがまたリアル」

 千景がさっそく一枚開けて、ぽりぽり食べ始める。

「で」

 カップを持ち上げながら、芹沢が本題に入った。

「君たちがやっている『善行』について、少し話を聞かせてもらってもいいかな」

 ストレートに来た。

「善行って」

 俺は、思わず聞き返す。

「工事現場で後輩を助けたり。SNSのトラブルを先生と一緒に解決したり。いじめの兆候を見つけて、早めに相談してくれたり」

 芹沢は、穏やかな目で俺たちを見た。

「そういうのは、全部『善行』だよ」

「……」

 言い返せない。

 空は、カップを持ち上げる手が少し震えていた。

「別に、たいしたことはしていません」

 空が、ぎこちない笑顔を浮かべる。

「たまたま、そういう場面に居合わせただけで」

「たまたま」

 また、その言葉だ。

 芹沢は、ゆっくり紅茶を口に運ぶ。

「たまたま居合わせて、たまたま気づいて、たまたま動ける人って、そう多くないと思うんだ」

 穏やかな声なのに、その一言一言が重い。

「それに」

 芹沢の視線が、空に向けられる。

「天城さんが、『たまたま』だけで動く人じゃないってことくらい、僕は知ってる」

「……」

 空の表情から、笑みが完全に消えた。

 二人のあいだに、目に見えない緊張が走る。

「前の学校でのことは、覚えてるよね」

 芹沢は、柔らかく言った。

「もちろん」

「僕も、忘れてない」

 その会話だけで、俺の背中に冷たいものが走る。

 前の学校。生徒会。いい終わり方じゃなかった過去。

 そこに、何か「フラグ」と関係のある出来事があったのは、ほぼ間違いない。

「誤解してほしくないんだけど」

 芹沢は、手のひらを軽く上げた。

「僕は、君たちの『活動』を止めようなんて、思っていない」

「……本当ですか」

 思わず口を挟んだ俺に、芹沢はあっさり頷く。

「本当だよ。むしろ、歓迎しているくらいだ」

 歓迎?

 意外な言葉だった。

「困っている誰かに手を差し伸べられる人は、多ければ多いほどいい」

 芹沢は、当たり前みたいな顔で言う。

「この学校の中だけでも、抱えている問題は山ほどある。先生やスクールカウンセラーだけで全部をカバーするのは、実際問題無理だからね」

「だから、俺たちみたいな生徒が動くのは、むしろありがたいと」

「そういうこと」

 理屈は通っている。

 だけど、そこに「全部見えている側の余裕」みたいなものを感じてしまうのは、俺の被害妄想なんだろうか。

「ただ」

 芹沢は、そこで言葉を切った。

「君たちの『やり方』には、少し気になるところもある」

「やり方?」

「例えば、特定の場所に偶然居合わせる頻度が高すぎること」

 芹沢の目が、俺に向く。

「フラグが見える、って言ったら信じる?」

 一瞬、時間が止まった気がした。

 心臓が、変なタイミングで跳ねる。

 隣の空の肩が、びくりと揺れた。

「……冗談ですよね」

 口が、勝手に動いていた。

「そうだったら、どんなに楽か」

 芹沢は、冗談には聞こえない口調で言った。

「安心して。今のは試しに言ってみただけだから」

 その言い方が、一番安心できない。

「ただ、君たちが『普通じゃない感覚』で動いてることくらいは、なんとなくわかる」

 芹沢は微笑んだ。

「前の学校の天城さんを見ていればね」

「玲央」

 空が、低い声で名前を呼んだ。

 「先輩」でも「芹沢さん」でもなく、呼び捨て。

 そこに、昔の距離感がにじむ。

「それ以上は、言わないで」

「ごめん」

 芹沢は、素直に謝った。

「でも、一つだけ」

 彼は、真面目な顔になった。

「君たちが何を視て、何を変えようとしているのか。その結果、どんな『歪み』が生じているのか」

 事故のニュースが、頭をよぎる。

「それを知りたいと思ったら、いつでも相談に来てほしい」

 芹沢は、俺たち三人を順番に見た。

「僕の立場なら、紹介できる人たちがいるかもしれない」

「紹介?」

「上の方で、『フラグ』とか『死』とか、そういうものを管理している連中」

 管理している連中。

 昨夜、空が言っていた「管理局」の言葉が、頭の中で重なる。

「それ、もしかして――」

「さあ」

 芹沢は、笑顔を取り戻した。

「今のも、仮にの話だよ」

 その笑顔が、いちばん何も信じられない。

「とにかく」

 芹沢は椅子から立ち上がった。

「困ったことがあったら、いつでも生徒会室に来てほしい」

 いつでも。相談に。止めようとは思っていない。

 言葉だけ聞けば、頼りになりそうな先輩のセリフだ。

 でも、その裏に。

 「全部お見通しだ」という圧が確かにあった。

     ◇

 生徒会室を出て、廊下に出た瞬間。

 俺は、空に向き直った。

「さっきの、何だよ」

 自分でも、声が少し荒くなっているのがわかった。

「前の学校で何があったんだよ」

「……今、ここで全部話すのは、ちょっと」

 空は、言葉を飲み込むようにしてうつむいた。

 廊下には、部活に向かう生徒たちの足音が響いている。

 さっきみたいな重い話をするには、あまりにも日常すぎる景色だ。

「でも、一つだけ言えるのはね」

 空は、少しだけ顔を上げた。

「芹沢玲央は、私よりずっと前から『あっち側』の人だよ」

「あっち側って、どっちだよ」

「こっちじゃない方」

「雑すぎるだろ」

 ツッコみながらも、笑えなかった。

 こっちじゃない方。

 「普通の生徒」の側ではなく、「フラグ」とか「死」とかを扱う側。

 たぶん、空が昨日言っていた「管理局」みたいな場所と、深く関わっている人間。

「……あの人、フラグが見えない」

 ぽつりと、空が呟いた。

「え?」

「黒江くんの能力じゃなくて」

 空は、自分の頭の上に手を当てた。

「私から見ても、彼の周りだけ、妙に静かなんだ」

「静か?」

「フラグが立たない。立っても、すぐ消える。なんていうか……」

 空は、窓際に歩いていった。

 廊下の窓から、夕方の校庭が見える。部活の掛け声。ボールの音。

 空は、その景色を眺めながら言った。

「世界の『ルール』の外側にいる感じ」

 世界のルールの、外側。

 自分で言っていて、その意味にぞっとしたのかもしれない。

 空は、自分の肩を抱くように身を縮めた。

「だから、私はあんまり関わりたくない」

「でも、向こうは関わる気満々だろ」

「そうなんだよね」

 空は、小さくため息をついた。

「逃げ切れるかどうか、ちょっと自信ない」

「……」

 どう返せばいいか、わからなかった。

 窓の外の空は、薄くオレンジ色に染まっている。

 そのガラスに映り込んだ天城空の頭上に。

 俺には、今まで見たことのない色のフラグが、うっすらと浮かんでいるのが見えた。

【接触・管理局・近日中・?%】

 数字は、まだぼやけていて読めない。

 だけど、その存在だけは、確かにそこにあった。

「……なあ、天城」

「なに?」

「もし、本当に『管理してる連中』ってやつに会うことになったら」

 俺は、うまくまとまらない言葉を探しながら続けた。

「そのときは、俺も一緒に行くから」

「え?」

「お前だけ『あっち側』に引っ張られるの、なんかムカつくし」

 自分でも、照れくさい言い訳だった。

 空は、ほんの一瞬だけ目を丸くした後、ふっと笑った。

「……ありがと」

 廊下に、夕陽が差し込む。

 空の笑顔と、その頭上に浮かんだ新しいフラグ。

 「放課後フラグ改変クラブ」は、どうやらもう、戻れないところまで踏み込んでしまったらしい。


第七話「フラグ管理局という存在」

 放課後の屋上は、昼間より少しだけ静かだった。

 グラウンドから聞こえてくる掛け声も、風にまぎれて遠く感じる。校舎の影が長く伸びて、フェンス越しに見える街の輪郭が、オレンジ色に染まり始めていた。

「よし、会議スタート」

 最初にそう宣言したのは、新郷千景だった。

 屋上の隅、フェンスから少し離れたコンクリートの上に、俺と天城空と千景の三人で輪になるように座っている。千景は、膝の上にちょこんとメモ帳を乗せ、シャーペンを構えていた。

「ねえ、そのノリやめない?」

 俺は思わずツッコむ。

「いやいや、こういうのはちゃんと記録残しておかないとさ。のちのち同人誌にするために」

「同人誌前提かよ」

「だってさ、『放課後フラグ改変クラブ内部資料』とか出したら、絶対バズるでしょ」

「出さないからな」

 即答した俺をよそに、千景は「表紙どうしようかな」とか「カップリングどうしようかな」とか、真剣な顔でブツブツ言っている。

 空はそんな千景を見て、ふふっと笑った。

「千景は、そのままでいてくれると助かる」

「でしょ?」

「話が重くなりそうだから、空気を軽くしてくれる人は必要だからね」

「ほら黒江くん、ほめられた」

「なんで俺じゃなくて千景がほめられてんだよ」

「だって、黒江くんは重くなりがちだから」

「否定はできねえ」

 そんな軽口を交わしてから、俺は空を見る。

 屋上に呼び出したのは、俺だ。

 芹沢玲央、生徒会長。フラグが一切見えない男。

 そして、そいつと天城空の間にある、何か。

「……で」

 俺は膝に肘をつき、空に向き直った。

「さっきの続き、ちゃんと聞かせてくれ」

「さっきの?」

「芹沢は『あっち側の人』だって話」

 屋上の風が、一瞬だけ止まった気がした。

 空は、フェンス越しにグラウンドを見下ろしていた視線をゆっくり戻し、俺の方を見た。

「……あんまり、楽しい話じゃないよ」

「楽しい話だとは思ってない」

「怖くなっても、知らないからね」

「今さらだろ」

 不意に、空が笑った。

「黒江くん、そういうところだけ男前だよね」

「『だけ』って付けるな」

 千景が「今のメモっとこ」とか言いながら、「黒江:男前ポイント1」とか書き込んでいる。やめろ。

 空は一度、ゆっくり息を吸った。

「……じゃあ」

 その声が、いつもより少しだけ低く聞こえた。

「私が知ってる範囲で、話すね」

     ◇

「フラグ管理局」

 空は、その単語を口にした。

「名前のまんまだけどね。世界中の『死のフラグ』を管理してる連中のこと」

「死の、フラグ」

 思わず、言葉を繰り返す。

「死神とか、そういうファンタジーじゃなくて?」

「死神って言うには、人間くさすぎる」

 空は、少しだけ口角を上げた。

「神って呼ぶには、あまりにも事務的」

「事務的な死神、って一番たち悪い気がするんだけど」

「だよね」

 千景が、やたら楽しそうにメモを取っていた。

「世界中の『死ぬ可能性』を、全部フラグとして把握してるんだってさ」

「全部?」

「全部」

 空は、屋上から見える街を指さす。

「この街で、明日交通事故に遭う人。来週、病気で亡くなる人。十年後に寿命で死ぬ人。その全部に、フラグが立ってる」

 鳥肌が立った。

「彼らは、それをざっくりと『設計』する」

「設計」

「うん。どこでどれだけ死ぬか、っていう、ざっくりした配分」

 戦争。災害。大事故。病気。

 声に出さなくても、頭に浮かぶ単語はどれも重い。

「もちろん、個々の人生まですべて細かく決めてるわけじゃないよ」

 空は、首を振った。

「そんな暇があるなら、とっくに世界は止まってる」

「じゃあ、どうしてんだよ」

「大枠だけ決めるの」

 空は、手のひらで大きな円を描くように動かした。

「この国で一年間にこれくらい。この地域で、この期間にこれくらい。この年齢層で、これくらい」

「……統計かよ」

「そう。統計に近い」

 あまりにも現実的な単語に、逆にぞっとする。

「災害とか戦争とかも?」

「うん。『大量死イベント』は、重要案件だから、かなり慎重に調整してるらしいよ」

「らしい、ってことは、直接聞いたわけじゃないのか」

「そりゃそうでしょ。私、そんなエライ立場じゃないもん」

 空はあっさり言う。

「ただ、『死の総量』そのものは、ある程度の幅の中で決まってるみたい」

「死の総量……」

 昨日、俺がノートに書きながら考えた言葉と同じだ。

「でね」

 空は、少しだけ表情を曇らせた。

「人間側の『不自然な介入』が多すぎると、管理局は困るの」

「不自然な介入?」

「例えば」

 空は、指を一本立てた。

「ある街で、本来なら十人死ぬはずだった交通事故があるとする」

 ぞっとする例えだったが、続きが気になって黙って聞く。

「でも、誰かが異常なくらい『フラグを折りまくって』、その十人全員が助かったとする」

「それは、いいことなんじゃないのか」

「良し悪しで言えば、いいことだよ」

 空は、はっきり言った。

「でも、管理局側からすると、『予定と違う』ことになる」

「予定と違ったら、どうなる」

「帳尻を合わせる」

 空は、空を見上げた。

「別の場所で、大きな事故が起きるかもしれない」

 頭の中で、昨日の多重事故のニュースと、ノートに書いた一覧がつながる。

「あれって……」

 思わず口に出そうになった言葉を、空は手で制した。

「全部が全部、そういう『帳尻合わせ』とは限らない。無理に結びつけると、どこかで折れるよ」

「……」

「ただ、『そういう仕組みがある』ってことは、知っておいた方がいい」

 千景が、ゆっくりと手を挙げた。

「はい、質問」

「どうぞ、情報屋さん」

「帳尻合わせってさ。やっぱり、数なの?」

 千景は、シャーペンを回しながら言う。

「こっちで十人助けたら、向こうで十人死ぬ、みたいな」

「ざっくり言えば、そう」

 空は頷いた。

「でも、厳密に人数がぴったりってわけじゃないみたい。重さとか、タイミングとか、いろいろあるんだって」

「重さ?」

「例えば、一人の死が、十人に影響を与えることもあるよね」

 空は、指を折って数えていく。

「家族。友達。恋人。仕事仲間。見知らぬ誰か」

「……ああ」

「そういう『波及』もひっくるめて、バランスを見てるんだと思う」

「めちゃくちゃブラックな仕事だね、それ」

 千景が呆れたように言った。

「定時退社できなさそう」

「たぶん、ずっと残業だと思う」

 空の乾いた冗談に、少しだけ笑いが漏れる。

 でも、笑ったところで、根本的な気持ち悪さは消えない。

「で、その管理局とやらに、芹沢はどう関わってるんだ」

 俺は、本題に踏み込んだ。

「さっき、『あっち側』って言ってたよな」

「芹沢玲央は」

 空は、少しだけ言葉を選ぶようにして続けた。

「管理局の『地上側エージェント』の一人」

「エージェント」

「かっこよく言えば、だけどね」

 空は肩をすくめる。

「彼らの言葉で言うと、『フィールド担当』。学校とか病院とか、コミュニティごとに担当がいて、『死のバランス』が崩れないようにログを取ったり、必要なら『調整』したりする役目」

「調整って、まさか――」

「さっき言った『帳尻合わせ』も含めて」

 その一言で、背筋が冷たくなる。

「……生徒会長やりながら、そんなこともしてんのかよ、あいつ」

「生徒会長って、クラスのことを広く見てるポジションでしょ」

 空は、淡々と言った。

「先生よりも、生徒のリアルな部分に近い。噂も、人間関係も、空気も」

 言われてみれば、納得してしまう。

「だから、向こうからしたら、すごく都合がいい」

「学校というフィールドを管理する、『現場責任者』」

「みたいなものかもね」

 千景が、ぱらぱらメモ帳をめくりながら言った。

「超絶ハイスペックな生徒会長の裏の顔が『死の管理人』とか、設定として強すぎない?」

「設定って言うな」

「いや、めちゃくちゃ刺さるよ、これ。二次創作界隈がざわつく」

「ざわつかなくていい」

 俺は思わず額を押さえた。

 情報量が多すぎて、頭が追いつかない。

「じゃあ」

 ようやく言葉を搾り出す。

「俺たちは、その管理局から見たら、何なんだ?」

 芹沢という「監視者」がいる学校で、勝手にフラグを見て、勝手にフラグを折っている高校生三人組。

「邪魔者か?」

「……完全に、ってほどじゃないと思うけど」

 空は、少し苦笑いを浮かべた。

「でも、放ってはおかないだろうね」

「だろうな」

 昨日から続いている胸のざわつきが、さらに濃くなる。

「天城、お前は?」

「私?」

「お前は、管理局の人間なのか?」

 問いかけると、空は一瞬だけ顔を強張らせた。

 屋上に、風の音だけがしばらく流れる。

「私は……完全な局員じゃないよ」

 やがて、空はゆっくりと言った。

「途中から、『契約者』になっただけ」

「契約者?」

「うん」

 空は、自分の胸の前で指を絡めるような仕草をした。

「管理局と、ある契約を結んだ人間」

 千景が、おそるおそる手を挙げる。

「その契約って、やっぱ、命とか?」

「さすが情報屋」

 空は、苦く笑う。

「ざっくり言えば、そう」

 昨日、テレビの前で見た【自殺・今週中・一〇〇%】の黒いフラグが頭に浮かぶ。

「私の死は、一定数の他人の死と交換になる」

 空は、さらっと言った。

 あまりにも重い内容を、あまりにも軽い口調で。

「ちょっと待て」

 思わず、声が上ずる。

「それ、どういう意味だよ」

「文字通りの意味だよ」

 空は、笑顔を消した。

「私が死ねば、いくつかの『死のフラグ』は消える」

 胸の奥が、きゅっと縮まった。

「……ふざけんなよ」

 吐き捨てるように言ってから、自分でも驚く。

「そんなもん、契約って言わねえだろ」

「そう?」

「ただの、踏み台だろ」

 怒りが、喉の奥で膨らんでいく。

「お前一人の死で、何人助かるんだよ。十人か? 百人か? 何人だろうが関係ねえよ」

 なんとか言葉を繋ごうとする。

「お前が死んだことを知るやつらは、絶対『助かった側』より多いだろ」

「黒江くん」

 空が、俺の名前を呼ぶ。

「そういうこと考えて契約したわけじゃないよ」

 笑っているのに、その目は笑っていなかった。

「そのときはただ、『もうこれ以上誰かが勝手に死ぬのを見たくなかった』だけ」

「……」

「だから、私のことは、今はいい」

 空は、話を切った。

「詳しい契約内容とか、過去のこととかは、もうちょっとちゃんと話せるタイミングが来たら話すから」

 ここで深入りしたら、空ごと飲み込まれそうな気がした。

 俺は、喉につかえたものを無理やり飲み込む。

「……わかった」

「ありがと」

 空は、小さく笑った。

 その笑顔が、どこか心細そうに見えたのは、気のせいじゃないと思う。

 千景が、メモ帳を閉じながらため息をついた。

「なんかさ」

「ん?」

「いま聞いた話、全部フィクションとして書いたら、めちゃくちゃ燃えそうなんだよね」

「だから、それを現実にしてんだろうが」

「だからこそ、だよ」

 千景は、空と俺を見比べる。

「死の管理局があって。生徒会長がエージェントで。転校生が契約者で。フラグ見える地味男子がいて」

「地味って言うな」

「そして、それを第三者視点で観察してる情報屋がいる」

 千景は、自分の胸を指さした。

「これ、一歩間違えたらガチでバッドエンド一直線だよ」

「間違えなくてもバッドエンドじゃないのか、これ」

「そこをさ」

 千景は、不敵に笑った。

「なんとかハッピーエンド寄りに持っていくのが、『フラ改』の仕事じゃない?」

「それは、こっちのセリフだろ」

 俺は思わず笑ってしまう。

 この空気の中で、こんなこと言えるやつ、本当に貴重だ。

     ◇

「で、問題は」

 少し落ち着いたところで、俺は話題を変えた。

「俺の能力は、なんなんだって話になるわけだが」

「それは私も聞きたい」

 空が、あっさり乗ってくる。

「黒江くんは、生まれつきフラグが見えるんだよね」

「ああ」

 小さい頃から、ずっとそうだった。

 親友の頭の上に浮かんでいた【交通事故・致命傷・九〇%】も、その一つだ。

「管理局の一員ってわけでもないし」

「少なくとも、私が知る限り、そういう登録はされてない」

「登録制なんだ、あっち」

「ある程度ね」

 空は、指先でコンクリートをなぞりながら言った。

「普通、フラグの情報にアクセスできるのは、管理局員と、その契約者だけ」

「じゃあ、俺はなんなんだよ」

「そこが一番、向こうが興味持ってるところだと思う」

 空の言葉は、冗談に聞こえなかった。

「管理局の許可なしに『死のフラグ』が見える人間なんて、本来は存在しないはずだから」

「例外ってことか」

「レアケース、ってやつだね」

 千景が、わざわざ英語で言う。

「実際、芹沢先輩も、黒江くんのこと、じーっと観察してたし」

「やめろ」

「いや、いい意味でだって」

「どこが」

 観察されていい意味なんて、そう多くない。

「向こうからしたら、『仕様外のバグ』みたいな存在なんだと思うよ」

「バグって言うな」

「褒めてるんだって」

「どこがだよ」

 会話だけ聞くと軽いのに、その内容は全然軽くない。

「黒江くんの能力が『生まれつき』ってところが、一番のポイントだと思う」

 空は、真剣な顔で言った。

「契約とか、後天的な要因じゃなくて、最初から『フラグのレイヤー』が見えてる」

「レイヤー」

「世界の表面に重なってる情報層のこと。私たちにはそれが可視化されてるけど、普通の人には見えない」

「ゲームみたいだな」

「そう。ゲームっぽい」

 空は、少しだけ楽しそうな顔をした。

「だから向こうは、『誰がそんな仕様にしたのか』を知りたがってる」

「誰が」

「管理局の上か、そのまた上か」

 空は、空を見上げた。

「あるいは、『この世界を作った何か』なのかもしれないけどね」

「急にスケール上げるな」

「でも、そういう話なんだよ」

 俺は、空の言葉を咀嚼しながら、空を見上げた。

 学校。街。ニュース。死のフラグ。

 その全部が、一つの「システム」で動いているとしたら。

 俺は、その仕様からはみ出た「バグ」か、「テスト用データ」か。

 考えれば考えるほど、足元がぐらつきそうになる。

「……正直さ」

 千景が、ぽつりと言った。

「聞いてるだけで、ちょっとメンタル削られる話なんだけど」

「だよな」

「でも、聞いてよかったとも思う」

 千景は、メモ帳をぱたんと閉じた。

「何も知らずに『フラ改』やるより、ずっとマシ」

 その「マシ」という言葉が、やけに重く感じられた。

     ◇

 そのときだった。

 視界の端に、赤黒い光が走った。

 屋上から見下ろす校舎の窓。そのうちの一つが、強く点滅して見える。

「……あ」

 思わず、声が漏れた。

 頭が、勝手にそちらに向く。

 その教室の中――たぶん一年生のフロア。

 そこにいる男子生徒の頭上に、複雑な形をしたアイコンが浮かんでいた。

【集団いじめ・自殺誘導・八〇%】

 数字だけじゃない。

 その男子のまわりにいる数人の頭上にも、別のフラグが連鎖していた。

【加害者として人生に傷・五〇%】

【犯罪への加担・三五%】

【後悔・一生消えない・七五%】

 複数のフラグが絡み合って、一つの塊みたいになっている。

 今まで見てきたどのフラグよりも、「人間臭い」嫌な色だった。

「黒江くん?」

 空が、俺の表情を覗き込む。

「どうしたの」

「あそこ」

 俺は、震えそうになる指で、その教室の窓を指した。

「あの一年の教室。多分、B組かC組」

 視界の中で、フラグのゲージがゆっくり伸びていく。

 今日明日ってレベルじゃない。けど、近い。

 このまま誰も気づかなければ、数日から一週間以内には「動き」が出る。

 男子生徒は、クラスの中で浮いている。いじめグループは、表向きには仲のいい友達を装っている。

 そういう空気が、ぼんやり伝わってきた。

「内容は?」

 空の声が、少し低くなる。

「集団いじめ。自殺誘導」

 口に出した瞬間、屋上の空気が、少しだけ重くなった気がした。

「ターゲットは、一年の男子。周りの数人も、加害者としてフラグ立ってる」

「……最低」

 千景が、顔をしかめる。

「自殺『誘導』って言い方がもう、嫌だ」

「でも、そういうの、現実にあるからね」

 空は目を細めた。

「『お前なんていなくなればいい』とか、『死ねば?』とか。冗談のつもりで言った言葉が、本当に誰かの背中を押すことだってある」

「冗談でも、言うやつは最低だよ」

 千景の声には、珍しく刺々しさが混じっていた。

「友達の背中押すにしても、そっち側じゃなくて、前に進む方を押せっての」

 その言葉に、俺は小さく頷く。

 視界の中のフラグは、じわりじわりと濃くなっていく。

【集団いじめ・自殺誘導・八二%】

「……次の案件だな」

 自然と口が動いた。

 管理局。死の総量。芹沢。契約。バグ。

 さっきまで話していた重い言葉たちが、一度頭の隅に追いやられる。

 今、目の前にあるのは、一つの教室と、その中の一人の生徒と、その周りにいる数人。

「行こう」

 空が立ち上がる。

 その目は、さっきまでよりもずっと鋭い。

「放課後フラグ改変クラブのお仕事」

「情報屋も動きますかね」

 千景が、メモ帳をポケットにねじ込みながら立ち上がった。

「一年生の噂、洗ってこよ」

 俺も立ち上がる。

 足はまだ少し震えている。

 でも、さっきまで抱えていた「世界の仕組み」の話よりも、目の前のこのフラグの方が、ずっと現実味がある。

 放課後。屋上から一年の教室へ続く階段を、三人で降りていく。

 死の総量とか、管理局とか、芹沢玲央とか。

 そういうものの解決は、どうせすぐには見つからない。

 だったら、とりあえず。

 今目の前に立っている、「誰かのフラグ」をどうにかするところから始めるしかない。

 フラグ管理局という存在がどうであれ。

 世界のどこかで「帳尻合わせ」が起きているのだとしても。

 俺たちの足は、迷わず一年のフロアへ向かっていた。


第八話「クラスメイトの自殺予告」

 ターゲットの名前は、佐藤だった。

 名字だけなら、この学校に何人いるんだって話だけど、問題の佐藤は一年B組の男子だ。

 背は少し低め。髪はぼさっとしていて、寝癖かセットか区別がつかない。いつもTシャツの裾からゲームキャラのキーホルダーがちらっと見えるタイプ。

 教室の中では、だいたい隅の方にいる。

 でも、完全に黙ってるわけじゃない。アニメやゲームの話になると、急に早口でしゃべりだす。そういうときだけ、目が少し輝く。

 そういう奴は、どのクラスにも一人はいる。

 ただ、そいつが「ターゲット」になるかどうかは、運と空気と、周りの人間次第だ。

「椅子、また隠されてるね」

 昼休み、一年B組の前を通りかかったとき、千景が小声で言った。

 教室の中では、数人の男子がクスクス笑いながらスマホを向けている。その奥で、佐藤が自分の席の周りをきょろきょろしながら探していた。

 椅子は、教卓の裏に押し込まれている。小学生レベルのイタズラだ。

 けど、それを見て笑っている連中の頭上には、ちゃんとフラグが立っている。

【軽いいじめ・習慣化・六五%】

【悪ノリ・越えちゃいけない一線・四〇%】

 一個一個は、まだ「ギャグ」で済まされるレベル。

 でも、その積み重ねが、どれだけきついかは、想像すればわかる。

「ノートも、勝手に読まれてるね」

 空が、少し眉をひそめた。

 別の日。授業前の教室で、誰かが佐藤の机の上のノートを開いて、勝手に落書きをしていた。

「おまえキモい」とか、「しゃべんな」とか。

 そういう単語が、ボールペンで太く書かれている。

 佐藤は「やめろよ」と笑って取り返していたけど、その笑い方は、目が笑っていなかった。

「先生、見てるのに」

 千景が、廊下からそっと教室の様子を覗き見ながら呟いた。

 窓際でコーヒー片手にプリントを眺めていた一年の担任は、ちらっとそちらを見ただけで何も言わない。

 俺の視界に、担任の頭上のフラグが一瞬浮かんだ。

【見て見ぬふり・後悔・六〇%】

 それも、いつか「本物のフラグ」に進化するかもしれない。

 そう思いながら、そのときの俺はまだ、「今すぐどうこう」だとは思っていなかった。

 その書き込みを見るまでは。

     ◇

 その日、俺たちはいつものように、情報共有用のSNSグループを眺めていた。

 クラスの連絡用とは別に、この学校の生徒の多くが入っている「雑談グル」だ。宿題の情報交換から、先生の愚痴、くだらないスタンプの応酬まで、ごちゃごちゃ何でも流れてくる。

「またバズってる動画貼られてる」

「体育の先生のモノマネシリーズ、そろそろ本人にバレるよね」

 千景とそんな会話をしながらタイムラインをさかのぼっていたとき、その一文が目に飛び込んできた。

『今日で全部終わらせる。さようなら』

 一瞬、意味がわからなかった。

 アイコンは、どこにでもいるようなフリー素材のイラスト。名前は適当な英数字。明らかに「匿名アカウント」だ。

 その数秒後。

『釣り乙』

『また構ってちゃんかよ』

『スクショして晒そ』

 そんなレスが、ぽんぽんと飛んでくる。

 画面の前で、俺の手が固まった。

「……おい」

 隣の席で同じグループを見ていた千景も、動きを止めていた。

 彼女は、すぐにその投稿をタップして詳細を開く。アイコン、投稿時間、過去のログ。

 数秒後、千景はため息をついた。

「これ、佐藤だ」

「確定か」

「アイコン、前に使ってたやつと一致。文体も、去年のスレと似てるし」

 千景の声には、いつもの軽さはなかった。

 同時に、俺の視界の中で、あいつのフラグが跳ね上がる。

【自殺・今日・放課後・九五%】

 赤いゲージが、ほとんど一〇〇のラインに届きそうになっている。点滅の間隔も、いつもより早い。

 しかもそれだけじゃない。

 いじめグループの数人の頭上にも、新しいフラグが連鎖的に立ち上がっていた。

【後悔・罪悪感・一生消えない傷・八〇%】

【加害者認定・人生に影・六〇%】

 集団いじめの中心人物には、さらに一段階上のフラグが浮かぶ。

【殺人未遂の共犯・七〇%】

 息が、詰まった。

「……最悪だな、これ」

 自然と、声が低くなる。

「時間は?」

 空が、すぐに聞いてきた。

「今日中。放課後」

 タイムラインの投稿時間と、フラグの内容がぴったり重なっている。

 このまま放っておけば、本当に今日、何かが起きる。

「作戦会議だね」

 千景が、勢いよく立ち上がった。

「場所変えよ。教室じゃ、誰に聞かれてるかわかんないし」

     ◇

 放課後すぐ、俺たちは空き教室を一つ確保した。

 窓際の席を三つ並べて座り、机の上にスマホとノートとジュースの紙パックを並べる。

「まず、状況整理」

 千景が、いつもの「情報屋モード」の顔になる。

「ターゲットは一年B組の佐藤。表向きは普通だけど、地味にいじられてるタイプ。本命ターゲット」

「フラグの内容は」

 空が、俺を見る。

「【自殺・今日・放課後・九五%】」

 もう一度、口に出す。

 重い数字だ。九五。

 これまで見てきたどのフラグよりも、高い。

「あと、一年B組のいじめグループ数人に【後悔・罪悪感・一生消えない傷】が連鎖。リーダー格には【殺人未遂の共犯・七〇%】」

「ふうん」

 千景は、ノートにざっとメモを取る。

「今まで『悪ノリ』レベルで済んでたやつらが、本気でライン超えようとしてるわけだ」

「向こうは、多分本気で『遊びの延長』くらいに思ってるだろうけどな」

 俺は、携帯の画面を見下ろす。

 さっきの自殺予告投稿には、まだ「釣り」「構ってちゃん」といったレスがちょこちょこついている。

 誰も、本気で止めようとしていない。

「ルートは三つ」

 空が、指を三本立てた。

「一つ目。いじめグループのリーダーに直接話して、『やめろ』と言う」

「うまくいけば、それが一番早い」

 千景が頷く。

「二つ目。先生に相談」

「これは、大人の反応次第」

 三つ目、と言いながら、空は自分の胸を指さした。

「本人に直接会って、引き止める」

 どのルートも、一筋縄ではいかなさそうだ。

「時間を意識しよう」

 空が、俺に視線を向ける。

「フラグのゲージ、変化があったら、すぐ教えて」

「了解」

 俺は、スマホのタイマーを立ち上げながら頷いた。

 放課後まで、あと数時間。

 それまでに、どこまで食い込めるか。

     ◇

 そのころ、別の場所。

 一年B組の教室の隅で、佐藤は机に突っ伏していた。

 耳には、イヤホン。流れているのは、何度も何度も聞いたアニメの主題歌。

 でも、今日は歌詞が頭に入ってこない。

「……全部、終わらせる」

 さっき、自分で打ち込んだ文字が、何度も頭の中でリフレインする。

 匿名アカウント。誰にもバレないように、アイコンも名前も変えた。けれど、どこかで「誰かに気づいてほしい」という期待も確かにあった。

 あのグループに書けば、誰かが気づく。

 誰かが、止めてくれる。

 そういう、「都合のいい奇跡」を、ほんの少しだけ夢見た。

 結果は。

『釣り乙』

『スクショしたw』

『かわいそうw』

 画面に並んだ文字列を見た瞬間、胸の中の何かが、ぽきり、と音を立てた気がした。

「やっぱりな」

 小さく笑う。声が震える。

「どうせ誰も、本気にしない」

 前にも、一度だけ「死にたい」という言葉をこぼしたことがある。

 そのとき、返ってきたのは「やめろよ、そういう重いの」とか「ネタにならないから黙ってて」というレスだった。

 そのあと、クラスメイトのグループの中で、「またアレ言い出すんじゃないの」と笑い話にされた。

 死にたい、なんて言葉は。

 本気で言っても、ネタにされる。

 そういう世界なんだ、と理解した。

「目立つだけ目立って、また笑いものになるだけ」

 欄干にかかった手のひらに、じっとりと汗がにじむ。

 彼の頭上には、濃い黒のフラグが浮かんでいた。

【自殺・成功・九五%】

 そのすぐ下に、もう一つ。

【失敗しても更なるいじめ・九〇%】

 どちらに転んでも、地獄。

 彼自身は、そのことに気づいていない。ただ、「ここから降りれない」という感覚だけが、重くのしかかっていた。

     ◇

「とりあえず、リーダー殴り込みルートからだな」

 空き教室を出てすぐ、千景が言った。

「殴り込みって言うな」

「気持ちの問題だよ」

 いじめグループのリーダー格――榊原は、まだ教室に残っていた。

 一年B組の窓際。取り巻きに囲まれて、スマホの画面を見ながら何かを笑っている。

 その頭上には、さっきより少しだけ濃くなったフラグが浮かんでいた。

【殺人未遂の共犯・七二%】

「……時間が経つほど、上がってるな」

 思わず呟く。

「行くよ」

 空が、先頭に立った。

 三人で教室に入ると、一年生達の視線が一斉に集まる。二年生が一年の教室に来るのは、そう頻繁にあることじゃない。

「何、先輩たち」

 榊原が、面白そうにこちらを見た。

「スカウトでも来た?」

「そうだね」

 空が、さらっと合わせた。

「君に、話があるの」

「え、俺?」

 榊原は、ちょっとだけ驚いた顔をしてから、すぐにニヤッと笑った。

 その余裕が、腹立たしい。

「廊下でいい?」

 空が問いかけると、榊原は肩をすくめて立ち上がった。

 廊下に出ると、教室の中のざわめきが少し遠くなる。

「で、なに」

 榊原は、ポケットに手を突っ込んだまま言った。

「俺、先輩に怒られるようなことしたっけ」

「怒りに来たわけじゃないよ」

 空は、柔らかい声で言う。

「佐藤くんのこと」

「佐藤?」

 一瞬だけ、彼の眉が動いた。

 その反応で、十分だった。

「お前らのグループ、さっきの書き込み見ただろ」

 俺が割り込む。

「『今日で全部終わらせる』ってやつ」

「ああ、あれ」

 榊原は、鼻で笑った。

「あいつの、いつものやつだろ」

「いつもの?」

「かまってちゃん」

 軽い言葉が、あまりにも重い。

「ちょっと暗いこと書いて、構ってもらおうとしてるだけ」

「構ってるのはお前らだろ」

 怒りが、喉の奥で弾けた。

「椅子隠したり、ノートに落書きしたり。あれ全部、『構って』だろ」

「え、あれいじめだと思ってんの?」

 榊原は、心底不思議そうな顔をした。

「遊びだよ、遊び。あいつも笑ってるし」

「笑ってねえよ」

 思わず、声が強くなる。

「あれは『笑わされてる』だけだ」

「めんどくさいなあ、先輩」

 榊原の目が、少し冷たくなった。

「今の時代、なんでもかんでも『いじめ』って言えば通ると思ってません?」

「通ってないからこうなってんだろ」

 言い返してから、自分でも「この会話、平行線だな」と思った。

「佐藤は、本気だ」

 空が、静かに口を開く。

「今日、本当に死ぬかもしれない」

「は?」

 榊原が、笑いかけた口を止めた。

「いやいや、ないない」

 慌てて笑いを取り繕う。

「どうせ、適当に書いただけだって」

「そうだとしても」

 空は、榊原の目をまっすぐ見た。

「君が『ない』って決めつけていいことじゃない」

「……」

「もし、本当に何かあったら」

 空の声が、少しだけ低くなる。

「君の頭の上には、『一生消えない傷』が残る」

「はあ?」

「殺人未遂の共犯。そういうフラグ、今立ってるよ」

 その言葉が、俺の中でぞくりと響いた。

 俺には見えている。でも、普通は見えない。だからこそ、「見えてる側」の言葉には、妙な説得力がある。

「脅しですか」

 榊原の口元が引きつる。

「そんなこと言われて、俺が『はいわかりました、やめます』って言うと思ってんの」

「言わないと思ってる」

 空は、あっさり答えた。

「でも、言う」

「……」

「君にとっては、遊びだったかもしれない」

 空の声は、優しいけど、芯があった。

「でも、佐藤くんにとっては、もう遊びじゃない」

「だからって、俺のせいにすんなよ」

 榊原の目の奥に、苛立ちが浮かぶ。

「こっちだって、ストレス溜まってんだよ。真面目にやってるやつばっか得してさ。ちょっとハメ外したらすぐ『問題児』って」

「それとこれとは」

「一緒だよ!」

 榊原が、初めて声を荒げた。

「俺らだって、誰かのせいでこうなってんだよ! 親だの先生だの! ムカつくから、弱いやつに当たるしかねえだろ!」

 言葉の勢いと同時に、彼の頭上のフラグが変化する。

【殺人未遂の共犯・七〇%】

  ↓

【殺人未遂の共犯・七五%】

 数字が、じわりと上がる。

 怒りの矛先が、自分以外に向いた瞬間、フラグは喜ぶ。

「……ダメだな」

 俺は、小さく呟いた。

 少なくとも今の榊原に、「悪かった」と言わせるのは無理だ。

 むしろ、追い詰めれば追い詰めるほど、フラグの数字は上がり続ける。

「天城」

 俺は、空の袖を引いた。

「先生ルート、行くぞ」

「うん」

 空も状況を理解したのか、すぐに頷いた。

 榊原は、最後まで「俺悪くないから」と言わんばかりの顔で、俺たちを見送った。

 彼の頭上のフラグは、【殺人未遂の共犯・七八%】まで上がっていた。

     ◇

「でさあ」

 一年の学年主任は、職員室の隅でコーヒーを飲みながら言った。

「最近の子って、すぐ『いじめだ』って言うじゃない」

 空と俺は、職員室の前に立ったまま、その言葉を聞かされていた。

 俺たちは簡潔に事情を説明したつもりだ。

 一年B組の佐藤が、自殺を匂わせる書き込みをしたこと。その子がクラスで軽いいじめを受けていること。今日の放課後が危ないかもしれないこと。

 学年主任は、「ふうん」と言いながら、コーヒーを一口飲んだ。

「もちろん、放っておいていい話じゃないよ」

 主任は言う。

「でもね、本当に困ってるなら、本人がここに来るべきなんだよ」

「本人、ここに来られる状態じゃないと思います」

 空が、できるだけ感情を抑えて言う。

「だから、代わりに――」

「君たちの気持ちはありがたいけど」

 主任は、手をひらひらさせた。

「今は、他にも対応しなきゃいけない案件が山ほどあるんだ。教師だって万能じゃない」

 俺の視界に、主任の頭上のフラグが浮かぶ。

【見落とし・後悔・七〇%】

 それでも、今この瞬間の彼には、それが見えていない。

「とりあえず、担任にそれとなく話を振っておくよ」

 主任は、そう締めくくった。

「佐藤くんから直接相談があったら、そのとき本格的に動く」

 それじゃ遅いんだよ、と喉まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。

 空も、同じことを考えているのか、唇をかみしめていた。

 職員室を出ると、廊下の空気がやけに冷たく感じた。

「……大人ってさ」

 千景が、廊下の端で待っていて、ぽつりと言った。

「責任取りたくないとき、すごい早口で『動けない理由』を言うよね」

「全部じゃない」

 空は、小さく首を振った。

「ちゃんと向き合ってくれる先生もいる。でも、今の人は……多分、『問題』が自分のところに来ないようにしたいだけ」

 俺は、腕時計を見た。

 下校時間まで、あと一時間ちょっと。

 佐藤のフラグは、相変わらず高いままだ。

【自殺・今日・放課後・九五%】

 ゲージの動きが、少し早くなっている気がする。

「もう、間接ルートはやめよう」

 空が、きっぱりと言った。

「本人を探す」

「賛成」

 千景が、メモ帳を開く。

「佐藤の行動パターン、ざっくりまとめてある」

「まとめてあるのかよ」

「伊達に情報屋やってないから」

 千景は、メモをぱらぱらとめくりながら言った。

「授業サボるときに行きがちな場所は、校舎裏、図書室、屋上(鍵が開いてる日限定)、それから学校近くのゲームセンター」

「最後だけ急に外」

「放課後に消えるパターンだと、多分こっち」

 千景は、校舎の外にある河川敷の方向を指さした。

「前に何度か、あっちのベンチで一人でゲームしてるの見たことある」

「河川敷……」

 嫌な予感しかしない。

「手分けしよう」

 空が、すぐに指示を出す。

「千景は、学校側の出口とゲームセンターをチェックして。黒江くんと私は、校舎裏と屋上、それから河川敷」

「了解」

 千景は、スマホを握りしめた。

「連絡はグループで。見つけたら、すぐ一報」

「頼んだ」

 俺たちは、それぞれのルートへ走り出した。

     ◇

 校舎裏。屋上前の扉。図書室。

 佐藤の姿は、どこにもなかった。

 時間だけが、じわじわと削られていく。

「河川敷だな」

 俺と空は、息を切らしながら校門を飛び出した。

 学校近くの河川敷は、帰宅途中の生徒や犬の散歩をする人たちで、夕方になると少し賑やかになる場所だ。

 ただ、その端の方――人通りの少ない橋の下は、誰かにとっての「隠れ場所」になる。

 嫌な予感は、だいたい当たる。

「いた」

 空が、小さく息を呑んだ。

 橋の欄干。

 その上に、制服姿の男子が立っていた。

 両手で手すりをつかみ、川面を見下ろしている。

 夕焼けが、水面に反射して、きれいだと思った。

 同時に、その頭上に浮かぶフラグが、目に飛び込んでくる。

【自殺・今日・放課後・一〇〇%】

 ゲージは、完全に振り切れていた。

 赤い光が、警告灯みたいに点滅している。

「……佐藤!」

 気づいたときには、喉が勝手に叫んでいた。

 欄干の上の男子――佐藤が、びくっと肩を震わせる。

 振り向いた顔は、ひどく青ざめていた。

「黒江先輩?」

 声が、震えている。

 その震えが、風で消えてしまいそうだった。

「何してんだよ、そこで」

「見ての通り、ですよ」

 乾いた笑い。

 佐藤は、欄干の上でバランスを取りながら言った。

「飛び降り配信とかじゃないんで、安心してください」

「安心できるか」

 心臓が、変な音を立てていた。

 距離を詰めたい。でも、下手に近づいて驚かせたら、本当に落ちるかもしれない。

 足がすくむ。

 俺がためらっている間にも、フラグの点滅は激しくなる。

【自殺・今日・放課後・一〇〇%(発動間近)】

「どうせ、誰も本気にしないと思ったんですよ」

 佐藤は、川面を見下ろしたまま言った。

「グループに書いても、『釣り』って笑われるだけで。誰も『やめろ』って言ってくれない」

 胸が、ズキンと痛んだ。

「『死にたい』って言うと、『またか』って笑われるんですよ」

 佐藤の声が、少しずつ早くなる。

「『本気で言うなよ』とか、『ネタにならないからやめろ』とか。だったら、いっそ本当にやってやろうかなって」

「……だから」

 俺は、喉の奥からなんとか言葉を搾り出す。

「こんな、川に飛び込むなんて真似を」

「川じゃないですよ」

 佐藤は、ふっと笑った。

「ここ、意外と浅いんで」

 その笑い方が、怖かった。

「だから、もし死ねなくても、ニュースにはなるかなって」

 そこまで考えている時点で、十分に本気だ。

 頭の中では、「どう止めるか」を必死に探そうとしていた。

 けど、言葉が出てこない。

 「死ぬな」とか、「生きててくれ」とか、綺麗事はいくらでも浮かぶ。

 それを口にした瞬間、彼の中で「またか」と切り捨てられる気がした。

 俺たちは、まだ彼のことを何も知らない。

 彼がどんなアニメが好きで、どんなゲームをやってて、何に笑って、何に傷ついてきたのか。

 知らないくせに、「死ぬな」と言うのは、あまりにも勝手だ。

 その葛藤で、口がうまく動かなかった。

 そんな俺を横目で見て、空が一歩前に出た。

「ねえ、佐藤くん」

 風に負けないように、空の声が少し大きくなる。

「死にたいなら」

 一拍置いて。

「せめて、私にちょうだい」

「……は?」

 俺も、佐藤も、同時に変な声を出した。

「なに言ってんの、天城」

「だって」

 空は、当たり前みたいな顔をしていた。

「君の死は、こんな中途半端な場所で使うには、もったいない」

「もったいない?」

「そう」

 空は、欄干の上の佐藤を見上げながら続ける。

「どうせ死ぬなら、もっと意味のある場所で使おう」

「意味って」

「例えば」

 空は、自分の胸に手を当てた。

「私が代わりに死ぬから、そのぶん誰かが助かるとか」

「……意味がわかりません」

 佐藤が、ぽかんとする。

 そりゃそうだ。

「でも、私にとっては、それはちゃんと意味があることなんだよ」

 空は、穏やかに笑った。

「『自分なんか死んでも誰も悲しまない』って思うの、つらいでしょ」

 佐藤の肩が、ぴくっと震えた。

「でもね、私からすると、君の死は『誰かを助けるためのすごく大事な材料』にもなり得る」

 空の目は、本気だった。

「だから」

 空は、手を差し伸べるようにして言った。

「今ここで一人で死ぬの、やめない?」

「……何言ってんだ、この人」

 佐藤の口から、思わず本音が漏れた。

 その瞬間、彼の足元がぐらりと揺らぐ。

 我に返った、というより、「変な現実」に引き戻されたのかもしれない。

 その一瞬の隙を、俺は逃さなかった。

「おりろ!」

 気づいたら、身体が動いていた。

 欄干まで一気に距離を詰め、佐藤の腕をつかんで、全力で引きずり下ろす。

「うわっ!」

 二人まとめて地面に倒れ込む。背中に、硬いアスファルトの感触が走った。

「いっ……てえ……」

 息が、肺から一気に抜ける。

 佐藤は、俺の上にのしかかった格好になっていて、慌てて身体を起こした。

「なにするんですか……」

「こっちのセリフだ、バカ!」

 息が整わないまま、叫ぶ。

 佐藤の頭上のフラグが、ぐにゃりと形を変えていく。

【自殺・今日・放課後・一〇〇%】

  ↓

【自殺未遂・発覚・カウンセリング・八五%】

  ↓

【保護・カウンセリング・家族との対話・七〇%】

 「死」の文字が、完全に消えたわけじゃない。

 けれど、「今日ここで終わる」は確実に回避された。

 同時に。

 俺の視界の中で、遠くのビルの窓が、一瞬だけ強く光った。

 学校から少し離れたオフィスビル。その高層階の一つの窓。

 そこに、新しいフラグが突然立ち上がる。

【転落事故・死亡・九〇%】

 心臓が、冷たく握り締められたような感覚がした。

 そのフラグは、一瞬で一〇〇%に跳ね上がり、消えた。

 窓の向こうの誰かが、足を滑らせたのか。

 バランスを崩したのか。

 それとも、別の何かなのか。

 俺には、その詳細は見えない。ただ、「誰かの死」が確定したという事実だけが、鮮やかに焼き付いた。

 まるで、さっきまで佐藤の頭上にあった「死」が、そこに移動したみたいに。

「……っ」

 息が、喉に詰まる。

 遠くで、救急車のサイレンが鳴りはじめた。

 河川敷にいる俺たちとは別の場所。

 街のどこかで鳴っているその音が、妙に近く聞こえた。

「黒江くん?」

 空が、俺の顔を覗き込む。

 彼女の頭上には、いつもの黒いフラグがうっすらと浮かんでいた。

【自殺・今週中・七五%】

 それとは別に、さっき感じた「転落事故」のフラグの残響が、視界の端にちらついている。

「……救えた、よな」

 自分でも驚くくらい、かすれた声が出た。

 目の前には、まだ生きている佐藤がいる。

 欄干から降ろされて、腰を抜かして座り込んでいる。

「そりゃそうでしょ」

 千景からメッセが飛んでくる。

『今どこ! さっき救急車の音したけど、大丈夫!?』

 指が震えるのを感じながら、俺は「大丈夫」とだけ返した。

「佐藤くん」

 空が、しゃがみ込んで彼の目線に合わせた。

「ごめんね。勝手に押し倒して」

「それは黒江先輩ですけど……」

 佐藤が、小さくツッコむ。

 その反応に、ほんの少しだけ安堵する。

「スマホ、貸してくれる?」

 空が優しく言う。

「グループのログ、消せるところは消しちゃおう」

「でも……」

「『釣り』って言われたことも、全部残したままだと、しんどいでしょ」

 佐藤は、しばらく迷ってから、震える手でスマホを差し出した。

 その頭上のフラグは、さらに形を変えていく。

【保護・カウンセリング・家族との対話・六五%】

【いじめ発覚・学校対応・五五%】

 いい方向に変わっているのは、わかる。

 でも、その裏で。

【転落事故・死亡】

 さっき消えたフラグの残像が、まだ頭から離れない。

 俺たちが一人を救った瞬間、どこかで誰かが死んだ。

 それが「予定通り」だったのか、「帳尻合わせ」だったのか、知る術はない。

 ただ、胸の中で何かが軋む音がした。

「黒江くん」

 空が、小さな声で呼ぶ。

 その表情には、複雑な影が差していた。

 「救った」という安堵と、「交換してしまったかもしれない」という罪悪感。

 多分、俺と同じものを抱えている。

「……とりあえずさ」

 千景から、またメッセージが届く。

『まずは生きてるやつの方、全力で守ろ』

『死んだ方の帳尻は、そのうちぶん殴りに行こう』

 らしいな、と思った。

 その軽さに、少しだけ救われる。

「佐藤」

 俺は、まだ震えが残る声で言った。

「とりあえず今日は、帰ろう」

「……はい」

 彼の返事は、かすれていたけど、確かに聞こえた。

 河川敷を渡る風が、少しだけ冷たくなる。

 遠くのサイレンの音は、まだ鳴り止まない。

 フラグの見える俺たちの戦いは、たぶんここからが本番だ。

 救った命と、救えなかった命。

 天秤に乗せられたみたいなその感覚と、どう折り合いをつけていくのか。

 それを考えるのは、きっと今日だけじゃ終わらない。

 とりあえず今は。

 目の前で膝を抱えている一年生を、ちゃんと地面に立たせるところから始めるしかない。

 そう思いながら、俺は佐藤の腕を取って、ゆっくりと立ち上がらせた。


第九話「死に場所を選ぶ権利」

 佐藤の一件は、学校的には「ちゃんと対応しました」で終わった。

 少なくとも、建前の上では。

「今回の事案については、学校として重大に受け止め……」

 全校朝礼で、校長がいつもの低い声で読み上げる。

「当該生徒は現在、保護者と連携しながらカウンセリングを受けております。生徒の皆さんも、悩みがあれば一人で抱え込まず……」

 テンプレートな言葉が、体育館に響いた。

 その間、俺はいつものように、頭上のフラグを眺めていた。

 体育館中に浮かぶ、小さな日常フラグの群れ。

【寝不足・居眠り・七〇%】

【転倒・足をひねる・四五%】

【告白失敗・昼休み・八〇%】

 そんな中、一年B組の方向に視線を向ける。

 佐藤の姿は、見えない。

 今は登校時間をずらしているらしい。朝は保健室で、三時間目からクラスに戻る日もあれば、そのままカウンセラー室にいる日もあると聞いた。

 でも、彼の「位置」はわかる。

 体育館の隅。先生と一緒に立っている小柄な影。その頭上に、一つだけフラグが浮かんでいた。

【希死念慮・慢性的・五〇%】

 赤黒さは薄れたけれど、完全には消えていない。

 あの日、橋の欄干から引きずり下ろして。保健室に連れて行って。先生と家族に引き継いで。

 そこまでしたからといって、すべて解決したわけじゃない。

 当たり前だけど、その現実を「数字付き」で見せられるのは、なかなかきつい。

 校長の話が終わり、たるい拍手が起こる。

 体育館を出る列の中で、空がそっと俺の袖を引いた。

「見えた?」

「ああ」

「……まだ、残ってる?」

「五〇パー」

 俺は、短く答えた。

「半分は『死にたい』。残り半分は、多分『それでも生きてる』」

「そっか」

 空は、小さくうなずいた。

「一回止めたからって、ハッピーエンドにはならない、か」

「ゲームと違って、セーブポイントからやり直しってわけにもいかねえしな」

 皮肉っぽく言ってみたけど、笑いは出なかった。

     ◇

「で、反省会である」

 放課後。駅前のファミレス。

 ドリンクバーとポテトと、学生っぽい騒がしさと、甘いデザートの匂い。

 いつも通りの放課後の景色の中で、俺たち三人はいつも通りっぽくない会話をしていた。

「いやあ、まさか本当に橋の上コースとは思わなかったよね」

 千景が、ストローをくるくる回しながら言う。

「河川敷って聞いたとき、青春イベントかと思ったのに」

「青春イベントで欄干乗るな」

「新ジャンル・デスフラグ青春」

「笑えねえからな?」

 俺が睨むと、千景は両手を挙げて降参ポーズを取った。

「ごめんごめん。でもさ」

 彼女は視線を落とす。

「結果だけ見れば、今回はギリ成功って感じだよね」

「ギリ、な」

 橋の欄干。佐藤の頭上の一〇〇%。

 そして遠くのビルの窓で発動した、【転落事故・死亡】。

 救急車のサイレン。

 胸の奥が、まだざわついていた。

「常に全員を救えるわけじゃない」

 千景は、はっきりと言った。

「それは、最初からわかってたし。今回だって、結果論でしかない」

「結果論でも、助かったことには変わりない」

 空が、静かに言う。

「もしあのとき行かなかったら、きっと佐藤くんはもういない」

「まあね」

「いじめグループとの距離も、一応は離されたし」

 空はドリンクの氷を揺らしながら続ける。

「学校も、表向きには『適切に対応しました』って言ってる」

「『表向きには』がポイントだけどな」

 いじめグループの頭上に浮かぶフラグは、あの日から少し変わっていた。

【加害者として人生に傷・七〇%】だったものが、

【いじめ発覚・指導・停学の可能性・五五%】

 みたいな感じに分散している。

 少なくとも、「何もなかったこと」にはならなかったらしい。

「それでも」

 俺は、窓の外を見ながら言った。

「見えちゃう以上、放っておけない」

 自分で言って、少し驚いた。

 前なら、「見なかったことにする」って選択肢が、真っ先に浮かんでいたはずだ。

 今は、それができない。

 佐藤の頭上に残る【希死念慮】。

 空の頭上に浮かぶ【自殺・今週中】。

 街に散らばる、無数の小さな死のフラグ。

 全部は救えない。それはわかっている。

 それでも、「見えたやつを完全スルー」は、前よりずっとやりづらくなっていた。

「黒江くん、変わったね」

 千景が、ポテトをつまみながら言う。

「前は、『もう二度と関わりたくない』って顔してたのに」

「お前が勝手に俺の顔に字幕付けんな」

「でも、いいと思う」

 意外にも真面目な声で、千景は続けた。

「全部は無理でも、『目の前の一個』くらいはって思えるの、普通にかっこいいよ」

「褒め方が雑だな」

 照れ隠しにツッコむと、空がくすっと笑った。

「私から見ても、かっこいいよ」

「だからお前ら、そうやって俺のハードル上げるなって」

 冗談を言い合っても。

 ファミレスのざわめきの中で笑っていても。

 佐藤の頭上に残った五〇%は、消えない。

 いつか、「もう一回あそこに立つ」未来だってゼロじゃない。

 そのことだけが、ずっと頭の片隅に引っかかっていた。

「……ねえ」

 ふいに、空がストローをいじる手を止めた。

「死にたい人を、無理やり生かし続ける権利って、本当に私たちにあるのかな」

 その言葉に、テーブルの上の空気が一瞬止まる。

「出た、問題提起」

 千景が、小声で茶化す。でも、目は笑っていない。

「今回みたいに、『本当は死にたくないけど追い詰められてる』ケースなら、全力で止めるべきだと思う」

 空は、真澄でも千景でもなく、自分のドリンクを見つめながら言う。

「でも、世の中にはいるんだよ」

 言葉のトーンが、少しだけ低くなる。

「本当に限界まで苦しんで、もうこれ以上続けても何も残らない人」

 それは、さっきまでの佐藤とは違う誰かの話に聞こえた。

「誰もがいつかは死ぬ」

 空は、氷をつつくストローを止める。

「そのとき、『どこで、誰に看取られて、どうやって死ぬか』を選ぶ自由まで奪うのって、ちょっと傲慢じゃないかな、って思うときがある」

「……」

 その言葉に、俺はすぐには返事ができなかった。

 黙り込んだ俺を見て、千景がゆっくり息を吐く。

「空ちゃん、前にも言ってたよね」

「何を?」

「『死に場所を選ぶ権利』ってやつ」

 空は、少し遠くを見るような目をした。

「……病院でね」

 ぽつりと、空が口を開く。

「小さい頃、よく通ってた病院があって」

 それは、初めて聞く話だった。

「そこで、仲良くなった人がいたんだ」

     ◇

 白い天井。消毒液の匂い。規則正しく鳴る機械の音。

 病院の小児病棟は、いつもどこか非現実的な空気が漂っていた。

 天城空がまだ小学生だった頃。

 彼女は、持病の検査でその病棟に何度も通っていた。

「空ちゃん、また来てくれたの」

 ベッドの上から、かすれた声がする。

 声の主は、空より少し年上の女の子だった。

 名前は、真矢。

 真矢の頭には毛がなく、いつもニット帽をかぶっていた。点滴スタンドが彼女のすぐ横にあり、腕にはいくつもの注射痕が残っている。

 でも、その目は驚くほど明るかった。

「今日のお土産はこれ」

 空は、バッグからコミックスを取り出す。

「続き、持ってきたよ」

「やった」

 真矢は嬉しそうに笑った。

「ここにいると、発売日に買いに行けないからね。空ちゃんが持ってきてくれるの、本当に助かってる」

「私も一緒に読めるから、ちょうどいい」

 ベッドの横に椅子を引き寄せ、二人でコミックスを広げる。

 病室の外では、看護師たちが慌ただしく行き来している。

 そんな音を背中で聞きながら、二人だけ別の世界に入り込んでいた。

 ページをめくる手を止めたのは、真矢の方だった。

「ねえ、空ちゃん」

「なに?」

「私さ」

 真矢は、ゆっくり天井を見上げる。

「死ぬ前に、一回でいいから、ちゃんと外に出たいんだ」

「外?」

「うん。病院の外」

 真矢の声は、少しだけ震えていた。

「このベッドの上じゃなくて。白い天井じゃなくて。青い空の下で」

 自分の名前を口にして、ちょっと照れ笑いをする。

「ちゃんと服着て、靴履いて。普通の人みたいに、歩いてみたい」

「……」

「でも、先生たちはあまりいい顔しないの」

 真矢は、指先でシーツをいじりながら続ける。

「『まだ安定してないから』とか、『何かあったら大変だから』とか」

「そりゃそうでしょ」

 看護師にそう言われたこともある。

「これ以上、彼女に負担はかけられないって」

「わかってるよ」

 真矢は、笑った。

「わかってるつもり。でもね」

 少しだけ、目が潤む。

「私の身体のことなのに。私の死ぬタイミングかもしれないのに。どうして全部、他の人が決めちゃうんだろうって」

 それは、子どものわがままにしては、あまりにも切実な言葉だった。

「どこで、どう死ぬかくらい」

 真矢は、天井ではなく、窓の方を見た。

 窓の外には、ほんの少しだけ青空が見えている。

「自分で選びたい」

 そのとき空の頭上には、まだ何のフラグも見えていなかった。

 代わりに、真矢の頭上には淡い光があった。

【余命わずか・苦痛・延命治療・七〇%】

【穏やかな看取り・家族とともに・三〇%】

 空はそのことを、まだうまく理解できていなかった。

 ただ。

 真矢が、そのわずかな「三〇%」を必死に掴もうとしていることだけは、直感でわかった。

     ◇

「結局、真矢さんはどうなったんだ」

 ファミレスに戻ってきた現在。

 俺は、気づけばそう尋ねていた。

「延命治療の方に、持っていかれた」

 空は、ストローを噛みそうな勢いで、唇をぎゅっと結んだ。

「『せめて一日でも長く』『医学的にはこっちが正しい』って」

「家族は」

「迷ってた」

 空は、少しだけ目を細めた。

「でも、先生たちに『まだ諦めるのは早い』って言われて」

「……」

「本人は、もういいって言ってたのに」

 病室の白い天井。

 延命治療のためのチューブ。痛み止め。意識が朦朧とする中で、真矢が最後に見た景色が、それだったことを、空は今でもはっきり覚えている。

「だから、私は思うんだ」

 空は、テーブルの上を見つめながら言った。

「生きるのも大事だけど、『どう死ぬか』を選べる自由も、同じくらい大事なんじゃないかって」

「そのコンボで、『死に場所を選ぶ権利』ってわけか」

「うん」

 空は、小さく頷いた。

「もちろん、何でもかんでも『好きに死ね』って意味じゃない」

「わかってる」

「でも、『もう限界』って人を、周りが勝手に縛りつけるのは、やっぱり好きになれない」

 その言葉は、きっと自分自身にも向けられていた。

 空の頭上に浮かぶ【自殺・今週中・七五%】。

 そのフラグの意味を、俺はまだちゃんと知らない。

 でも、彼女が「自分の死に方」をどこかで決めていることだけは、なんとなく感じていた。

「……でもさ」

 俺は、少し考えてから口を開いた。

「『死に場所を選べる人』って、多分、少数派だろ」

「少数派?」

「真矢さんみたいな人とか」

 俺は、さっきの話を思い返しながら言う。

「自分の人生をちゃんと見つめたうえで、『ここで終わりたい』って考えられる人」

「まあ、そうかも」

「世の中、そんなにカッコよく死ねるやつばっかじゃない」

 ニュースで見た突然の事故。災害。犯罪。

「選ぶ余裕もないまま終わるやつの方が、多いと思う」

 だからこそ、って言葉を続ける。

「だったらせめて、『もう少しマシな生』を押しつけても、いいんじゃないか」

「押しつけ、ね」

「うん。押しつけだよ」

 自分で認める。

「佐藤だって、『死にたい』って言葉、何回も投げてたんだろ」

「うん」

「でも、本気で止めてくれるやつはいなかった」

 いたとしても、言葉だけだった。

「『本気で止める』って、ある意味、最悪の押しつけだと思うけど」

 俺は、テーブルの上に置いた自分の手を見つめた。

「それでも、あの日橋の上で、俺は押しつけた」

 佐藤を、地面側に引きずり下ろした。

「勝手に『生きろ』って選択肢を押しつけた」

「……」

 空は、黙って聞いている。

「それが正しかったかどうかなんて、知らねえ」

 本当に知らない。

「でも、あそこで『死なせる自由』を選べるほど、俺は立派じゃない」

 そこまで割り切れない。

「だから、押しつける」

 言い切る。

「死にたいって言ってるやつの前に立ったら、『じゃあ死ねよ』とは言えない」

「言えるタイプの人間だったら、そもそもここまで悩んでないしね」

 千景が、苦笑い混じりに言った。

「空ちゃんも黒江くんも、根が真面目なんだよ」

「真面目、ね」

 自分にはあまり似合わない言葉な気がした。

 空は、しばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。

「やっぱり、平行線だね」

「だな」

「でも」

 空は、小さく付け足した。

「黒江くんの『押しつけ』、私は嫌いじゃないよ」

「お前、たまにすごい爆弾投げるよな」

 顔が熱くなるのをごまかすように、グラスの中の氷をかき回す。

 千景は「尊い」とか言いながらメモ帳を構えようとしていたので、その手からメモ帳を奪ってやった。

     ◇

 同じ頃。

 生徒会室には、キーボードの音だけが響いていた。

 芹沢玲央は、パソコンの画面に映る文書を見つめていた。

 タイトルには、「フラグ改変事例・第二学期中間報告」とある。

 文書には、いくつもの項目が並んでいた。

『ケース01 工事現場落下事故回避』

『ケース02 SNS炎上未遂』

『ケース03 一年B組佐藤の自殺未遂』

 それぞれの項目の下に、「発生予定時刻」「介入者」「介入内容」「結果」「死亡者数の変動」などの欄がある。

「……ふう」

 芹沢は、細く息を吐いた。

 画面の右側には、グラフが表示されている。

 この地区の「自然死」「事故死」「自殺」の推移。

 そして、黒江真澄と天城空が動き始めてからの「微妙な揺れ」。

「このまま放置すれば、局所的なバランス崩壊は避けられない、か」

 文書の中の一文を、芹沢は声に出して読み上げる。

「……まあ、そうだろうな」

 彼は、生徒会室の窓の外を見る。

 夕方の校庭。走る生徒たち。部活の声。

 彼らの頭上に浮かぶフラグは、芹沢には見えない。

 ただ、管理局から送られてくる「統計」と「分布図」だけが、世界の歪みを教えてくれる。

 画面を切り替えると、校内の「死の分布」を示す簡易マップが表示された。

 保健室の周辺。階段。グラウンドの端。屋上。

 赤や黄色のマークが点在している。

 そのいくつかには、最近新しく付けられたタグが表示されていた。

『黒江真澄・介入』

『天城空・介入』

『結果:死の移動』

「……本当に、面白いことをしてくれる」

 芹沢は、苦笑いを浮かべる。

「マイナス十をプラス十に変えるんじゃなくて、マイナス十をマイナス五くらいに変えていく感じ」

 画面上の数字を眺めながら、ぽつりと言った。

「彼らなりの『マシな世界』の作り方、ってところか」

 文書の最後に、「所見」という欄がある。

 芹沢はそこに、新たな一文を書き加えた。

『彼らのやり方は、短期的には統計を乱すが、長期的には「死の質」に変化を与える可能性がある』

 書き終えてから、少し考える。

 そして、その下にさらに一行。

『担当者としては、彼らの動向を観察しつつ、必要に応じて局への連携を強化したい』

 指が、一瞬だけ止まった。

 モニターに映る自分の顔が、わずかに歪んで見える。

「……本当は」

 誰もいない生徒会室で、芹沢は小さく呟いた。

「こんな仕事、誰かに押しつけて、普通の高校生活をしてみたかったんだけどね」

 冗談のような、本音のような言葉。

 その頭上には、やはり何のフラグも浮かんでいない。

 それが、彼にとって救いなのか、呪いなのか。

 芹沢自身にも、まだわかっていなかった。

     ◇

 夜。

 自分の部屋のベランダに出ると、街の夜景が広がっていた。

 マンションの灯り。コンビニ。信号。車のヘッドライト。

 その全部の上に、俺にはフラグが見える。

【老衰・看取られながら・やすらかに・六〇%】

【事故・軽傷・一〇%】

【告白成功・明日・七五%】

【失恋・でも前に進む・五〇%】

 死のフラグだけじゃない。

 日常の小さな転機も、浮かんでは消えていく。

 さっきまで俺の中で「死」と言えば、黒いイメージしかなかった。

 でも、こうやって見ていると。

 全部が全部、悪いわけでもない。

 老衰。看取られながら。やすらかに。

 そういう柔らかいフラグも、ちゃんと存在している。

 誰かにとっては、その死が「幸せな結末」なんだろう。

 それでも。

 今この瞬間にも、どこかで誰かが理不尽に死のうとしている。

 事故。自殺。殺人。病気。

 本来ならもっと先に来るはずだった「終わり」が、無理やり手前に引き寄せられている人生が、いくつもある。

 俺が守れるのは、そのうちの本当にほんの少しだけだ。

 全部救うなんて、無理だ。

 そんなことは、最初からわかってる。

 でも。

「目の前くらいは、って思うくらいなら、いいよな」

 夜風に向かって、小さく呟く。

 手すりに肘を置いて、街を見下ろす。

 頭の中に、佐藤の顔が浮かぶ。

 まだ五〇%残っている【希死念慮】。

 多分、これからも何度か揺れるだろう。

 それでも、そのたびに「もう一回くらい、生きてみるか」と思ってくれたらいい。

 空の「死に場所を選ぶ権利」という言葉も、芹沢の「バランス」という言葉も、全部まとめて。

 どこまでが正しくて、どこからが間違いなのかなんて、きっと誰にも決められない。

「だったらまあ」

 自分なりの線を引くしかない。

「俺は、勝手にやらせてもらう」

 見えちゃう以上、見なかったふりはしない。

 押しつけだと責められても、目の前のやつには手を伸ばす。

 それが、「フラグが見える俺」の、ささやかな意地だ。

 街の光が、ゆっくり瞬いている。

 その上に浮かぶ無数のフラグを眺めながら、俺はベランダの手すりを軽く握りしめた。


第十話「管理局の警告」

 ここしばらく、うちの学校は平和だった。

 少なくとも、表向きは。

「今日も、大事件なしっと」

 昼休みの教室の隅で、千景が俺の隣に腰を下ろしながら言った。

「どう、黒江くん。今、教室のフラグ状況は?」

「聞き方が治安維持部隊なんだよな……」

 とはいえ、見ろと言われなくても、視界には勝手に入ってくる。

【寝不足・居眠り・七五%】

【小テスト赤点・八〇%】

【告白失敗・放課後・六五%】

【体育で捻挫・三〇%】

 どれも、日常レベル。

 俺と空と千景で、ここ最近やっていたのは、そういう「小さいやつ」の調整だった。

 階段でこけそうになった一年生を軽く支えたり。

 失恋フラグが立っているやつに、「その相手、恋人いるぞ」とそれとなく情報を入れたり。

「最近、“死ぬ系”減ったね」

 教室の前の方でノートを閉じながら、空がこちらを見た。

 彼女の頭上に浮かぶ、いつもの黒いフラグは、うっすらと形をぼかしている。

【自殺・今週中・?】

 数字は見えない。ぼやけている。

 それだけでも、少しだけ救われる気がした。

「まあ、こっちでどれだけ動いてるかは、向こうにもバレてるだろうけどね」

「向こう?」

「管理局」

 空は、さらっととんでもない単語を出す。

「ほら、芹沢くん。最近あの人、やけにログ取ってたし」

「ああ……」

 生徒会室で見たあの視線と、「全部知っている」みたいな物言いが頭をよぎる。

 学校の中は、たしかに静かだ。

 でも、外は――。

 その日の帰り道。

 駅の大型ビジョンには、こんなニュースが流れていた。

『ブレーキの効かないトラック、交差点に突っ込む』

『歩行者天国で暴走車、十数人が重軽傷』

『高速道路で原因不明の多重衝突』

 画面越しに流れる映像。

 救急車。警察車両。白い布に覆われた誰か。

 テロップには「死亡三名」「死亡七名」と、淡々と数字が並ぶ。

 胃が、きゅっと縮む。

 映像の中の人たちの頭上にも、フラグはちゃんと浮かんでいた。

【交通事故・死亡】

【突然死・心不全】

【巻き込まれ・即死】

 それはもう「発動済み」のフラグで、色だけが残像みたいに残っている。

「……連日だな」

 ニュースサイトを開いても、似たような見出しがいくつも並んでいた。

 校内での大きな事故が減ったのと反比例するように、街全体では「インパクトのあるニュース」が増えていく。

 偶然なのか。

 それとも――。

 そんなことを考えていたところに、スマホが震えた。

 表示された名前を見て、思わず眉をひそめる。

「芹沢……?」

 生徒会長からのメッセージなんて、そうそう来るものじゃない。

『放課後、少し時間あるかな』

『駅前の喫茶花影で待っている』

 場所まで指定されている。

 続いて送られてきた一文が、やけに冷たく感じた。

『今日は、黒江くん一人で来てほしい』

     ◇

 駅から少し離れたところに、その喫茶店はあった。

 昔ながらのレンガ風の外観に、「花影」という看板。中からはジャズっぽい音楽が漏れている。

 店に入ると、コーヒーの香りと、落ち着いた照明が迎えてくれた。

「いらっしゃいませ。一名様ですか?」

「あ、えっと……人と待ち合わせで」

「奥の個室にいらしてますよ」

 店員がにこやかに案内してくれる。

 個室の扉を開けると、先に入っていた人が顔を上げた。

「やあ、黒江くん」

 制服のネクタイを少し緩めた芹沢が、テーブルの向こう側に座っていた。

 普段の「完璧な生徒会長」モードとは違って、少し年相応の高校生っぽい表情をしている。

 とはいえ、その目の奥の冷たさは変わらない。

「わざわざすみません、こんなところまで」

「呼びつけたのはそっちだろ」

 思わずそう返すと、芹沢は苦笑した。

「そうだね。まあ、座って」

 テーブルの上には、すでにアイスコーヒーが一杯置かれていた。

「砂糖とミルク、いる?」

「ブラックで」

「意外と大人だね」

 余計な一言を挟みつつ、芹沢は自分のカップに口をつけた。

 俺も向かいに座る。

 しばしの沈黙。

 店内の音楽と、カップを置く小さな音だけが耳に届く。

「で、話って」

 先に切り出したのは俺の方だった。

「死の統計の話」

 芹沢は、あっさりと言った。

「君が最近、一生懸命フラグを折ってくれている件について、だね」

「……やっぱり知ってんのな」

「知らない方がおかしいよ」

 そう言って、彼はカバンからタブレットを取り出した。

 ロックを解除し、いくつか操作してから、画面を俺の方に向ける。

 そこには、見覚えのあるマップとグラフが表示されていた。

「これは、この地区の死者数の推移」

 芹沢が、淡々と説明する。

「自然死、事故死、自殺。年齢層別、曜日別、時間帯別」

 折れ線グラフが、いくつも重なっている。

「で、こっちが」

 画面をスライドさせると、新しいグラフが出てきた。

「君と天城さん、それから新郷さんが介入したケースの一覧」

 工事現場での落下事故回避。SNS炎上未遂。佐藤の自殺未遂。

 俺たちが関わった案件が、ざっと十件ほど並んでいる。

「これを重ねるとね」

 芹沢は、一つのボタンをタップした。

 タブレットの上で、グラフが重なり合う。

 俺たちの「介入日」と、「事故死の増加」が、見事なくらい一致している。

「……冗談だろ」

 思わず声が漏れた。

「冗談だったらよかったんだけどね」

 芹沢は、肩をすくめた。

「君たちが一人救うたび、別のどこかで一人が死んでいる」

 その言葉は、ニュースのテロップよりも重く感じた。

「もちろん、これは厳密な因果関係の証明ではない。ただの相関の一例だ」

「じゃあ――」

「けれど、管理局のデータベースは、もっとはっきり教えてくれる」

 芹沢の表情が、少しだけ硬くなる。

「『この地区で予定されていた死者数』と、『実際の死者数』」

 数字が並ぶ。

 予定:一〇〇。実際:一〇〇。

 ただ、中身が違う。

「予定ではここで死ぬはずだったAさんが生き延びて、代わりに別の場所でBさんが死んでいる」

「それが、さっきのトラックの事故とか」

「そう」

 芹沢は、まるで授業の一コマみたいにあっさりと言った。

「君たちが校内で死を減らしてくれたぶん、街のどこかで死が増えている」

「ふざけんなよ」

 思わず、机を叩いていた。

 カップがかすかに揺れる。

「じゃあ何か? 俺たちは、黙って人が死ぬのを見てろってのか」

「そうは言っていない」

「言ってるようなもんだろ!」

 声が少し上ずる。

 喫茶店の外から、かすかに人の気配が動く音がしたが、個室の扉は閉ざされたままだ。

「俺はもう、見てるだけなんて嫌だ」

 小学生の頃、親友の頭上に浮かんだ【交通事故・致命傷・九〇%】。

 あのとき、俺は「見なかったふり」を選んだ。

 その結果を、今でも夢に見る。

「助けられるかもしれないのに、何もしないで」

 喉の奥が熱くなる。

「『全体のバランスが』とか、『死の総量が』とか。そんなもんのために、目の前のやつを見捨てろって?」

「……」

 芹沢は、すぐには答えなかった。

 コーヒーに口をつけ、少し間を置いてから、口を開く。

「君の気持ちは、理解できるよ」

「嘘つけ」

「本当さ」

 意外にも、静かな声だった。

「僕も最初は、君と同じだったから」

 その言葉に、思わず息を呑む。

「僕にも、見えていた時期があった」

 芹沢は、カップを両手で包み込むようにして言う。

「頭の上に浮かぶ、フラグの数々。君ほどはっきりじゃないけど、それでも『近い未来』くらいなら読めた」

「……」

「事故のフラグ。自殺のフラグ」

 視線が、少しだけ遠くを見る。

「小学生の頃、親友がいてね」

 その一言に、胸がざわついた。

「彼の頭上に浮かんだ【川遊び・溺死】のフラグを見て、僕は全力で止めようとした」

 どこかで聞いた構図だ。

「川には行くなと言って。遊びの約束を全部キャンセルして。それでも、彼は別の友達と川に行ってしまった」

 芹沢の頭上には、相変わらず何のフラグも浮かんでいない。

 けれど、その声には確かなひびがあった。

「結果だけ言えば、彼は助かったよ」

「……助かったのか」

「代わりに、川下のキャンプ場で土砂崩れが起きた」

 淡々とした口調で言う。

「予定されていた『溺死』と『事故死』がスライドして、一度に十数人が死んだ」

 背筋が、ぞくりとした。

「もちろん、僕のせいだとは誰も言わない」

 芹沢は、かすかに笑う。

「天候の偶然。地盤の問題。安全管理不足。ニュースでは、もっともらしい原因がいくつも並べられた」

「でも、あんたは」

「管理局のデータベースは、こう教えてくれた」

 タブレットの画面が切り替わる。

『予定:溺死一名』

『実際:土砂災害による死者十数名』

『原因:局外要因によるフラグ改変』

「『個人によるフラグ改変が、局所的なバランス崩壊を招いた』」

 その文言が、今でも頭から離れないらしい。

「個人の善意が、必ずしも全体の善を生まない」

 芹沢は、ゆっくりと俺を見る。

「それを、嫌というほど思い知らされた」

「だからって、納得できることとできねえことがあるだろ」

 拳を握る。

「死の総量とやらが変えられないのは、まあわかったとしても」

 街のどこかで誰かが死ぬ。

 そのこと自体は、誰にも止められない。

「配置は、いじれるんだろ」

「……そうだね」

「意味も、変えられるんだろ」

 空が言っていた言葉を思い出す。

 即死か、看取られながらか。孤独か、誰かに手を握られながらか。

「だったら、配置と意味くらいは、好きにいじらせろよ」

 自分で言って、どれだけ無茶を言っているかはわかっている。

 それでも、口が止まらなかった。

「管理局だか何だか知らねえけどさ」

 握った拳に、爪が食い込む。

「机の上で数字いじってるやつが、『こいつはここで死ぬ予定だから』って決めてんの、ムカつくんだよ」

「僕も、全部に納得しているわけじゃない」

 芹沢は、静かに言った。

「でも、『死の総量は変えられない』という前提は、覆らない」

「だったら、せめて」

「……問題はね、黒江くん」

 芹沢が、俺の言葉をそっと遮る。

「君たちの介入が、その『配置』を乱し過ぎていることなんだ」

「乱し過ぎ?」

「本来なら、一人の死がゆっくり別の誰かに配分されるはずだった」

 タブレットの画面に、点と線が描かれる。

「ところが、君たちが局所的に死を減らしすぎたせいで、『帳尻合わせ』が追いついていない」

「だから、大事故で一気にまとめて殺すって?」

 自分で言って、吐き気がした。

「管理局の上層は、すでに調整案を検討している」

 芹沢の声には、感情がほとんど乗っていない。

「一度に多くの人間を死なせることで、リセットする」

「ふざけんなよ!」

 こみ上げてくる怒りを抑えきれなかった。

「それ、ただの大量虐殺じゃねえか!」

「言い方を柔らかくすれば、『大規模災害』だね」

「どっちでも最悪だよ!」

 個室の空気が、一瞬張り詰める。

 芹沢は、それでも冷静だった。

「だから、こうして警告に来た」

「警告?」

「これ以上、大きなフラグに手を出すな」

 芹沢の目が、こちらをまっすぐ捉える。

「せいぜい、日常レベルのトラブルまでにしておけ」

「……」

「転倒事故。軽い怪我。失恋。進路」

 一つ一つ、言葉を並べていく。

「そういうものなら、多少いじっても全体には影響が少ない」

「自殺とか、死亡事故とかは?」

「君たち個人が、勝手にいじっていい領域じゃない」

 その言葉は、刃物みたいだった。

「もし、それでも介入を続けるなら」

 芹沢は、ほんの少しだけ目を伏せる。

「管理対象として、処分せざるを得ない」

「処分って」

 喉が乾く。

「殺すってことかよ」

 問いかけに、芹沢は何も答えなかった。

 タブレットの画面を閉じ、コーヒーに口をつける。

 その沈黙が、何よりの答えだった。

「……あんた、本気で言ってんのか」

「僕個人の意見じゃない」

 芹沢は、小さく首を振る。

「上からの指示だ」

「自分で考える頭はねえのかよ」

「あるからこそ、こうして先に話しに来たつもりなんだけどね」

 皮肉とも本音ともつかない声。

「本当に君たちを『処分する』つもりなら、わざわざ喫茶店で話なんかしない」

「だったら――」

「黒江くん」

 芹沢が、わずかに声を強めた。

「僕は、君を敵に回したいわけじゃない」

「……」

「天城さんも、新郷さんも」

 名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。

「彼女たちのことも、できれば巻き込みたくない」

 その言い方が、逆にリアルだった。

「だから、頼む」

 芹沢は、初めてほんの少しだけ「懇願」に近いトーンを出した。

「大きなフラグには、手を出さないでほしい」

 すぐには、返事ができなかった。

 頭の中で、いくつもの光景が浮かんでは消える。

 橋の欄干の佐藤。

 屋上でフェンスに手をかけた空。

 小学生の頃の親友。

 ニュース画面の中の「死亡〇名」。

 何が正しくて、何が間違いなのか。

 「全体の善」と「目の前の一人」。

 そんなもの、答えが出るはずがない。

「……考えさせろ」

 やっと出た言葉は、それだけだった。

「それで今は、十分だ」

 芹沢は、ゆっくり息を吐いた。

「答えを急かすつもりはない。ただし、時間はあまり残されていない」

「時間?」

「大規模調整の準備には、どうしても期間がいるからね」

 あっさりと言う。

「向こうが本気で動けば、もう止まらない」

 ぞっとする言葉だった。

「その前に、君がどうするか決めてくれ」

 それで、話は終わった。

     ◇

 喫茶店を出たあと。

 空からメッセージが何件か来ていた。

『大丈夫?』

『何話された?』

『今どこ?』

 全部、未読のままポケットにしまう。

 今日は、空の顔を見られる気がしなかった。

 夕方の街を、一人で歩く。

 人混みの中に紛れながらも、俺だけ別の世界にいるような感覚があった。

 視界には、いつも以上に鮮明にフラグが浮かぶ。

【転倒・擦り傷・三五%】

【万引き・発覚・六〇%】

【ナンパ失敗・一〇〇%】

【告白・成功・五五%】

 そんな中に、ふっと重い色が紛れ込む。

【交通事故・死亡・四〇%】

【家庭内暴力・骨折・六〇%】

【自殺・今夜・七〇%】

 全部は追えない。

 全部に手を伸ばそうとしたら、きっとまた芹沢の言う「バランス崩壊」が起きる。

 それくらいの想像はつくようになってしまった。

「どこまでが許されるんだろうな」

 誰にともなく呟く。

 どこまで介入してよくて。

 どこから先は、踏み込んじゃいけない領域なのか。

 そもそも、「許す」「許される」って誰目線だ。

 管理局か。芹沢か。世界か。

 それとも、自分自身か。

 答えは、やっぱり出ない。

 出ないまま、夜の人混みに紛れていく。

     ◇

 同じ頃。

 高層ビルの上階。

 大きな窓ガラスの向こうに、都市の夜景が広がっていた。

 そのフロアには、仕切りの少ない広い空間と、いくつものモニター。

 誰かのシルエットが、窓際に立っている。

「第二地区、予定死亡数との乖離、まだ許容範囲内です」

 無機質な声が響く。

「しかし、このままフラグ改変が続けば、局所的な歪みは無視できません」

「そうか」

 低い声が答える。

「大規模調整の準備を進めておけ」

「対象区域は?」

「教育機関周辺が、もっとも効率的だろう」

 窓の外には、いくつもの学校の灯りが見える。

 そこにいる誰かの頭上で、まだ見ぬフラグが静かに生まれては消えていく。

「黒江真澄、天城空」

 書類の上で、二つの名前が読み上げられた。

「彼らの動向は?」

「地上担当より、定期的な報告が上がっています」

「そうか」

 窓際のシルエットが、夜景を見下ろす。

「ならばせいぜい、興味深いデータを集めてくれることを願おう」

 都市の灯りが、星空みたいに瞬いている。

 その上に浮かぶ、無数のフラグ。

 誰の目にも見えないそれを、「管理局」の人間たちは、数字とグラフで管理していた。

 それが、善なのか悪なのか。

 今のところ、その答えを知っている者はいない。


第十一話「空の本当の契約」

 芹沢にあの喫茶店で釘を刺されてから、数日が過ぎた。

 世界は、何事もなかったみたいに回っている。

 朝になれば学校へ行って、授業を受けて、昼休みにパンをかじって、放課後になれば部活の声が響く。

 いつもと同じ日常。そのはずなのに。

「……セーフ、かな」

 廊下を歩いていた一年生が、前を歩く友達の靴ひもに引っかかりかけて、よろけた。

 床に突っ込みそうになったところを、すれ違いざまに手を伸ばして支える。

「あ、ご、ごめんなさい!」

「前見ろよ。派手にコケたら、明日のホームルームのネタにされるぞ」

 軽く笑ってごまかす。

 一年生の頭上に浮かんでいたフラグは、さっきまで【転倒・打撲・六〇%】だったのが、今は【軽い恥ずかしさ・一五%】くらいに下がっている。

 この程度。

 芹沢の言った「日常レベルのトラブル」の範囲。

 多分、セーフ。

 でも――。

 廊下の端の方では、別のフラグが立っていた。

【家庭内暴力・打撲・七〇%】

 制服の襟を少し上げて歩いている男子の頭上に、どす黒い色の数字が浮かんでいる。

 誰かに殴られている顔ではない。傷も見えない。けれど、あの色は、何度か見たことがあった。

 父親か。恋人か。兄弟か。詳細まではわからない。

 手を伸ばせる距離にいるのに、どうしたらいいのか見当がつかない。

 これを「日常レベル」と呼べるのかどうかも、わからない。

 声をかけたところで、「別に」と返されて終わるかもしれない。

 下手に踏み込めば、余計にこじれる可能性だってある。

 芹沢のタブレットに映っていたグラフが、頭をよぎる。

 俺がここで何かを変えたら、どこか別の場所で数字が揺れる。

 バランス。死の総量。大規模調整。

 そんな単語が、胸の奥で絡みつく。

「……」

 気づけば、その男子の背中を見送っていた。

 何もできないまま。

 その代わりみたいに、廊下の端に立っていた女子の頭上の【水筒落下・床びしょ濡れ・四五%】を、さりげなく注意して折る。

「あ、水筒のフタ、ちゃんと閉まってないぞ」

「え、あ、ほんとだ。ありがとう、黒江くん」

 そんな小さなことだけを、丁寧に拾っていく。

 セーフだと、自分に言い聞かせながら。

     ◇

「無理してない?」

 昼休み。教室の後ろの窓際。

 空が、俺の机に腰を預けながら聞いてきた。

「……何が」

「何でもかんでも止めようとした頃よりは、顔色マシになったけど」

 彼女は、視線だけで教室の中を一周させる。

 その間にも、いくつかのフラグがさざめいた。

 椅子から立ち上がろうとしてよろける奴。その横で、トレーを持ったまま別の男子にぶつかりかける女子。

 空は、まるで何でもない日常会話みたいな顔で、それらをふわっとなだめていく。

「廊下走らないでねー」と軽く声を飛ばしたり。

 落としそうな教科書をさりげなく受け取ったり。

 誰も、「フラグがどうこう」なんて思わない。単に「気のきくクラスメイト」として扱われる。

 それでいて、いくつもの小さな芽を、まだ芽のうちに摘み取っていた。

「ゼロか百かじゃなくても、できることはあるよ」

 空は、俺の視線を受け止めて微笑んだ。

「……そうかもな」

 芹沢の忠告を、完全に守るつもりはない。

 でも、完全に無視する勇気もない。

 その間で、どこに線を引くか。

 今のところ、空は「グレーゾーンの真ん中」を器用に歩いているように見えた。

 俺は、まだそこまで器用じゃない。

 胸のどこかに刺さった棘が、じくじくと疼き続けている。

     ◇

「黒江くん」

 放課後。教室でカバンを閉じていると、空が声をかけてきた。

「今日、ちょっと付き合ってくれない?」

「どこに」

「屋上、じゃないよ」

 空は、いつもの笑顔とは違う、少しだけ真剣な顔をしていた。

「河川敷。前に佐藤くんと会ったところとは、ちょっと離れた場所」

「……」

「千景ちゃんには、今日は黙っておきたい」

 そう言ったときの目が、本気だということだけは、すぐにわかった。

「わかった」

 余計なことは聞かなかった。

 聞いたところで、どうせ現地で全部話してくるだろう。

     ◇

 夕方の河川敷は、思ったよりも静かだった。

 住宅街から少し離れた場所だからか、人も少ない。

 ランニングしている人が一人、犬の散歩をしている親子が一組。それくらい。

 遠くでカラスが鳴いて、川面を渡る風が草を揺らす。

「こっち」

 空が、土手の下の方へ歩いていく。

 自転車も通れそうななだらかな坂を下りていくと、川に近い場所に小さなベンチが一つ置かれていた。

 誰が使っているのか、少し色あせている。

 空は、そのベンチに腰を下ろした。

 隣をぽんぽんと叩かれる。

 促されるままに、俺も座る。

 隣同士。手を伸ばせば触れそうな距離。

 けれど、お互い少しだけ間を開けていた。

「ここ、前から来てたのか」

「うん。わりと、落ち着くんだ」

 空は、川面を見つめながら答える。

 夕日が水面に反射して、オレンジ色の筋を作っていた。

「話しておきたいことがあるって言ったよね」

「ああ」

「本気のやつだから」

 空は、自分の胸に手を当てる。

「途中で茶化したり、聞かなかったことにしたりしないでくれると嬉しい」

「……しないよ」

 そんなことをするほど、俺も子どもじゃない。

 多分。

「なら、よかった」

 空は、小さく息を吸い込んだ。

「前にも、ちょっとだけ話したことあるよね」

「病院の子の話か」

「うん。真矢さん」

 真矢。延命か、看取りか。死に場所を選ぼうとした人。

「あの人と出会う前から、私の周りには、いつも『死にそうな気配』があった」

 その言葉は、少し意外だった。

「気配?」

「黒江くんみたいに、直接フラグが見えたわけじゃないよ」

 空は、肩をすくめる。

「でも、わかるんだ。病室の空気とか、先生や看護師さんの目つきとか、モニターの音とか」

 心電図の波形。酸素飽和度の数値。規則正しく鳴るはずの音が、少しずつ乱れていく感覚。

「弟がね、生まれつき心臓が弱かったんだ」

「弟」

 初めて聞く単語だった。

「何度も入退院を繰り返して、小さい頃からずっと病院が生活の一部だった」

 空の声が、少しだけ柔らかくなる。

「小学生のときなんて、学校より病院の方がホームみたいな感じでさ」

「それは……きついな」

「きついけど、慣れるよ」

 空は、苦笑した。

「で、弟の病室にいると、なんとなくわかるんだ」

 カーテン一枚隔てた向こう側の空気。

 廊下を通るときの、大人たちの小さなため息。

「『あ、ここ、もう長くないんだな』って」

「……」

「それが、弟のところにも少しずつ近づいてきてるのも」

 小さな身体に、たくさんのチューブがつながれている姿。

 呼吸が浅くなるたびに鳴るアラーム音。

 空は、その全部を見てきたのだろう。

「ある日、弟の容態が急変した」

 言葉のトーンが、少し低くなる。

「呼吸が荒くなって、モニターの音が速くなって。先生たちがドタバタ走ってきて」

 家族が呼び出されて、病室の前が騒がしくなる。

「私は、何もできなかった」

 小学生だった空が、廊下の隅で膝を抱えて座っている姿が浮かぶ。

「ただ、泣きながら『助けてください』って、病院の神様みたいな得体の知れないものに祈るしかなかった」

「……」

「絶望って、こういうのを言うんだろうなって、子ども心に思ったよ」

 空は、自嘲気味に笑う。

「そのときだった」

 彼女は、川の向こう岸を見つめながら続けた。

「廊下の端に、知らない大人が立ってたんだ」

「大人?」

「スーツを着た男の人。病院の先生でも、看護師さんでもない」

 親戚でも、近所の人でもない。

「誰も、その人の存在を気にしてなかった」

 そこにいるのに、誰の視界にも入っていないみたいな空気。

「でも、私にははっきり見えた」

 その男は、廊下の真ん中で立ち止まる空の方を見て、口を開いた。

 空にだけ届く声で。

『一つ取引をしないか』

「ドラマみたいだろう?」

「笑えねえよ」

 思わずツッコんだ俺に、空も肩をすくめる。

「取引の内容は、簡単だった」

 空は、自分の胸元をぎゅっと握りしめた。

「『弟さんの死を先送りにしてやる。その代わり、君が“死の肩代わり”をしなさい』」

「死の……肩代わり」

 あまりにも物騒な言葉だった。

「空が死にそうになるほど、弟の死は軽くなる。空が死ねば、そのぶん弟の死は帳消しになる」

「そんな理屈、あるかよ」

「あるんだよ。あいつらの世界では」

 あいつら。管理局。

「当時の私は、そんなカラクリなんて知らなかったけどね」

 ただ、目の前の弟を助けたくて。

「『はい』って、即答した」

 迷いはなかったのだろう。

 その場で、契約は成立した。

 スーツの男が指を鳴らす。

 そうして何が変わったのか、空にはうまく説明できない。

 けれど、その日を境に、弟の容態は「奇跡的な回復」を見せ始めた。

「モニターの音が落ち着いて。先生たちが顔を見合わせて。『峠は越えましたね』って」

「……助かったのか」

「一時的にはね」

 一時的には。

 そこに、重い意味が込められていた。

「弟は、そのあとも何度か危ない時期を越えながら、生き延びた」

「それは、よかったんじゃないのか」

「よかった、よ。あのとき、あの瞬間だけ切り取れば」

 空は、少しだけ笑った。

「家族全員、泣いて喜んでた。私も、号泣した」

 それは、嘘じゃない。

「でも、その日の夜」

 病院の食堂のテレビから、ニュースが流れていた。

『〇〇市内の総合病院で、複数の患者が急変し死亡』

 見慣れた病院の外観が、画面に映っている。

『容体の安定していた高齢患者数名が、同じ時間帯に急変したとのことです』

「父が、『何でだろうな』ってテレビに向かって言った」

 空は、そのときのことを今でも鮮明に覚えている。

 弟の病室ではなく、別の病棟。

 名前も知らない誰かたち。

「ニュースキャスターは、『持病の悪化』『高齢による容体の変化』って言ってた」

「……」

「でも、なんとなく、わかっちゃったんだよね」

 空は、自分の胸を指さした。

「弟の死、誰かに押しつけちゃったんだなって」

 その瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。

「誰も、私を責めてないのに」

 家族も、先生も、誰も。

「一番責めてたのは、自分自身だった」

 それが、空にとってのスタート地点だった。

     ◇

「契約してからね」

 空は、ベンチの背もたれに体重を預ける。

「私は何度も、『死にかける』ようになった」

「……」

「歩道を歩いてたら、信号無視の車が突っ込んできてさ」

 ギリギリで避けた。地面に叩きつけられて、骨を折った。

「階段から足を踏み外して、頭を打って気を失ったこともある」

「運が悪い、ってレベルじゃねえな」

「そう。普通に考えたら、悪運の塊」

 でも、管理局的には、「仕事中」みたいなものだった。

「向こうの人たちは言うんだよ」

 空は、低い声で言葉をなぞる。

「『君は死んでも構わないが、まだ使い道がある』って」

「……殺す気満々じゃねえか」

「うん。でも、ギリギリでいつも止める」

 救急車が間に合う。偶然通りかかった医者が処置する。たまたま近くにいた人が助けてくれる。

「『死ぬ直前』には、助け舟が出る」

 そこまで計算された「肩代わり」。

「そのたびに、別の誰かの死は、少しずつ軽くなる」

 即死だったはずの事故が、重傷で済む。

 本来なら亡くなるはずだった病人が、もう少し生きる。

 空の身体には、その痕跡がいくつも刻まれている。

 腕の、細い傷跡。

 制服の袖からちらりと覗く、白い線。

 体育のときに見えたことのある、膝の古い傷。

「全部見せるのは、さすがに恥ずかしいからやめとくけど」

 空が、冗談めかして言う。

 でも、その冗談は、あまり軽くなかった。

「だから、私は考えるようになった」

 夕日が、空の横顔をオレンジ色に染める。

「どうせいつか死ぬなら、その死でできるだけ多くの人の死を軽くしたい」

「……」

「誰かの死を、少しでも先に延ばしたい」

 そう考えて、「死にたがり優等生」として生きることを選んだ。

「勉強も、運動も、ちゃんとやる」

 優等生の仮面。

「友達も作る」

 クラスの中心にもなれる。

「でも、心のどこかでは、ずっと『いつでも死ねるように』準備してる」

 屋上の柵、橋の欄干、ビルの屋上。

 その全部を、「自分の終わりの候補」としてどこかで見てきたのだろう。

「黒江くんが『死にたがり優等生』って言ったとき、けっこう図星だった」

 空は、苦笑した。

「でも、ほんとはもっとダサいんだよ」

「ダサい?」

「弟の死を怖がって、自分の死で帳尻合わせしようとしてるだけの、ただの臆病者」

「……ふざけんな」

 そこまで聞いて、やっと声が出た。

「そんなクソみたいな契約、最初から結ぶなよ」

 自分でも、子どもっぽい言葉だと思う。

 でも、それしか出てこなかった。

「お前が死ななくてもいい方法、考えろよ」

「そのときの私には、それしかなかったんだよ」

 空は、静かに笑った。

「『弟が死ぬ』か『自分が死ぬ』かしか、世界に選択肢がないように見えた」

「……」

「今ならもっと違う選び方もあったのかもしれないって思うけど」

 そのときは、ただ必死だった。

「それに」

 空は、少しだけ意地悪そうな目をする。

「黒江くんだって、似たようなとこあるでしょ」

「は?」

「『親友を助けられなかった』後悔から、今もずっと引きずってる」

 図星を刺されて、言葉が詰まる。

「だから、あのとき橋の上で、佐藤くんに手を伸ばした」

 俺の手が、欄干に伸びる光景が頭に蘇る。

「自分の中の後悔を、ちょっとマシな形にしたかったから」

「……違うとは言えねえ」

「私は、もっとわがままなんだ」

 空は、ぽつりと言った。

「弟を生かしたいし、自分も生きたいし、誰かの死も軽くしたい」

「欲張りすぎだろ」

「だよね」

 空は、川面を見ながら微笑む。

「だから、あっちの人たちからしたら、私は扱いづらい契約者なんだよ」

「あっちの人たち?」

「管理局」

 スーツ姿の男。芹沢。その上にいる連中。

「ねえ、黒江くん」

 空が、こちらを振り向く。

「芹沢くんから、聞かされてるよね」

「何を」

「黒江くんの能力のこと」

 空の目が、真剣な色を帯びる。

「私の『肩代わり契約』とも、管理局の『監視権限』とも違う、特別なもの」

「特別って」

「『可視化』」

 空は、はっきりと言った。

「本来、管理局側にしか許されない権限」

 世界中の死のフラグを、数字とグラフで管理する連中。

 彼らが持っているはずの「目」を、俺は個人単位で持っている。

「だから、管理局は黒江くんに興味を持ってる」

 空は、膝の上で指を組む。

「どっち側に転ぶかで、今後の死のバランスは大きく変わるから」

「どっち側って」

「管理局側につくのか、それとも、私みたいな契約者側につくのか」

「……」

「あるいは、両方とも敵に回すのか」

 空の声には、ほんの少しだけ期待が混じっていた。

「あんた、そんな危険な提案平然と言うなよ」

「可能性の話だよ」

 空は、肩をすくめる。

「管理局に入れば、君は『正式な目』として保護される代わりに、命の出し入れをさせられる」

「パス」

「私の側につけば、一緒に死の肩代わりをしながら、小さなフラグをちまちまいじる人生」

「それもパス」

「だよね」

 空は、少しだけ嬉しそうに笑った。

「黒江くん、そう言うと思った」

「だったら聞くなよ」

「でも、聞いておきたかったんだ」

 空は、川の方に視線を戻す。

「黒江くんが、どこまで一緒に来てくれるのか」

 その言い方が、ズルい。

 ここで「途中下車します」なんて言えるわけがない。

「……俺はさ」

 自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。

「どっちの側にも行かない」

「うん」

「管理局にも、お前の契約にも従わない」

 夕日が、オレンジから少しずつ赤に近づいていく。

「俺は俺のやり方でやる」

 空が、こちらを見る。

「お前を死なせないまま」

 喉が、少しだけ震えた。

「できる限り、救う」

 それがどんなに無茶苦茶なことか、自分が一番よくわかっていた。

 死の総量。バランス。帳尻合わせ。

 それでも。

「そんなわがままな道、きっと一番険しいよ」

 空は、くすっと笑った。

「知ってる」

 ここまで来て、ラクなルートに乗り換えるつもりはない。

「世界中の死と戦うとか、そんな大層な話じゃなくていい」

 無数のフラグを、全部どうにかしようなんて考えてない。

「目の前の一人が、『まだ生きたい』って言ったら、全力でしがみつく」

 佐藤みたいに。

 弟みたいに。

 空みたいに。

「『もういいや』って言ったやつにも、『それでも』ってもう一回聞く」

 それは、空の「死に場所を選ぶ権利」と、真正面からぶつかるかもしれない。

「管理局が何て言おうと」

 芹沢が、どんな顔をしようと。

「それで帳尻が合わなくなって、『大規模調整』だとか言い出したら」

 俺は、空を見た。

「そのときは、一緒にぶっ壊す」

 管理局をか、仕組みをか、自分たちをか。

 具体的なイメージなんてない。

 それでも、口に出してしまった。

「うわ」

 空が、素で驚いた顔をした。

「さらっとすごいこと言ったね、今」

「言ったあとでヤバいなって思ってる」

「でも、嫌いじゃない」

 空は、うつむいて笑った。

「そういう無茶なこと言ってくれる人、私、ずっと待ってたのかもしれない」

「お前、そういうことさらっと言うなって」

 顔が熱くなるのをごまかすために、川の方を向く。

 夕焼けが、少しずつ夜に溶けていく。

 空は、少し間を置いてから、ぽつりと言った。

「じゃあ」

「ん?」

「黒江くんが死なない限り、私も勝手に死なないようにする」

「……それ、かなり重いこと言ってる自覚あるか」

「あるよ」

 空は、真っ直ぐな目でこちらを見る。

「だから、ちゃんと責任取ってね」

「誰に言ってんだよ」

 でも、その「重さ」が、ほんの少しだけ心地よかった。

 自分一人の命じゃない。

 誰かの命を、勝手に背負い込んでいる。

 それを「重い」と思いながら、「悪くない」と思ってしまう自分がいる。

「わがままコンビ、だね」

 空が、川面に映る夕焼けを見ながら呟いた。

「死に場所を選びたい私と」

「それを全力で邪魔する俺」

「管理局からしたら、一番タチ悪い」

「知るかよ」

 俺たちは、同時に笑った。

 夕日が完全に沈むまで、ベンチの上で並んで座っていた。

 頭上には、それぞれ別のフラグが浮かんでいる。

【自殺・今週中・七〇%】と。

【選択を迫られる・近いうちに・九〇%】と。

 でも今は、その数字のことを、少しだけ忘れていた。



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