第二話「皐月」
――五月。宙は学校で居残りをしていた。
「宙~」
「お~、皐月」
「美術館はどうなったの~?」
「あっ!すっかり忘れてた」
「今週行こう!日曜日!」
「うっしゃ!私、行きたいところあるんだ~。付き合ってよ」
――日曜日。二人は駅で待ち合わせ、美術館に向かう。
「私って勉強ばかりしてるじゃん?」
「ん?まあ、そうだな」
「だからさ、芸術って憧れるんだ」
「なんで?」
「いやだって、いくら勉強してもさ、美しいものを表現出来るかどうかは別なんだよ。私、絵も描いてるんだけど、あまり上手く描けないんだよね」
「そうなんだ?」
「こんなに勉強ばかりしてるけどね、私の夢は画家になることなんだ」
「ほほ~、叶うと良いね。応援する」
美術館に着き、二人は中を見て歩く。皐月はある絵の前で立ち止まり、その絵に夢中になって見ている。抽象的な絵だが、宙は絵が発するものを直感した。これは大切な人を亡くした人の絵だ。まるで靄がかかった世界を生きている、その悲哀をここで表現している。
「こういうのが好きなのか?」
「抽象画が好きなの、私。どこまでも曖昧で、形にならないものの形が」
「さっき、勉強と美術は違うって言ったじゃん?私にとって、知るっていうことは手段なんだよね。この世を生きていくための手段。だけどね、この人たちは知ったことをそのまま表現している。そう思わない?私って割と過保護な親に育てられてるから、勉強も詰め込められるようにしてきたんだよね。正直、ちょっと苦しかった。だけど、ここでは知ったことをそのまま発しているじゃない?夢のような世界だと思うんだよね」
美術館を見終わり、二人は駅で別れ、宙が家に帰ると、大和が話しかけてくる。
「今月の教義は「多重の見」というやつじゃ」
「皐月という女の子がおるじゃろう」
「なんで知ってんだよ。今日、皐月と一緒に美術館行った」
「どうじゃった?絵は興味あるのか?お前さん」
「そこで体験したはずじゃ。抽象的なものから見えるもう一つの見え」
「ここまでは二重の見じゃが、お前さんには皐月の夢で「多重の見」を起こしてもらう」
「お前さんはもう人の夢に潜り込める。眠りの中でも自然と潜れるじゃろう」
宙は部屋に戻り、絵のことを思い出しながら、皐月にも思いを馳せていた。いつの間にか寝る時間になり、宙は夢の中にいる。そこは皐月の夢の中だった。
「宙!早く!楽しみにしていた美術館なんだ」
駅で待ち合わせていた二人。美術館へと歩いて行く。
「今日はなんと、殺人鬼の絵画展!ねえ宙!殺人鬼って何考えていると思う?」
「何って……、何だろうな」
「私たちには到底理解出来ない世界で生きているじゃない?一説によると、殺人鬼って大体、幼少期に虐待にあっていたんだって」
「そうなのか」
「私、本で読んだの!日常的に暴力を振るわれて、ひどいことも言われて育った子供って、脳が戦争に行った人くらい、萎縮してしまうんだって」
「そっか~……」
「機能という言葉ってあるじゃない?自慰行為をすれば、射精に至るでしょ?反復してこすれば、嫌でも射精するじゃない?」
「皐月?いつもの皐月らしくないぞ?」
「とにかく、身体ってそういうものよね。反応しちゃうものなのよ。幼少期に暴力を繰り返し受けて、ひどいことも言われ続けたら、身体はそれに反応しちゃうわよね。思い切りぶたれるとするでしょ?そうしたら身体は硬直するわよね。言葉にしてもそう。ひどいことを言われ続けたら、心も強張る」
「反応ってじゃあ何かって言ったら、ある種の同調よね。ぶたれたら、ぶたれたことに同調するのよ。身体ってそういうものよね。その内、そういう心に染まっちゃうんじゃないかしら。それで自分も誰かに暴力を振るわざるを得なくなる。私思うんだけど、あの人たちって自動的に人を殺しちゃうような気がするの」
美術館に入ると、中は薄暗く、人はいるが、どの人もぼんやりとした輪郭しか分からない。どの絵画も斜め上から、暖色系の明かりが灯されている。様々な絵があり、どれも額縁は金色のものだった。暗い牢屋の中で不気味に笑う道化師の絵や、巨大な扇風機が人体を切り刻む絵、血の湖の中を泳ぐ悪魔の絵、明るい陽の射す草原で、目の下に大きな隈が出来た少女が笑っている絵、濃く暗い色だけを使い、歪んだ空間を描いた抽象画など、皐月はどれも楽しそうに見ていた。その内、皐月は一つの絵に夢中になった。太陽と月の絵だった。暗い背景の中、どちらも同じくらいの大きさで描かれており、太陽と月の周りにはエネルギーのようなものが描かれている。そのエネルギーは互いを呑み込もうとしているようだった。
「陰陽がモチーフの絵ね……」
「ほら?思い出せる?陰陽のマーク」
「なんで殺人鬼がただの陰陽を描いたのか気にならない?」
「なんでだろうな」
「私思うのよ。きっと殺人鬼って世界の究極を生きている」
「彼らの中には世界の真理が見える人がいるんじゃないかしら」
「なるほど……」
「私もこんな絵が描きたいな」
宙は目を覚ます。いつものように学校に行く。授業が終わり、休み時間になる。宙は人の心に潜れるようになっていた。人が何かを取り繕っても、その潜在する心を宙は掬い取ることが出来た。休み時間に自分に話しかけてくる人の潜在する心を、宙は逐一読み取った。本当は怒っていたり、本当はバカにしていたり、本当は嬉しがっていたり。宙は少し気になっていた。逆はあり得るのだろうか?人の精神に感応することは出来る。では自分の精神を人に感応させることは出来るのだろうか。宙は試しに自分の思い浮かんだことを人の精神に当ててみようと思う。教室で喋っている二人がいる。その会話を聞きつつ、その話に自分の思念を乗せるイメージをする。声がうるさいと感じること、自分がそう感じるようにする。すると宙の精神とシンクロするように、喋っていたクラスメイトは、少し嫌な顔をする。
「お前、声うるせえな」
なんだこりゃ。これじゃまるで、心を操れるみたいじゃないか。少し自分が怖いな。海子がやって来た。
「ねえ、宙~、こないだ皐月と美術館行ったんだって~?良いな~、私も何か誘ってよ~」
「ん、まあ、今度な」
「なんか、塩対応だな~」
「レストランでも行くか?」
半笑いで宙が言う。
「えええ、良いじゃ~ん。行こうよ。デート、デート」
「今度な」
宙は目の前の海子にあまり集中出来ず、不貞腐れながら海子が去る。
学校帰り、木に止まっている鳥に、クラスメイトにやったような、自分の思念を当てることを試してみる。鳥を意識し、飛びたくなるようなイメージをする。しかし、鳥は全然動かない。人間以外には効かないのか?色々な存在の心に感応することは出来ても、感応させることは人間しか出来ない。なんでだろう。家に帰ったら大和に聴いてみるか。
「それはな、意識の発達の有無じゃな」
「人間は阿頼耶識を意識することが出来る」
「しかし、動物は阿頼耶識の中だけで生きてるんじゃよ」
「お前さん、テレパシーノックアウトに手出しておらんじゃろうな」
「何それ?」
「心に呼応し、それに感応する。これが精神感応じゃ。いわゆるテレパシー」
「逆に感応させること。これがテレパシーノックアウトじゃ」
「いや、今日学校で使ったよ」
「お前さん、テレパシーノックアウトはあまり使わん方がいいぞ」
「人を操ることなんてない方がいいじゃろ。倫理的な問題じゃな」
次の日、学校で海子にまた話しかけられる。
「ね~、宙、なんで最近上の空なの」
「悩み事なら聴いてあげても良いよ~」
「いや~、なんというか、世界って面白いよな」
「すごい漠然としてるね」
「海子も、世界が面白いって感じるようになりたいな~」
「お前はいつでも面白そうだろ」
「バカにしてるでしょ」
「褒めてるんだよ」
「やっぱりバカにしてるじゃん」
「宙、学校終わったらファミレスでも行かない?」
「いいよ~」
――学校近くのファミレスにて。
「最近、皐月と仲良いね」
「なんかあったの?」
「いや、たまたま美術館行っただけだよ」
「ふ~ん」
「最近、宙変だよね」
「そうか?」
「何か隠し事してるでしょ?」
「海子、心って何だろうな」
「始まったよ。ポエマー、宙」
「俺の直感では、心というのは夢というものと深く関係している」
「ふ~ん、海子、違うと思うな~。心っていうのは考えるものじゃなく、感じるものだよ」
「なるほど」
「海子、感じるっていうのは人間だけの特権なのかな?」
「どうだろうね~、動物も無自覚に色々感じてそう」
「なるほどね」
「ポエマーの宙はそこまで嫌いじゃないけどね」
「海子は素直だからな。そういう意見は助かる」
「最近、俺先生が出来てさ。色々教えてもらってるんだ」
「何の先生よ」
「なんというか……、夢の先生?」
「なんだそりゃ」
「海子はどんな夢を見るんだろうな~」
「私の夢~?ろくでもないよ」
「良い夢見ないのか?」
「あんまり見ない」
「そっか~」
他にも適当な雑談をして、二人はファミレスでの時間を過ごした。そろそろ帰ると言い、宙はファミレスを後にした。三週間目の日曜日はどんな夢を見るのだろうか。いつも決まって日曜日に夢を見る。本当にその人の夢の中なのだろうか。ただ自分が見ているだけじゃないのだろうか。少し疑ってみるが、夢の中の皐月との出来事は、皐月の深層を見ているような気がした。それに何より大和との会話がある。薄暗がりの中、ふと太陽と月の絵のことを思い出す。二重の見か~。多重の見にするって言ってたな~。太陽と月の関係を多重にするのか?よく分からんな。本屋にでも寄るか。
『元型論』というユングの書いた本を見つける。適当にページをめくっていく。潜在意識の領域に元型というものがあると書かれている。神話に出てくる物語と、それを知りもしない精神疾患を持つ人の妄想が重なったらしい。ユングはそれに答えるために、元型という概念を用いたとある。つまり精神現象を象る共通の型と考えられるものだ。宙はなんとなく自分の身に起きていることとリンクするだろうと思い、心に留めておいた。
次の日、学校へ行くと、皐月が何やらノートに描いているのを見つけ、思わず覗き込む。
「見ないで!」
「なんだよ。別に良いだろ」
「嫌なの」
「私が思っていることを人に知られたくない」
「勇気出さないと。画家になるんだろ」
「嫌だったら嫌だ」
「そこまで言うなら見ないけどさ」
三週目の日曜日、皐月の夢の中に宙はいる。広々としたスタジオに皐月はいて、壁には大きなキャンバスがある。壁の前には大きな筆を持った皐月が立っている。
「お~、宙、今度はここまで来たのね」
「何回も描いてるんだけどね~。なかなか上手く描けない」
皐月はキャンバスを塗りつぶしている。
「何回も、何回も描いてるの。でもね、平面的なのよ。私、宇宙に辿りつけるような絵を描きたい」
描いては、その上から塗り、描いてはその上から塗るを繰り返す皐月。
「私ね、正直怖いの。表現することが。勉強なんて簡単よ。言われたことを言われた通りに書くんだもの。でもね、思ってることは、私の思ってることを表現するのはすごく怖い。もしも、私の信念が真っ向から否定されるようなことがあれば、それはすごく怖い」
「真理だと思っていることをこのキャンバスに描いて、鼻で笑われたらどうする?」
皐月が筆でキャンバスを叩く。
「本当に正しいことは、誰の目から見ても明らかなんじゃないか」
皐月が笑う。
「どこからどう見ても、何にだって通用するような、そんな絵を描きたい!だけど勇気が出ないの」
「踊りながら描いてみたら?心を裸にしてさ」
「こんな感じかしら?」
皐月が筆を振り回す。やがて皐月は筆から飛び散るインクだけで絵を描くようになる。皐月の動きは滅茶苦茶だが、ロックンロールを演奏しているかのような、リズムを感じさせる動きになる。
「陰陽ってあるでしょ?あれは一つの真理だと思うの。だけど、それはまだ平面的。このキャンバスに無限の奥行きを与えたい」
「陰陽の間だね」
「そう!私があの絵で好きなのは、陰陽が働き合っている様が見えるから。その働き合いの中に立体がある。奥行がある」
皐月はまるで指揮者のように筆を振り回す。力を入れて筆を振るったその瞬間、大きめの点がキャンバスに打たれる、そのまま動く筆は点から放たれる軌道を描く。キャンバスのあちらこちらに点が打たれ、そこから伸びる軌道は点を結んでいく。あちらの点がこちらの点と結びつき、こちらの点が隣の点と結びつく、やがて重々無尽に点と点が結びついていく。あらゆる点はあらゆる点と結びつき、線は重なり、無数の網目を為す。どこにでも通じる絵が描けた。
「『春の調べ』」
息を切らしながら、汗を拭い、皐月がそう言った。
翌日、宙は学校で皐月と出会う。相変わらず、ノートに絵を描いている。
「ん~~、上手く描けない」
「皐月ならすぐにすごい絵が描けるよ」
「?」