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死亡フラグが見える俺と、死にたがり優等生の放課後改変録
しげみち
第1話「死亡フラグが見える俺」
満員電車の中は、朝からもう疲れた空気でいっぱいだった。
吊り革にぶら下がる腕。スマホの光。くたびれたスーツ。うつむいたまま固まっているOL。車輪のきしむ音と、アナウンスの声と、ため息の合唱。
その、さらに上。
乗客たちの頭の、少し上の空間には、誰にも見えない「アイコン」が、いくつもふよふよと浮かんでいた。
【寝不足・風邪悪化・三〇%】
【遅刻・上司に説教・七五%】
【二日酔い・嘔吐・六〇%】
【痴漢冤罪・トラブル・五%】
赤や橙や黄色の、信号みたいな小さなマーク。文字と数字が並んだそれを、俺――黒江真澄は、ぼんやりと眺めながら、心の中でため息をつく。
今日も、よく見える。
嬉しくもなんともないけど。
視線を滑らせると、吊り革につかまったサラリーマンの頭上に、ひときわくっきりとしたアイコンが見えた。
【寝不足・風邪悪化・三〇%】
顔色は悪い。目の下にはくま。ネクタイはゆるんでいて、今にもその場に倒れそうだ。
けど、その確率は三〇%。
俺がなにかしたからって、劇的に変わるわけでもない。そもそも、寝不足かどうかなんて本人が一番わかっているはずだ。
だから、見なかったことにする。
それが、ここ数年で身につけた俺の癖だった。
目を閉じて、深呼吸をする。電車の揺れが、足の裏からじんじん伝わってくる。
それでも、瞼の裏には、別の光景が勝手に浮かんだ。
小学四年生の夏。あの日、あの交差点で見たアイコン。
【交通事故・致命傷・九〇%】
親友の頭の上で、真っ赤なマークが点滅していた。
あのとき、俺は――。
思い出しかけたところで、ガタン、と電車が大きく揺れた。アナウンスが駅名を告げる。ちょうど乗り換え駅に着いたらしい。
俺は慌てて目を開け、ドアの方に身体を向けた。
過去のことを考えるのは、やめろ。
考えたところで、なにも変わらない。
それに、あのとき何もできなかった罰は、もう十分すぎるほど受けている。毎晩、悪夢という形で。
ドアが開き、冷たい朝の空気が流れ込んでくる。人の波に押し出されるようにしてホームへ降りると、俺はいつものように、階段へと向かった。
駅の階段もまた、人でごった返している。
スーツ姿の人間が、我先にと駆け上がり、駆け下りていく。視界の端には、やっぱり小さなアイコンがいくつも見えた。
【転倒・擦り傷・一五%】
【階段でつまずく・恥・五〇%】
【スマホ落下・画面割れ・四〇%】
いちいち相手にしていたら、キリがない。だから俺は、基本的に、全部スルーする。
――はずだった。
上り階段の途中。俺の二、三段前を、よれよれのスーツを着た中年の男が、重そうなカバンを抱えて登っていく。
その頭上に、濃いオレンジ色のアイコンが浮かんでいた。
【転倒・骨折・八〇%】
思わず、足が止まる。
八〇%。
それは、俺の感覚的には、ほぼ確定に近い数字だ。
ああいうのは、だいたい「今この瞬間」に発動する。ここで放っておけば、この男は階段を踏み外して、ごろごろと転げ落ちていく。骨折。最悪、頭を打って、死ぬことだってある。
じゃあ、どうする。
知らないふりをして、通り過ぎるか。
それとも――。
男の足元が、ふらりと揺れた。その瞬間、俺の口は勝手に動いていた。
「すみません!」
自分でも驚くくらい、声が出た。
中年男がびくっと振り返る。
「え?」
「靴ひも、ほどけてますよ」
指差した先。黒い革靴のひもが、だらんとほどけていた。階段を上るたび、危なっかしく揺れている。
「あ、本当だ……。いやあ、危ないところだった。ありがとう」
男は慌てて階段の端に寄り、かがみ込んで靴ひもを結び直す。
その頭上で、アイコンが変化した。
【転倒・骨折・八〇%】が、ほろほろと崩れ落ち、
【軽い打撲・二〇%】
という小さなマークに変わる。それも数秒後には薄くなり、空気に溶けるみたいに消えていった。
ふう、と息を吐く。
「こういう小さいやつだけなら、まあ……」
小声でつぶやく。
これくらいは、いい。名前も知らない、顔だけの他人。俺が関わったところで、相手の人生に深く食い込むわけじゃない。
問題は――もっと大きいフラグだ。
誰かの「死」とか、「取り返しのつかない何か」とか。
そういうのに、また関わる勇気は、俺にはない。
階段を上りきり、改札を抜けて、学校まで歩く。通学路はいつも通り、制服姿の学生たちでにぎわっていた。
自転車で走り抜けるやつ。コンビニの袋をぶら下げて、パンを食べながら歩いているやつ。道端で友達と立ち話をしているやつ。
その頭上にも、もちろんアイコンは浮かんでいる。
【寝不足・授業中爆睡・八〇%】
【テスト赤点・要補習・六五%】
【告白・失敗・九〇%】
【部活中の捻挫・五〇%】
赤や黄色の、日常レベルのフラグたち。
俺は、それらを視界の端からそっと外すようにして、歩幅を早めた。
いちいち真面目に受け止めていたら、頭がおかしくなる。
もし俺が、見えるフラグを全部どうにかしようとしたら、この世界は「俺の責任」で埋め尽くされる。
そんなの、冗談じゃない。
十分ほど歩いて、ようやく学校が見えてきた。
県立・星ヶ丘高校。どこにでもある、普通の高校だ。
校門前には、いつも通り、人の渋滞ができていた。遅刻ギリギリのやつらと、友達を待って立ち話をしているやつらが混ざり合って、今日も騒がしい。
門の手前で立ち止まり、俺は一度だけ深呼吸をする。
ここから先は、俺の「日常」だ。
教室で、適当に友達と喋って、適当に授業を受けて、適当に部活……はしてないけど。適当に家に帰ってゲームして、寝る。
そういう、普通の一日。
フラグなんて、なければいいのに。
心の中でそう願いながら、俺は校門をくぐった。
◇
「真澄、おっそ。今日こそランク上げ手伝えよって言っただろ」
教室のドアを開けた瞬間、聞き慣れた声に呼び止められた。
声の主は、窓際の一番後ろの席に座っていた。金髪に近い茶髪をわしゃわしゃにセットした男――桐島蓮。
俺の数少ない「友人」と呼べる存在で、深夜まで一緒にゲームしている、悪友みたいなやつだ。
「いや、昨日はテスト勉強するって言ってただろ」
「したよ? してからやったよ、ゲーム」
「それ勉強になってるのか?」
「たぶん。たぶんっていうのが一番危ないやつだけどな!」
蓮は自分で言って、自分で笑う。能天気なやつだ。
その頭上には【テスト赤点・要補習・八五%】という、実にわかりやすいアイコンが浮かんでいた。
うん、知ってた。
こいつに関しては、もはや「仕様」だと思っている。
俺は自分の席に鞄を置きながら、別の声に呼ばれた。
「おはよ、黒江。昨日のクラン戦、ログインしてなかったけど、大丈夫か?」
「大丈夫だよ、山上。さすがに毎日は無理」
黒縁メガネの山上は、俺たちと同じオンラインゲームのメンバーだ。彼の頭上には【夜更かし・眠気・六〇%】と【新キャラガチャ・爆死・七〇%】が二つ並んでいた。
後者は、もはや俺の知ったことじゃない。
教室を見渡すと、他のクラスメイトたちも、いつも通りの顔ぶれで、いつも通りの騒がしさだった。
窓際で髪を巻きなおしているギャル。ノートを開いたまま、ぼーっと外を見ている男子。弁当箱を机に出している大食いキャラ。女子たちの笑い声。
その頭上に浮かぶアイコンは、どれも「日常」の範囲内だ。
寝不足。忘れ物。告白失敗。部活の怪我。先生に怒られる。テスト。
このくらいなら、放っておいてもいい。
いや、放っておくべきだ。
俺が視線を意図的に窓の外にそらしていると、チャイムが鳴った。ざわめきが少しだけ収まり、ホームルームの時間が始まる。
前の扉から、担任の若林が入ってきた。若い体育教師で、ジャージ姿がデフォルトの男だ。
「おーい、席につけー。ホームルーム始めるぞー」
だるそうに言いながら、出欠を取る。いつもの流れ――のはずだった。
けれど今日の若林は、出欠の途中で一度咳払いをして、教室を見回した。
「それと。今日はみんなに一つ、紹介したい人がいる」
クラスに小さなざわめきが走る。
「紹介? なに」
「まさか新しい彼女か、若林の」
「それはやめてくれ」
男子どもが適当なことを言って笑う。若林は苦笑しながら、教室のドアの方に向き直った。
「転校生だ。入ってこい」
その一言で、空気が変わった。
扉が開く。廊下から、ひとりの女子生徒が入ってきた。
長い黒髪が、さらりと揺れる。真っ直ぐな背筋。制服の着こなしはきっちりしていて、だらしなさがない。
顔立ちは、整っていた。
大きすぎない目。すっと通った鼻筋。淡い色の唇。全体的に派手ではないのに、ひと目で印象に残る。
そして何より、その雰囲気。
落ち着いていて、余裕があって、どこか他人に距離を取っているような――。
廊下側の最前列まで歩いてきた彼女は、黒板の方に向き直り、ぺこりと頭を下げた。
「天城空です。父の仕事の都合で、この町に戻ってきました。これから、よろしくお願いします」
声も、きれいだった。
澄んでいて、よく通るけど、やわらかい。
その一言だけで、教室の空気は一瞬にして持っていかれた。
「天城って……」
「名字からして強そう」
「さっきの声、めっちゃよくない?」
男子どもの小さな歓声。女子たちの、好意と興味が入り混じった視線。
転校生無双。テンプレイベント、発動。
俺は心の中で、やや冷めたツッコミを入れる。
いかにも「完璧ヒロイン」って感じだな。
見た目よし。声よし。雰囲気よし。名前からしてヒロイン枠。
漫画だったら、たぶん表紙を飾るタイプだ。
俺のようなモブには、一生縁のない世界。
そう思って、なんとなく、その頭上を見た。
その瞬間。
心臓が、どくん、と嫌な音を立てた。
天城空の頭の上には、アイコンが一つだけ浮かんでいた。
一つだけ。よく見る、日常レベルのマークはひとつもない。寝不足も、テストも、告白も、何もない。
代わりに、そこにあったのは――。
【自殺・今週中・一〇〇%】
真っ黒なフラグ。
周囲の柔らかい色合いとは明らかに違う、漆黒のマークが、赤いゲージを振り切った状態で、静かに光っていた。
ごくり、と喉が鳴る。
一〇〇%。
今週中。
視界の端の、他のクラスメイトたちの頭上にもアイコンは見える。けれど、それらは一斉に、色あせていく。
【居眠り・先生に怒られる・七〇%】も、
【体育で転ぶ・恥・六〇%】も、
【友達とケンカ・四五%】も。
まるで、誰かが意図的に「フェードアウト」のボタンを押したみたいに、すうっと薄くなり、やがて見えなくなる。
それに対して、天城空の頭上のフラグだけは、むしろ鮮明さを増していく。
黒が濃くなり、赤いゲージがぎらぎらと点滅し始める。
目をそらそうとしても、視界の中心から動いてくれない。
頭の奥が、じん、と痛む。
これは、おかしい。
今までだって、「自殺」フラグを見たことがないわけじゃない。テストで大失敗した生徒や、部活で大きな挫折をしたやつの頭上に、一瞬だけ、そういうアイコンが浮かぶことはあった。
けど、どれもせいぜい一〇%とか二〇%。高くても三〇%止まりだった。
しかも、気づくとすぐに減っていった。
「死にたい」と口にしたところで、本気で死にたいわけじゃない。
そういう、揺れる感情の一つとしてのフラグ。
でも、これは違う。
今週中。一〇〇%。
それは、つまり――。
絶対に、死ぬ。
この一週間のどこかで、天城空は、自分で自分の命を終わらせる。
そういう「未来」が、確定している。
「……黒江?」
隣の席から、蓮の声がした。
「顔、真っ青だけど。大丈夫か?」
「あ、ああ……」
俺は慌てて視線を伏せた。アイコンが視界から外れた途端、頭の痛みが少しだけ和らぐ。
心臓の鼓動だけが、まだ早い。
「ちょっと、寝不足」
「また夜更かししたのかよ。ほら見ろ、山上。俺らと同じじゃん」
「いや、黒江は成績いいから。同じ扱いはちょっと」
「そこは同じ扱いしろよ」
蓮と山上が適当なことを言って笑っているのが、遠くに聞こえた。
ホームルームは、何事もなかったかのように進む。
天城空は、指定された席――前から二列目の窓際――に座り、女の子たちに囲まれて、さっそく自己紹介タイムに突入していた。
どこの中学だったの、とか、趣味は、とか、好きなアニメは、とか。
笑い声。はしゃぐ声。
その輪の中心で、彼女は完璧な笑顔を浮かべている。
その頭上に、真っ黒なフラグを乗せたまま。
◇
その日の授業は、正直、ほとんど頭に入らなかった。
教科書を開き、ノートを取るふりをしながら、俺は何度も前の席と、その上の空間を盗み見た。
フラグは――消えない。
授業中も、休み時間も、ずっとそこにある。
時々、赤いゲージがゆっくりと明滅する。
その瞬間だけ、心臓を握られたような圧迫感が襲ってきて、思わず視線をそらした。
「黒江、マジで大丈夫? さっきからずっと顔色悪いぞ」
「保健室、行ってきたら?」
昼休みには、蓮と山上に本気で心配されたけれど、その心配のアイコンは、二人とも【友人の体調・心配・五〇%】くらいだった。
俺は笑ってごまかした。
「ちょっと胃が痛いだけ。ほら、テスト近いし」
「それは俺たちの専売特許だから」
「お前は黙れ、蓮」
しょうもない会話。
けれど、そのしょうもなさに救われてもいた。
俺が普通に「モブ」として過ごせる場所。
何も見ないふりをしていれば、何も起こらずに終わる一日。
それを、壊したのは。
あの真っ黒なフラグだ。
天城空は、といえば。
昼休みも、女子たちに囲まれていた。
弁当を広げながら、転校前の学校の話や、この町の思い出話をしている。
「やっぱり、ここの空、きれいだね」
彼女がふと窓の外を見上げて、そう言った。
柔らかく微笑んだ横顔に、教室の何人かが一瞬、息を呑む。
その頭上。
【自殺・今週中・一〇〇%】
真っ黒なマークは、相変わらずだった。
笑っていても、周りに溶け込んでいても、まるで関係ない。
あのアイコンだけが、この世界で浮き上がっている。
俺は、スプーンを握る手に力を込めた。
関わるな。
心の中で、自分に命じる。
関われば、また後悔する。あのときみたいに。
友達だったからこそ、苦しかった。
助けられなかったのは、自分のせいだと、何年も自分を責めた。
だから、もう二度と――。
「黒江」
不意に、前の方から名前を呼ばれた。
顔を上げると、前の席の女子――ではなく、その隣に座っていた天城空と目が合った。
「えっと……黒江くん、だよね?」
「あ、うん」
「さっき、体育のノート見せてもらっていい?」
空は、はにかんだように笑った。
「転校前とカリキュラムが微妙に違ってて。この前の授業、けっこう抜けてるみたいで……」
その頭上。
【自殺・今週中・一〇〇%】
やめろ。
そういう普通の距離感で話しかけるな。
心の中で叫びながら、俺はうなずくしかなかった。
「……いいよ。後で、まとめて貸す」
「ありがとう。助かる」
天城空は本当に嬉しそうに微笑んで、ぺこりと頭を下げた。
笑っている。
死ぬ予定のある人間の顔には、見えない。
頭の奥に、ざらざらとした違和感だけが残った。
◇
そして、放課後。
チャイムが鳴り終わる。教室は、部活に行く生徒たちで一気にざわつき始めた。
蓮はサッカー部の集まりに、山上は図書室に寄ってから帰るらしい。
「じゃ、黒江。また夜、インしようぜ」
「今日こそランク上げ手伝ってもらうからな」
「今日は……ちょっと、わからない」
「おお、マジで体調悪そうだな。ムリすんなよ」
二人は手を振って教室を出ていく。
俺は席に座ったまま、しばらく動けずにいた。
窓の外の空は、夕方の色に変わりつつある。オレンジと青が混ざり合い、校庭に長い影を落としていた。
教室の中も、人が少なくなっていく。
がやがやとした声が、廊下の方へ遠ざかっていく。
その中で。
天城空が、一人で立ち上がった。
周りにいた女子たちと「また明日」と笑い合い、鞄を肩にかける。
ひとりで教室を出ていく、その背中。
その頭上で、真っ黒なフラグが、ちかちかと点滅した。
【自殺・今週中・一〇〇%】
赤いゲージが、また一段、濃くなった気がした。
鼓動が早くなる。
今、ここで席を立てば、追いかけられる距離だ。
追いかけて、何を言う?
「死なないでください」か?
そんなこと、言えるわけがない。
そもそも、俺が何か言ったところで、本当に未来が変わるのか。
さっきの中年男みたいな、小さなフラグなら、靴ひもを結ばせるだけで済んだ。
でも、これは。
命だ。
人の生き死にに、また踏み込むのか。
あの日みたいに、誰かを見送ることになるかもしれないのに。
胸の奥で、過去の光景がフラッシュバックする。
【交通事故・致命傷・九〇%】
親友の、笑っていた顔。
信号が青に変わる瞬間。走り出す足。
叫びかけた声。凍りついた喉。
痛々しい音。
赤い血の色。
あのとき、俺は何もできなかった。
見ていただけだった。
その罰は、今も続いている。
だから、これ以上――。
「関わるな」
小さく、つぶやく。
椅子に沈み込むみたいに、背中をもたれさせる。
見なかったことにしろ。
今ここで立ち上がらなければ、何も始まらない。何も変わらない。
天城空は、予定通り「今週中」に死ぬのかもしれない。
けれど、そのとき俺は、またただの傍観者でいられる。
何も知らなかったことにできる。
知らなかった。見えなかった。気づかなかった。
そう言い訳できる。
教室の扉が、開いて。
閉まる。
足音が遠ざかっていく。
視界の端で、真っ黒なアイコンがちらつく。
ダメだ。
そんなふうに思っている自分が、一番ダメだ。
胸の奥から、何かがせり上がってくる。
悔しさ。怒り。情けなさ。
あの日、交差点の前で動けなかった自分と、今の自分が、重なる。
本当に、また同じことを繰り返すのか。
俺は、誰かが死ぬ未来を知ってしまっても、また目をそらすのか。
それとも――。
ガタッ、と椅子が鳴った。
気づいたときには、俺は立ち上がっていた。
我ながら、バカだと思う。
それでも、足は勝手に動いていた。
教室のドアに向かって、一歩、踏み出す。
視界の端で、真っ黒なフラグが、なおも点滅している。
【自殺・今週中・一〇〇%】
関わるな。
もう遅い。
でも――放っておけるかよ。
心の中でそう吐き捨てて、俺はドアノブに手をかけた。
第2話「死にたがり優等生」
翌朝、教室に入った瞬間、俺は思わずそっちを見てしまった。
窓際から二列目。昨日、転校生が座った席。
天城空は、もうそこにいた。
数人の女子に囲まれて、笑っている。昨日よりも輪が大きくなっている気がする。最後尾には、男子も混ざっていて、「昨日のドッジボールどうだった?」「元いた中学ってどこ?」とか、質問攻めにしていた。
ほんの一日で、クラスの中心にいる。
それ自体は、別に驚くことじゃない。あの見た目と雰囲気なら、むしろ当然だろう。
問題は――そこじゃない。
俺の視界にだけ、見えているもの。
空の頭の上。
【自殺・今週中・一〇〇%】
真っ黒なアイコンは、昨日と寸分違わず、そこに浮かんでいた。
ゲージは赤く振り切れたまま。点滅こそしていないが、存在感が異常だ。周りの「寝不足」だの「忘れ物」だのは、うっすら見えるか見えないかくらいなのに、空のそれだけは、むしろくっきりと輪郭が立っている。
……なんだよ、これ。
思わず、机に鞄を置く手に力が入った。
あれだけ、人に囲まれている。
楽しそうに笑って。呼び止められて。質問されて。頼られて。
俺から見れば、「こいつ、人生イージーモードだな」と嫌味のひとつも言いたくなるくらい、順調なスタートダッシュだ。
それなのに。
何が不満なんだよ。
苛立ちと、どうしようもない不安が、ごちゃごちゃに混ざった感情が胸の奥でもつれる。
自分でも、理不尽なのはわかっている。人がどう思っているかなんて、見た目だけじゃわからない。
わからない、からこそ。
頭の上の、真っ黒なマークだけが、すべてを支配してくる。
「おはよー、黒江」
後ろからぱん、と肩を叩かれた。振り向かなくてもわかる声だ。
「おはよう、蓮」
「なんだよ、朝から死んだ魚みたいな目して。……ああ、昨日の社会の小テスト、全然できなかったやつの顔だな?」
「まだ返ってきてないだろ、それ」
「俺の心にはもう赤点の紙が見えてるんだよ。ホラ、俺の頭の上にも、見えるだろ?」
半分冗談のつもりで言ってるんだろうけど。
見える。
【小テスト赤点・要居残り・九〇%】
わざわざ教えてやる義理はないので、黙っておく。
蓮は勝手に笑いながら、前の席の山上の肩も叩いた。
「おい、山上。お前はどうせ九十点くらい取って、先生に褒められるんだろ。ほんと、バランス悪ぃよな、このクラス」
「いや、まだわからないだろ……。でも、蓮よりは上だと思う」
「自信満々だな!」
二人のやり取りは、いつも通りだった。
その「いつも通り」が、今日はどこか遠く感じる。
視線は、どうしても前の方に引き寄せられる。
空は、笑っていた。
「え、ここの商店街って、まだ残ってるんだ。小さい頃、よく行ってたんだよね」
「マジで? あそこ、なんもなくない?」
「なくはないよ。駄菓子屋があってさ。十円ガムとか――」
女子たちの声に混じって、空の柔らかい声が聞こえる。
頭上には、変わらず【自殺・今週中・一〇〇%】。
担任の若林が入ってきて、ホームルームが始まった。
◇
その日、天城空は「完璧な優等生」としての実績を、順調に積み上げていった。
一時間目の数学。
若林が黒板に書いた応用問題に、クラスが一斉にうめき声を上げる。
「じゃあ……天城。やってみるか?」
「はい」
指された空は、少しも慌てずに立ち上がり、迷いなく前へ出る。
チョークを持つ手は滑らかで、途中で止まらない。式を整理し、必要な定理を書き、答えにたどり着くまで、ほとんど一分もかからなかった。
「正解」
若林が素直に感心したように言う。
「すげー」「ガチ優等生だわ」「塾どこ行ってんだろ」という囁きが教室に走る。
空は「よかった」と小さく微笑んで席に戻った。
その頭上。
【自殺・今週中・一〇〇%】
やっぱり、微動だにしない。
二時間目の国語では、教師の質問に、教科書の内容を踏まえた模範解答を返し。
三時間目の英語では、長文問題を一人でスラスラ読み上げ。
体育のバスケットボールでは、初めてのはずのチームにすぐ溶け込んで、無駄のないパスと綺麗なシュートを決めた。
「天城さん、運動もできるんだな」
「かっけえ……」
男子の視線も、完全に「ヒロイン枠」として認識している。
教師たちの印象も上々だ。
「転校してきていきなりこれはすごいな」
「前の学校でも優秀だったんじゃないか?」
そんな声が、廊下からちらっと聞こえてくる。
それなのに、だ。
何をどう積み上げようと、フラグは変わらない。
【自殺・今週中・一〇〇%】
数字も、文字も、そのまま。
俺がどれだけ授業に集中しようとしても、時々、視界の端で黒いマークがちらつく。
そのたびに、胸の中の落ち着かなさが増していく。
お前、本当に――死ぬつもりなのか。
◇
昼休み。
チャイムが鳴ると同時に、教室は一気に騒がしくなった。
弁当箱を広げる音。パンの袋を破る音。机をくっつける音。
空の周りには、やっぱり人だかりができていた。女子たちが、興味津々といった様子で質問を投げかける。
「空さんって、どこの中学から来たの?」
「ここに来る前、どこ住んでたの?」
「制服、前のところと違うよね。かわいい」
空は穏やかに笑いながら、ひとつひとつに答えていく。
「前は、隣の県の市立中学だよ。名前、言ってもわかんないと思うけど」
「えー、言ってみてよ」
「ふふ、内緒」
冗談めかして濁す。
「じゃあ、なんでこっちに引っ越してきたの?」
核心に少し踏み込む質問。
空は、そのとき、ほんの一瞬だけ言葉を切った。
「……ちょっと、家の事情で」
それだけ言って、また笑う。
「こっちの方が、空がきれいだから。前から、戻ってきたいなって思ってたんだ」
笑顔は完璧だった。
けれど、その笑顔の裏側に、薄い影が差すのを、俺は見た気がした。
言葉を選ぶ一瞬の間。視線が少しだけ落ちる角度。その小さなズレが、妙に気になる。
頭上のアイコンは、当然のように変わらない。
【自殺・今週中・一〇〇%】
俺は自分の弁当を広げかけて、手を止めた。
教室の喧騒が、今日はやけに耳障りだ。
笑い声。はしゃぎ声。机のガタガタいう音。
全部まとめて、俺の中のどこかを逆なでする。
「……ちょっと、行ってくる」
弁当を持って立ち上がると、隣の蓮が首をかしげた。
「どこ行くんだよ」
「図書室。静かなとこで、食べたい」
「おっ、真面目キャラ発動?」
「そういうんじゃない」
適当に返事をして、教室を出た。
扉を閉めた瞬間、音の圧が一気に弱まる。
廊下のひんやりした空気が、火照った頭を冷ましてくれる気がした。
◇
図書室は、昼休みでも人が少ない。
数人の生徒がまばらに座って、本を読んだり、調べ物をしたりしているだけだ。
静かで、空調の音とページをめくる音だけが聞こえる空間。
俺はいつものように、窓際の隅の席に向かった――その途中で、足が止まった。
窓際の席の一つ。見慣れない姿が、そこにあったからだ。
天城空が、ひとりで座っていた。
制服の襟元を指でつまみながら、本を開いて読んでいる。
昼休み、教室の中心で笑っていたはずの彼女が。
ここでは、誰にも囲まれず、静かにページをめくっている。
そのギャップに、一瞬だけ目を奪われた。
頭上のアイコンは――やっぱり、俺にしか見えないくせに、はっきりと浮かんでいる。
【自殺・今週中・一〇〇%】
……なんで、ここにいるんだよ。
教室にいた方が、よっぽど楽しいだろうに。
図書室の静けさに、自分の心臓の音がやけに大きく感じる。
声をかけるべきか。
やめるべきか。
「関わらない」という俺のルールが、頭の中で警報を鳴らす。
ここで話しかけたら、その時点で「他人」じゃなくなる。絵に描いたようなクラスのマドンナと、モブの接点ができる。
それはつまり、また誰かの人生に、足を突っ込むってことだ。
その瞬間――。
アイコンが、変わった。
空の頭上で、黒いフラグが一瞬だけ強く点滅する。
【自殺・今週中・一〇〇%】
その下に、小さな文字が、追加された。
【今日・夜・自殺場所候補・屋上】
心臓が、跳ねた。
今日。
夜。
屋上。
具体的な単語が並んでいる。今まで、こんなふうに詳しい情報が出てきたことはなかった。
頭の奥が、じわりと冷たくなる。
今日、もう動く気なんだ。
屋上から。
さっきまでの「今週中」という、どこか他人事な響きが、一気に「今夜」に縮む。
現実が、急に近くなった。
足を引き返そうとした俺の身体は、その場に固まった。
逃げるのか。
今、ここで見なかったことにするのか。
それをした結果がどうなるか――もう、目に見えているのに。
喉がからからに乾く。弁当箱を握る指に力が入りすぎて、袋がくしゃ、と音を立てた。
その音に気づいたのか、空が顔を上げた。
目が合う。
黒目がちの瞳が、まっすぐこっちを見ていた。
逃げ場は、なくなった。
「……あの、天城」
気づけば、呼びかけていた。
空は、ほんの瞬きの後、柔らかく微笑んだ。
「黒江くん、だっけ?」
「う、ああ。そう」
「やっぱり」
「やっぱり」と――?
「さっきから気にしてくれてたよね」
核心を突くような言葉。
図書室に入ってからの数十秒間、自分がどれだけ挙動不審だったかを思い知らされる。
「い、いや。別に。……図書室、よく来るから」
「あ、そうなんだ。静かでいいよね、ここ」
空はそう言って、向かい側の席をちらりと見た。
「もしよかったら、一緒に座る?」
「え」
「図書室でひとりだと、ちょっと寂しいし。黒江くん、静かそうだし」
静かそう、というのは、褒め言葉なのかどうか微妙なところだけど。
断る理由を探している間に、足は勝手に椅子を引いていた。
さっきといい、さっきといい。俺の身体は、ほんとに俺の言うことを聞かない。
向かいに座ると、空は持っていた本を閉じて表紙を見せてくれた。
「これ、読んでたんだ」
「……心理学?」
「うん。ちょっと興味があって」
人の心、ね。
それを読んでいる本人の頭の上に【自殺・今週中・一〇〇%】が浮かんでいるの、本当に悪い冗談だと思う。
「黒江くんは、普段なに読んでるの?」
「漫画。ゲームの攻略本」
「正直でよろしい」
空はくすっと笑った。
漫画とかゲームとか、バカにされるかと思ったけど、そんな気配はない。むしろ、本当に楽しそうに笑っている。
その笑顔を見ると、どこか胸のあたりがざわついた。
ラブコメの主人公じゃないので、「一目惚れしました」とかそんな感情が出てくるわけじゃない。
でも――。
この顔で、本気で死ぬこと考えてるって、どういうことなんだよ。
喉まで出かかった言葉を飲み込む。
代わりに、無難な話題を探した。
「……さっき、弁当食べてなかった?」
「うん。途中まで教室で食べてて、あとからこっち来た」
「教室の方がにぎやかで楽しくないか」
「楽しいよ」
空はあっさり認める。
「でも、ずっとあそこにいると、ちょっと疲れちゃうから」
「疲れる?」
「うん。ずっと誰かの視線を浴びてると、息が詰まる感じがして」
それを聞いて、少しだけ納得した自分がいた。
わかる、というほど、俺は人の視線を浴びたことはないけど。
なんとなく、その感覚はイメージできる。
「黒江くんは? なんで、ここ?」
「……逆。教室、うるさくて頭痛くなるから」
「ああ、同じだね。方向は違うけど」
空は楽しそうに言った。
俺の中では、「同じ」って言葉にちょっとした違和感があったけど、それをわざわざ口に出すほどコミュ力は高くない。
沈黙が少しだけ落ちる。
図書室の静けさが、その沈黙を必要以上に際立たせる。
その静けさを破ったのは、空の方だった。
「ねえ、黒江くん」
「なに」
「この学校ってさ。屋上には、入れるの?」
ぴたり、と時間が止まった気がした。
屋上。
さっき見たばかりの文字が、頭の中で真っ赤に点滅する。
【今日・夜・自殺場所候補・屋上】
心臓が、ドクン、と跳ねる。
なんで、今、その話題。
「えっと……」
言葉が喉で引っかかる。
嘘をつくか。本当のことを言うか。
「立ち入り禁止。入れない」と言えば、もしかしたら、フラグが弱まるかもしれない。
でも、完全な嘘でもないけど、完全な本当でもない。
だって――。
「立ち入り禁止だけど……」
口が勝手に動いた。
「たまに、開いてるときがある」
文化祭の準備だとか、先生が鍵の閉め忘れだとか。そういうタイミングで、屋上の扉が開いている日が、ごくたまにある。
そういう日には、数人の「好奇心旺盛なやつら」がこっそり入り込んで、空の写真を撮ったりしている。
俺も、一度だけ、連れて行かれたことがある。
その記憶が、勝手に口を滑らせた。
「ふーん」
空は窓の外を見た。
淡い光が横顔を照らす。
「やっぱり、空、きれいなんだろうな」
「ここからでも十分きれいだろ」
「屋上からの方が、もっときれいだよ」
当たり前みたいに言う。
その頭上で、黒いアイコンが、わずかに明滅した。
ぞわっと、背筋を冷たいものが走る。
「黒江くんは、行ったことある?」
「……一回だけ」
「いいな」
空は、少し羨ましそうに笑った。
その笑顔が、夕焼けみたいにきれいで。
だからこそ、その上に浮かぶ【自殺・今週中・一〇〇%】が、悪趣味すぎて、吐き気がした。
図書室の時計が、昼休みの終わりを告げる。
「そろそろ戻ろっか」
「ああ」
俺たちはそれぞれ弁当を片付け、席を立った。
廊下に出たときには、もう何も言えなかった。
「屋上」って言葉が、頭の中で何度もリピートされるだけだった。
◇
放課後。
チャイムが鳴る。今日の授業が全部終わったという解放感が、教室中に広がる。
部活に行く生徒がばたばたと席を立ち、帰宅組が鞄をまとめる。
蓮は、サッカー部のジャージに着替えながら、「今日こそシュート決めてくるわ」と意味不明な宣言をしていた。
「黒江、帰りどうする? 一緒に途中まで――」
「ごめん。今日は先に帰る」
「お、おう? なんか急ぎ?」
「ちょっと、な」
曖昧に返事をして、鞄を肩にかける。
ふと前を見ると、天城空の席が、ぽっかりと空いていた。
さっきまで、そこにいたはずなのに。
周りの女子たちの姿も見えない。
トイレか、職員室か。そういう可能性はいくらでもある。
ある、けれど。
胸の奥に、嫌な予感が、重く沈んだ。
窓の方を見る。
夕方の光が差し込むガラス越しに、校舎の上が、少しだけ見える。
その端っこ。
フェンスの内側に、人影がちらりと動くのが見えた。
誰かが立っている。
この時間に、あんなところにいるのは、本来、おかしい。
頭の中に、アイコンが浮かぶ。
【自殺・今週中・一〇〇%】
その下に、新しい表示が追加された。
【発動まで残り一〇分】
赤いゲージが、今までよりも速いリズムで点滅を始める。
呼吸が浅くなる。
残り、一〇分。
あと十分で――。
ここで、選択肢が二つに割れる。
一つ。見なかったことにして、家に帰る。
もう一つ。あの悪趣味な未来に、殴り込みをかけに行く。
「関係ない」
つぶやく。
「俺には、関係ない」
これは、俺の人生じゃない。俺が責任を持つ必要なんてない。
天城空が何を考えていて、どうなろうと、俺には関係ない。
そう言い聞かせる。
それなのに。
足は、勝手に教室を飛び出していた。
廊下を走る。階段へ向かって、駆け上がる。
息が切れる。心臓が爆音みたいに鳴る。
頭の奥で、別の映像がフラッシュバックする。
【交通事故・致命傷・九〇%】
あの交差点。青に変わった信号。走り出す足。
伸ばせなかった手。
出なかった声。
倒れる姿。血の色。
あの日の「動けなかった自分」が、背中を殴ってくる。
同じこと、繰り返すのか。
あれから何年も経って、何も変わってないままなのか。
階段を二段飛ばしで上る。足が笑い始めても、止まれない。
屋上へ続く最後の階段にたどり着いたとき、肺はもう炎を吐いているみたいだった。
屋上の扉の前。
本来なら、頑丈な鍵がかかっているはずの場所。
銀色の南京錠は――ぶらりとだらしなく垂れ下がっていた。
かかっていない。
今日は、開いている。
「ふざけんなよ……」
誰に向けた言葉か、自分でもわからない。
先生か。鍵を閉め忘れた誰かか。
それとも、「今日・夜・屋上」とかいうふざけたフラグを見せてきた、この世界か。
ドアノブを握る手が震える。
深呼吸を一度だけして、そっと扉を押し開けた。
◇
夕焼けの光が、一気に視界を染める。
屋上は、俺が一度だけ来たときと同じだった。
四方を高いフェンスが囲み、その向こうに町の景色が広がっている。
赤く染まった空。オレンジと紫のグラデーション。遠くで鳴る車の音と、かすかな風の音。
フェンスのそばに、人影がひとつ。
天城空が、そこに立っていた。
フェンスに背を預けるでもなく、近づきすぎるでもなく。ちょうど「一歩手前」といった位置で、空を見上げている。
長い髪が、風に揺れる。制服のスカートが、ひらりと翻る。
横顔は、穏やかだった。
「……いい景色だね」
空は、誰に言うでもなくつぶやいた。
その頭上。
【自殺・今週中・一〇〇%】
【発動まで残り三分】
赤いゲージが、激しく点滅している。
見ているだけで、胸が締め付けられる。
足音を殺して近づくとか、そういう冷静なことを考える余裕は、もうなかった。
「お前、何してんだよ!」
ほとんど反射的に、声が出た。
屋上の静けさを破る大声に、空がびくっと肩を震わせる。
ゆっくりと振り向いたその顔は、夕焼けの光を受けて、少しだけ赤く染まっていた。
「……黒江くん?」
首をかしげるように、俺の名前を呼ぶ。
風が吹く。
髪が揺れる。
屋上のフェンス越しに見える空は、今日も、やけにきれいだった。
第3話「放課後フラグ改変クラブ、始動」
屋上の風は、思ったより冷たかった。
夕焼けに染まった空の下で、天城空はフェンスのそばに立っていた。スカートの裾が、風に揺れる。横顔は穏やかで、さっきの一言が嘘みたいに落ち着いている。
その頭の上で。
【自殺・今週中・一〇〇%】
【発動まで残り三分】
真っ黒なフラグが、赤いゲージを激しく点滅させていた。
俺は、息を吸うことも忘れて、ただ立ち尽くしていた。
「……黒江くん?」
空が、首をかしげる。
その一瞬の隙に、足が勝手に動いた。
気づいたら、俺は空との距離を一気に詰めていた。フェンスに伸びかけていた彼女の手首を、力いっぱいつかんで引き戻す。
「うわっ」
空の身体が、俺の方へよろめいた。細い肩が胸に当たって、思っていたよりも軽い衝撃が伝わる。
俺はそのまま、彼女を自分とフェンスのあいだに押し込んだ。
「ふざけんなよ」
喉の奥から、勝手に声が出た。
「死ぬ気か!」
屋上に、怒鳴り声が響いた。風が、その残響をさらっていく。
空は、ポカンとした顔で俺を見上げていた。
間近で見ると、やっぱり整った顔だなとか、場違いなことがよぎる。でもそのすぐ後で、猛烈な自己嫌悪が押し寄せた。
なに考えてんだ、俺。
「ああ、ごめん」
空は、意外なほどあっさりと言った。
「今飛び降りるつもりはなかったよ」
「……は?」
思わず間抜けな声が出る。
「ちょっと、風に当たってただけ」
「風に当たる場所じゃねえだろ、ここは」
フェンス越しの、地面までの高さを一瞬イメージして、ぞっとする。
いくら「まだ飛び降りないつもり」だろうと、その気になれば一歩で届く距離だ。さっきも、フェンスに手を伸ばしていたし。
信じろって方が無理だ。
苛立ちと恐怖で頭が熱くなって、口が滑った。
「頭の上に自殺のフラグ立てといて、何言ってんだよ」
言った瞬間、自分で「はっ」と息を呑んだ。
しまった。
やった。
完全にアウトなやつだ、これ。
普通は見えないはずのものを、普通に口にした。
こいつがなんのことかわからない顔をしたら、「なに言ってるの?」って顔をされたら、言い訳のしようがない。
冷や汗が、背中をつっと流れた。
空は、一瞬だけ目を見開いた。
夕焼け色の光を映した瞳が、俺をまっすぐ射抜く。
数秒の沈黙。
風の音だけが聞こえた。
「やっぱり」
ふっと、空の口元に笑みが浮かんだ。
「見えるんだ。黒江くんにも」
「……やっぱり?」
「うん」
空は少しだけ俺から離れて、片手を自分の頭の上に伸ばした。
何もない空間を、指先でそっとなぞる。
その瞬間、俺の視界の中で、黒いフラグが揺らめいた。
【自殺・今週中・一〇〇%】
だった表示が、ふっとノイズが走るみたいに揺れ、
【自殺・今週中・八〇%】
に、変わった。
「……え?」
思わず、声が漏れる。
ゲージも、さっきまで振り切れていた赤が、わずかに薄くなっている。さっきの「残り三分」の表示も消えていた。
代わりに、ただ「今週中」とだけ。
ここが屋上じゃないみたいに、急に現実感が遠のいた。
「本当に、見えてるんだね」
空は、俺の反応を確認するように言う。
「数字も? 文字も?」
「あ……ああ。見える。今、お前の自殺フラグ、少し下がった」
「よかった」
空は、ほっとしたように息をついた。
「じゃないと、ここまで引っ張ってきた意味がないからね」
「意味?」
「うん」
空はフェンスから一歩離れ、くるりと振り向いて俺と向かい合った。
夕焼けを背にしたシルエットが、どこか非現実的で。アニメの一場面みたいだと思ってしまう自分がいた。
「さっき、図書室で思ったんだ。黒江くん、きっと“知ってる”んだろうなって」
「何を」
「フラグのこと」
空は短く答える。
「だって、視線がそうだった」
「……視線でわかるかよ」
「わかるよ。あれは、『知らないふりをしようとしてる人の目』」
静かな声だった。
責めるでもなく、茶化すでもなく。
ただ、事実を告げるみたいな。
「で、正解。私は自分のフラグ、見えてるよ」
「自分の……?」
「うん。ちょっとだけね。自分のと、近くの人のと。それと……」
空は、さっきと同じように指先で空をなぞった。
「少しだけなら、いじれる」
さらっと、とんでもないことを口にする。
「いじるって、さっきみたいにパーセンテージを下げたり?」
「そう。でも、完全には消せない」
空は小さく首を振った。
「タイミングをずらしたり、内容を変えたり。『交通事故・死亡』を『骨折』にするとか、『今日』を『来週』にするとか。そういうのは、ある程度なら」
「ある程度って……」
「今の私だと、『自殺・今週中・一〇〇%』を『自殺・今週中・ゼロ%』にするのは無理。でも、八〇%にすることはできる」
それを聞いて、さっきの数字の変化に納得がいった。
ただ同時に、ぞっともした。
「自分で、自分の自殺フラグ下げてんのかよ」
「うん。あんまり、バッドなタイミングで死にたくないから」
冗談っぽく笑うけれど、その目の奥は笑っていない。
軽口の皮をかぶった、本気の諦めが見え隠れする。
「……お前、ほんとに死ぬ気なのか」
「さあ。どうだろうね」
空は、曖昧に笑ってごまかした。
自分の死を、テストの点数みたいな口調で話さないでほしい。
胸のあたりが、妙に苦しくなる。
「黒江くんの能力は?」
空が話題を切り替える。
「私のは、あくまで“いじる”方。もともとの“見つける”のは、たぶんそっちが得意そう」
「得意もなにも……勝手に見えるだけだ」
俺はフェンスのそばまで歩いて、町を見下ろした。
視界に入る人間すべての頭の上に、小さなアイコンが浮かぶ。
【宿題忘れ・説教・六〇%】
【自転車で転倒・擦り傷・四五%】
【スマホ水没・出費増・三〇%】
日常レベルのものは、こんな感じだ。
「小学生のときからだよ。ずっと見えてる」
「ずっと?」
「最初は、ゲームのステータス画面みたいで面白いなって思ってた。『あ、あいつ今からコケる』とか、『あいつバレンタイン失敗するな』とか、心の中で当てて遊んでた」
「性格悪いね」
「うるさい」
空がくすくす笑う。
妙に素直にツッコミが入って、少しだけ緊張がほぐれた。
「でも、小四の夏に……親友の頭の上に、【交通事故・致命傷・九〇%】って出て」
口にした瞬間、喉がきゅっと縮む。
あのときの光景が、鮮明にフラッシュバックする。
「信号が青に変わる瞬間だった。走り出す前。俺はわかってたのに……何も言えなかった」
「怖かった?」
「怖かった。『間違ってたらどうしよう』って思った。『変なこと言って、笑われたら嫌だな』って。……そんなこと考えてる間に、もう遅くて」
殴られるみたいな音。血の色。人の叫び。
あの日から、何年経ったのか。
数えたくもない。
「それから、フラグが見えるのが怖くなった。全部俺のせいみたいで」
誰かのアクシデントに、自分の責任が紐づいてくる感覚。
見えなければ気づかなかったはずの未来を、見てしまったせいで、全部「自分が止められたかもしれないこと」になる。
「だから、見ないようにしてた。小さいのは放っておいて、大きいのだけ……さっきの階段のやつみたいに、たまに口出すくらいで」
「それでも、見捨てきれないんだ」
空が、静かに言った。
「優しいね」
「優しいんじゃない。ビビってるだけだ」
言葉が荒くなる。
「また誰かが死ぬの見たくないだけだよ。もう二度と、関わりたくない」
本音が、ぽろっとこぼれた。
能力そのものが嫌いだ。これさえなければ、もっと気楽に生きられたはずだと、何度も思った。
フラグなんて見えない人間が、心底、羨ましい。
空は、しばらく黙っていた。
風の音と、遠くの車の音だけが聞こえる。
「……私もね」
やがて、ぽつりと言う。
「一回、すごく後悔したことがあるよ」
「後悔?」
「うん。詳しくは、まだ言わない」
空は苦笑した。
「泣いちゃいそうだから」
その言い方が、妙に冗談っぽくて。逆に本気なんだとわかる。
「でも、多分ね。黒江くんと同じ」
空は、指先で自分の胸元を軽く押さえた。
「『あのとき、こうしていれば』って。『あの人のフラグを、こういじっていれば』って。ずっと考え続けちゃうやつ」
「……」
「だから、決めたんだ」
空の声色が、少しだけ硬くなる。
「私は、なるべく多くの人を“マシな死に方”に変えたい」
「マシな、死に方」
「うん」
穏やかな顔で、とんでもないことを言う。
「人ってさ。どんなに頑張っても、いつかは死ぬじゃない?」
「それは、まあ」
「全部の死を止めることは、きっとできない。運命とか、流れとか、そういうのがあるのかもしれないし。私ひとりの力じゃ、どうにもならないことも、たくさんある」
風が、空の言葉を運ぶ。
「でも、『もっと最悪な形』だけは、少しマシに変えられるかもしれない。『一人で苦しんで死ぬ』のを、『誰かに看取られて死ぬ』に変えるとか。『あと三日で死ぬ』のを、『あと一年生きられる』に変えるとか」
「……発想が、ずいぶん現実的だな」
「そう?」
「普通、『みんなを救いたい』とか言うだろ、そういうとき」
「みんなは救えないよ」
空はあっさりと言った。
「だからせめて、『最悪よりはマシ』にする。そういう小さな改変を、積み重ねたい」
「それで、お前の自殺フラグは八〇%なんだな」
「そういうこと」
自分の死に方すら、「マシなもの」の範囲に入れているのかと思うと、どこからツッコんでいいかわからない。
でも、その覚悟の仕方には、なんとなく納得もしてしまった。
世界の全部を救うヒーローにはなれない。
けど、この世界のどこかで、誰かひとりくらいなら――。
「ねえ、黒江くん」
空が一歩近づいてきた。
距離が縮まる。夕焼け色の瞳が、俺をまっすぐ見上げる。
「放課後、少しだけ人助けしない?」
「……は?」
「あなたがフラグを見つけて、私がちょっとだけ手助けする」
空は、自分の胸に手を当てた。
「二人なら、一人でやるよりうまくいくよ」
「なにそれ。ヒーローごっこみたいな」
「ごっこじゃないよ」
空の声が、少しだけ強くなる。
「これは、現実」
その一言に、さっきまでの柔らかさとは別の硬さが混じっていた。
「私ね、一回、本当にどうしようもない終わりを見たんだ」
「……」
「そのとき、私はフラグをいじるのが怖くて。結果、何もできなかった」
言葉の端々が、微妙に震えている。
なにがあったのか、具体的にはわからない。
でも、俺の「交通事故」と同じくらい深く刺さっているのは、伝わってきた。
「だから、もう嫌なんだ。わかってて何もしないの」
空は、ぎゅっと拳を握りしめた。
「やれることをやって、それでダメなら、まだ諦めがつく。でも、やれるかどうか試す前から諦めるのは、もうたくさん」
その言葉に、胸の奥をつつかれた感じがした。
やれることをやらなかった、あの日の自分。
その結果、何年も「もしあのとき」が頭から離れない自分。
誰かの言葉で、そこを真っ正面から突かれるとは思っていなかった。
「……それで俺を巻き込むの、やめてくれないか」
精一杯の反抗として、そう返す。
「俺だって、怖いんだよ。また誰かが死ぬの見たくないし、もし助けられなかったら、一生引きずる」
「だったらなおさら」
空は一歩も引かなかった。
「一人で抱えるより、二人で分けた方が、マシでしょ?」
「そんな簡単な話じゃ――」
そこまで言いかけたときだ。
視界の端に、ギラリと赤い光が走った。
校庭の方。
視線を向けると、グラウンド脇の通路を歩いている男子生徒の頭上に、鮮明なアイコンが浮かんでいた。
【落下物・重傷・九〇%】
見覚えのない顔。たぶん一年か二年の後輩だろう。肩に部活のバッグをかけて、のんきに歩いている。
そのすぐ横には、「立ち入り禁止」と書かれた看板と、簡易フェンス。向こう側には工事中らしき足場が組まれている。
足場の一番上に置かれた工具箱が、風に揺れた。
嫌な予感しかしない。
「空」
短く名前を呼ぶと、空はすでにフェンスの隙間から身を乗り出して、下を見ていた。
「見えた?」
「ああ、九〇%だ」
「こっちから、どうにかできるかな……」
空は周囲を見回し、すぐに校舎の脇に立っているスーツ姿の人影に目を止めた。
「あ、実習の先生。あの人、工事の人と話してたよね」
そういえば、さっき職員室前で見かけた気がする。教育実習中の若い男の先生だ。
「ちょっと走ろう」
「は?」
「放課後フラグ改変クラブ、記念すべき一件目」
勝手に変な名前をつけるな。
ツッコミを入れる暇もなく、空はくるりと踵を返し、屋上の扉に向かって駆け出した。
「おい、待てって!」
仕方なく、俺もその後を追う。
◇
階段を一気に駆け下りる。さっきまで上ってきた分を、今度は逆方向に。
息はとっくに上がっているし、足もガクガクだ。でも、足を止めるわけにはいかない。
廊下を走るのは本当はよくないけれど、そんなこと言っていられる状況でもない。
「空、どこ行くつもりだよ」
「校庭へ続く渡り廊下のところ。実習の先生、よくあそこにいるから」
空は振り返りもせずに答える。
俺は頭の中で、さっき見た配置を必死に思い出した。
工事現場の足場。通路を歩く後輩。立ち入り禁止の看板。
あの工具箱が落ちるまで、どれくらいかかるのかはわからない。
ただ、一つだけわかっているのは――。
ここで立ち止まれば、たぶん後悔するってことだ。
渡り廊下の角を曲がったところで、スーツ姿の男が見えた。
若い。眼鏡。たぶん二十代前半。手に持ったバインダーを見ながら歩いている。
「あの、先生!」
空が、息を切らしながら呼びかけた。
「え?」
実習の先生が顔を上げる。驚いたように目を丸くした。
「どうしたの、天城さん……と、黒江くん?」
名前を覚えられているのが、妙なところでダメージだ。
「先生、あっちの通路、工事してますよね」
空は一気にまくし立てた。
「今、後輩がその下を通ろうとしてて……工具箱とか落ちたら危ないから、遠回りするように言ってもらえませんか?」
「え?」
唐突な指摘に、先生は一瞬戸惑っていた。
「でも、工事の人たちも気をつけてるだろうし……」
「風、強いですよね、今日」
空は、窓の外を指差す。
「さっきから、けっこう揺れてて。私、ちょっと怖いなって思ったんです」
その声音には、不思議な説得力があった。
不安を煽るわけでもなく、過剰に大げさにするわけでもなく。ただ、「気になったから」と素直に言っている感じ。
先生は数秒考えてから、バインダーを閉じた。
「……わかった。一応、見てくるよ」
そう言って、小走りで校庭の方へ向かっていく。
空と俺も、その後ろをこっそり追いかけた。
渡り廊下の窓から、校庭が見える。
さっきの後輩が、ちょうど工事中の足場の下に差しかかるところだった。
「おーい」
先生が手を振った。
「そこの君、ちょっと」
後輩が立ち止まって振り返る。
「はい?」
「その通路、今危ないから。こっち側の階段から回ってくれ」
「え、でもいつもこのルートで――」
「いいから。先生の言うことは聞きなさい」
先生は苦笑いしながらも、きっぱり言った。
「工事の人たちにもあとで伝えておくから。ほら、こっち」
「はあ……」
後輩は軽く頭を掻きながら、踵を返す。
その頭上で、アイコンが変わった。
【落下物・重傷・九〇%】
が、バチバチとノイズを上げて崩れ落ち、
【軽い打撲・二〇%】
に変化する。
それが見えた瞬間。
足場の上から、ガコン、と大きな音がした。
工具箱が、派手な音を立てて滑り落ちる。
さっきまで後輩が歩いていた場所に、重たい箱が叩きつけられた。砂埃が舞い上がる。
「うわっ!」
「危なっ」
工事の人たちの声が響く。
実習の先生も、思わず目を見開いた。
「……マジか」
俺は、窓越しにその光景を見ながら、唖然とつぶやいた。
あと数十秒、遅れていたら。
先生が動いてくれなかったら。
もしかしたら、あの後輩は今頃、地面に倒れていたかもしれない。
頭の中だけの「もし」が、現実の音と重なる。
空が、俺の袖をぎゅっとつまんだ。
「ね」
小さな声。
「できるよ。私たち」
その頭上には、相変わらず【自殺・今週中・八〇%】が浮かんでいる。でも、その下に、小さく【満足感・一時的上昇・七〇%】みたいな、どうでもよさそうなフラグも増えていた。
なんだよ、それ。
笑いそうになるのを、必死でこらえる。
窓の外では、実習の先生が工事の人たちと話している。後輩は、落ちた工具箱を指さしながら「マジでやばかったっすね」と笑っていた。
【軽い打撲・二〇%】のフラグは、すぐに薄くなって消えた。
かわりに。
視界の端っこで、別の赤い光が生まれた。
校庭でも、校舎でもない。もっと遠く。町の向こう。
ビルの間を走る車の列。その中の一台の運転席の上に、小さな黒いアイコンがぽっと灯る。
【交通事故・死亡・六〇%】
数字は、そこまで高くない。六〇%は、「起こるかもしれないし、起こらないかもしれない」ぎりぎりのラインだ。
でも、さっきまでそこには何もなかった。
落下事故を防いだ直後に、遠くのどこかで「交通事故・死亡」のフラグが新たに立つ。
胸の奥に、ざらついた違和感が残る。
なにかが、どこかで釣り合いを取ろうとしているみたいな。
「黒江くん?」
空が、首をかしげて俺を見上げた。
「どうかした?」
「いや……なんでもない」
今ここでそれを言ったところで、空にも答えは出せないだろう。
そもそも、さっきのフラグが、俺たちの介入と本当に関係しているのかどうかもわからない。
ただの偶然かもしれないし。
偶然じゃないのかもしれない。
答えは、今はまだ出ない。
「とりあえず」
空は、大きく息を吐いた。
「一件目、成功ってことでいい?」
「……そうだな」
認めざるをえない。
さっきのは、どう見ても俺たちの介入が結果を変えた。
ヒーローごっこなんてバカにしたけれど、少なくとも今は、「やらなかった未来」よりマシだと、素直に思えた。
「戻ろっか」
「ああ」
二人で屋上へ戻る。
階段を上りながら、さっきの【交通事故・死亡・六〇%】が頭から離れなかった。
でも、それを口に出すのは、まだ少し怖かった。
◇
屋上に戻ると、さっきと同じ夕焼けの空が出迎えてくれた。
フェンスの向こうの町並みも、何も変わっていないように見える。
でも、さっきよりも、この場所が少しだけ違って見えた。
空は、フェンス越しに町を見下ろしながら、大きく伸びをした。
「ふー。やっぱり、ここ、気持ちいいね」
「死ぬ場所にするにはな」
「褒め言葉として受け取っておく」
どこがだ。
口に出しかけたツッコミを飲み込む。
「で」
空はくるりと振り向いて、俺の前に立った。
夕陽を背負ったそのシルエットは、やっぱりどこか非現実的で。
たぶん、アニメの一話なら、ちょうどここがCパートの終わりとか、そういう感じの絵面なんだろうな、とくだらないことを考える自分もいた。
「さっきの話の続き」
「続き?」
「放課後フラグ改変クラブ」
まだその名前で押し通す気なのか。
「ね、できるよ。私たち」
空は、さっきと同じセリフを繰り返した。
「一人じゃ無理でも、二人なら。さっきみたいに、誰かのフラグをちょっとだけマシに変えられる」
「……」
「もちろん、全部は無理」
空は、自分で言い聞かせるみたいに続ける。
「全部助けようとしたら、きっと私たちが壊れる。でも、放課後の一時間だけとか、週に何回かだけとか。できる範囲で」
「宿題忘れとか、テストの赤点とかまで口出ししてたらきりがないぞ」
「そこは、取捨選択しよ。『このフラグは折らないと寝覚めが悪い』ってやつだけ」
妙に真剣な顔で言う。
俺は視線を落とした。
フェンスの足元。屋上のコンクリート。
その少し先に、見えない線がある気がした。
この線を越えたら、もう元の「傍観者」には戻れない。
関わらないで済む世界から、一歩踏み出す。
「……一回だけだぞ」
気づいたら、言っていた。
「今日みたいなこと、またあっても。一回だけ手伝う。それでダメだって思ったら、やめる」
「うん」
空は、即答した。
俺の「保険」が、まるで最初から織り込み済みだったみたいに。
「じゃあ、その一回に、全力で期待しとく」
「期待すんな」
「期待するよ。期待しなかったら、やる意味ないもん」
空はそう言って、右手を差し出した。
「これからも」
夕焼けの光が、彼女の手のひらを縁取る。
「放課後、一緒にフラグを折ろう?」
手を握ったら、たぶん戻れなくなる。
それはわかっている。
それでも。
さっきの後輩の頭上に浮かんでいた【落下物・重傷・九〇%】と、その後の工具箱の音が、頭の中でリピートする。
あれを、何もしないで見送る未来を、今さら選べるか。
深いため息が、勝手に出た。
「……はあ」
自分の右手が、ゆっくりと上がっていく。
伸ばした指先が、空の手に触れる。
柔らかくて、温かい。
その手を、しっかり握った。
「一回だけだからな」
「うん。一回だけ」
空は、嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ていると、「一回だけ」の意味が、どんどん薄れていく気がした。
自分でも、それが嘘だとわかっている。
たぶん、今日みたいな光景をまた見てしまったら。
俺はまた、走るんだろう。
屋上の風が、二人の手をつなぐ境目を、気持ちよさそうになでていった。
第3話「放課後デビュープロジェクト」
昼休みの教室は、いつもより少しだけざわついていた。
机を動かして弁当を広げるグループ。コンビニパン片手にスマホをいじるやつ。廊下に出ていく運動部組。そんな中で、ひときわ浮いている席が一つある。
窓側、後ろから二番目。
白凪ゆきは、今日もそこに座っていた。
机の上にはコンビニのおにぎりが一つと、青いノート。おにぎりの包装は、まだ開けられていない。白凪はペンを持ち、ノートに何かを書き込んでいた。
その周りに、目に見えない半径一メートルの結界が張られているみたいだった。
そこだけぽっかりと空間が空いていて、誰も近づこうとしない。
「ねえねえ、見た? 今日もやってる」
「やば。自分で自分のプロフィール書いてるんでしょ。昨日の話、全部忘れるから」
「ガチで? ドラマじゃん」
「でもさあ、昨日仲良く喋ってたのに、今日『どちら様でしたっけ』って言われたら、普通に無理じゃない?」
「それな。私だったら泣く」
「てか怖くない? 自分との会話だけ、毎日リセットされるんだよ?」
「ホラーだよね」
女子たちの声は、驚くほどよく通る。
小さく抑えているつもりなんだろうけど、耳が勝手に拾ってしまう。内容まで一字一句、頭に刻まれていく。
「無理」「怖い」という単語だけが、やけに濃く残った。
白凪の席は、彼女たちから少し離れた位置にある。本人に聞こえているかどうかは分からない。でも、クラス全体に広がる空気は伝わっているはずだ。
俺は自分の弁当箱を開けたまま、箸を持つ手を止めていた。
「……なあ、篠森」
向かいの席でご飯をかき込んでいた男子が、口をもぐもぐさせながら小声で言った。
「お前、昨日、白凪と話してたよな」
「見てたのか」
「まあな。図書室でさ。なんか真面目な顔して向かい合ってたから、付き合い始めたのかと思ったわ」
「どんなスピード感だよ」
「で、どうなん。今日も覚えられてなかった感じ?」
核心を突くな、この男は。
さっきの朝の会話が、鮮明に蘇る。
どちら様でしたっけ、と首をかしげた白凪の顔。ノートを慌てて開いて、自分で書いた文字を一気に読み込む様子。それから、「昨日の私が信じていいって言ってるから」という、ぎこちない笑顔。
「……覚えてなかったよ。きれいさっぱり」
「マジか。きっつ」
友人は、正直な感想を漏らした。
「俺だったら心折れるわ。昨日どんな会話してても、『初対面ですよね?』って言われたら、二度と話しかけない自信ある」
その「二度と」という言葉が、やけに重かった。
教室の端では、噂好きの女子たちがまだ盛り上がっている。
「あ、見て。今日のおにぎり、昨日と同じやつじゃない?」
「マジでルーティンなんだ。毎日同じことして、毎日忘れるってさあ……」
「リセットされる人生とか、ゲームじゃないんだから」
「いや、ゲームだとしてもハードモードすぎるでしょ」
笑い混じりの言葉が、刃物の先みたいに耳に刺さる。
俺は弁当箱のふたを閉じた。
「お、おい。もう食わねえの?」
「腹は減ってるけど、後で食う」
「何それ。ダイエット?」
「黙れ」
席を立つ。
視線がいくつか、こちらを追ってくるのが分かった。興味と、好奇心と、少しの野次馬根性。
それらをまとめて無視して、俺は白凪の席まで歩いていった。
「白凪」
声をかけると、白凪はペンを止めて顔を上げる。
大きな瞳が、びくりと揺れた。
「……あ。えっと、おはようございます?」
「もう昼だ」
「そうだった。こんにちは、だ」
少しだけずれた挨拶に、変な笑いがこみ上げる。
けれど、笑っている場合じゃなかった。
「ちょっと、来い」
「え」
「話がある。ここじゃなくて」
俺は、彼女の机に片手をついて、身を屈める。
白凪の視線が、一瞬だけ周りを泳いだ。噂話をしていた女子グループと目が合い、すぐに逸らす。
その肩が、ほんの少し縮こまるのが見えた。
「い、今から?」
「今から」
「おにぎり、まだ食べてないんだけど」
「持ってけ。それごと」
「屋上、飲食禁止じゃない?」
「階段の踊り場でもいい。とにかく、ここじゃない所」
ぐだぐだ言ってる暇はなかった。
このままクラスの中に置いておいたら、彼女はじわじわと漂白されていく。誰の記憶にもちゃんと残らないまま、「例の変わった転校生」というラベルだけが固定されてしまう。
それが、どうしても嫌だった。
「……分かった」
白凪は、おにぎりとノートを鞄にしまい、小さくうなずいた。
「連れて行って」
◇
屋上へ続く階段の前には、「立入禁止」の札がぶら下がっている。
けれど、この学校では、実質的には「自己責任でどうぞ」に近い扱いだった。鍵がかかっているわけでもない。風紀委員に見つかれば軽く注意される程度だ。
俺と白凪は、札をくぐって階段を上がる。
屋上のドアを押し開けると、湿った風が顔を撫でた。
曇り空の下、コンクリートの床と金網のフェンスが広がっている。誰もいない空間。遠くから体育館の歓声がかすかに聞こえるだけだ。
「わあ」
白凪が、小さな声を漏らした。
「初めて来たか?」
「うん。そもそも、校舎の二階より上にあんまり来たことがないから」
「どういう生活スタイルだよ」
「教室と、保健室と、図書室と、トイレぐらい」
限られた動線。世界そのものが狭い。
俺はフェンス際まで歩いて、振り返った。
「ほら、そこ座れ」
屋上の片隅にある古いベンチを顎で示す。
白凪は素直に従い、ベンチに腰を下ろした。鞄からおにぎりを取り出し、包装をびりっと開ける。
梅おかか。
昨日と同じ味だ。
その規則正しさに、少しだけ胸が締め付けられる。
「で、連れてこられた理由を教えてもらってもいい?」
おにぎりにかぶりつきながら、白凪は首をかしげる。
「怒られるのかな、私」
「怒らねえよ」
「じゃあ説教?」
「それも違う」
言いながら、何から切り出すべきか迷う。
頭の中では、さっきの女子グループの会話がリピート再生されていた。
怖い。無理。ホラー。
白凪本人の耳には届いていなくても、あの言葉たちは、確実にクラスの空気を少しずつ変えている。
このまま放っておけば、彼女は「触れちゃいけない存在」になってしまう。
それが、嫌だった。
「……なあ、白凪」
「うん」
「お前さ、自分のこと、怖いと思うか」
「え」
おにぎりを持つ手が止まる。
「自分が毎日昨日のことを忘れるっての、怖いって思ってるかどうか」
「それは」
白凪は、しばらく黙った。
曇り空を見上げ、フェンスの向こうの街並みに視線を投げ、それから手の中のおにぎりに視線を落とす。
「……正直に言えば、怖いよ」
ぽつりとこぼした声は、風にすぐ持っていかれそうなくらい小さかった。
「毎朝起きるたびに、『今日は何を忘れてるんだろう』って考える。目が覚めて、頭の中が真っ白な感じがして。そこにこのノートの情報だけが、どさっと落ちてくるの」
鞄から青いノートを取り出し、表紙を撫でる。
「ノートさえあれば、『私はこういう人間なんだ』って分かる。でも、ノートすらなかったら、私は私じゃなくなる。そういう想像をするときが、一番怖い」
「だよな」
「でもね」
白凪は、少しだけ笑う。
「一番怖いのは、自分が怖がられてることを、覚えていられないことかも」
「……どういう意味だ」
「さっき、教室でね。なんとなく、空気が変だなって思ったの。みんな、私のことちらちら見てるのに、誰も近づいてこない感じ」
ちゃんと見えていたのか。
「前にも似たことがあった気がするの。転校先の学校で、最初は普通に話しかけてもらえてたのに、いつのまにか距離を取られるようになってた。きっと私が何回も『どちら様でしたっけ』ってやったから」
「……」
「でも、その過程を私は覚えていない。気づいたときには、もう距離ができてる。どうしてそうなったかも分からない。きっと、何回も同じことを繰り返してきたんだろうなって、想像だけが増えていく」
言葉を重ねるごとに、彼女の声は少しずつ掠れていく。
「だから、怖いよ。怖くないって言ったら嘘になる。でも」
「でも?」
「怖いって感情も、明日になったら薄れてるかもしれないんだよね」
白凪は、自嘲気味に笑った。
「私の感情は、私だけのものなのに、続きがない。昨日の私がどんなことを考えて、何を怖がっていたか、私は知らない。知ってるのは、ノートに書かれた、箇条書きの事実だけ」
その言い方に、俺の胸の中の何かがきしんだ。
俺は逆だ。
一度抱いた感情は、いつまでも薄れない。時間が経っても、色褪せない。嫌な記憶も恥ずかしい記憶も、全部そのまま残る。
だからこそ、人と距離を取ってきた。
「だからさ」
口が勝手に動いていた。
「一個、提案がある」
「提案?」
「名付けて、『放課後デビュープロジェクト』」
「なにそれ、いきなりタイトル感強い」
白凪がぽかんとする。
自分でも、何を口走っているのか分からなくなりそうだったが、もう引っ込められない。
「お前が毎日記憶リセットされるって前提は変えられない。医者にも学校にもできないことだ。俺にも、きっと無理だ」
「うん」
「でも、その中身は変えられるかもしれない」
「中身?」
「『何を忘れるか』じゃなくて、『何を書き残すか』の話だ」
俺はベンチの背にもたれ、フェンス越しに空を見上げる。
「今のお前のノートってさ、『私は白凪ゆき』『二年A組』『信じていい人』って、最低限のプロフィールと、今日起きた出来事が箇条書きで並んでるだろ」
「うん。効率重視」
「それをさ、もっとこう……楽しくしてみないか」
「楽しく」
「例えば、毎日、『今日の自分が楽しかったと思えるイベント』を必ず一つ作る。それをノートにしっかり残す」
「イベント」
「そう。放課後に何か新しいことをするとか、昼休みに誰かと一緒にご飯食べるとか。なんでもいい。『今日の私、けっこう楽しそうだったぞ』って、明日の自分が読んで思えるような一行を、必ず作る」
言いながら、自分でもそれがどれだけ無茶な提案か分かっていた。
記憶がリセットされる日々の中で、毎日イベントを用意しろなんて。俺が同じことを言われたら、面倒くさすぎて断る。
でも、白凪は「普通の放課後」をほとんど知らない。
教室と保健室と図書室しかない世界で、その日の終わりにノートを開き、「今日も何もなかった」と書くしかない日々。
それが、どうしても嫌だった。
「それってさ」
白凪は、少し考えるように視線を宙に泳がせる。
「毎日、無理やり楽しそうなことを探すってこと?」
「無理やり、って言い方するとアレだけど」
「でも、楽しそうではある」
ぽつりと言って、彼女はふっと笑った。
「少なくとも、今の私のノートよりは、カラフルな感じがする」
「だろ」
「でも、どうやってそんなイベント作るの?」
「それはこれから考える。俺と……まあ、誰か協力してくれるやつがいればそいつも巻き込んで」
「協力者」
「例えば、クラスの誰かとか」
「クラスの誰か……」
そこで、白凪の表情が少し陰る。
「でも、私、クラスの人が何を話してるか、ちゃんと覚えていられない」
「ノートに書けばいいだろ」
「書く前に忘れたら?」
「じゃあ、そのときは俺が覚えてる。そういうのは得意分野だから」
思い切って言い切った。
「お前が『忘れる側』なら、俺は『覚えてしまう側』だ。だったら、その特性を組み合わせれば、ちょっとはマシな世界にできるかもしれない。……ってのが、俺なりの策」
「策」
「そう。名付けて、『放課後デビュープロジェクト』」
二度目の命名。
白凪は、しばらく黙って俺の顔を見つめていた。
風が吹いて、彼女の髪が少し揺れる。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……今日の私、けっこう楽しそう」
「え」
「だって、こんな提案されるの、初めてだもん」
そう言って、白凪は笑った。
どこかぎこちなさの残る笑顔だったけれど、そこにはさっきまでの陰りはなかった。
「いいよ。そのプロジェクト、参加する」
「即決か」
「だって、明日の私はどうせまた『知らない』状態からスタートするんでしょ。そのときにこのノートを読んで、『今日の私は放課後デビューしたんだ』って知るわけでしょ」
「まあ、そうなるな」
「それって、ちょっと面白そうじゃない?」
その一言に、俺は不意を突かれたみたいに笑ってしまった。
「だな」
「で、具体的には何をすればいいの?」
「まずは、形から入ろう」
「形?」
「ノートだよ。今のそれ、ただのメモ帳みたいだろ」
「効率重視だからね」
「それを、『人生ログ』にカスタマイズする」
「人生ログ」
白凪は、その単語を面白そうに繰り返した。
「いいね、響きが中二病っぽい」
「褒めてんのかそれ」
「褒めてる。たぶん」
「じゃあ放課後、文具店行くぞ」
「文具店」
「シールとか、色ペンとか、マスキングテープとか、そういうの適当に買って、お前のノートを見た目から可愛くしてやる」
「可愛く」
白凪は、自分の青いノートを見下ろす。
今のノートは、機能一点張りの無駄のないデザインだ。そこにシールを貼って、カラーペンで見出しを書いて、日付ごとにページを区切る。
それだけで、「生きるための取扱説明書」が、「生きてきた証」になるかもしれない。
「……なんか、わくわくしてきた」
白凪は、そう呟いた。
「ありがとう。今日の私は、放課後デビューする」
◇
放課後。
予鈴が鳴り終わり、ホームルームが締めくくられると、教室から一斉に生徒たちが飛び出していった。
部活へ向かうやつ。駅へ直行するやつ。友達とたむろするやつ。
その中で、俺と白凪は、教室の片隅で待ち合わせをしていた。
「お待たせ」
「別に待ってない」
「でも、こういうときに『お待たせ』って言うんでしょ」
「まあ、間違ってはない」
白凪の鞄からは、青いノートの端が顔を覗かせている。
教室の出入り口まで歩いていくと、廊下の向こうから、ひときわ明るい声が飛んできた。
「あ、圭斗じゃん。珍しい。部活行かないの?」
長いポニーテールを揺らしながら近づいてきたのは、雨宮空良だった。
同じクラスで、バスケ部のムードメーカー。誰とでも気軽に喋れるタイプの女子だ。
「今日はオフ」
「へえ、レア。……って、あれ? 白凪さんも一緒?」
空良の視線が、俺の隣にいる白凪に向く。
白凪は、少し肩を竦めながら会釈した。
「こ、こんにちは」
「こんにちはー。なんか意外な組み合わせだね、その二人」
「そうか?」
「そうだよ。圭斗は『一人で生きていける男子ランキング』上位で、白凪さんは『話しかけるタイミング分からない女子ランキング』上位だもん」
「いつそんなランキング集計したんだよ」
「私の脳内アンケート」
空良はケラケラ笑ってから、興味津々といった顔になる。
「で、どこ行くの? 二人で」
「文具店」
即答すると、空良は目を丸くした。
「渋っ。デートスポットとしては渋すぎない?」
「デートじゃない」
「プロジェクトの一環」
白凪が、真面目な顔で言った。
「放課後デビュープロジェクト」
「なにそれめっちゃ楽しそうなワード出てきたけど」
空良の目がきらっと光る。
「ねえ、それ、私も参加しちゃダメ?」
「え」
俺と白凪の声が、見事にハモった。
「いや、だってさ」
空良は両手を広げる。
「白凪さんが放課後デビューするんでしょ? だったら、陽キャ代表として立ち会わないと」
「自分で言うな、陽キャ代表」
「謙虚さは持ち合わせてないんだ、私」
空良は悪びれず笑う。
「どう? 圭斗。三人の方が、青春イベントっぽくない?」
「……まあ、確かに」
二人きりで文具店に行ってシールを選ぶ絵面を想像し、急に顔が熱くなる。
それに比べれば、空良が一人増えた方が、だいぶ健全だ。
「白凪は?」
「えっと」
白凪は、少し戸惑ったように空良の顔を見た。
「雨宮さんと、私、ちゃんと話すの初めてだと思う」
「だね。私は勝手に喋ってたけど」
「怖くない?」
「何が」
「私と一緒にいても。忘れられて、その……何回も自己紹介しなきゃいけなくなるかもしれないのに」
その問いに、空良は少しだけ目を丸くしたあと、肩をすくめた。
「まあ、そういうこともあるかもね」
あっさり認めた。
「でも、それってさあ、『何回も自己紹介できる』ってことでもあるじゃん」
「え」
「私、初対面の人と話すの、結構好きなんだよね。同じ人に何回も初対面できるって、ちょっとレアで面白そうじゃない?」
「……変わってるね」
「よく言われる」
空良は笑って、白凪の肩を軽く叩く。
「あとさ、忘れられても、こっちが覚えてればそれでよくない? 私が『昨日も一緒にいたよ』って思えてれば、それで充分じゃん」
その言い方は、驚くほどあっけらかんとしていた。
そこに、怖がりとか、引き気味とか、そういう感情は一切なかった。
「というわけで、参加表明します。放課後デビュープロジェクト、私も混ぜてください」
「……どうする?」
白凪が俺を見る。
「圭斗」
「俺に決定権あるのか、それ」
「発案者だから」
変なところで責任を押しつけられる。
でも、悪くない流れだった。
「じゃあ、歓迎する。雨宮、今日からお前もメンバーだ」
「やったー。青春っぽい」
空良は両手を上げて喜んだ。
◇
学校の近くの商店街に、小さな文具店が一軒ある。
昔からやっているらしく、外観は少し古い。でも、店内には今どきのキャラクターグッズやおしゃれな文具も並んでいて、意外と品揃えは悪くない。
「うわ、懐かしい匂いする」
店に入った瞬間、空良が声を上げた。
紙とインクと、少しの埃の匂い。俺にとっては、図書室とそう変わらない安心する匂いだ。
「じゃあ、まずはシールからだな」
「さすが分かってる。ノートデコの基本はシールだよ」
空良は、シールコーナーにまっすぐ向かった。棚には、丸シール、星形シール、動物のキャラクターシール、英字ロゴシールなどが所狭しと並んでいる。
「白凪さん、どんなのが好き?」
「えっと……」
白凪は、少し戸惑いながら棚を眺めた。
どれもこれも、彼女のノートには似合わないようで、似合うようでもある。
青いノートのシンプルさは、それはそれで完成されていた。でも、そこに色を足すことを、彼女は楽しめるだろうか。
「こういうシンプルなのもいいよ」
俺は、透けるタイプのドットシールを指さした。
「日付の横に貼ったり、その日の気分で色変えたりできる」
「いいね、それ」
「あと、こういうの」
空良は、猫の絵が描かれた小さなシールセットを手に取る。
「可愛すぎるのは苦手?」
「……可愛いの、嫌いじゃない」
白凪は、猫シールをじっと見つめた。
「この猫、私よりちゃんと毎日覚えてそう」
「猫に記憶力負けないで」
空良のツッコミに、思わず笑いがこぼれる。
「じゃあ、ドットシールと猫シール。あと、何かアクセントになるやつ」
「マスキングテープもいいよ。ページの区切りに貼れるし」
「それ、いい」
俺たちは、あれこれ言いながらシールやマステを選んでいった。
カゴの中に、色ペンのセットも追加する。黒一色だったノートに、少しずつ色が加わっていく未来を想像すると、胸の中が少し温かくなる。
「なんかさ」
会計を待っている間、空良がぽつりと言った。
「こういうの、普通の女子高生っぽくない?」
「普通の女子高生」
白凪が、小さく繰り返す。
「放課後に友達と文具店寄って、『どのシールにする?』って悩むの。漫画とかドラマだと当たり前にあるけど、実際にやると意外とないんだよね」
「空良は毎日どっか寄ってそうだけど」
「部活があるからね。放課後満喫してそうに見えて、案外直帰コースよ?」
そんな会話をしているうちに、会計が終わった。
◇
「せっかくだからさ」
商店街を歩きながら、空良が指を伸ばした。
「プリクラ撮っていかない?」
「今時プリクラってまだあるんだな」
「失礼な。あるわ。うちのバスケ部、試合の後とかみんなで撮るし」
指さす先には、小さなゲームセンターがあった。外からでも、プリクラ機のピンク色のフレームが見える。
「ど、どうしよう」
白凪は、少し不安そうに俺を見上げる。
「プリクラとか、撮ったことない」
「じゃあ、初めての放課後イベントにはちょうどいい」
「だな」
俺と空良は、顔を見合わせた。
「じゃあ行こう。今日のイベントに認定」
「認定された」
ゲームセンターに入ると、音楽と電子音が一気に押し寄せてくる。プリクラ機のブースは、女子高生グループで賑わっていた。
「うわ、人多い」
「人気機種はこれだな」
空良は、慣れた様子で別のプリ機に案内する。
「こっちはちょっと空いてる。顔盛れるし」
「顔盛れるって何」
「女子の秘密」
空良はウインクして、ブースのカーテンをめくった。
「圭斗、料金入れて」
「なんで俺が出す前提なんだよ」
「男子たるもの、初プリは奢りでしょ」
「そんな慣例初耳だわ」
文句を言いつつ、小銭を投入する。画面にタイマーが表示され、撮影が始まる。
「せーの、はいチーズ」
一枚目。三人で並んで笑う。
「次、変顔いくよ」
二枚目。空良が変顔をし、つられて俺も中途半端な顔になる。白凪は、ギリギリまで普通の笑顔を保とうとして結果よく分からない表情になった。
「ラストは真面目に。放課後デビュー記念!」
三枚目。空良がピースサインを掲げ、白凪はノートを胸に抱え、俺は親指を立てた。
画面の中の自分たちは、どこからどう見ても普通の高校生だった。
記念すべき「初プリ」としては、上出来だ。
「仕上がり楽しみだね」
「なあ」
印刷を待ちながら、白凪が呟く。
「明日の私は、このプリクラのことも忘れてるのかな」
「物としては残るだろ」
「そうだけど。撮ったときの気持ちとか、『初めてプリクラ撮った』っていうワクワクとか。そういうのは、ノートに書いておかない限り、きっと思い出せない」
言いながら、彼女は少しだけ目を伏せる。
「でも、今日の私は、ちゃんと覚えてる」
その言い方に、はっとした。
さっきまで「忘れる」側として話していた彼女が、「覚えてる」側として言葉を紡いでいる。
「だから、ちゃんと書くよ。今日の私が感じたこと」
プリクラ機から、ガガガと音を立ててシートが出てきた。
空良がそれを受け取り、三人で覗き込む。
「おお、盛れてる盛れてる」
「変顔のやつひどいな」
「白凪さん、意外と表情豊かじゃん」
「や、やめて」
自分の顔が紙の上に並んでいるのを見て、白凪は照れくさそうに頬を染めた。
「この一枚は、ノートの一番後ろに貼りなよ」
「一番後ろ?」
「うん。人生ログの『表紙の裏』みたいな感じで」
空良の提案に、白凪はこくりとうなずいた。
◇
プリクラを分け合ったあと、三人は駅前の小さなカフェに入った。
学生にも優しい価格のドリンクメニュー。制服姿のままの客も多い。
「うわ、放課後にカフェとか、マジ女子高生」
「お前はいつもどこで生きてる設定なんだよ」
ツッコミを入れつつ、俺はアイスコーヒーを頼む。
白凪はホットティー、空良は期間限定のいちごミルクフロートを選んだ。
席について、ドリンクが運ばれてくる。
「いただきます」
三人でストローをくわえたり、カップに口をつけたりする。
「どう、白凪さん」
空良が尋ねる。
「初めての『普通の放課後』の味は」
「……ちょっと甘い」
白凪は、ティーカップを両手で包み込みながら笑った。
「でも、悪くない」
「それはよかった」
会話は他愛もないことばかりだった。
授業の愚痴。カワタツの今日のダジャレがどれだけ滑っていたか。体育祭の練習がだるい話。バスケ部の最近の試合のこと。空良がハマっている動画配信者の話。
白凪は、最初こそ聞き役に徹していたが、少しずつ自分からも話すようになっていった。
「私、家帰ったらまずノート読むから、アニメとかほとんど見たことないんだ」
「マジで。人生損してるよ」
「そんなに?」
「うん。今度家で一緒に見よう。ノートに『初めてアニメ一気見した』って書きなよ」
「それ、楽しそう」
そのやり取りを横で聞きながら、俺は妙な感覚を覚えていた。
この光景は、俺の頭の中に、一生消えない形で刻まれる。
でも、白凪の中では、今日の出来事は、明日には「ノートの中の一行」になる。
それでも、今この瞬間、彼女は確かに笑っている。
それだけで、十分だと思えた。
◇
カフェを出て、駅へ向かう帰り道。
街灯が少しずつ灯り始めている。曇り空は濃い灰色に変わり、風が冷たくなってきた。
「じゃあ、私こっちだから」
空良が駅とは反対方向の道を指さす。
「今日はありがとう。めっちゃ楽しかった」
「こっちこそ。いろいろ助かった」
「またやろうね。放課後デビュープロジェクト第二弾」
「……うん」
白凪は、少し照れくさそうに笑ってうなずいた。
「雨宮さんのこと、ノートに書く」
「やった。名前、漢字間違えないでね」
「頑張る」
そう言って笑いあい、空良は手を振って走り去っていった。
残された俺と白凪は、並んで駅まで歩く。
夕方の人混みの中、制服姿の高校生たちがあちこちにいる。笑い声や話し声が、風に乗って流れていく。
ふと、白凪の足が止まった。
「……どうした」
俺も立ち止まり、彼女の顔を覗き込む。
白凪は、前を見たまま、小さく呟いた。
「明日、この人たちのことを覚えていないのが、ちょっと嫌だなって」
その言葉は、あまりにも自然に出てきたように聞こえた。
本人も驚いたのか、自分で言った直後、目を見開いていた。
「……あれ、今、私、何て言った?」
「『覚えていないのが嫌だ』って」
俺はゆっくりと言葉をなぞる。
「雨宮のことと、俺のことだろ」
「……うん」
白凪は、自分の胸に手を当てた。
「変だな」
「何が」
「忘れるのは、もう慣れてるはずなのに。自分でもびっくりするぐらい、『嫌だ』って思ってる」
その表情は、戸惑いと、ほんの少しの喜びが混ざっていた。
「でも、きっと明日になったら、この『嫌だ』って気持ちも薄くなるんだろうね」
「かもしれないな」
「でも」
白凪は、ぎゅっと鞄の肩紐を握りしめた。
「ノートに書いておけば、明日の私は知るよね。『今日の私は、空良さんと圭斗と一緒にいて、明日この人たちのことを覚えていないのが嫌だと思った』って」
その一文が、どれだけの重さを持つか、彼女はまだ知らない。
でも俺は、分かってしまった。
俺の中で、何かが決定的に変わったのを自覚する。
今までは、「可哀想な転校生」を放っておけないという、半分は義務感みたいなものだった。
椎名先生に頼まれたから。俺が覚えていられるから。そういう理由で、彼女のそばにいようと思っていた。
でも今は違う。
彼女が「忘れたくない」と思った瞬間を、俺は見てしまった。
その瞬間に立ち会ってしまった。
だったら、その「忘れたくない」を、できるだけたくさん作ってやりたい。
そのためなら、俺の過剰な記憶力ぐらい、いくらでも使ってやる。
「……白凪」
「なに」
「今日のこと、全部書いとけよ」
俺は、なるべく軽い口調で言う。
「文具店行って、シール選んで、プリクラ撮って、カフェ寄って。雨宮に変なこと言われたのも含めて」
「変なことって失礼」
「あと、『明日覚えてないのが嫌だ』って思ったこともな」
「それも、書く」
白凪は、強くうなずいた。
「今日の私は、少しだけ幸せだったって、ちゃんと書く」
その言葉に、胸がきゅっと鳴った。
駅の改札前で、俺たちは足を止める。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
そう言って別れた。
彼女は明日、俺のことを覚えていないかもしれない。
でも、今日の彼女は、明日の自分に「この人たちのことを忘れたくない」と伝えようとしている。
それだけで十分だと思った。
◇
その夜。
白凪ゆきは、自分の部屋の机の前に座っていた。
青いノートは、もう「青いだけのノート」ではなかった。
ページの端にはドットシールが貼られ、猫のシールがところどころに跳ねている。ページの上部には、マスキングテープで日付が区切られ、「放課後デビュープロジェクト 一日目」と書かれていた。
プリクラの一枚は、ノートの一番後ろのページに丁寧に貼られている。
三人で笑っている写真。
その写真を見つめながら、白凪はペンを握った。
今日あったこと。
放課後、圭斗と空良さんと文具店に行った。
シールとマスキングテープと色ペンを買った。
プリクラを初めて撮った。
カフェで甘い紅茶を飲んだ。
文字を一つずつ並べていく。
そして、ページの最後の行に、小さくこう書き添えた。
今日の私は、少しだけ幸せだった。
書き終えると、胸の中のざわざわが、少しだけ静かになった。
「……おやすみ、今日の私」
そう呟いて、白凪はノートを閉じた。
そのページは、明日の彼女にとって「知らない誰かの思い出」になるかもしれない。
でも、それを読んだ明日の彼女は、きっと同じように笑おうとするだろう。
その未来を思い描きながら、白凪は静かに目を閉じた。
第四話「情報屋・新郷千景」
放課後の教室って、案外うるさい。
部活に行くやつ。教室でだべるやつ。さっさと帰るやつ。机をガタガタ動かす音と笑い声と、椅子を引きずる音が、ごちゃ混ぜになって響いている。
その喧騒の中で、俺と天城空は、教室の隅に立っていた。
「……で、どうする?」
俺が小声で言うと、空は窓の外をちらっと見てから、教室の中をゆっくり見渡した。
「まずは、案件探しから、かな」
「案件って言うな」
「だって、『困ってる人』って言うと範囲が広すぎるでしょ」
まあ、言いたいことはわかる。
俺の視界には、今日も相変わらず、クラスメイトたちの頭上に小さなアイコンが浮かんでいた。
【テスト赤点・要補習・七〇%】
【部活の試合でミス・落ち込み・六五%】
【片想い・告白失敗・八〇%】
この辺は、日常レベルだ。
誰だって経験するし、ある意味で「青春」ってやつかもしれない。
けど、中にはちょっと笑えないものも混ざっている。
【怪我・全治一ヶ月・五五%】
【家出・行方不明・四〇%】
【SNS炎上・不登校・七〇%】
数字が高めのやつは、それなりに重い。
けれど、「どこからが危険で」「どこから手を出すべきなのか」のラインが、俺にはまだわからなかった。
全部に首を突っ込んだら、文字通り身がもたない。
「やっぱり、情報が足りないね」
空がぽつりと言った。
「情報?」
「うん。フラグの内容だけじゃ、その人がどんな状況か、よくわからないでしょ」
空は、手近な女子グループを視線で示した。
「例えば、あの子たち。なんとなく仲良さそうに見えるけど、裏では誰かの悪口でつながってるかもしれないし、逆にすごく支え合ってる関係かもしれない」
「まあ、見た目だけじゃわからんわな」
「でしょ。だから、私たちには『現場の情報』が必要」
空は、教室の中央近くを指さした。
「あの子とか」
指の先にいたのは、黒髪ボブにヘアピンをつけた女子だった。机の上には、漫画の同人誌とスマホが広げてある。
新郷千景。
同じクラスだけど、俺とはほとんど接点がない女子だ。
彼女の周りには、数人の女子と男子が集まっていて、なにやら楽しそうに盛り上がっている。
「でさ、うちのクラスの数学担当、マジで彼女いるらしいよ」
「え、それどこ情報?」
「職員室前で他の先生が話してるの聞いた。あと、この前の飲み会の写真が、先輩のストーリーに上がっててさ」
「こわ。情報源多すぎない?」
「日々の観察と、SNSの海だよ」
さらっと言ってるけど、その情報の拾い方は大丈夫なのか。
新郷千景の頭上には、今日も小さなアイコンがいくつか浮かんでいた。
【噂話・行き過ぎ・三五%】
【教師にバレる・説教・二五%】
まあ、この程度なら「情報屋あるある」って感じだ。
「あの子に相談しよう」
空は、迷いのない声で言った。
「情報、たくさん持ってそうだし」
「……あんまり関わったことないけど」
「今から関わればいいよ」
そう簡単に言うな。
とは思ったが、ここで尻込みしてばかりいるのも違う気がした。
せっかく「フラグ改変クラブ」なんてものを始めたんだ。やると決めた以上、動かないと意味がない。
俺は心の中で深くため息をついてから、空と一緒に千景の机へ向かった。
◇
「でさ、その先生、昔バンドマンだったらしいんだよね」
「うそでしょ」
「ほんとほんと。前に使ってた名前が――」
「新郷さん」
空が、タイミングを見計らって声をかけた。
「ちょっといい?」
千景は話の途中で顔を上げ、じろりと俺たちを見る。
間近で見ると、目つきが鋭い。けど、どこか人懐っこい感じもある。
彼女の頭上には新しいフラグが一つ。
【新しい噂・興味・六〇%】
興味持たれてるの、俺たちの方かよ。
「なに? 転校生ちゃんと、いつも隅っこにいる黒江くんじゃん」
「隅っこって言うな」
「事実でしょ。で、なに? 恋バナ? それとも人生相談?」
千景は、机の上の同人誌をぱたんと閉じた。
空が一歩前に出る。
「ちょっと相談があって」
「ふむふむ」
千景はあごに手を当て、芝居がかった相槌を打つ。
「放課後の、困ってる人を手助けする活動に、協力してくれる人を探してて」
「…………」
一瞬で沈黙。
次の瞬間、千景は肩を震わせた。
「なにそれ。宗教?」
「しゅ、宗教じゃないよ」
「新興宗教? 入会したら友達が増えます、とかそういうやつ?」
周りにいた数人のクラスメイトがくすくす笑う。
最悪の入り方をした気がする。
「違うって。ただのボランティア的な……」
俺が慌てて口を挟むと、千景はニヤリと笑った。
「へえ。黒江くんが、ボランティア」
「なんだよ、その『一番縁遠そうな単語』みたいな顔は」
「偏見だよ。ごめんって」
口では謝りつつ、まったく悪びれてない。
でも、空は少しも引かなかった。
「新郷さんって、いろんなことに詳しいよね」
「そりゃまあ、普通の人よりは」
「この前の、工事現場の件とか」
空がさらっと言った。
俺の背中に、嫌な汗が流れる。
「後輩が工具箱に当たりそうになってたやつ。私たち、たまたま近くにいただけなんだけど……」
「『たまたま』ねえ」
千景は、意味ありげに目を細めた。
「やけにタイミング良すぎたよね、あれ」
「え?」
「だってさ。あの通路、普段は誰も止めないのに、あの日だけ先生が飛んできて、『こっち回って』ってわざわざ遠回りさせてさ。その数秒後に工具箱ドーンでしょ?」
千景は指を鳴らした。
「漫画かよって思ったよ」
「……見てたのか」
「この教室から丸見えなんだもん。暇なとき、校庭眺めるのが趣味で」
さすが情報屋。観察範囲が広い。
「で、そのときの黒江くんと転校生ちゃんの動きが、また漫画っぽくてさ」
「漫画ってなんだよ」
「リアルであんなに必死に走ってる高校生、久しぶりに見たって話」
千景はニヤニヤしながら、空を見た。
「で、その『放課後の困ってる人を手助けする活動』とやらは、それの延長?」
「……まあ、そんな感じ」
否定できない。
空は、むしろ誇らしげに頷いた。
「あの日も、ちょっとした声かけで助かる子がいるってわかったから」
「ふーん」
千景は机に肘をつき、空の顔をじっと覗き込む。
「観察力、あるんだね」
空がにこっと笑う。
「新郷さんほどじゃないと思うけど」
「うわ、今ちょっと気分よくなった」
「褒め言葉です」
「知ってる」
千景はあっさり言った。
「で、うちに何させたいの? 怪しい宗教勧誘じゃないって前提で聞くけど」
「新郷さんって、このクラスの人間関係とか、裏のトラブルとか、いろいろ知ってそうだから」
空が真剣な顔になる。
「誰がどんな悩みを抱えてるのか。どれがシャレにならない案件で、どれがただの愚痴なのか。それを見分けるの、手伝ってほしい」
「つまり、情報提供役ってこと?」
「うん」
空は素直に頷いた。
「私たちだけだと、『フラグ』の数字しか見えないから」
危うく「フラグ」の部分を聞き返されそうになったが、千景はそこには突っ込まず、「数字?」と首をかしげるだけだった。
空はさらっと話をすり替える。
「危なそうな空気を感じても、その人の背景がわからないと、どう動いていいかわからなくて」
「まあ、それはそうだよね」
千景は、うーんと考えるような仕草をしてから、ニヤリと笑った。
「面白そうだから、乗ってあげる」
「いいのかよ」
俺は思わず口を挟む。
「そんな軽いノリで決めていいのか、お前」
「軽いノリ大事じゃん。高校生活なんて、面白いことに首突っ込んだもん勝ちでしょ」
妙に説得力のある物言いだ。
「それに」
千景は、スマホをくるくる回しながら続けた。
「こういうのってさ。外から見てるだけだと、モヤモヤすること多いんだよね。『なんであの子、あそこまで追い込まれてんのに誰も止めないんだろ』とかさ」
「……」
「だからまあ、たまには『止める側』やってみるのも悪くないかなって」
そう言って笑う千景の頭上に、小さなフラグが一つ増えた。
【好奇心・満足・七五%】
わりと単純な理由だった。
でも、その単純さに救われることもある。
「じゃ、さっそく仕事あるけど」
空が、目線で教室の隅を示した。
そこには、一人で席に座り、スマホを握りしめている女子がいた。眉間にしわを寄せて、画面を凝視している。
頭上には、赤みがかったアイコン。
【SNS炎上・不登校・七〇%】
数字は高い。
「……あー」
千景が、露骨に顔をしかめた。
「よりによって、そこか」
「知ってる子?」
「同じクラスなんだから知ってるのは当然として」
千景はスマホを開きながら言った。
「問題は、あの子の“裏”の方」
◇
新郷千景の説明は、端的に言うと、ものすごくわかりやすくて、ものすごく容赦がなかった。
「まずさ、最近の高校生って、アカウントを最低三つは持ってるの」
「三つ?」
「うん。一つ目が『表アカ』ね。親とか先生とか、真面目な知り合いもフォローしてるやつ」
千景は自分のスマホ画面を見せてくる。
「二つ目が『オタ垢』。好きな漫画とかアニメとかゲームとか、界隈の人たちとだけ絡むアカウント」
「まあ、それはわかる」
「で、三つ目が『裏垢』」
千景の口調が、少しだけ低くなった。
「本音と愚痴と陰口と、酔っぱらいみたいなノリが全部詰まってるとこ」
空は真剣に聞いていた。
「さっきの子は、その三つ目がちょっと危ない感じ?」
「うん。ざっくり言うと、陰口。特定の相手に向けた、結構きついやつ」
千景は、器用に画面をスクロールしながら続ける。
「加工した写真にスタンプ貼って、『うちのクラスの○○、マジで無理』とか、『あの子の服、ダサすぎて草』とか。タグは付けてないけど、見る人が見れば誰のことかわかる感じで」
「最悪だな」
思わず漏らした俺の言葉に、千景は肩をすくめた。
「まあ、やってるのはあの子だけじゃないけどね」
「そういうのが、拡散されると?」
「炎上。たいていは身内で燃えるけど、たまに外まで火がつく」
千景は、ため息混じりに言った。
「いま、その子の裏垢が、一部のグループにバレかけてるとこ」
「バレかけてる?」
「うちのクラスじゃなくて、隣のクラスの女子グループね。対象にされた側」
千景は顔をしかめた。
「その子たち、性格悪い方の意味で有名だからさ。バレたら、一気に仕返しモード入ると思う」
【SNS炎上・不登校・七〇%】
数字の意味が、具体的になってくる。
もし炎上すれば、教室での立場も悪くなる。陰口を言われた方はもちろん怒るだろうし、傍観していたやつらも面白がって参戦するかもしれない。
そうなったら、不登校に追い込まれる未来も、十分ありえる。
「でもさ」
俺はふと、口に出していた。
「そいつが陰口書いてる時点で、そいつも悪いだろ」
「それはそう」
千景はあっさり認めた。
「でも、だからって『人生詰めてもいい』って話にはならないでしょ」
「……」
「悪ふざけの範囲で済むなら、それが一番マシ」
空が、小さくうなずいた。
「『最悪』より、『マシ』にする」
「そうそう。さすが私の同志」
「いつ同志になった」
一瞬だけ、空と千景の間に変な一体感が生まれていて、軽く置いていかれた気がする。
まあいい。
「で、どうする」
「役割分担しよ」
千景は、即座にプランを組み立て始めた。
「私は、相手グループの中心人物に釘を刺す。『裏垢バレてるよ』って噂を、逆にあの子の方に流しかねないタイプだからね」
「なるほど」
「空ちゃんは、あの子の方に行って。『もしかして、なんかSNSで嫌なことあった?』みたいな感じで、さりげなく拾ってあげて」
「わかった」
「黒江くんは――」
「俺?」
「フラグ監視役」
千景はさらっと言った。
「炎上しそうになったら止めなきゃいけないし、『もう大丈夫』ってラインも見極めないといけないでしょ」
その「見極め」が一番難しいんだが。
でも、今の俺にしかできない役目でもある。
「……了解」
俺は、女子たちの頭上に浮かぶアイコンに意識を集中させた。
【SNS炎上・不登校・七〇%】(被害者側)
【怒り・報復・六五%】(陰口を書かれた側)
【面白がり拡散・五〇%】(取り巻き)
数字の変化を見ながら、介入のタイミングを計る必要がある。
「じゃ、作戦開始」
千景が小さく拳を握った。
◇
千景は、さすがに手慣れていた。
ターゲットのグループに近づき、何食わぬ顔で会話に混ざる。
「ねえねえ、聞いた? 最近さ、裏垢バレて人生詰みかけた子の話」
「なにそれ」
「別の学校の話なんだけどさ――」
遠くから聞いていても、話がうまいのがわかる。
最初に「自分とは関係ないところの話」として、裏垢バレの怖さを伝える。次に、「でも、この学校にも似たような話あるらしいよ」と、ほんのり自分たちの身近に引き寄せる。
その流れの中で、「裏垢ってさ。意外とフォローしてない人にも見られてるっぽいから、気をつけた方がいいよ」と、さらっと釘を刺す。
それだけで、「もしかして、うちも見られてる?」と不安になるやつが出てくる。
【怒り・報復・六五%】だった数字が、じわじわと下がり始めた。
【怒り・様子見・五五%】
「今すぐ爆発」から「少し様子を見る」にシフトした感じだ。
同時に、空は教室の隅へ向かう。
スマホを握りしめている女子のそばに、そっと腰を下ろした。
「ねえ」
空がやわらかく声をかける。
「さっきから、ずっとスマホ見てるよね」
「え、あ、ごめん」
女子は慌ててスマホを伏せた。
「うるさかった?」
「ううん。そうじゃなくて」
空は首を振った。
「顔色、ちょっと悪いなって」
「……そう?」
「もし、なんか嫌なことあったなら、話聞くくらいならできるよ」
その言葉に、女子の肩がぴくっと震えた。
【SNS炎上・不登校・七〇%】のアイコンが、一瞬強く光る。
数秒の沈黙。
やがて、ぽつりと声が漏れた。
「……裏垢、バレたかも」
そこから先は、早かった。
女子は、ぽつぽつと状況を話し始めた。
特定のグループに対する陰口を書いていたこと。最初はただの愚痴のつもりだったこと。最近、そのグループの一人が、意味深な話題を振ってくるようになったこと。
「あれ、絶対、私のことだと思う」
女子の目が潤んでいた。
「でも、今さら消しても遅いし……バレたら、絶対終わる」
「終わらないよ」
空はきっぱりと言った。
「バレたとしても、『終わり』じゃなくて、『問題が表に出るだけ』」
「でも――」
「一人で抱えてると、『全部終わる』ように感じちゃうけどね」
空は、少しだけ笑った。
「先生とか、大人とか。うざいときもあるけど、こういうときのためにいるんだよ」
「先生に、言うの?」
「一緒に、ね」
空は立ち上がりかけて、ふと思い直したように言った。
「その前に、ひとつだけ確認させて」
「なに」
「あの裏垢に書いてたこと、本気で全部そう思ってる?」
女子は、はっとしたように目を見開いた。
「……最初は、ちょっとむかついて」
「うん」
「でも、途中から、ノリっていうか……。『こう書いた方がウケるかな』とか、『この言い方の方が面白いかな』とか。誰かがいいねしてくれると、調子乗っちゃって」
自分で言っていて、顔をしかめる。
「本気じゃ、なかった」
「うん。それ、ちゃんと伝えよう」
空の頭上に、小さなフラグが浮かんでいた。
【説得・成功・六〇%】
俺はその数字を見ながら、千景の方も確認する。
陰口を書かれた側のグループの頭上にあった【怒り・報復】系のフラグは、かなり弱まっていた。
【怒り・様子見・四〇%】
【裏垢・危険意識・五〇%】
千景が、上手に「裏垢怖い話」で不安を上書きしてくれたおかげだろう。
あとは、空とターゲットの女子が先生に相談して、「悪ふざけ」で済むラインに落とし込めればいい。
その後の流れは、だいたい予想通りだった。
放課後、空と女子は、生活指導の先生のところに行った。千景は「ついでに情報提供してあげる」と言って、さりげなくフォローに回る。
数日後。
問題の裏垢は、本人の手で削除された。
陰口を書かれていた側には、先生を通して謝罪が入り、「悪ふざけが行き過ぎた」として、関係者だけの間で話がついた。
クラス全体に広まる前に、火は消された。
ターゲット女子の頭上のフラグは、いつの間にか変わっていた。
【SNS炎上・不登校・七〇%】
だったものが、
【軽いトラブル・二〇%】
になり、それすらも、しばらくしてから消えた。
俺は、教室の隅でその変化を見ながら、小さく息を吐いた。
「……なんとか、かな」
「上出来上出来」
千景が、ポテトの紙袋を揺らしながら言った。
◇
その日の帰り道。
俺たち三人は、駅前のファストフード店にいた。
窓際の席に並んで座り、ポテトをつつきながら、今日の「反省会」と称した雑談をしている。
「やっぱさあ」
千景が、ストローを噛みながら言う。
「これ、名前付けようよ」
「名前?」
「ほら、うちの活動。放課後にフラグいじって、トラブル回避して。普通の帰宅部とは違うことやってるんだし」
「……別に、名前なんかなくても」
「あるとテンション上がるでしょ?」
千景はニヤリと笑った。
「放課後フラグ改変クラブ、とか」
「それ、図書室で空が言ってたやつ」
「じゃ、それで決定」
勝手に決めるな。
と思いつつ、心のどこかで「まあ、わかりやすいからいいか」とも思ってしまった。
言葉にすると、形がはっきりする。
フラグが見える俺と、フラグをいじれる空と、人間関係に詳しい千景。
三人で放課後に集まって、「折れるフラグ」を探して回る。
こうして文章で説明すると、まるでラノベのあらすじみたいだ。
いや、実際ラノベなんだけどさ。
「黒江くんは? なんかいい名前案ある?」
「ない」
「即答」
「俺、そういうセンスないし」
「それは自覚してるんだ」
千景は笑った。
空は、ポテトを一本口に運びながら、ふと思いついたように言う。
「じゃあ、略して『フラ改』にしよっか」
「それ、なんか必殺技みたいだな」
「フラグ改変の略だから」
「まあ、語感は悪くないかもね」
千景は、すぐスマホで「フラ改」と検索し始める。
「被ってる名前ないか調べとく」
「なんでそこだけ真面目なんだよ」
「ブランド大事だから」
空は、そんな二人を見ながら楽しそうに笑っていた。
その笑顔を見ていると、「放課後フラグ改変クラブ」が、ちょっとだけ悪くないものに思える。
誰かを助けて、自分も少しだけ救われる。
そういう場所になりつつあるのかもしれない。
――と。
ふと、店内のテレビからニュースの音が聞こえてきた。
『続いては、市内で相次ぐ交通事故についてです』
思わず、視線が画面に吸い寄せられる。
ニュースキャスターが、真面目な顔で原稿を読んでいた。
『今月に入ってから、市内各所で死亡事故を含む交通事故が多発しており、警察は注意を呼びかけています』
画面が切り替わる。
夜の交差点。信号。点滅するライト。ブルーシートで覆われた何か。
リポーターがマイクを持って、現場から中継している。
『こちらが、昨日の事故現場です――』
ニュース映像の中で、通行人たちが行き交っている。
その頭の上に。
また、見えてしまった。
【交通事故・死亡・六五%】
【交通事故・重傷・七〇%】
【もらい事故・軽傷・四〇%】
黒っぽいアイコンが、画面の中にいくつもいくつも浮かんでいる。
数字は全部違う。高いものもあれば、低いものもある。
でも、その数の多さに、背筋が冷たくなる。
ここ数日。
俺と空と千景は、学校の中でいくつかの「死のフラグ」を折ってきた。
天城空の「自殺・一〇〇%」を八〇%に下げたのを始めとして、工事現場の落下事故、他にも小さな危ないフラグを、いくつも。
その一つ一つに、俺たちは達成感を覚えていた。
誰かの未来を、少しだけ「マシ」に変えられたんだって。
だけど、同じタイミングで。
ニュースの中で、交通事故の件数は増えている。
俺たちが折った「死のフラグ」の分だけ、どこかで別の「死のフラグ」が立っているんじゃないか――。
そんな馬鹿げた考えが、頭をよぎる。
「……黒江くん?」
空が、不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。
「テレビ、苦手?」
「いや」
俺は慌てて視線を外した。
「なんでもない」
「顔、ちょっと怖かったよ」
「元からだ」
「それ自分で言う?」
空が笑う。
千景も、ニュース画面と俺の間を見比べてから、ストローで氷をつついた。
「事故、多いよね、最近」
さらっと言う。
「怖い?」
「まあ、そりゃな」
「でも、私たちが気にしてどうにかなる話じゃないでしょ」
軽く言ってるようで、その目は少しだけ真剣だった。
「うちらが直接見えるのは、せいぜい学校とその周辺だけ。全部背負おうとしたら、潰れるよ」
「……だな」
正論だ。
わかってる。
世界中のフラグを折るなんて、無理に決まっている。
それでも、胸のざわつきは消えなかった。
工事現場の落下事故を防いだときに、遠くで見た【交通事故・死亡・六〇%】のアイコン。
あれと、今のニュース画面が、頭の中で勝手につながる。
俺たちは、本当に「人助け」をしているんだろうか。
それとも。
どこか別の場所から、「死」が押し寄せてきているだけなのか。
答えは、まだ出ない。
隣では、空がポテトをつまんで、なんでもないみたいに笑っていた。
「ねえ、今度さ」
「ん?」
「放課後に、ちょっと遠回りして帰ろうよ」
空は窓の外を見た。
「駅までの道だけじゃなくて、商店街とか、公園とか。黒江くんのフラグ、どこまで見えるのか試してみたい」
「実験かよ」
「必要な調査だよ」
空の頭上には、今日も【自殺・今週中・八〇%】が浮かんでいる。
それに加えて、【好奇心・ワクワク・七〇%】みたいな、妙に明るいフラグも。
そのギャップが、ひどくアンバランスで。
なのに、不思議と目が離せなかった。
俺は紙コップの中の氷をかき混ぜながら、小さく息を吐いた。
「……わかったよ。遠回りくらいなら付き合う」
「やった」
空の笑顔が、ぱっと花が咲いたみたいに明るくなる。
その笑顔を見ていると、「俺たちは間違ってない」と信じたくなる。
けれど、テレビの中で流れ続ける事故のニュースと、視界の奥でちらつく黒いフラグたちが、その信念に小さな影を落としていた。
俺たちの「放課後フラグ改変クラブ」が、本当に誰かを救っているのか。
それとも、見えていないどこかで、別の歪みを生んでいるだけなのか。
その答えを知るには、まだ少しだけ、時間がかかりそうだった。
第五話「救ったはずの死と、増え続ける死」
その日の夜、俺はベッドに寝転がりながら、スマホの画面をスクロールし続けていた。
ニュースサイト。まとめサイト。SNSのトレンド。
どこを見ても、同じ単語がやたらと目につく。
――交通事故。
――突然死。
――原因不明。
「……多すぎだろ、これ」
ぽつりと、声が漏れた。
一件一件だけ見れば、「たまたま」で片づけられるかもしれない。
飲酒運転。居眠り。歩きスマホ。高齢ドライバー。心臓発作。
よくある原因が並んでいる。それぞれには、それぞれの理由がある。
だけど、ここ数日分をスクショして並べてみると、それはもう「なんとなく多い気がする」なんて曖昧なレベルじゃない。
明らかに、異常だ。
俺はスマホを放り出し、机に向かった。
ノートを一冊引っ張り出す。
表紙に、ペンで適当にタイトルを書いた。
「フラ改記録」。
自分で書いておいて、ちょっと気恥ずかしい。
けれど、こうでもしないと、頭の中のモヤモヤが整理できない気がした。
ページを開き、日付を書き込む。
――〇月〇日。
その下に、「救ったフラグ」と「死んだフラグ」の二つの見出しを並べた。
まずは、「救った」の方から。
工事現場の落下事故未遂。
SNS炎上・不登校フラグ。
クラスメイトの家庭内トラブルの予兆(これは千景経由で、先生にそれとなく話を回した)。
天城空本人の【自殺・今週中・一〇〇%】も、一応ここに入れておく。数字がゼロになったわけじゃないけど、少なくとも「今飛び降りる」フラグは折った。
それぞれの横に、簡単なメモを加えていく。
(工具箱落下→後輩、軽症で済む)
(裏垢削除→炎上前に収束)
(家庭訪問→一旦は落ち着く)
ページの右半分には、ニュースやSNSで見た「死んだフラグ」を書き出した。
〇×交差点 多重事故 二名死亡。
市内アパート火災 一名死亡。
線路転落事故 一名死亡。
持病悪化による突然死(自宅)。
時間帯も、わかる範囲でメモしていく。
ノートの上を、ペン先が何度も行き来する。
救った命。
失われた命。
どちらも、増え続けていた。
ページを俯瞰して見た瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
「……俺たちがやったぶんだけ、どこかで死んでる、ってことかよ」
口にすると、途端にそれが「仮説」から「現実」に近づく気がして、嫌だった。
だけど、頭の中では、もうその線でしか繋がってくれない。
天城空のフラグを下げた日の夜には、病院で手術中の患者が亡くなっていた。
工事現場の事故を防いだ日の夕方には、市内の反対側で大型トラックの事故が起きていた。
SNS炎上を収束させた翌日には、別の学校の生徒が線路に飛び込んだというニュースが流れた。
全部が全部、直接つながっているとは言えない。
単なる偶然かもしれない。
でも――。
ノートの上で、「救った命」の数と「失われた命」の数が、同じペースで増えていくのを見ていると。
「世界のどこかに、“死”のメーターでもあるんじゃないか」と、馬鹿みたいな考えが頭をよぎる。
「死の総量は、変わらない」
誰かがそんなルールを決めていて。
俺たちが一人助けるたびに、そのぶんだけ、どこかの誰かが死ぬ。
そんな法則が、実はこの世界を支配している。
もし本当にそうだとしたら。
「……俺たち、なにやってんだ」
ペンが、指の中で折れそうなほど曲がった。
救ったつもりで、押しつけているだけじゃないのか。
誰かの「死」を、別の誰かに。
指先に、インクがにじむ。
ノートの端に、小さな染みができていくのを、ぼんやり眺めた。
◇
翌日。放課後。
俺は空を呼び出して、屋上に向かった。
昼間よりも少し冷えた風が、制服の袖口から入り込んでくる。
フェンスの近くで、空はすでに待っていた。
「黒江くん、遅い」
「悪い。職員室の前で先生に捕まって」
「また成績褒められてたの?」
「そういうのはいい」
軽口をかわす余裕なんて、本当はなかった。
でも、何も言わないと、ここまで来たことを後悔しそうだった。
俺は深呼吸をひとつしてから、バッグの中からノートを取り出す。
「これ、見ろよ」
表紙には、大きく「フラ改記録」。
空はそれを見て、一瞬だけ目を丸くした。
「……ちゃんとタイトルつけたんだ」
「そこじゃない」
ページを開いて、昨日の夜まとめた部分を見せる。
救ったフラグの一覧。
同じ時間帯に起きていた事故・死亡ニュースのメモ。
空の視線が、ノートの上をゆっくりなぞっていく。
「これ、全部……」
「ここ数日、俺たちが介入したやつと、その日あった事故だ」
言いながら、自分の声が少し震えているのがわかった。
「厳密な統計でもなんでもないけどさ。どう見ても、変だろ」
「……」
空は黙っていた。
風の音だけが、フェンスを鳴らす。
「最初は、ただの思い込みかと思ったよ」
自分の中で整理するように、言葉を続ける。
「『助けた』って実感が強いから、余計に他のニュースが目につくだけなんじゃないかって。でも、日にちごとに並べてみたらさ」
ページの右側に、びっしりと並んだ文字。
〇人死亡。
一人死亡。
複数人死亡。
短い文章の、その一つ一つが、重かった。
「俺たちが『死』を折った時間帯に、同じくらいの数の『死』が別の場所で起きてる」
空は、ノートから目を離さない。
「……偶然かもしれないよ」
「偶然にしては、出来すぎだろ」
思わず、声が強くなる。
「なあ、天城」
名前を呼ぶ。
「お前、知ってたんじゃないのか」
空の肩が、わずかに揺れた。
「知ってて、『フラ改やろう』って言い出したんじゃないのか」
「……何を?」
「死は消えてなんかいなくて、どこかに移動してるだけなんじゃないかってことだよ」
屋上に、言葉が落ちる。
自分でも、聞きたくないことを口にしている自覚はあった。
でも、ここで聞かなきゃ、きっとずっと気になる。
空は、しばらく何も言わなかった。
風に髪を揺らされながら、遠くの空を見ている。
やがて、小さく息を吐いた。
「……ある程度はね」
それは、否定ではなかった。
「ある程度?」
「全部わかってるわけじゃない。でも、『あ、今の死んだフラグだな』ってやつが消えた直後に、どこか別の場所で似た色のフラグが立つ瞬間を、私は何度も見てきた」
「似た色?」
「うん」
空は、自分の頭の上を指さす。
「フラグってさ。黒とか赤だけじゃなくて、微妙に色が違うでしょ」
たしかに。
俺の視界に浮かぶアイコンは、黒や赤をベースにしながらも、それぞれ少しずつ色味が違う。
鈍い赤。濃い紫。青みがかった黒。
事故死。病死。自殺。殺人。災害。
種類が違えば、色も違う。
「ある日ね」
空は、フェンスに背中を預けるように座り込んだ。
「私の友達が、事故で死んだ」
さらっと言うには、重すぎる一言だった。
「その子の頭の上には、ずっと【事故死・即死】みたいなフラグが浮かんでて」
「助けようとは……」
「したよ」
空は、苦笑した。
「でも、そのときの私は、今よりもっと下手くそだった。タイミングを少しずらすことしかできなくて。結果、その子は予定より一週間遅く死んだだけ」
「……」
「そのときの色。フラグの色、今でも覚えてる」
空は、目を閉じた。
「濁った赤紫みたいな、嫌な色だった」
その色が、頭の中にイメージとして浮かぶ。
「で、その子のフラグが完全に消えた夜」
空の声が、少し掠れた。
「テレビで、大きな事故のニュースを見た」
「事故?」
「遠い県だったけど、同じタイプの多重事故。数人が亡くなったって」
空は、目を開ける。
「画面の中で立ち上がったフラグの色がね。あの子のと、すごくよく似てた」
胸の奥が、ざわざわする。
「最初は気のせいだと思ったよ。色なんて曖昧だし。私がそう見たいだけだって」
空は、空を見上げた。
「でも、それからも何度か見た。同じ色のフラグが、違う場所で立ち上がる瞬間を」
病院の中。
災害のニュース映像。
通りすがりの誰か。
空のモノローグが、屋上の空気を少しずつ冷やしていくように感じた。
「世界の死の総量は、変わらない」
空は、自嘲気味に笑った。
「そんな感じがね、ずっと消えないんだ」
「……ふざけんなよ」
思わず、言葉がこぼれた。
「じゃあ、なんだ。俺たちが助けたぶん、どこかの誰かが死んでるってことかよ」
「そうだとは言い切れない」
「言い切れないだけで、そうかもしれないってことだろ」
声が荒くなる。
「それを知ってて、『フラ改』だなんて、楽しそうにやってたのかよ」
「楽しいなんて、一言も言ってないよ」
「笑ってただろ」
昨日のファストフード店での光景が、頭に浮かぶ。
ポテトをつまみながら、「放課後フラグ改変クラブ」だの、「略してフラ改」だのと言って笑っていた空の顔。
あの笑顔の裏に、こんな感覚が隠れていたなんて、想像もしていなかった。
「……笑ってないと、やってられないから」
空は、ぽつりと言った。
「本気で全部背負い込んだら、たぶん壊れるよ」
「壊れたっていいだろ」
自分でも、何を言ってるのかわからなくなる。
「死ぬよりマシだろ」
「そうかな」
空の声が、少しだけ低くなる。
「生きてる方が、いつもマシ?」
「当たり前だろ」
即答した。
迷う余地なんて、ないはずだった。
「俺は、もっと生きてほしかった」
あの交差点の光景が、一気に蘇る。
フラグを見ていながら、助けられなかった親友。
あいつの笑った顔。くだらない会話。ゲームの話。将来の話。
「もっと喋りたかったし。もっとゲームしたかったし。もっとくだらないことで笑ってたかった」
ギュッと拳を握る。
「だから、生きてる方がマシに決まってんだよ」
「……黒江くんは、そうだよね」
空は静かに言った。
「でも、世の中には、『生きてる方が地獄』って思ってる人もいるんだよ」
「だからって、死なせていいわけないだろ」
「いいなんて言ってない」
空は首を振る。
「さっきも言ったけど、私は『死』そのものをなくせるとは思ってない。せいぜい、『形』を変えることしかできない」
「形?」
「即死から即死じゃなくするとか、孤独な死から誰かに看取られる死にするとか。苦痛だらけの最期から、眠るような最期にするとか」
それが、空の言う「マシな死に方」か。
「そんなもんに、意味があるのかよ」
「あるよ」
空は、はっきりと言った。
「あのとき、『誰にも見送られずに死んでいったあの人』が、『誰かに手を握られて死ねた』なら。少なくともその人にとっては、大きな違いだと思う」
「……」
「私がフラグをいじっても、世界の死の総量が変わらないなら」
空は、自分の胸を軽く叩いた。
「それでも、私は『マシ』の方を選びたい」
「そんなの、自己満足じゃないか」
「うん。自己満足だよ」
即答だった。
「でも、なにかしないと、『何もできなかった自分』への後悔から一生抜け出せない」
その言葉が、胸に刺さる。
俺だってそうだ。
あの交差点で、何もできなかった自分を、今でも許せていない。
だからこそ、誰かの死を「マシ」にするために第三者が介入することに、どうしても割り切れない感情が生まれてしまう。
「……結局、お前も俺も、同じとこから逃げられてないってことかよ」
「そうだね」
空は、苦笑した。
「黒江くんは『生』にしがみつくことで、自分の後悔と戦ってる」
「……」
「私は、『死の形』をいじることで、自分の後悔と戦ってる」
価値観のぶつかり合い。
どっちが正しいとか、間違ってるとか、簡単に決められる話じゃない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「どっちにしても」
俺は空を睨むように見た。
「誰かの死を、誰かに押しつけてるかもしれないって事実は、変わらないんだろ」
「……そうかもね」
空が、視線を逸らす。
そのときだった。
視界の端に、鋭い赤が走った。
校舎裏の方。
金網の向こうのスペースで、数人の男子が固まっている。
制服のボタンを外し、腰パンで、煙草を吸っている連中。
この学校で「不良」と呼ばれているやつらだ。
その中の一人。
金髪っぽく染めている、体の大きな男子の頭の上に、真っ赤なアイコンが浮かび上がった。
【暴走・死亡事故・九〇%】
心臓が、跳ねた。
「……マジかよ」
「どうしたの?」
空が怪訝そうに顔を寄せてくる。
「下。校舎裏の喫煙所もどき」
窓際まで駆け寄り、身を乗り出す。
フェンス越しに見下ろすと、不良グループの傍らに、数台のバイクが並んでいるのが見えた。
一人がヘルメットを手に取り、エンジンをかける。
空気が、低い振動で震えた。
「まさか」
空も同じ方向を見る。
「さっきのニュースみたいな……」
【暴走・死亡事故・九〇%】
数字が、じわじわと九五%に近づいている気がした。
「議論してる場合じゃねえ」
考えるより先に、身体が動いていた。
屋上の扉へ向かって走り出す。
「ちょ、黒江くん!」
後ろから空の声が追いかけてくる。
「危ないよ、一人で行くの!」
「じゃあ一緒に来い!」
「そういう問題じゃない!」
それでも、空はため息をつきながら俺の後を追ってきた。
◇
階段を駆け下りる。
さっきの口論のせいで、呼吸はもう荒い。心臓も、さっきからずっと落ち着かない。
それでも、足は止まらない。
校舎裏に出るドアを押し開けると、冷たい空気と、煙草の匂いが一気に押し寄せてきた。
「……なんだよ」
金髪の不良が、煙草を咥えたままこちらを睨んだ。
名前はたしか、宮坂だったか。
授業をサボっているところを何度か見かけたことはあるが、話したことはない。
その頭上には、相変わらず真っ赤なフラグが点滅していた。
【暴走・死亡事故・九〇%】
隣には、もう一つ。
【酒気帯び・判断力低下・八〇%】
鼻につく甘い匂い。ペットボトル飲料に、なにか混ぜているのが遠目にもわかる。
「優等生が、こんなところになんの用」
宮坂が、口の端を吊り上げる。
「先生にチクりに来た?」
「別に、そういうわけじゃない」
足が震えそうになるのを、必死でこらえる。
こういう連中は苦手だ。正直、関わりたくない。
でも、ここで引き返したら、たぶん後悔する。
「お前、どこまで走るつもりだよ」
「は?」
「そのバイクで」
俺は、彼の足元に並んだバイクを指さす。
「今から、その頭で走ろうってのか」
「はあ?」
宮坂の眉が吊り上がる。
「お前に関係ねえだろ」
「関係ある」
言いながら、あの日の親友を思い出した。
信号を渡る前の、何気ない横顔。
【交通事故・致命傷・九〇%】
あのときと同じ数字。
「死なれたら、気分悪い」
口から出た言葉は、我ながら最悪だった。
『助けたい』でも、『心配してる』でもなく、『気分悪い』。
けれど、その本音を誤魔化す余裕が、今の俺にはなかった。
「……は?」
宮坂の目つきが変わる。
「てめえ、なに様だよ」
「黒江くん」
後ろから空が袖を引っ張る。
「言い方」
「うるさい」
空に八つ当たりしそうになって、自分で驚いた。
「死にたがりとか、死を軽く見るやつ見るとイラつくんだよ」
宮坂の手に力がこもる。煙草の灰が、地面に落ちた。
「死にたがり? 誰が?」
「自分の命より、スピードとかスリルとかを優先してる時点で、似たようなもんだろ」
「は?」
宮坂が、一歩詰め寄ってくる。
俺との距離が、一気に縮まる。
「てめえ、俺の何を知ってんだよ」
「知らねえよ」
正直に答えた。
「だけど、今から暴走して死ぬ可能性が九割あるやつに、黙って『いってらっしゃい』は言えない」
「九割?」
宮坂は、意味がわからないという顔をした。
「なに言ってんだ、お前」
俺は、彼の頭上に浮かぶフラグを睨みつける。
【暴走・死亡事故・九〇%】
数字が、じわじわと一〇〇%に近づこうとしている。
たぶん、このまま何も言わず見逃せば、彼はバイクにまたがって、スピードを出して、ガードレールか電柱に突っ込む。
その先の光景は、容易に想像できた。
「頼むから、やめておけよ」
喉がひりつく。
「今日だけでもいい。走るなら、酒抜けてからにしろ」
「説教かよ」
宮坂は、鼻で笑った。
「優等生様に言われる筋合いねえんだわ」
「そうだろうな」
それでも、引けなかった。
「でも、言う。だって、あんたが死んだあと、俺は『見てたのに何も言わなかった』自分を一生殴り続けることになるから」
宮坂の表情が、一瞬だけ揺れた。
沈黙。
その間にも、エンジン音は低く唸り続けている。
他の不良たちが、困惑したように俺と宮坂を見比べていた。
「……黒江くん」
空が一歩前に出た。
「危ないから、警察呼す――」
「やめろ」
俺は空を制した。
「今ここで大人呼んだら、こいつら一生俺たちの話なんか聞かなくなる」
「でも」
「もう少しだけ、俺にしゃべらせろ」
空は、唇を噛んで黙った。
宮坂は、煙草を地面に投げ捨てる。
「……うざ」
「うざいだろうな」
「うざいし、ムカつくし、ぶん殴りてえ」
拳を握る音が聞こえた気がした。
「殴るか?」
自分で言って、自分でも驚いた。
「殴って気が済むなら、殴れよ。死なれるより全然マシだ」
「黒江くん!?」
空が慌てて止めようとするが、もう遅い。
宮坂は、ほんの一瞬だけ迷ってから、拳を振り上げた。
殴られる、と覚悟した瞬間。
別の手が、その腕をつかんだ。
「やめとけ、宮坂」
低い声だった。
別の不良――眼鏡をかけた、宮坂より少し小柄なやつが、宮坂の腕を押さえていた。
「こんなとこで問題起こしたら、マジで退学だぞ」
「でもよ!」
「それに」
眼鏡の不良は、ちらっと俺を見た。
「こいつの言ってることも、わからなくはねえ」
「は?」
「酒入ってるときに走るのは、さすがにやべえって」
眼鏡は、足元のペットボトルを指差した。
「この前の先輩の件、忘れたのかよ。あれでまだ『大丈夫』って思えるなら、ただのバカだぞ」
宮坂の肩が、ぴくっと震えた。
【暴走・死亡事故・九〇%】
フラグが、わずかに揺らぐ。
「……チッ」
舌打ち一つ。
宮坂は、ヘルメットを乱暴に地面に投げつけた。
「今日だけだからな」
ぶつぶつ言いながら、バイクのエンジンを切る。
その頭上のフラグが、少しずつ変化していく。
【暴走・死亡事故・九〇%】
↓
【暴走・単独事故・重傷・八五%】
↓
【スリップ・骨折・七〇%】
完全には消えない。
けれど、「死」の文字は消えた。
「……十分だ」
小さくつぶやいた自分の声が、震えていた。
「なんだそれ。骨折してもいいのかよ」
空が呆れたように言う。
「ないよりマシだろ」
「マシかどうかは、本人が決めることで――」
「お前が言うな」
空と目が合う。
さっきまで屋上でやっていた議論が、ここでぐるっと一周して戻ってきた気がした。
「……もういいだろ」
宮坂が、不機嫌そうに手を振った。
「お前らの顔、これ以上見てると殴りたくなる」
「それはわかる」
「わかるな」
少しだけ空気が緩む。
不良たちは、しばらく文句を言い合いながら、結局その日はバイクに乗らずに帰っていった。
彼らの背中を見送りながら、俺は深く息を吐いた。
膝から、力が抜ける。
「……無茶するよね、黒江くん」
空が、呆れ半分、心配半分の声で言った。
「殴られてもおかしくなかったよ」
「殴られなかったからセーフ」
「そういう問題じゃない」
空は、少しだけ笑った。
「でも、ありがと」
「は?」
「さっきの、『死なれたら気分悪い』ってやつ」
空は、俺の真似をするみたいに言った。
「かっこ悪いし、全然優等生っぽくないけど」
「ほっとけ」
「でも、好きだよ。そういう言い方」
不意に、顔が熱くなった。
「な、に言って――」
「人としてね」
空はあっさり言い切る。
「ラブではなく、ライク。勘違いしないように」
「わかってる」
わかってるけど、心臓の鼓動は勝手に早くなる。
そのせいで、さっきまで抱えていたモヤモヤが、少しだけ薄まった気がした。
宮坂のフラグは、「重傷・生存」に変わった。
でも、どこかの誰かの頭上には、また別の「死」のフラグが立つのかもしれない。
それを考えると、素直に喜べない自分がいる。
「……本当に、俺たちのせいなのかね」
ぽつりとこぼれた言葉は、誰に向けたものでもなかった。
◇
その夜。
リビングのテレビから、緊迫した音楽が流れてきた。
『速報です。先ほど、市内の幹線道路で多重事故が発生しました』
画面には、赤いパトランプと、渋滞する車列が映し出されている。
レポーターの声が早口で状況を説明する。
『現在までにわかっているだけで、三台の車が絡む事故で、少なくとも一名が心肺停止の状態だということです――』
俺は、ソファの上で固まった。
ニュース映像の中で、通行人や救急隊員の頭上に、黒っぽいフラグがいくつもいくつも立ち上がっていく。
【交通事故・死亡・八〇%】
【救助活動・疲労・四五%】
【目撃・トラウマ・六〇%】
さっき、宮坂を止めたときの感覚が、じわじわと蘇る。
あのとき、俺たちが介入しなかったら。
この首都高の一角に立ち上がった【交通事故・死亡】の一つは、彼の頭上にあったのかもしれない。
でも、今、そこには別の誰かのフラグが浮かんでいる。
交通事故に巻き込まれる誰か。
ハンドルを握っていた誰か。
歩道を歩いていた誰か。
「……本当に、俺たちのせいなのか」
声が、自然と漏れた。
自分のせいだと決めつけるのは、正直、傲慢だとも思う。
俺たちが何をしようと、世界は勝手に回り続ける。
事故は起こるし、人は死ぬ。
だけど、さっき空から聞いた話と、ノートの中の一覧と、このニュースが頭の中で混ざると。
どうしても、「関係ない」とは思えなかった。
「……もし、知りたいなら」
隣で、小さな声がした。
驚いて振り向くと、そこには天城空が座っていた。
「いつの間に」
「さっきからいたよ」
空は、テレビから目を離さない。
「おばさんが『真澄くん、最近元気ないみたいだから、うちでご飯食べていきなさい』って」
母さん、お前……。
突っ込みたいところは山ほどあるが、今はそれどころじゃない。
空は、画面をじっと見つめたまま続ける。
「答えを知りたいなら」
「答え?」
「本当に、私たちのせいなのか」
空の瞳に、ニュース映像の赤い光が映っていた。
「世界の死の総量が変わらないって感覚が、ただの思い込みなのか。それとも、誰かが本当にそういうルールを敷いているのか」
誰かが。ルールを。
その言い方が、妙にひっかかった。
「知りたいなら」
空は、ゆっくりとこちらを向いた。
「“管理している連中”に会うしかないよ」
「管理してる……連中?」
「死とか、フラグとか。そういうのを上から見て、バランス取ってる組織」
空は、ほんの少しだけ声をひそめた。
「仮にの話だけどね」
「仮に」
「うん」
空は、意味ありげに笑う。
「仮に、そういう“管理局”みたいなところがあるとして」
管理局。
その単語が、やけに重く響いた。
「私たちみたいな『フラグに関わる能力者』も、向こうから見たら予定外のノイズなんだろうね」
「……お前、それ」
知ってるような口ぶりだな、と言いかけて、やめた。
空の表情から、冗談なのか、本気なのか読み取れなかったからだ。
「会えるのかよ、そんな連中に」
「さあ」
空は肩をすくめた。
「でも、私たちがこのまま『なんとなく』でフラグをいじり続けたら、そのうち向こうから来るかもしれないね」
それは、脅しなのか、予告なのか。
聞き返す勇気はなかった。
テレビの中では、まだ事故のニュースが続いている。
サイレンの音。慌ただしく動く人影。
その上に、俺にしか見えないフラグがいくつも浮かんでいた。
救ったはずの死。
増え続ける死。
そのどちらの重さも抱えたまま、俺たちは黙って画面を見つめ続けていた。




