おの湯の恋太郎 ~湯けむりが結ぶ命の灯~
白い湯気の向こうに、消えた笑顔がある。
昭和から令和へ、時代が変わっても人の心を温め続ける一軒の銭湯――。
そこに集う人々の想いが、やがて一人の青年を“湯屋の主人”に変えていく。
受け継がれるのは、湯のぬくもりと、人のやさしさ。
そして最後に残るのは、「ありがとう」と「また来ます」の言葉。
小さな町の煙突から立ちのぼる湯気が、今日もまっすぐ空へ昇っていく。
〈主要登場人物紹介〉
前野恋太郎・・・
22歳。大学で銭湯研究会に所属する青年。素朴でまじめ、少し不器用。大学卒業後、廃業を控えた銭湯「おの湯」を継ぐ決意をする。薪で湯を沸かすという古い仕事に汗を流しながら、人とのつながりの温かさを学んでいく。
小野諭吉・・・
80歳。戦後から杉並で銭湯「おの湯」を守り続けてきた頑固で人情深い職人。亡き妻とともに湯に人生を捧げてきた。病に倒れながらも恋太郎に暖簾を託す。
「焦るな。湯は逃げねぇ」が口ぐせ。
小野澄江/信子・・・
諭吉の亡妻。生前は番台に立ち、客たちに親しまれた。
物語では“信子”として再び現れ、恋太郎を支え、姿を消す。不思議でやさしい女性。銭湯の“ぬくもりの化身”のような存在。
登美子さん・・・
八百屋の店主。明るく世話好きで、町のムードメーカー的存在。銭湯を愛し、恋太郎と信子を陰ながら応援する。
純次さん・・・
近所の元水道工事職人。無骨だが心根は熱い。おの湯の修理を手伝いながら、若者たちを見守る。
寛治さん・・・
中華料理店「来々軒」の店主。おしゃべり好き。町の“情報通”で、おの湯のことを誰よりも知っている。
〈ものがたり〉
第1章 廃業の知らせ
杉並区清水の住宅街の一角に、ひっそりと立つ銭湯があった。
その名は――『おの湯』。
夕暮れ時になると、青い暖簾が風に揺れ、どこか懐かしい木の香りと湯気が漂ってくる。古びた唐破風の屋根は、寺社のような気品をたたえ、玄関の横にある煙突からは、今日も白い煙がまっすぐ空へと立ち上っていた。
昭和二十年代の創業。戦後まもなくの混乱期に、先代の小野善吉がこの地で始めた小さな銭湯だった。それから七十年――。今ではこのあたりで唯一残る昔ながらの銭湯となっていた。
その『おの湯』の番台に座っているのが、二代目店主・**小野諭吉**だ。
八十歳を迎えた今も、背筋を伸ばし、ゆっくりとお客の顔を見送るその姿は、昔の職人のように凜としている。
「いらっしゃい。お湯、ちょっと熱めだけど、気をつけてね」
いつものように笑顔で声をかけながら、諭吉は常連の老人に小銭を受け取った。
男の客が脱衣所へ入ると、しばらくして湯気と笑い声が漏れてくる。
――昔はなあ、ここの湯船もいっぱいだったのにな。
ふと天井を見上げながら、諭吉は心の中でつぶやく。
折り上げ格天井の木組みには、長年の湯気がしみ込み、薄い飴色の艶が出ている。亡き妻と二人で磨いた日々が、昨日のことのように思い出された。
銭湯の仕事は、朝も夜も関係がない。
薪を割る音、井戸のポンプのうなり、煙突のうす白い煙、桶の音。すべてが生活のリズムであり、人生そのものだった。
だが近年は、客が減る一方だった。若い世代の多くは自宅に風呂を持ち、昔ながらの銭湯に来る人は、ほとんどが高齢者だ。
毎日のように通ってくる常連たちは、みな顔なじみ。銭湯はもう地域の「風呂屋」ではなく、「老人たちの集会所」と化していた。
夜十一時を過ぎると、いつも通り閉店の支度に入る。
古い柱時計の針が、かちりと音を立てて日付をまたいだ。
諭吉は、表の暖簾をゆっくりと外し、手際よくたたんだ。
そのときだった。
「すみません!」
背後から若い声がした。
振り向くと、そこにはジャージ姿の青年が立っていた。肩にはタオル、手には小さな洗面器。
息を少し弾ませながら、彼は丁寧に頭を下げた。
「もう、終わっちゃいましたか?」
「おお、前野の坊主か。今日は遅いな」
「すみません。大学のほうでちょっと…」
青年――**前野恋太郎**は、銭湯の常連だった。
近くのアパートに住み、週に三回は『おの湯』に通ってくる。まだ二十二歳。大学四年生だが、どこか昭和の香りを残した青年だった。
「入ってもいいけど、もう湯は落としちまうとこだぞ」
「いえ、今日は入りに来たんじゃなくて……」
恋太郎は少し躊躇いがちに口を開いた。
「ここ、今年いっぱいで閉めるって聞いたんですけど、本当ですか?」
諭吉は眉を上げた。
「……誰に聞いた?」
「来々軒の寛治さんからです。こないだ、餃子を食べに行ったときに」
「まったく、あの口の軽い男め。ここだけの話にしとけって言ったのに」
諭吉は、苦笑を浮かべながら頭をかいた。
「まあ、そうだな。今年の年末で終いにする。もうこの体じゃ薪割りもきつくてな。女房も去年亡くなっちまったし、跡継ぎもいねえ。だから、潮時だ」
その声は静かで、どこか諦めがにじんでいた。
恋太郎は言葉を失った。
この町の風景の一部のように当たり前にあった銭湯が、なくなる――。
頭では理解しても、胸の奥がざわついて落ち着かない。
「おじさん……僕、ここが好きなんです。湯気の匂いも、あの富士山のペンキ絵も。
子どものころから、こういう風呂屋が減っていくのを見るのがつらくて……」
「大学で銭湯の研究でもしてんのか?」
「ええ、実は……大学で“銭湯研究会”をやってまして。全国の銭湯をまわっているんです」
「ほう、そんなサークルがあるのか」
「はい。でも……ここみたいな銭湯はもう数えるほどしか残ってません。だから、もしできるなら――」
恋太郎は拳を握りしめ、言葉を絞り出した。
「僕が、この『おの湯』を……継ぎたいんです」
諭吉は驚いたように目を見開いた。
「お前が?」
「はい。まだ何もわかっていませんけど、学びながらやります。だから、もし許してもらえるなら、修行させてもらえませんか」
夜風が通り抜け、暖簾が小さく揺れた。
その音の向こうで、遠くの踏切がカンカンと鳴っている。
諭吉はしばらく黙っていた。
細い指で顎をなで、ふっと目を細めた。
「……そうだな。ここも、もう終わりかと思ってたが……。
お前みたいな若いのが言ってくれると、少しは救われる気がする」
そう言って、諭吉は暖簾を脇に置き、恋太郎を奥へ招いた。
「ちょっと上がれ。話は中でしよう」
廊下の奥には、小野家の居住スペースがあった。
畳の香りがまだ残る和室。壁には、昭和三十年代に撮った白黒写真が何枚も並んでいる。
浴衣姿の夫婦が笑っている写真、開業当時の『おの湯』の前で撮った集合写真――。その一つひとつが、時代の記憶を静かに語っていた。
諭吉は仏間の前に座り、小さな仏壇の扉を開けた。
そこには先代夫婦の白黒写真と、妻・澄江の写真が並んでいる。
写真の中の澄江は、優しく微笑んでいた。
「この人が……奥さんですか」
「そうだ。去年の春に、脳梗塞でな。急だったよ」
諭吉は、少し笑ってみせたが、目の奥はにじんでいた。
恋太郎は、かける言葉が見つからず、ただ頭を下げた。
「お前、澄江を知ってるんじゃないか? 」
「はい。番台からよく声をかけてもらいました。『ご飯ちゃんと食べてる?』って」
「はは、あいつの口ぐせだったな。人の世話焼くのが好きでよ」
諭吉は湯呑を差し出しながら言った。
「まあ、安い茶だが飲んでけ」
湯呑の中の茶はぬるく、苦みが強かった。
だが、恋太郎には不思議とその味が心に染みた。
「お前の名前、恋太郎っていうのか。珍しいな」
「はい。恋愛の“恋”って書きます。あだ名みたいなもので、本名は――」
「いや、いい。恋太郎で十分だ。名前に“恋”がつくなんて、縁起がいいじゃねえか」
そう言って、諭吉は小さく笑った。
仏壇のろうそくが、二人の顔をやさしく照らしていた。
その明かりの中で、古びた座布団の布地が擦り切れているのが見えた。
まるで、ここで過ごしてきた長い年月そのもののようだった。
夜が更ける。
外では、風に乗って煙突の煙がゆらゆらと揺れていた。
近くの通りからは、カブのエンジン音と夜警の笛の音が微かに聞こえる。
恋太郎は、この銭湯を守りたい――そう強く思った。
古い木の香り、桶の音、温かな湯気。
このすべてが消えてしまうのは、あまりにも惜しい。
「諭吉さん。僕、やります。覚悟はできています」
「……そんなに簡単なもんじゃねえぞ。湯屋は体力勝負だ。朝も夜もない。風呂掃除、薪割り、湯加減、ボイラーの扱い、全部覚えなきゃならん」
「はい。全部、教えてください」
諭吉はふっと目を細めた。
「まったく、物好きな若造だ。でも、悪くない。――よし、明日から来い」
「ありがとうございます!」
恋太郎は、思わず深く頭を下げた。
諭吉の背中は小さく見えたが、その姿は、古い湯屋の灯のように、確かに温かく光っていた。
こうして、昭和の香りを残す銭湯『おの湯』に、ひとりの若者が弟子入りすることになった。
この出会いが、やがて二人の人生を大きく変えていくことになる――。
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第2章 恋太郎、現る(修行の始まり)
翌朝。
空はまだうっすらと白み始めたばかりだった。
夏の終わりを思わせる湿った空気が、静かな住宅街を包んでいる。
『おの湯』の裏庭では、トントン……カン……と、薪を割る音が響いていた。
音の主はもちろん、小野諭吉だ。
年老いた体でありながら、手慣れた手つきで斧を振り下ろし、木を正確に割っていく。
薪は近くの解体業者からもらってくる廃材。大きさも形もまちまちだ。これを、浴槽を温める燃料に使うのだ。
「おはようございます!」
恋太郎が元気に声を上げて裏口から顔を出した。
タオルを首にかけ、ジャージの袖をまくっている。
昨夜の約束を胸に、胸を高鳴らせてやってきたのだった。
諭吉は振り向き、少し笑った。
「早いな。まさか本当に来るとは思わなかったよ」
「約束しましたから」
「よし。じゃあ、まずはこれを持ってみろ」
諭吉は恋太郎に斧を渡した。
恋太郎はその重みに思わず腕を下げた。
「うわっ……けっこう重いですね」
「当たり前だ。銭湯ってのは、力仕事の集まりだ。風呂屋は“湯を沸かす”だけじゃねえ。薪を割って、掃除して、配管を見て、客の顔を見て――ようやく一日が終わる。大学の授業よりも濃いぞ」
「やってみます!」
恋太郎は力いっぱい斧を振り下ろした。
だが、木に当たらず、空を切って地面に突き刺さった。
「うわっ!」
「はははっ、危ねぇな! 足まで割る気か?」
諭吉は腹を抱えて笑った。
「腰を入れろ。肩で振るんじゃない。下っ腹で、こうだ」
諭吉が見本を見せる。
斧の刃が木にスパッと入り、乾いた音を立てて二つに割れた。
年老いた腕とは思えないほど見事な動きだった。
「……かっこいい」
「何だと?」
「いや、こういうの、テレビでしか見たことなくて」
諭吉は照れくさそうに笑い、「若いもんに褒められる日が来るとはな」とつぶやいた。
午前九時。
薪割りを終えると、裏庭の隅にある井戸のポンプから水をくみ上げ、湯沸かしの準備が始まった。
「これが今日のお湯になるんだ。地下の水脈からくみ上げてる。井戸水は冬でも冷たいけど、柔らかい湯になる」
ポンプがゴトン、ゴトンと音を立てる。
青いバケツに透明な水がたまっていく。
その音を聞きながら、恋太郎は不思議な感覚に包まれた。
スマホもパソコンも関係のない、まるで時間がゆっくり流れている世界。
――これが“仕事”なんだな、と感じた。
昼近くになると、浴槽の底からごぼごぼと音がして、白い湯気が立ち上った。
木の香りが混じった温かい湯気は、まるで人を包みこむようにやさしい。
「すげぇ……お湯って、こんなふうに生きてるんだ」
恋太郎が感嘆の声を漏らすと、諭吉は「生きてるだと?」と笑いながら、
「まあ、そうかもな。湯を育てるって気持ちは、わからなくもない」と言った。
やがて午後。
のぼり旗を立て、玄関に青い暖簾をかけると、『おの湯』の一日が始まる。
「さあ、開店だ。恋太郎、番台の方は頼んだぞ」
「はい!」
初めて番台に座る恋太郎の胸は高鳴っていた。
磨き込まれた木の床板、ガラス越しに見える脱衣所、柱時計の針の音。
どれもが、彼の中で“仕事の音”として響いていた。
最初に入ってきたのは、白髪の幸之助じいさん。
「おっ、若いのがいるじゃねえか。跡取りかい?」
「いえ、修行中です」
「はっはっは、立派だねえ。最近の若いもんは風呂もシャワーで済ますってのに」
続いて八百屋の登美子さんが現れた。
「まあまあ、かわいい子が番台に座ってると思ったら、男の子なのね」
「どうも、はじめまして。前野恋太郎といいます」
「いい名前ねえ。恋の太郎さん? はは、これは女の子がほっとかないわよ」
恋太郎は顔を真っ赤にしながら「いえ、そんな」と頭を下げた。
脱衣所の奥からは桶の音と笑い声が響いてくる。
――この場所が、みんなの心のよりどころなんだ。そう思うと、胸の奥がじんと熱くなった。
夜十一時。
閉店後の銭湯は、昼間とは別世界のように静まり返っていた。
恋太郎はデッキブラシを手に、タイルの床をこすっている。
湯気が残る浴室の中、冷たい水が足元を流れていく。
壁に描かれた富士山のペンキ絵が、青白い光の中でぼんやりと浮かび上がっていた。
「タイルの目地は優しくな。強くやると削れちまう」
諭吉が背後から声をかける。
「はい!」
恋太郎は力加減を変え、慎重にブラシを動かした。
次に排水口のゴミを取る作業。髪の毛や石鹸カスがからまって、ぬるぬるしている。
「うっ……気持ち悪い」
「ははは、それが一番大事な仕事だ。風呂屋の誇りは“清潔”だぞ。客が帰っても、湯の神さんは見てる」
「湯の神さん……ですか」
「そうさ。風呂屋は、湯を守る神様に仕えてるようなもんだ」
その言葉に、恋太郎は思わずうなずいた。
この湯を絶やしてはいけない。そんな思いが、胸の奥で静かに燃え始めていた。
作業を終えるころには、外はもう午前二時を回っていた。
「おじさん、これから寝るんですか?」
「まさか。今から明日の湯を沸かす。朝までつきっきりだ」
「ええっ!? そんなに大変なんですか」
「薪の残り火が保温してくれるが、温度を保つには細かい手入れが必要なんだ。ボイラーの温度は五十度を維持しなきゃならん」
恋太郎はその言葉に、言葉を失った。
――風呂屋って、こんなに過酷な仕事だったのか。
「さあ、お前は帰って寝ろ。朝から授業あるんだろ」
「でも、残って手伝います」
「気持ちはうれしいが、無理は禁物だ。続けることが一番大事だぞ」
諭吉の声は、湯気の向こうでやさしく響いた。
それからの日々、恋太郎の生活は一変した。
平日は大学へ行き、午後三時半には『おの湯』に出勤。
週末は朝から薪割りと掃除、閉店後の湯沸かしまで付き添った。
疲れがたまっても、不思議と心は充実していた。
「大学は経営学部だって言ってたな。だったら、この風呂屋も経営のうちだ。数字だけじゃ見えねえ“心の商売”ってやつを覚えろ」
「心の商売……ですか?」
「そうだ。客は風呂に入りにくるんじゃねえ。安心しにくるんだ。
“ああ、今日も変わらず湯が沸いてる”って、それだけで救われる人間もいる」
諭吉の言葉が、恋太郎の胸に深く刺さった。
彼はノートを開き、そこに“風呂屋の経営哲学”と書きとめた。
季節は夏から秋へ。
風が少し冷たくなり、煙突の煙がいっそう濃くなった。
恋太郎の手にはマメができ、腕には細かな傷が増えていったが、その顔には充実の笑みが浮かんでいた。
銭湯の仕事を通して、彼は初めて“自分の居場所”を見つけた気がした。
大学の仲間が就職活動でスーツ姿を並べているころ、恋太郎は煤けた作業服で薪を割っていた。
だが、それが恥ずかしいとは一度も思わなかった。
――ここには、守るべきものがある。
古い湯屋の灯を、絶やさないために。
湯気の向こうで、諭吉がゆっくりと微笑んでいた。
「恋太郎、お前、もう立派な“風呂屋の顔”してるぞ」
その言葉に、恋太郎は照れくさそうに頭をかいた。
その瞬間、『おの湯』の煙突から、白い煙がまっすぐ夜空へと伸びていった。
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第3章 湯けむりの青春(独り立ちの試練)
季節は春。
大学の卒業式を終えた前野恋太郎は、スーツ姿の友人たちに囲まれながらも、どこか遠くの景色を見ていた。
友人たちはそれぞれ内定先の話で盛り上がっている。大手企業、外資系、ベンチャー。みんなが新しい世界に向かって歩き出す中、恋太郎だけは静かに心の中でつぶやいた。
――俺の職場は、“銭湯”だ。
その夜、恋太郎は『おの湯』の裏口に立っていた。
玄関の灯が、ぼんやりと彼の顔を照らしている。
扉を開けると、奥の台所から、ヤカンの笛がかすかに聞こえた。
「おう、帰ってきたか」
小野諭吉が湯呑を片手に座っていた。
「卒業式はどうだった?」
「無事に終わりました。みんな、それぞれの会社に決まって……」
「ほう。お前は、ここが職場だな」
「はい」
諭吉はうなずき、湯呑を置いた。
「そうか。じゃあ、今日から正式に“おの湯の若旦那”ってわけだ」
「若旦那……そんな立派なもんじゃ」
「はは、いいじゃねぇか。そう呼ばれてみろ。背筋が伸びるだろ」
恋太郎は、照れ笑いを浮かべながらも、どこか誇らしげだった。
彼の胸の奥に、小さな決意が灯っていた。
その日から、本格的な独り立ちの修行が始まった。
午前六時、裏庭に立ち込める煙の中で薪を割り、昼は掃除と仕込み、夕方には番台に立つ。
諭吉は口では「休め」と言うが、自分も休もうとしない。
「おじさん、休んでくださいよ。僕がやりますから」
「バカ、そう言うやつが一番倒れるんだ。風呂屋はリズムが命だ」
「リズム?」
「そうだ。朝の音、湯の音、桶の音。全部が決まった時刻に鳴る。人の体もそれに合わせて動く。リズムを乱すと、湯も人もくたびれるんだ」
諭吉の言葉は、まるで職人の詩のようだった。
恋太郎はその一つ一つを心に刻み込むように聞いた。
しかし、そんな平穏な日々は長く続かなかった。
春休みの終わり、ある夜のことだった。
閉店後の掃除を終え、恋太郎が浴槽のタイルを磨いていると、奥の番台近くからうめき声が聞こえた。
「うっ……」
慌てて駆けつけると、諭吉が胸を押さえてしゃがみこんでいた。
「おじさん!」
その顔は真っ青で、額には汗がにじんでいる。
恋太郎はスマホを取り出し、震える指で救急番号を押した。
――ピーポー、ピーポー……
サイレンの音が夜の町に響く。
その音が止むまで、恋太郎は諭吉の手を握りしめていた。
翌日。
荻窪の病院のベッドの上で、諭吉は弱々しい笑みを浮かべていた。
「悪いな、こんなことになっちまって」
「おじさん、そんなこと言わないでください。おの湯は僕がやります。だから安心してください」
「……ああ、頼もしいな。けど、無理するなよ」
諭吉は目を細め、静かにうなずいた。
その手の皺を見つめながら、恋太郎は思った。
――この人の代わりに、俺が湯を守るんだ。
病院を出た帰り道、夜風が冷たかった。
街のネオンが滲んで見える。
恋太郎はポケットの中の銭湯の鍵を握りしめた。
「俺が……やるしかないんだ」
それからの日々は、嵐のように過ぎていった。
朝、薪を割り、昼は掃除、午後には番台。夜は湯を沸かし、深夜には次の日の準備。
すべてを一人でこなさなければならなかった。
「いらっしゃい」
声を出すたび、喉がかれた。
重い桶を運ぶ腕には筋肉がつき、マメがつぶれて痛んだ。
それでも、湯気が立ちのぼる瞬間だけは、疲れがどこかへ消えた。
――湯が生きている。
湯気の向こうに、諭吉の笑顔が見える気がした。
「焦るな。湯は逃げねぇ」
そんな声が聞こえたような気がして、恋太郎はまた斧を握りしめた。
しかし、現実は甘くなかった。
ボイラーの調子が悪くなり、湯がぬるくなる日が続いた。
「おい、兄ちゃん。今日はぬるいぞ!」
常連の幸之助じいさんが、桶を叩きながら怒鳴る。
「江戸っ子がぬる湯につかれるか!」
「す、すみません! すぐ直します!」
恋太郎は焦りながら裏の機械室へ走った。
配管のどこかから蒸気が漏れている。
慣れない手でバルブを回し、ハンマーで叩きながら調整を試みる。
けれど、思うように温度は上がらない。
――俺じゃ、やっぱり無理なのか?
湯気の中で、ふと弱気が顔を出した。
そのとき、背後から声がした。
「どけ、貸してみろ」
振り向くと、近所の水道工事屋・純次さんが立っていた。
「ボイラーの音が変だったから、気になって来てみたんだ」
純次さんは額に鉢巻きを巻き、カーキ色の作業服姿。
その手には、年季の入った工具箱。
「こりゃ、ねじがゆるんでるな。蒸気が逃げてる」
手際よく工具を動かしながら、純次さんは言った。
「風呂屋は生き物だ。人間と同じで、どっか悪くなったら、すぐ治さねぇといけねぇ」
「ありがとうございます……本当に助かりました」
「礼なんざいらねぇよ。代わりに今週は風呂代タダにしてくれりゃいい」
そう言って笑う純次さんの顔を見て、恋太郎は心の底から感謝した。
その夜、湯気の中で一人つぶやく。
「俺、まだまだだな……」
けれど、翌朝には、また薪を割る音が響いた。
手のひらのマメを気にすることもなく、斧を振り下ろす恋太郎。
朝日が煙突の上に昇り、白い湯気がゆっくりと空に溶けていった。
その姿を、病院のベッドの上で、諭吉は看護師から聞いたという。
「若いのが、朝から頑張ってますよ」
「そうか……やるじゃねぇか、恋太郎」
老いた手が、布団の上で静かに握られた。
銭湯の夜は長い。
だが、恋太郎にとって、その湯気の一つひとつが未来への光だった。
――湯を守る。おじさんの分まで。
そう誓った夜、風呂場の富士山の絵が、いつもより青く見えた。
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第4章 信子の登場(湯気の向こうの微笑)
その夜、雨が降っていた。
ポツポツと瓦屋根を叩く音が、しんとした住宅街に響いている。
『おの湯』の暖簾をたたみ終えた恋太郎は、軒先で小さなため息をついた。
この時間、町の明かりはもう少ない。電柱の灯が雨にぼやけ、路面に反射している。
今日も一人で掃除を終えた。諭吉はまだ病院のベッドの上だ。
――明日はもう少し湯を熱くしよう。
そう思いながら、鍵をかけようとしたそのときだった。
「すみません!」
雨音の向こうから、澄んだ声が届いた。
振り向くと、傘もささずに立っている若い女性がいた。
「もう閉まっちゃいましたか?」
息を切らし、濡れた前髪を手で押さえながら彼女は言った。
小柄で、丸い目が印象的だ。赤いチェックの長袖シャツにジーンズという、少し地味な格好。
白いガーゼマスクをしているが、その奥の瞳には、はっきりとした意志の光があった。
「もう少し早かったら入れたけど……どうしたの?」
「その……働かせてもらえないかと思って」
「え?」
「私、**信子**といいます。お茶の水大学の四年生で、銭湯同好会に入ってるんです」
「銭湯同好会?」
「はい。卒論で“銭湯の文化と地域コミュニティ”について書いていて……どうしても現場で働きたくて」
恋太郎は、思わず目を丸くした。
自分と同じように“銭湯”に魅せられた学生が、また現れたのだ。
「うーん、でも、給料は払えないよ。バイト代なんて出せない」
「いいんです。勉強のためですから。掃除でも何でもします」
その真剣な目に押され、恋太郎は思わずうなずいた。
「……じゃあ、明日の夕方から来てみる? 」
「ありがとうございます!」
信子はぱっと顔を明るくし、深く頭を下げた。
その仕草がどこか素朴で、恋太郎の胸に温かいものが広がった。
翌日。
午後四時。
『おの湯』ののれんがかかるころ、信子は約束通り現れた。
「よろしくお願いします!」
玄関で元気に頭を下げると、常連たちの視線が一斉に集まった。
「まあ、かわいいお嬢さんねえ」
「若旦那、ついに番台に花が咲いたねぇ」
登美子さんや幸之助じいさんが、からかうように笑った。
「違いますよ、研修です、研修!」
恋太郎はあわてて否定したが、口の端がゆるんでいた。
信子は初日からよく働いた。
モップで脱衣所の床を拭きながら、
「ここ、滑りやすいですね。お年寄りが転んだら危ないですよ」
と真剣に言う。
番台の帳簿を見ながらは、
「料金の締め方、こうすると楽ですよ」
と提案してくる。
「すごいな。前にもどこかで働いてた?」
「いえ、初めてです。見るのが好きなんです。こういう場所」
言葉は控えめだが、動きはてきぱきしていた。
恋太郎は、見ていて不思議な安心感を覚えた。
夜八時。
客足が落ち着く時間になると、信子が急須を持って番台に来た。
「お疲れさまです。お茶どうぞ」
湯気の立つ湯呑を差し出され、恋太郎は受け取った。
ひと口すすると、ふわっと渋みの中にやさしい香りが広がる。
「……うまい」
「お湯の温度と淹れる時間をちょっと変えるだけで、味が全然違うんですよ」
「へぇ……」
同じ茶葉、同じ急須なのに、諭吉が淹れたときよりもずっとまろやかだった。
「おじさんよりうまいな」
「ふふ、褒めすぎです」
信子は照れ笑いを浮かべた。
それからというもの、恋太郎は毎晩、信子が淹れるお茶を楽しみにするようになった。
たとえ客が少なくても、その時間だけは心が穏やかになった。
ある晩、雨がまた降り出した。
客もまばらで、時計の針が十時を指している。
「今夜は静かですね」
「雨の日はだいたいこんなもんさ」
恋太郎はモップを持ちながら言った。
「これから浴槽の掃除をするけど、信子さん、無理しないで。今日は帰ってもいいよ」
「いえ、やります」
信子は袖をまくって、デッキブラシを手に取った。
湯気がまだ残る浴室で、二人は黙々と掃除を続けた。
壁のタイルを磨く音、水が流れる音、遠くの雨音――。
そのすべてが、不思議なリズムを奏でていた。
「うまいな」
「見よう見まねです」
「ほんとに初めて?」
「ええ、本当に」
恋太郎は笑いながらも、心の中で感じていた。
――この人、どこか“お湯のこと”を知っている気がする。
掃除を終えるころには、深夜を回っていた。
「泊まっていく?」
「え?」
「雨、ひどいし。二階に布団あるから」
信子は一瞬ためらったが、やがて小さくうなずいた。
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
恋太郎は、ちゃぶ台を片づけながら妙に緊張していた。
「ここ、狭いけど、我慢してね」
「大丈夫です。ありがとうございます」
その夜、二階の電灯が小さく灯った。
木造の家がきしむ音が、遠くで聞こえた。
恋太郎は布団に入りながら、ふと天井を見つめた。
――不思議な人だな。
赤いチェックのシャツ、白いマスク、そしてあの穏やかな目。
まるで、どこかで会ったような気がする。
そう思いながら、ゆっくりと眠りに落ちた。
翌朝。
台所から、カチャカチャと音がした。
「ん……」
恋太郎が目を覚ますと、ちゃぶ台の上に湯気の立つ味噌汁と卵焼きが並んでいた。
「えっ……信子さん、これ……」
「朝ごはんです。ご飯ちゃんと食べてます?」
その言葉に、恋太郎はハッとした。
――ご飯ちゃんと食べてる?
それは、かつて諭吉の妻・澄江が、番台からいつもかけてくれた言葉と同じだった。
「……食べてるよ、コンビニだけど」
「だめですよ、それじゃ。体がもたないです」
信子は笑いながら、箸を手渡した。
その笑顔が、澄江の写真と重なって見えた。
こうして、信子は『おの湯』に居ついた。
恋太郎も最初は戸惑ったが、「住み込みの手伝い」と言えば誰も文句は言わなかった。
近所には「妹だ」と説明していたが、来々軒の寛治にはすぐバレた。
「いい子見つけたじゃねぇか、若旦那」
「違いますって!」
「まあまあ、隠さなくても」
その会話がまた、町に笑いを生んだ。
銭湯には、少しずつ明るい空気が戻ってきた。
夜になると、番台の明かりの下で、信子の姿が見える。
湯上がりの客に牛乳を渡し、お金を受け取る。
笑顔が絶えない。
その姿を見ながら、恋太郎は気づいていた。
――あの笑顔が、『おの湯』を明るくしている。
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第5章 ぬくもりの時間(二人の暮らし)
それからの日々――。
信子はまるで昔からそこにいたかのように、『おの湯』の一員として溶けこんでいった。
朝七時。
恋太郎が寝ぼけまなこで階段を下りると、もう台所からいい匂いが漂っている。
味噌汁の湯気、焼き魚の香ばしさ。
「おはようございます」
エプロン姿の信子が、振り向いて笑った。
「おはよう……早いね」
「もう慣れました。朝の空気、気持ちいいですね」
窓の外には、煙突の白い煙がゆらゆらと立ち上り、
屋根に射す朝の光が、まるで金色の湯気のように見えた。
朝食を終えると、信子は掃除の支度を始める。
脱衣所のモップがけ、床のほこり取り、牛乳瓶の整理。
客のいない銭湯は、どこか静まり返っていて、
その音の一つひとつが、まるで生活のリズムを奏でる楽器のようだった。
「お湯の音って、いいですね」
信子がそう言うと、恋太郎は笑った。
「お湯の音?」
「はい。ボコボコって、あれ。なんか、人の鼓動みたいで」
確かに、ボイラーの部屋から聞こえる低い音は、
まるで銭湯の“心臓の鼓動”のようだった。
恋太郎はうなずきながら言った。
「おじさんも、同じこと言ってた。“湯は生きてる”って」
「素敵な言葉ですね」
昼下がり。
『おの湯』は昼間だけ静まり返る。
陽の光がガラス窓を通して格天井に反射し、木の床をやさしく照らしていた。
信子はその光の下で、帳簿を整理していた。
「経営、ギリギリですね」
「言うなよ……(苦笑)」
「でも、工夫すれば少しは良くなるかも」
「工夫?」
「たとえば“回数券”とか、“牛乳セット”とか。常連さん、きっと喜びます」
「へぇ、考えたこともなかった」
信子の発想は柔らかく、現実的だった。
恋太郎は、彼女が銭湯を本当に愛していることを感じた。
夕方になると、客が少しずつやって来る。
暖簾を出してしばらくすると、登美子さんが入ってきた。
「まあまあ、若い子が番台にいるだけで、明るくなるねえ!」
「ありがとうございます」
「お兄ちゃん、もうお嫁さんもらったんだって?」
「ちょっ……違いますよ!」
信子は顔を真っ赤にし、慌てて手を振った。
「そうなの? もったいないねえ。あんた、いい子そうだもん」
登美子さんの笑い声が、脱衣所に響く。
桶の音、石鹸の香り、湯気の揺らめき――。
どれもが、まるで時間を巻き戻したように懐かしかった。
閉店後、夜十一時を過ぎると、ふたりの「もう一つの仕事」が始まる。
浴室の掃除、湯を抜き、ボイラー室で次の日の湯を沸かす準備。
深夜の浴場は静寂そのもので、
聞こえるのはブラシのこすれる音と、湯気のしゅうっと立ち上る音だけ。
「信子さん、もう遅いから休んでいいよ」
「大丈夫です。こうしてると落ち着くんです」
信子の手際は驚くほど丁寧だった。
タイルの隅、排水口、鏡の曇り――どこも見逃さない。
「ほんと、プロみたいだな」
「好きなんです、こういうの。お湯って、人をやさしくしますね」
信子の言葉はいつも静かだったが、
どこか深い場所からにじみ出るような温かさがあった。
掃除を終えるころには、もう深夜二時を回っていた。
ボイラー室では、薪が赤々と燃えている。
「……きれいだな」
恋太郎がつぶやくと、信子は火の前で小さくうなずいた。
「炎って、生きてますよね。ひとつひとつ、呼吸してるみたい」
「そう言われてみれば……確かに」
ふと、恋太郎は火に照らされた信子の横顔を見た。
オレンジ色の光に包まれたその顔は、
どこか懐かしく、そして切なかった。
「……信子さんって、不思議だよな」
「え?」
「なんていうか……前にも会ったことがあるような気がして」
信子は少しだけ微笑んだ。
「私も、そんな気がします」
その言葉に、恋太郎の胸がドクンと鳴った。
翌朝。
登美子さんが野菜を届けに来た。
「ほら、昨日のきゅうりがうまく漬かったから持ってきたよ」
「ありがとうございます!」
信子が笑顔で受け取る。
「いい子ねぇ。おじさんも天国で安心してるわ」
その言葉に、恋太郎の手が止まった。
天国で安心――。
諭吉の病室で握った、あの冷たい手の感触が一瞬よみがえった。
「……俺、もっと頑張らないとな」
「はい。おの湯、まだまだ元気にできますよ」
信子の声は、まるで春風のようにやさしかった。
その日、銭湯には珍しく若い客が多かった。
「SNSで見たんですよ。レトロ銭湯って!」
「お湯、すごく気持ちいい!」
恋太郎は心の中で、信子に感謝していた。
――彼女が来てから、風が変わった。
客たちの笑い声が響く中、恋太郎は番台の奥で湯気を見つめた。
白い湯気の向こう、信子がモップをかけている姿がぼんやり見える。
光が湯気に溶けて、まるで幻のように美しかった。
夜、銭湯の明かりを落とすと、
恋太郎は小野家の居間で、ふたり分の茶を淹れた。
ちゃぶ台の上には、信子が作った煮物と漬物が並ぶ。
「この味、どこかで食べたことあるな」
「え?」
「懐かしい味がする」
信子は、少し寂しそうに笑った。
「そう言ってもらえると、うれしいです」
その夜、風がそっと障子を揺らした。
どこかから、湯の香りが漂ってくる。
湯気のように、二人の距離も少しずつ、静かに近づいていた。
恋太郎は布団に入ってからもしばらく眠れなかった。
あの笑顔、あの声、あの気配――。
彼女のことを考えると、胸の奥がほんのり熱くなる。
――この人がいれば、『おの湯』はきっと大丈夫だ。
そう思いながら、恋太郎は静かに目を閉じた。
外では、煙突からの煙が夜空へまっすぐ昇っていった。
まるで、天へ届く“湯の祈り”のように。
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第6章 失われたぬくもり
秋の風が冷たくなり始めたころ、
『おの湯』の煙突から立つ白い湯気が、少しだけ細くなった。
夕暮れの町に、どこか寂しげに揺れている。
あれから半年。
信子の存在は、すっかり『おの湯』の日常の一部となっていた。
常連客たちは彼女を「若奥さん」と呼び、恋太郎もまんざらではなかった。
湯気の立つ番台で、笑い声が絶えない。
だが、その穏やかな時間は、少しずつ不穏な影を落としはじめていた。
ある日の夜。
信子が掃除を終えて、浴槽の縁に腰を下ろしたとき、
「ねえ、恋太郎さん」
と、静かに声をかけてきた。
「ん?」
「おじさん……小野さん、病院でどうしてるんですか?」
恋太郎はブラシを止めた。
「……ずっと寝たきりだよ。意識が戻ったり、戻らなかったり」
「そう、ですか……」
信子の目がわずかに揺れた。
「この前、おじさんの夢を見たんです」
「夢?」
「ええ。『お湯は命だぞ』って、笑ってました」
恋太郎はその言葉に息をのんだ。
まさに、それは諭吉がいつも口にしていた言葉だった。
「……偶然だな」
「ええ、偶然ですよね」
信子はそう言って、少し寂しそうに笑った。
次の日、恋太郎はいつものように荻窪の病院を訪れた。
病室の窓の外には、銀杏の葉が舞っていた。
ベッドの上の小野諭吉は、痩せて小さくなっていた。
「おじさん、来ましたよ。恋太郎です」
声をかけても、返事はない。
だが、かすかに指が動いたように見えた。
「無理しないで。ゆっくり休んでください」
病室を出る前、看護師が恋太郎に封筒を渡した。
「諭吉さんから預かりました。意識がはっきりしていたときに、“これをあの子に”と」
封筒の中には、厚い紙束が入っていた。
それは、『おの湯』の相続書類だった。
銭湯と家屋の権利を、前野恋太郎に譲る――そう書かれていた。
恋太郎は思わず目を見張った。
「おじさん……俺なんかに……」
手が震えた。
胸の奥に熱いものがこみ上げ、思わずその場に立ち尽くした。
その夜、恋太郎は信子にそのことを話した。
「おじさん、俺に全部譲るって……」
「すごいじゃないですか」
信子は静かに言った。
「きっと、それだけ信頼してたんですよ」
「……でも、俺が継ぐなんて、まだ早い」
「そんなことありません。おじさんの“湯”を受け継ぐのは、恋太郎さんしかいません」
信子の声はまっすぐで、どこか決意を感じさせた。
その夜、二人は遅くまで掃除を続けた。
富士山の絵が湯気に揺れ、どこか優しく見守っているようだった。
数日後の午後。
常連客の一人、幸之助じいさんが、風呂上がりに牛乳を飲みながら言った。
「若旦那、最近湯がぬるいぞ」
「え?」
「ここんとこ、ぬるくてたまらん。俺の古い血が冷えちまう」
恋太郎は急いで裏のボイラー室に走った。
温度計の針は、いつもより低い位置で止まっていた。
配管から微かにシューッという音がする。
「……漏れてる?」
すぐに純次さんを呼んだ。
作業服姿の純次さんは、ハンマーとレンチを片手に現れた。
「おう、また具合が悪いのか」
「すみません、何度も」
「気にすんな。湯屋ってのは、湯が生きてる証拠だ」
配管を点検していた純次さんが顔を上げた。
「こりゃ、修理だけじゃ追いつかねぇな。全部やり直しだ」
「そんな……お金が……」
恋太郎は頭を抱えた。
そのとき、背後から信子が言った。
「“旭屋さん”に頼んでみたらどうですか?」
「旭屋?」
「高井戸の。銭湯専門の修理屋さんです。父が昔、名前をよく出してました」
純次さんがうなずいた。
「そういえば、あったな、そんなとこ。親父の代に一度来たことがある」
その日の午後、旭屋に電話すると、二代目の息子が来てくれた。
五十歳くらいの、眉の濃い小太りの男だ。
「へぇ、親父が昔来た? それは光栄です。さて、どこが悪いかな」
旭屋の職人は、浴槽に醤油を数滴たらした。
「ほら、吸い込まれてく」
「ほんとだ……」
「ここですね。応急処置ですが、一年はもちますよ」
その修理代は二万円。
恋太郎は封筒から慎重に現金を取り出して支払った。
しかし――彼の心には、別の疑問が生まれていた。
「信子さん、どうして“旭屋”なんて知ってたんだろう?」
その晩、恋太郎は番台から彼女を探した。
「信子さん?」
返事がない。
おかしい。いつもこの時間には必ず番台に座っているのに。
暖簾を下ろし、裏の小野家へ回る。
一階の台所はきれいに片付いていた。
鍋も食器も整然と並んでいる。
まるで、誰も使っていないようだった。
階段を上がり、二階の部屋の襖をそっと開けた。
部屋の中は静まり返っていた。
窓際のハンガーには、赤いチェックのシャツも、青いシャツもかかっていない。
いつも干してあった白いマスクも、姿を消していた。
――いない。
胸の奥が、ひゅうっと冷たくなる。
信子の気配が、どこにもなかった。
「……信子」
呼びかけても、答える声はない。
柱時計が、ボーン、ボーン、と四時を告げた。
その音が、やけに響いた。
その夜、恋太郎は何度も信子の携帯に電話をかけた。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません――』
無機質なアナウンスが、冷たく耳に残った。
「嘘だろ……」
彼は何度も繰り返した。だが、結果は同じだった。
まるで最初から、そんな番号など存在しなかったかのように。
深夜。
掃除を終え、湯気の残る浴室に腰を下ろした。
富士山のペンキ絵が湯気にかすみ、ぼんやりと揺れている。
その絵の中に、信子の微笑みが見えた気がした。
「……どこへ行ったんだよ」
思わずつぶやいた声が、浴室のタイルに反射して響いた。
そのとき、携帯が鳴った。
荻窪の病院からだった。
「小野諭吉さんが……先ほど息を引き取りました」
電話の向こうの看護師の声が、やけに遠く聞こえた。
恋太郎の手から携帯が滑り落ちた。
湯気の中で、時間が止まったようだった。
数日後。
町内の人々が集まり、小さな葬儀が営まれた。
登美子さん、純次さん、寛治さん――みな涙ぐんでいた。
祭壇の遺影の中で、諭吉は静かに微笑んでいる。
葬儀が終わり、夜。
恋太郎は一人、仏壇の前に座った。
ろうそくの灯が小さく揺れる。
「おじさん……ありがとう。俺、ちゃんとやるよ」
その横に置かれた位牌に、目がとまった。
そこには、金色の文字が刻まれていた。
――『小野信子之霊位』。
恋太郎は息をのんだ。
「……信子?」
その瞬間、背筋を冷たい風が走った。
まるで、どこか遠くから誰かが微笑んでいるようだった。
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第7章 人生のウイニングボール
春の光が、杉並の街をやわらかく包んでいた。
桜が舞い、風が暖かい。
『おの湯』の煙突から、白い湯気がゆっくりと空に昇っていく。
――おじさん。今日も、ちゃんと湯が沸いてますよ。
恋太郎は、裏庭のボイラー室で斧を握っていた。
薪を割る音が、トンッ、カンッ、と小気味よく響く。
木の香り、煙のにおい、そして立ち上る白い湯気。
それらが彼の新しい日常になっていた。
諭吉が亡くなってから、もう三か月が経った。
最初のうちは、夜になると決まって胸が苦しくなった。
ふと番台の椅子を見つめると、そこにまだおじさんの笑顔があるような気がしてならなかった。
だが、恋太郎は泣かなかった。
泣くよりも、やるべきことがあった。
『おの湯』を守ること。それが、残された自分の使命だった。
毎朝、仏壇の前で手を合わせる。
「おじさん、今日も湯を沸かします」
線香の煙が立ち上り、その奥で微笑む遺影の諭吉が、
「そうか、やってみろ」
と静かに励ましてくれるように見えた。
ふと、横にあるもう一つの位牌に目がとまる。
――『小野信子之霊位』。
信子。あの日、突然姿を消した彼女の名がそこに刻まれている。
「……信子さん」
恋太郎はその名を口にした。
あの笑顔、あの声、あの言葉。
「ご飯ちゃんと食べてます?」
――まるで、おじさんの奥さん・澄江のようだった。
「もしかして……」
思わず口に出しても、答える声はない。
ただ、春の風が障子をすっと揺らした。
その風の音が、まるで信子の笑い声のように聞こえた。
午後三時。
『おの湯』の開店準備。
恋太郎は暖簾を広げ、外の風にあてた。
青い布がふわりと揺れ、文字の「おの湯」が光を受けて浮かび上がる。
番台には、諭吉が生前に使っていた古い木製の札箱。
そこに、恋太郎は新しい札を加えた。
「前野恋太郎」――筆で書いたその文字は、まだ少し震えていたが、心を込めた字だった。
夕方になると、いつもの常連たちがやってくる。
「おう、若旦那、今日もええ湯だな!」
幸之助じいさんが笑いながら桶を抱えて入ってくる。
「ありがとう。今日は井戸水をちょっと深めにくみ上げたんですよ」
「なるほど、湯が柔らかい!」
登美子さんも、風呂上がりに牛乳を飲みながら言った。
「ほんと、あったかい湯ねぇ。おじさんも、きっと喜んでるわよ」
「はい。……たぶん、見てますね」
恋太郎は笑いながら、瓶のふたを外して牛乳を一口飲んだ。
甘い。けれど、少し涙の味がした。
夜。
掃除を終え、浴室の電気を落とす。
タイルの床に映る自分の影。
富士山のペンキ絵が湯気の残り光の中で淡く光っている。
「信子さん……見てますか」
恋太郎はつぶやいた。
返事はない。
けれど、そのとき、不思議なことが起こった。
――ふわり。
湯面に、花びらが一枚、浮かんでいた。
桜の花びら。
どこから入ったのか分からない。
だが、恋太郎はすぐに分かった。
「……ありがとう」
春の風が、浴場の窓を優しく開けた。
空には月が浮かび、白い煙突の上に重なって見えた。
次の日、恋太郎は新しい看板を作った。
木の板に、ゆっくりと筆を走らせる。
――「銭湯 おの湯 二代目 前野恋太郎」。
墨の香りが漂い、文字が乾くと、どこか誇らしい気持ちになった。
看板を掲げたあと、恋太郎は仏壇の前に座り、報告した。
「おじさん、やっと二代目です。
これからは俺が、この湯を守ります」
その瞬間、どこからか、あの声が聞こえた気がした。
「焦るな。湯は逃げねぇ」
――諭吉の声。
恋太郎は目を閉じて、深く頭を下げた。
数日後の夜。
仕事を終えて裏口を閉めようとしたとき、
玄関の前に、小さな箱が置かれていた。
拾い上げると、蓋の上にメモが貼ってあった。
“ありがとうございました。これ、最後の贈り物です。”
中を開けると、そこには古い野球ボールが一つ入っていた。
白い縫い目は少しほつれ、汚れも目立つ。
だが、どこか温かい。
――おじさんの、ウイニングボールだ。
諭吉が若いころ、草野球チームで投げていたときのボールだった。
「これが、俺の“人生のウイニングボール”だ」
そう言って笑っていた姿を、恋太郎は思い出した。
恋太郎はボールを胸に抱きしめた。
「おじさん……勝ったよ。俺、やりきったよ」
その夜、銭湯の煙突から上がる白い湯気が、
月明かりに照らされて、まるで光の帯のように空へ昇っていった。
遠くの空で、誰かが笑っているように思えた。
おじさんかもしれない。
信子かもしれない。
いや――もしかすると、湯そのものが笑っているのかもしれない。
恋太郎は、湯気の向こうを見上げて小さくつぶやいた。
「おの湯は、今日も元気です」
その言葉に呼応するように、
湯気がひときわ高く舞い上がり、春の夜空に溶けていった。
――そして、銭湯『おの湯』の灯は、今日も静かに燃え続けている。
湯のぬくもりとともに、受け継がれた“人生のウイニングボール”が、
次の時代へと、やさしく投げ渡されていった。
(完)
この物語は、銭湯という小さな場所に流れる「時間」と「想い」を描きました。
湯気の中で人は語り、笑い、そして誰かの心を温めます。
主人公・恋太郎が受け継いだのは、古い建物でも薪でもなく、
“人のぬくもり”そのものだったのかもしれません。
銭湯が減っていく時代にあっても、どこかで今も煙突の湯気が上がっている――
その風景が、読む人の心にも静かに残りますように。




