第二十一話 まずはつまずく新婚旅行
記念すべき新婚初夜が明けて、あたしの気分は最高潮。
今日は、新婚旅行へ出発する前に区役所へ婚姻届を提出しに行くんだもの。
「婚姻届けは式の次の日、新婚旅行の前に出しに行くか?」
何日か前にゴウさんにそう言われたときに、思わず聞いちゃったの。
「日曜日なのに、婚姻届が出せるの?」
「結婚や離婚の届け出はいつでもできるし、第二日曜日なのもラッキーだな」
「どうして?」
「俺たちは転出入がないから、住民登録や印鑑証明の手続きもできるんだ」
「ふうん」
各種の提出用紙は、区役所からもらってきているし。
記入も済んでいるから、後は提出するだけ。
「篠原美乃里って、何回も書かされちゃったわ」
「ごみ箱を見れば分かるよ、書き損じた用紙でいっぱいだったからな」
「新しい姓に慣れさせようって、お国の作戦に違いないわ」
「文句を言っているわりには、うれしそうに書いていたじゃないか」
「だって……」
頬が緩みっぱなしなことぐらい、大目に見てよ。
何せ、これを提出すれば正式にゴウさんの奥さんになれるんだもの。
区役所での手続きを済ませてから、東京駅へ。
出発前のホームの売店で、おつまみと飲み物を選んでいると。
「特急の発車まで五分だぞ、早く選べよ」
成田じゃなくて東京駅、しかも特急?
それに、おつまみと飲み物?
新婚旅行は、ハワイに行く予定だったのでは?
そもそも、海外に行くのに出発前に婚姻届けを提出するってことは。
パスポートの名前を事前に変更してあるのかなど、気になりますよね。
実は、こんなことがありまして……。
先週の水曜日に、二人で旅行代理店に行って予約をしたけれど。
あたしは、パスポートを旅行代理店に持っていかなかったので。
おうちに帰ってから、コピーをFAXで送ることになり。
コンビニエンスストアから送ったの。
「見てよ、このパスポートって高校三年生のときの写真でね」
「子供っぽいのは昔からなんだな」
「失礼ね、新妻のレアな写真なのに」
「それより、高校三年生なら二十歳未満だろ」
「だから、何よ?」
「パスポートの有効期限は、二十歳未満だと五年だぞ」
「あっ……、切れている!」
「旅行代理店で、有効期限を確認するように言われていただろ」
言われたわね、アルファベットのつづりと生年月日を聞かれたときに。
でも、リゾートウエアや水着のことで頭の中がいっぱいだったから。
旅行代理店に確認の電話をしようとしたそのときに、向こうから連絡が。
パスポートの内容を確認して、有効期限が切れていると気づいたそうで。
旅行代理店の担当者によると。
パスポートの有効期限が切れている場合、更新はできないんだって。
新規申請と同じ手続きが必要になるから、土日を除いて八日もかかるの。
「明日の朝一番に手続きをしても、間に合わないな」
「新婚旅行は十日後なのに、土日が三日もあるものね」
「突貫で予約するもんじゃないな、新婚旅行なんて」
「近場の国内旅行にすればいいじゃない、二人でいられればあたしは満足よ」
というわけで、ハワイへの新婚旅行はキャンセルすることとなり。
三泊四日で、前に行った伊東のホテルへ行くことにしたの。
勝手を知ったホテルだし、二人だけでのんびり過ごせるんだから。
ここぞというときには諦めが肝心、ここから仕切り直しよっ!
伊東駅からタクシーでホテルに到着して、フロントの前に立つと。
「今度は何に興奮しているんだ、顔が真っ赤だぞ」
仕方がないでしょ、ついに待ちに待ったときがきたんだもの。
フロントで宿帳に記入する、至福のときがね。
前回このホテルに来たときは、「外村敦子」に「知人」だったけれど。
今日は違うんだから。
名前の欄には「篠原美乃里」、関係の欄には「妻」って堂々と書けるのよ。
そんなあたしの期待をよそに、ゴウさんが二人分を書いちゃってがっかり。
確かに、「篠原美乃里」に「妻」とは書いてあるけれど。
「つまらないの、自分で書きたかったのに」
「役所や会社への届け出用紙にさんざん書いたと、愚痴をこぼしていただろ」
「宿帳への記入は何か月も前から夢にまで見ていた、ささやかな幸せなのに」
でも、こんなことでめげていられないわ。
「あの、宿帳のコピーを……」
「おやじさんの会社に続いてまたそれか、やめておけよ」
「どうしてだめなの、記念になるのに」
「他の客だって記入しているんだそ」
「せめて、あたしたちのところだけでも」
「面倒な客だと思われるだけだぞ、あきらめるんだな」
お部屋に入るなり、ゴウさんがバッグから取り出したものは。
一番お気に入りのブランデー。
「そんなものを持ってきたの?」
冷蔵庫にはビールと日本酒が入っているし。
五階の大浴場の横には、缶入りのお酒類の自動販売機があるのに。
「三泊もするんだから、自分の好きな酒ぐらいはな」
そう言いながら、ブランデーと一緒に冷蔵庫に入れた箱。
「今のって、バレンタインデーにあたしがあげたチョコレートよね」
「ああ、新婚旅行のつまみ用に持ってきたんだ」
じゃあ、そのブランデーはチョコレートをおいしく食べるために?
悪いことをしちゃった、そんなものなんて言って。
「それじゃあ、プールに行くか」
「もう?」
「自慢していた、素晴らしい水着姿を拝ませてもらえるんだろ」
ふん、笑っていられるのも今のうちだけよ。
「水着の上に浴衣を羽織っていくからな」
「どうして?」
「温泉はプールの隣だろ、帰りにそのまま行くからだよ」
「じゃあ、着替えちゃうわね」
「いきなり部屋のど真ん中で着替え出すなよ、部屋風呂の脱衣場があるだろ」
「夫婦なんだからいいじゃない、そもそも初めてじゃないんだし」
「親しき仲にも礼儀ありだろ、おまえには羞恥心ってものがないのか」
ふんだ、わざと目の前でゆっくりと着替えようとしていたのよ。
夜にあなたを欲情させるための、入念な下準備だったのに。
プールで遊んだ後は温泉に入り、お部屋に戻ってからは夕食までのんびり。
「ふふっ」
「いきなり、思い出し笑いか」
「だって、前に来たときは他人だったのに今は夫婦だなんて」
湯上りにビールのグラスを片手に、窓辺のイスに座っているゴウさん。
その隣でそんなことを言うだけで幸せだなんて、新婚さんの特典ね。
「これからの予定は?」
「何もないよ、ホテルから出ないで毎日ゴロゴロだ」
「のんびりとお部屋で過ごすのが、あたしたちには一番のぜいたくかも」
「いつも誰かが周りにいて、やたらと騒がしいからな」
ゴウさんが言ったように、滞在中は何もせずにのんびりと過ごしたの。
朝食を済ませて、少しお部屋で休んでからプールへ。
プールの横のお食事処でお昼を食べてから、またプール。
三時にプールを後にして、温泉に入ってからお部屋でのんびり。
お夕食を済ませた後は、お部屋でお酒を楽しんで。
ゴウさんがお部屋を暗くしてからは、新婚夫婦の濃密な時間。
そんな毎日を、ね。
四日間でホテルから外出したのは、二日目のお昼に一度だけ。
午前中のプールの後に、お土産とおつまみの買い出しに行ったの。
駅前からの通りを、腕を組んでのんびり歩きながら。
「新婚旅行のお土産って、何を買ったらいいのかしら」
「俺の会社やおまえの学校関係者には、日持ちする菓子が無難だろ」
「とん起のみんなは何にするの、それに先生には?」
「干物や海産物がいいんじゃないか、伊豆の特産物なんだし」
新婚旅行のお土産に干物って、夢も希望もないわね。
ハワイだったら、何も迷わずにチョコレートを買えば済んだのに。
「会社の人へのお土産はお菓子にするんでしょ、どこで買うの?」
「ホテルの土産物コーナーで買うよ」
「あたしも、学校のみんなと香澄へのお土産はホテルで買うわ」
「干物や海産物はもう買っちゃうの、帰る日にじゃなくて?」
「慌ただしいだろ、帰り際に選んで買うんじゃ」
「痛んじゃうわよ、お部屋の冷蔵庫に入れておくの?」
「宅配便で到着日を指定して送ればいいんだよ、帰りの荷物にもならないし」
前に来たときに寄った、ビーチの前の干物屋さんに着くと。
例によって、お店の冷蔵庫からお酒を取り出したゴウさん。
お金を払うと、それを飲みながらお店の人が焼いてくれる干物を試食して。
「オバちゃんへの土産は、俺が選ぶから」
「じゃあ、あたしは?」
「おまえは、とん起のみんなへの土産を選んでいろよ」
はっ!
「ハナマルへのお土産はあたしが買うから、ゴウさんは買わないで」
「結婚したっていうのに、まだそんなことを言っているのか」
二本目のお酒が空になるころにはお土産も決まり、発送手続きも済ませて。
「あたしたちのお土産はどうするの?」
「ホテルの塩辛がうまかったから、二種類は買うつもりだよ」
「このお店では何か買ったの?」
「イカの一夜干しを」
干物屋さんを出ると、前に寄ったビーチ沿いにある磯料理のお店で昼食を。
ゴウさんって、同じところで同じことをするのが好きなのね。
ホテルに戻ると、もう一度プールに行ってから温泉を満喫して。
夕食までの間、お部屋に戻ってのんびりしていると。
いきなり浴衣を脱いで、上半身が裸になったゴウさん。
専用らしきパット付きの棒で、アフターローションをぱたぱたしているわ。
「ふうん、男の人もお肌のケアをするのね」
「これだけしっかり焼いたからな」
「しっかりどころかやけどでしょ、出社したらびっくりされちゃうわよ」
「誰も驚かないよ、毎年のことだから」
「毎年、こんなに真っ黒になっているの?」
「それより保湿のジェルを背中に塗ってくれよ、自分じゃ届かないんだ」
「一人じゃ塗れないって、昨日はどうしていたの?」
「風呂上がりに、脱衣場でローションだけ塗ったよ」
「どうしてジェルは塗らなかったの、脱衣場だと周りに人がいるから?」
「初日だし、焼いたのは午後の一時間半だけだったからな」
「でも、ちょっと変な気分になるわね」
「何が?」
「だって、裸のゴウさんにぬるぬるのジェルを手で塗っているんだもの」
「まだ日も高いのに能天気でいいよな、新妻さんは」
そうか、日が暮れてから塗ってあげられたら最高だったわね。
そんなこんなで、あっという間に最終日に。
十時にホテルをチェックアウトすると、送迎バスで駅へ。
「帰りの特急は二時でしょ、何をして過ごすの?」
「駅前で、追加の土産でも買っていこうか」
「ほとんど買っちゃったわよ、さすがにお土産屋さんも見飽きているし」
どうにか時間をつぶしたのに、まだ十二時前。
「食事をしていこうか、前に行ったとんかつ屋でいいだろ?」
テーブルを挟み、向かい合わせで座っているんだけれど。
あたしは、テーブルに運ばれてくるお料理を見ながら。
「ゴウさんが海産物は飽きたって言うから、このお店にしたのに」
「それが、どうした」
「頼んだものは、カニコロッケとエビフライにカキフライじゃない」
「そりゃ、とんかつ屋だから」
「違うわよ、海産物ばっかりだって言っているの」
「刺身や焼きものをパスしたいだけだよ、それにハンバーグだって頼んだぞ」
あれ。
「もしかしたら、これって夫婦げんかの第一号なんじゃない?」
「つまらないことでうれしそうに、お幸せなことで羨ましい限りだな」
とりあえず、無事に終わろうとしている新婚旅行を祝して。
キンキンに冷えたビールで、乾杯!
ホームに響く乾いたセミの鳴き声を聞いていると、夏も終わりって感じね。
たった三日前に到着したときには、夏の真っ盛りって感じだったのにな。
そんなことを考えていたら、ゆっくりと特急が入ってきたわ。
最初の計画とは違って、近場で三泊四日の新婚旅行だったけれど。
あたしとゴウさんには、これで良かったかも。
普段から、予定どおりにならないのには慣れっこだし。
おうちに帰れば、また騒がしい毎日が待っているんだもの。
二人きりでゆっくりできたことは、きっと一番の思い出になるわよね。
この特急が到着したら、新婚旅行が終わっちゃうのはちょっと残念。
でも、新婚生活はこれから始まるんだものね。
後はこの四日間、ずっとお願いしていたことをかなえてもらうだけか。
ハネムーンベビー、カモン!
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