最終話 空を見なよ
すてきな月日は、ゆっくりと流れていき。
もうすぐ本格的な夏がやってきそうな、ある日のことです。
「あれ、ゴウさん……」
「ごめん、せっかく寝ていたのに起こしちゃったか?」
「ちょうど起きたところだから、気にしないで」
ゴウさんが来ているってことは、もう面会開始の二時を過ぎているのね。
「午前中の診察を終えてお部屋に戻ってきてから、ずっと眠っていたみたい」
「昨日の今日だから疲れているんだよ、体の具合はどうだ?」
「もう大丈夫、たっぷり寝たら元気になっちゃった」
「そうか、顔色も昨日に比べるとずっと良くなったな」
「結婚式の夢を見ていて、目が覚めたらゴウさんが横にいてくれたからよ」
「俺は、万能な特効薬かよ」
「来られるのは夕方になるって言っていたのに、早退してきたの?」
「ああ、早く見舞いに行けってみんながうるさく言うから」
「ふうん」
「昨日もいたから、見舞いは夕方からでいいんだって言ったのに」
カーテンと窓を開けて、空気の入れ替えをしてくれているゴウさん。
「それで、診察の結果はどうだった?」
「経過は順調だって、シャワーの許可が下りたわ」
「そうか、良かったな」
面会に午前中の診察、お見舞いやシャワーの許可って?
まさか、あたしが病気になって入院をしていて……。
なんて心配には及びませんので、どうかご安心を。
梅雨の真っ盛りなのに、雨もあたしを気遣って中休みしてくれた昨日。
ゴウさんとあたしの元に、かわいい赤ちゃんが来てくれたの。
大きくてパッチリとした目、色白で細面の女の子が。
お姉ちゃんの結婚式に参列するんで行った、オーストラリアへの。
二度目の新婚旅行で、待望のハネムーンベビーに恵まれて。
そして昨日。
あたしはママになり、そしてゴウさんはパパになったのよ!
「さっきまで、川木と南野が来ていたんだ」
「香澄とハナマルが?」
総務課の香澄はともかくとして。
ただでさえゴウさんが早退しているのに、ハナマルまで来ちゃって。
二人も抜けて、お仕事は大丈夫なのかしら?
「新生児室で赤ん坊を見てもらって、少し前に帰したところだ」
「え~っ、帰っちゃったの?」
ハナマルはともかく、香澄には会いたかったな。
「おまえは眠っていて、いつになったら起きるか分からないから」
「せっかく来てくれたんだから、起こしてくれれば良かったのに」
「寝かせておいてやりたかったんだよ、あいつらにはすぐに会えるんだし」
「あの子たち、何か言っていた?」
「南野が、子供が女の子だからって心配をしていたぞ」
「何を心配していたの?」
「おまえに似たいかれ娘にならないといいけれど、って」
「ふんだ、ハナマルはあたしとゴウさんの赤ちゃんが羨ましいだけよ」
「そういえば、ママの姿が見えないわね」
泊まり込みで付き添ってくれているのに、どこへ行っているのかしら。
「おふくろさんなら、夕方に戻ってくるって言っていたぞ」
「ふうん」
「素っ気ないな、わざわざおまえのために買い物に行ってくれているのに」
「ママが、お買い物に?」
「メロンが食べたいっておまえが言ったから、買いに行くって聞いたぞ」
「わがままぐらい言いたくなるわ、初孫なのに来てくれたのがママだけじゃ」
「外村と昭やおやじさんは、忙しくて帰ってこられなかったって聞いただろ」
「お姉ちゃんや昭さんはともかく、パパまでいないなんて」
「ちょっと顔だけ出してきますから……、とはいかないだろ」
二年前に、オーストラリア支社を立ち上げたばかりなのに。
今度は、シンガポールに支社を出すんですって。
お姉ちゃんと昭さんは先発組だから、去年から現地に出向していて。
最終確認とオープンの事前準備のために、パパも先月から出向していて。
三人は仕事が忙しいから、どうしても一時帰国ができなくて。
ママだけが、あたしの出産に合わせて一週間前から帰国してくれているの。
「何にしろ、もう少しおふくろさんに感謝してもいいんじゃないか」
「そうかしら」
「一人で出産させるのが心配だからって、家族を残して来てくれたんだから」
「ゴウさんだって、忙しいのに来てくれているじゃない」
「俺はおまえの夫で、赤ん坊の父親だから」
「ママだって、あたしの母親で赤ちゃんの祖母よ」
「おふくろさんがいてくれるからこそ、退院後に実家で過ごせるんだろ」
「あたしは、ゴウさんや赤ちゃんと三人一緒におうちで過ごしたいのに」
「実家なら家事を任せられるし、赤ん坊の面倒だってみてもらえるんだぞ」
夜泣きや授乳に、ゴウさんをつき合わせなくてすむのは助かるけれど。
「とにかく、おふくろさんは赤ん坊については先輩なんだから」
空気の入れ替えを終え、窓とカーテンを閉めているゴウさんに。
「赤ちゃんは?」
「さっき見たときは、起きていたよ」
「へえ」
「看護師さんに頼んで、連れてきてもらおうか?」
「そうね、診察のときはずっと寝ていたのよ」
新米ママになったばかりのあたしに抱かれた、赤ちゃん。
授乳を済ませて、満足気な顔をしていたと思ったら。
小さい手をゴウさんに握ってもらって、今はすやすやと夢の中。
「それで、この子の名前は考えてくれた?」
「これはどうかな?」
ゴウさんは、メモを取り出して見せてくれた。
「七夕がお誕生日だものね、ゴウさんならそうするんじゃないかと思ったわ」
「だめかな?」
「ううん、あたしもそれがいいと思っていたから」
「あなたの名前はパパがつけてくれたの、篠原菜々(しのはら なな)ちゃんっていうのよ」
ぷにゅぷにゅのほっぺに触ると、笑っているみたい。
「おやすみなさい菜々ちゃん、いい夢をたくさん見てね」
赤ちゃんがいる生活にもようやく慣れてきた、そんなある日。
菜々ちゃんを寝かしつけて隣の部屋、元あたしの部屋へ行くと。
「そういえばあんた、やけに顔色がいいわね」
いきなりそう言ってきたのは、お泊まりにきているハナマル。
「そうかしら?」
「新米ママなんて、夜中に何度も起こされてへとへとなのかと思っていたわ」
いやだわ、香澄までそんなことを言って。
「疲れてはいるけれど、そこまでじゃないもの」
「そこまでどころか、まったく疲れていないように見えると言っているのよ」
「でも、菜々ちゃんのお世話で眠れていないのは事実でしょ」
「そう、ね……」
「まさか、先輩に押し付けて自分は寝ているんじゃないでしょうね」
「篠原さんに、育児をさせているの?」
「押し付けてなんかいないわ、ゴウさんが育児は二人でしようって言うから」
「あんた、先輩が勝手に育児をしているとでも言うつもりっ!」
「まさか、美乃里だって夜中の育児はしているわよね」
「あたしだって、それなりには」
「やっぱり、ぐうすか寝ているんじゃないっ!」
「本当に、篠原さんに任せているの?」
「仕事柄、夜中に枕元の携帯電話が振動しただけで起きちゃう人だもの」
「だからって、疲れている先輩に」
「それって、さすがにどうかと思うわよ」
「任せきりにしているわけじゃないわ、あたしだって二回に一回は」
「二回に一回ですって、このいかれ娘っ!」
「それはまずいんじゃない、美乃里」
「あたしが起きようとすると、いいから寝ていろって言うんだもの」
「先輩を起こさないように、あんたと赤ちゃんはこの部屋で寝るべきしょ」
「そうねえ、篠原さんは次の日も仕事だけれどあなたは産休中なんだから」
「あたしもそう言ったけれど、親子だから別々に寝るのはだめだって」
お聞きのとおり。
ゴウさんは、家事だけでなく子育てにも全面的に参加してくれているの。
赤ちゃんの夜泣きや授乳で大変なのは、人生のうち今だけで。
そんな経験ができる時間は、あっという間に過ぎてしまうんだから。
二人で協力して、思い出に残そうって言ってくれているんだもの。
そうは言っても。
手伝いにきてくれたママからも、似たようなことを言われたの。
「夜中の授乳やおむつの交換は、剛君も手伝ってくれているんでしょ」
「二回に一回はね、それに昼間はあたしが一人でしているもの」
「昼間はこうしてあたしが来ているじゃない、それに家事だって剛君が」
「妊娠するまでは、家事はあたしがしていたわよ」
「偉そうに言うことじゃないでしょ」
「あたしは赤ちゃんの相手だけしていればいい、そう言ってくれるんだもの」
「それが甘え過ぎだと言っているの、自分から進んでやりなさい」
ハナマルと香澄にもいろいろ言われて、おなかがいっぱいなんですけれど。
「剛君だって、実家にいたころは料理以外の家事をしたことがなかったって」
そりゃそうよね、洗濯の方法をハナマルに聞いたぐらいですもの。
「誰からそんなことを?」
「敦子が、あちらのお母さまに聞いたんですって」
帰ってくるなり、着替えもせずに菜々ちゃんをあやしているゴウさんに。
ハナマルと香澄やママと、そんなやり取りがあったことを伝えると。
「人がどう言おうと、おまえが気にすることはないだろ」
「ゴウさんに甘え過ぎだって言われたのよ」
「まわりの言うことは気にせず、おまえは菜々と遊んでいればいいんだよ」
「でも……」
「菜々が赤ん坊なのは今だけだから、子育ては二人でするって言っただろ」
「ゴウさんがそう言うなら、それでいいけれど」
「いいんだよ、俺の思い出にもなるんだから」
「ふう」
菜々ちゃんが、ようやく寝てくれたんで。
ベッド横の出窓に飾ってある、あの写真スタンドを見ながら。
「ふう……」
もう一度、深いため息。
この写真スタンドを見てため息をつくなんて、いつ以来かしら。
菜々ちゃん、あなたのパパはとってもすてきな人なのよ。
周囲の人が何を言っていても、少しも気にせず。
今しかできない子育てを一緒にしたい、そう言える人なんだもの。
ゴウさんとあたしの、菜々ちゃんとの大切な思い出になるんだからって。
明日は、三人で写真を撮りましょうね。
ゴウさんが買ってくれた、かわいい写真スタンドに入れたら。
この写真スタンドの隣に置くのよ。
おやすみなさい、菜々ちゃん。
わたしを覚えてくれていますか?
このお話を紹介させてもらった、ビルの屋上に立っている風見鶏です。
わたしが知っている三十年以上も昔のお話は、そろそろおしまいです。
最後まで聞いてくれていたあなたにだけに、特別に教えてあげましょう。
「九月も半ばなのに、まだ暑いわね」
大きなスーツケースを引いて、玄関から出てきて。
そう言ってから、雲がゆっくり流れている青い空を見上げているのは。
すっかり大人になった、ゴウ君と美乃里ちゃんの一人娘。
そう、今では二十一歳の菜々ちゃんです。
似たようなスーツケースがあっても、区別できるように。
スーツケースの持ち手には、美乃里ちゃんが買ってくれた。
菜々ちゃんの大好きな、世界的に有名な黄色いクマの小さなぬいぐるみが。
裁縫が得意なのは、美乃里ちゃんが家庭科の先生だからですかね。
いっぽうで図工は苦手、美乃里ちゃんはお絵描き教室に通っていたのに。
数学と水泳が得意だってところは、お父さんのゴウ君に似ているんです。
これじゃあ、両親に似たんだか似ていないんだか。
「行ってきます!」
そう声をかけると、家の中から美乃里ちゃんが出てきました。
いつまでも美乃里ちゃんでは失礼かも、もうすっかりお母さんですからね。
「少し待っていなさい、お父さんが車で送るって」
「電車で行くから、いいわ」
「でも、せっかくおばあちゃんの家まで車を取りに行っているのに」
「お父さんの車、信号待ちでみんなにじろじろ見られて恥ずかしいんだもの」
「確かに、あの車じゃね」
ゴウ君はいまだに、あの黄色い二人乗りのオープンカーに乗っています。
「もうおうちに入ってよ、今週のメソッドは九時にアップするんでしょ」
「そうだったわ、じゃあ頑張ってきてね」
メソッドに、アップって?
時代が平成の初めから終わりまで一気に進んだから、ややこしいですね。
それにはまず先生、瑞穂さんの近況からお知らせしましょう。
サイパンでのバラ園の館長を十年ほど務め、リタイアした後は。
本格的に、本格的にサイパンへ移住しているんです。
移住するにあたっては、ゴウ君がこの家を買い取りまして。
美乃里ちゃんは、一度は断念したお料理教室の先生になっているんです。
今朝は、今週のメソッドを教室のホームページにアップするんで大忙し。
「それに、お昼過ぎにはハナマルおばさんだって来るんでしょ」
去年の春に結婚した南野さんは月に一度、子供を連れて遊びに来るんです。
「ハナマルなら、待たせておいても平気よ」
「でも、香澄おばさんも来るのに」
川木さんは結婚した後も仕事を続けていて、今では立派な総務課長です。
「香澄が来られるのは、夕方だもの」
「もう行くわ、頑張ってきます!」
元気よくそう言った菜々ちゃんは、駅に向かって歩き始めました。
菜々ちゃんの夢は、小児科の看護師さんになることなんです。
今は、大学付属の看護科で勉強をしていて。
二週間の予定で、今日から都内にある病院での実習が始まるんです。
実習生は、実習の期間中はホテルに泊まるから。
あんな大荷物を持っていくんです。
実習が終わり国家試験に合格すれば、春からは看護師さんになるんですね。
口が悪いけれど、優しいゴウ君と。
いつもはきびきびとしているのに、抜けたところもある美乃里ちゃん。
そんな両親に愛されて育ったからでしょうか。
明るくていつも前向きな、頑張り屋さんなんですよ。
菜々ちゃんの夢がかなうことを願い、このお話はおしまいにします。
わたしは今までも、そしてこれからも。
このビルの屋上でくるくると元気に回りながら、町を見渡していますから。
いつかまた、そういった機会があれば。
このお話の続きを、そっとあなたに教えてあげましょう。
Copyright 2025 後落 超
「難ガール 2nd season ~急展開すぎる恋にも難がある~」を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
お読みいただいた方には、心よりお礼を申し上げます。
この作品が自身初の完結作品となり、作者としても感無量です。
この「難ガール」という作品は、最終話の最後のシーン。
研修に向かう菜々ちゃんが家を出発するシーンのために書きました。
あの人の夢がかなっているといいな……。
そう思いながら、この作品を書いたのです。
あの人に会ったのは十年ほど前、たった十日ほどの間でしたが。
小児科の看護師になりたいという夢に向かって、まっすぐに進んでいました。
試験に合格したら、働きたいところも決まっていると言っていましたね。
自分の娘があの人と同年代だったからか、ずっと気になっていましたが。
あの人の夢がかなっているなら、心から褒めてあげたかったのです。
もしもあの人がこの作品を読むことがあり、最終話のタイトルに「あれっ?」と思ったなら。
この作品が、あのときわたしが言った「分かるような形でのお礼」なのだと気づいてもらえると思います。
あの人を知っている人が読者の中にいらして。
これってあの人のことなんじゃないかな、と思ったなら。
そっと、あの人に伝えてあげてください。
そうそう、「日常振り返り日記」は今でも大切にしていますよ。
何度見ても、あの人が描いた世界的に有名な黄色いくまの絵が秀逸です。
新作、「千里の道も歩いてみれば」は、二十六年十月三日から投稿予定です。
一年も先になりますが、開始からすぐに山場がおとずれますのでご期待ください。
お待たせする代わりといったら何ですが、「くまさんの春から 3rd season」の投稿を二十六年四月一日から予定しております。
春は「くま春」、秋は「せんある」でお楽しみください。




