第一話「呼び声」
「黒い夢」
記憶の彼方から呼んでいる
生きることの叶わなかった
その痕跡が
影の世界で蠢き出す
カルマが濃くなり
冥界から香りが立ち昇り
鼻の良い子供が
好奇心に惹かれるまま
揺ら揺らと跡を追う
子供は奈落に墜ちていく
子供は自由に笑い出し
そのまま底で遊び出し
混沌の踊りを踊れば
こわごわ大地は震え出す
踊る影は声を出し
子供は懐かしさに耳澄ます
丁寧に集め、握り締めれば
漆黒の宝石となり
子供のはなさぬ夢となる
呼び声とは何だろうか。助けを求める声、誘惑する声、叱る声、応援する声、様々あるだろうが、少年にとって呼び声とは夢だった。忘却され、抑圧され、かき消された夢、それが少年にとっての呼び声だった。少年はまだ夢を追っている。確かに聴こえたあの日の夢を。
「おい、宙、いつまで潜っている?」
「なんだよ!今日こそ行けると思ったのに。起こさないでくれよ!」
「呼び声がしたんだよ」
「そうか。最初の教義、「呼応」については大分理解出来たようじゃな」
「じゃが、その夢を見終わるのは最後じゃ」
「最後って?」
「今日はここまでじゃ」
「なんでだよ。やっと辿り着きそうだったのに」
「どうせ、もう続きはかなりの間、見れんじゃろ」
「むちゃくちゃ気になるんだけど……」
或る図書館の地中深くに、その一室はあった。畳に襖に掛け軸、和風な部屋に、座布団を一枚敷き、胡坐をかいて座る、少年の名は宙という。名前は宙だが、少年が潜るのは宇宙ではなく、深海のような場所かもしれない。そこは人の潜在意識、阿頼耶識と呼ばれる意識の層だ。誰しもが、意識の届かない場所を持つ。
ところで、意識の届かない場所というのは、他者と繋がっていることをご存じだろうか。少年は今、深海のような心の場所で、自分以外の存在を探している。
駆け足で学校に向かう宙。
「やべえ、遅刻する」
後ろから宙の背中を押す少女。少女の名前は海子。
「宙!おはよう!」
「おお、海子。お前も遅刻しそうじゃんか」
「どちらが早く学校に着くか。勝負!」
二人は競争をしだす。海子の方が早く学校へ着く。
「や~い、のろま~!」
「くっそ!走るの速すぎだろ、海子。俺男なのに……」
授業の始まるチャイムが鳴る。この学年には色々な月がいる。不思議な巡り合わせだ。それはちょうど、1年の中にある月と同様だ。皐月やら卯月やら師走やら、名前がそれぞれ一年の中にいる。
「皐月!国語のテストが近々あるからさ、今日教えてくれ!」
休み時間になると、宙が近くの椅子に座る、皐月に話しかけた。
「やだ!面倒くさい!あっち行け!」
「今度、美術館連れてってやるから!頼む」
「むぅ……、じゃあ今日の放課後、教えてやらんでもない」
「っしゃ!」
――放課後。
「なあ、皐月。最近、変な夢見るんだよ」
「なに?私そういう話好き」
「いや、それがさ。全然景色はないんだけど、真っ暗闇の中にいてさ、どこからともなくピアノの音が聴こえてきて、その音の方にひたすら歩いて行く夢なんだよね」
「ピアノ……?へええ、軽薄な宙でも、そういう情緒ある夢は見るんだね」
「失礼だな」
「ん~~、でもまあ、悪夢ってわけでもないわね」
「いや~、それがさ、その夢を見てから、現実でも何か聴こえるような気がするんだよね」
「あちゃ~……、そりゃやばいわ。病院行ってら」
「病院行ってら、じゃないよ。真剣に話しているのに」
「まあでも、気になるのなら、その方へ行ってみれば?」
「そんな軽々しく」
「そんな重く悩んじゃダメよ」
「そろそろ私帰るから。じゃあね。また明日~」
「あ、は~い。じゃあな~」
帰り道、緑地公園を通る。夕方頃、橙色に染まる空の下、少し立ち止まり、ぼんやりとしてみる。下を向くと、小さな蒲公英がこちらを向いている。宙が最近感じることがある。それは人間でなかろうと、植物であろうと、無機物であろうと、何かの「感じ」を発しているということだ。雰囲気と言っても良い。この蒲公英を見ていると、なぜか元気をもらう気がする。屈託のない黄色、細くても力強い茎、ギザギザした葉は美しくはないが、野生を感じさせる。こんなに低い地面に、少しだけ茎を伸ばし、逞しく咲いている。宙は思う。この存在が発する雰囲気は、まるで声を発しているみたいだと。その声に夢中になっていると、花が何かを話しそうな気がしてくる。石だって何かを話しそうだ。病気なのかな。宙は少し心配になる。時々立ち止まって、ぼんやりと雰囲気のあるものを見つめたりしながら、家に帰った。
「おかえりなさい」と、宙の母。
「ただいま~」
「やっと帰ってきたか」
宙は飛び上がる。
「大和!?」
「どうしたの、宙?」
宙の家には一匹の犬がいる。名前は大和。小さい犬で、ずんぐりむっくりした体形をしていて、薄い白金の毛色をしている。顔はお世辞にも可愛いとは言えない。しゃくれていて、下の歯がむき出しになっている。その犬が今、宙に話しかけている。どうやら宙にだけ聴こえるらしい。本当に病気になったかな?宙が青ざめた顔で大和を見る。
「そんなびっくりするなよ。ワシだって話したいことがあるんだ。それにお前さんが散々、耳を澄ますからじゃ。そんなに夢中になって」
「大和……、ちょっと部屋で遊ぼうか……」
飼い犬と話しているなんて、親に知られたら、病院行き確定だ。大和を抱きかかえ、自室に入る。
「大層驚いているようだが、お前さんの思っている通りだよ」
「どんな存在にだって声がある。お前さんが夢中になり過ぎて、その声が聴こえてきてるのじゃ」
「なんなんだよ、これ……」
「狼狽しているようじゃが、一度覚醒したなら、それを閉じることの方が困難じゃ」
「俺が何したっていうんだよ」
「何度も言うが、お前さんは夢中になっただろ。なり過ぎて魔法の世界に足を踏み入れたんじゃ」
「大和、お前何者なんだよ」
「ワシはただの犬だった。しかし、今は天使みたいなもんじゃ」
「天使……?」
「まあお告げをする役割じゃな。霊界の微かな情報を、お前さんの阿頼耶識を通じてお知らせするのがワシの仕事」
「あらやしき……?ってなに?」
「直に分かる。これからワシはお前さんに神智学を教える。主題は一月に一つある。それらを教義と呼ぶ。」
「話についていけないって……。なんだって教えを受けなきゃならないんだよ」
「直に分かる。まあ人助けと思って、ワシの言うことを聴くんじゃな」
「早速だが宙、今夜、お前さんは夢を見る。この夢の世界が阿頼耶識じゃ」
「なんの夢?」
「それはワシにも分からん」
「宙、お前にこれからしてもらうのは、人の精神世界に入って、人を助けることじゃ」
「それがいみじくも、この世界を救うことになる」
「なんのことを言っているか分からないけど、嫌だよ。面倒くさい」
「ふん。嫌でもワシの言うことを聞くようになるぞ。お前にはどうしようもない。そういう運命だからな」
――その夜……。なんだってんだ。阿頼耶識?世界を救う?無理無理。俺にそんなのが出来るわけないし。病気になっちゃったのかな。それともこれ自体夢なのかな。声を聴こうとして、没頭し過ぎたんだな、きっと。明日からは元通りの日常が帰ってくるだろう。
真っ暗闇の中、どこからともなくピアノを弾く音が聴こえてくる。あの夢だ。ピアノの音が鳴る方へ、歩いて行く。どこか憂愁を感じる、感傷的なメロディーだ。耳を澄ませると、さらに哀しみは深くなっていく。すると、思わず宙の息が出来なくなるほどの苦しみに、ピアノの音は変容する。心配になった宙は歩を早める。いつの間にか宙は走っている。しかし、いくら走ってもピアノの音は近づかない。それどころか,宙が苦しめば苦しむほど、ピアノの音は遠ざかって行った。ピアノの音は悲痛な叫び声にも聴こえ始める。まるで何者も届かない宇宙の最奥で泣いているかのような、そんな音になっていく。宙はその正体を暴かなきゃいけないような気がする。しかしその音に一向に近づかない。
目を覚ます。
「どうじゃ」
「どうじゃ、じゃないよ」
「夢は見たか」
「大和が喋ったのは現実だったのか……」
「見たけど、なんの夢だかさっぱりだ」
「まあ直に分かる」
「そればっかりだな」
飼い犬が喋り出したり、変な夢は見たのだが、宙はいつも通り学校へ行く。放課後になり、学校の廊下を歩いていると、音楽室の方からギターを弾く音がする。宙はなんとなく惹かれ、音楽室の方に行ってみる。そこにいたのは海子だった。
「おお、宙!私、最近ギター練習しているんだ」
「へええ、いいな~。俺もなんか始めたい」
「ギターは良いよ~。中学と言えばギターだよね。思春期は音楽に走るべき!」
「音楽な~。俺は詩とか書くの好きなんだ」
「ええ!宙が作詩すんの?初耳!意外!」
「なんとなくで書いてるけどな~」
「今度見せてよ」
「ん、良いよ~」
学校が終わり、宙が家に帰ると、大和が早速喋りかけてくる。
「宙、夢を見たのなら、今日は行ってもらいたいところがある」
「ええ~、嫌だよ。帰ってきたばかりで」
「まあそう言うな。少し楽しいぞ。行先は図書館だ」
「図書館?まあ、本は好きだから、行ってやっても良いぞ~」
電車に乗り、二人は一時間ほどで図書館に着いた。
「こっちじゃ、こっち」
宙は大和の指示通りに、図書館の中を歩いて行く。奥へと進むと「非常口」が見えてくる。
「え、非常口だぞ。勝手に入って良いのか?」
「入らんと始まらん」
非常口の中に入ると、その奥にまた非常口がある。その非常口を入り、階段を上り、道なりに進み、角を曲がるとまた非常口がある。その非常口に入ると、奥にはエレベーターがある。エレベーターの前に行くと、肉球の形をした認証ボタンがあった。大和がそこに肉球を合わせると、エレベーターのドアが開いた。
「ここから地中深くに行くと、某有名漫画の精神と時の部屋みたいなところがあるんじゃが、そこでお前さんに修行をしてもらう」
「なんじゃそりゃ。本を読めると思っていたのに。なんの修行をすんのさ。てかこの図書館の地中深くにそんな部屋があんの」
「決まってるじゃろ。阿頼耶識に入る修行じゃ」
「またそれか。なんなんだ、全く」
「お前さん、夢を見たんじゃろ。その夢の正体を知りたくはないのか?」
宙は少したじろいで、仕方ないとばかりにため息を吐く。
エレベーターのドアが開くと、無機質な白い廊下が続いている。地中深くのその部屋は、床は畳みで壁には掛け軸があり、和風の部屋をしている。座布団が一枚置いてあり、大和がそこに座るように言う。宙はそこに胡坐をかく。
「やってもらうことはいわゆる瞑想じゃな」
「瞑想と言っても、いわゆる心を無にすることとは違う。夢中になることじゃ」
「お前さんが見たあの夢に向かい、夢中になること。以上」
「なんだよそれ。適当だな」
「さあ、やったやった」
宙は面倒くさがりながらも、夢のことを思い出し、修行をし始めた。心の中にあのピアノ
の音を思い浮かべる。あの音に夢中になってみるのか。しかし夢中ってなんだ?夢の中と書いて夢中。夢の中に入れば良いのか?どうやって?今起きてるじゃん。悶々としている宙。それを見ている大和はため息を吐く。
「宙」
「なに?」
「瞑想ってしたことある?」
「ちょっとは」
「まずは瞑想じゃ」
「心の中を空っぽにすること」
心を空っぽか~……。空っぽってなんだ?少なくとも今こうやってゴチャゴチャ考えているのは、空っぽじゃないよな。言葉を失くさなきゃいけないのか……。宙の集中力が少し高まっていく。沈黙の中、色々な想念が思い浮かんでしまうが、宙はそれでも押し黙るように自分を仕向けた。三時間ほど、宙は瞑想を続けた。
「宙、そろそろ目を開けて良いぞ」
「おっす」
宙はぼんやり目を開ける。三時間も瞑想をすると、流石に世界がぼんやりしている。
「今、眠っているようにぼんやりした気分じゃろう」
「そりゃあね」
「その感覚じゃ。まるで眠りの世界と起きている世界が重なり合っているかのような」
「その感覚が「呼応」を理解するのに必要なんじゃ」
「今日から毎日三時間、この部屋でやってもらうぞ」
――帰り道。いつもより存在が発するエネルギーが強く感じる。石壁が、ガードレールが、電柱も、何かもの言いたげな雰囲気を出している。暗い空でさえも、何か言葉になりそうな「感じ」を抱かせる。いつもの世界ではなくて、空き地に寄って休むことにする。空き地の草花は前に蒲公英に感じたものよりも、力強くエネルギーを発している。
「宙、大丈夫か?」
「うん。なんか世界に迫力が……」
「まあ、お前さん、元から開きつつあったからな。反応が出るのが早いのかもな」
それから毎日、宙は学校帰りに図書館の地下に潜り、瞑想をする。
「なあ、大和、これってこの部屋じゃなくても出来るんじゃないか?」
「この世界は呼応しておる」
「ん?」
「心の奥深くに行くためには、この世界でも奥深くに行った方が良いんじゃ。まあその方が効果的なんじゃよ」
「そうなのか」
「宙、今日はいつもと違うことをしてもらう」
「無になることは容易くなってきたじゃろ」
「なんとなく掴めてきたかも」
「今日は無になりながら、有でいてもらう」
「?」
「お前さん、当初の目的を忘れてはないじゃろうな」
「人の夢の中に入る」
「そうじゃ。じゃが夢の中は有じゃろ」
「そりゃそうだな」
「夢の中の存在というのは、無の中の有なんじゃ」
「つまり、夢の中というからには、眠っていなければならん。しかし眠っているものの、夢を見るからには起きているんじゃ」
「分かりそうな、分からないような」
「人の夢を現すためには、まず自分の心を無にしなければならん。それでいながら、その心の中を他者で満たすんじゃ」
「それってすごい難しくないか?」
「難しいと言えば難しい。じゃが、お前さんもうすでにその域に踏み込んどる。花の声が聴こえそうになったのう。その時のことを思い出してみい」
「なんでそのことを?でも、なるほど……」
「案外、自然と他者なんてやってくるもんじゃ」
「お前さんが、本当にその他者を思っているならな」
宙は潜り込む。ここは無の中、これを夢の中に転化する。始めに俺は声を聴いていた。それは呼び声だった。起きている世界にも声はあった。それは夢中でいる時にあった。耳を澄ますこと。宙の中にふとそんな言葉が思い浮かんだ。そこは無の中だが、澄ました耳には自ずと声が入ってくる。それはあの日見た夢の声だった。暗闇の中、ピアノの音が響き始める。そのピアノの音の中には、抑圧、悲哀、辛苦、悲痛、負の感情が渦巻いている。その音に歌が乗って聴こえてくる。うめき声のように低く唸ったりするけど、それにもかかわらず美しく、真っ直ぐした声、この声の正体を追いかける。しかし、いくら歩んでもいくら走っても、一向に近づかない。
「おい、宙、いつまで潜っている?」
六時間は経っていた。
「なんだよ!今日こそ行けると思ったのに。起こさないでくれよ!呼び声がしたんだよ」
「そうか。最初の教義、「呼応」については大分理解出来たようじゃな」
「じゃが、その夢を見終わるのは最後じゃ」
「最後って?」
「今日はここまでじゃ」
「なんでだよ。やっと辿り着きそうだったのに」
「もう続きはかなりの間、見れんじゃろうと思う」
「行かなきゃいけない気すらするのに……」