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──夕暮れ。空が茜に染まるころ、誰も通らない路地裏で、それは起きた。
「え?」
腹に、ナイフ。
見知らぬ誰か。知らない動機。
叫びも出なかった。ただ、血が溢れて、意識が遠のいていって──
──その後のことはよくわからない。
目を覚ましたときには、視界がすべて赤と黒で満たされていた。自分の体は、人の形すら保っていなかった。
骨のような、肉のような、何か。
伸びた手足の数は合わず、首は逆に折れ、目がいくつもある。鏡で見たくもない。
でも、心は──なぜか、いつも通りだった。
「うわ、やっば。俺、モンスターレベルじゃんこれ……」
のんきな自分の声だけが、怪異の喉から漏れていた。
そのまま這いながら、無人の神社の手水舎でふと思い出す。
《……擬態できるっぽいな?》
意識を集中させると、ぼんやりと元の「高校生の姿」が浮かび上がった。怪異の肉の気配が肌の裏側に引っ込んでいく感覚は、あまりにも気持ち悪かったけど──
「ま、これなら家帰れそうだな」
帰宅。
母親は「遅かったね」と笑ってくれて、父親は新聞を読んだままだった。
違和感に気づいた者はいない。
──そして翌日。
朝、制服を着て、玄関のドアを開けた瞬間、なんかこう……自分の中で“にゅるん”って音がした気がした。
「うわっ、指一本多かった……。やっべ」
慌てて引っ込める。
やっぱり完璧な擬態は難しいらしい。
そんな調子で、いつものように学校へ。
下駄箱で靴を履き替えて、階段を上がって──教室に入る。
「よっ、おはよー」
「……ああ。おはよう」
親友が、少しだけ眉をひそめた。
名前は白川 潤。
霊媒師の家系で育った、感の鋭いやつだ。
「どうした? 朝から難しい顔して」
「いや……なんか、お前、今日ちょっと……“薄い”なって」
「え、なにが? 影?」
「いや、気配っていうか……“人”って感じがしない」
「俺、幽霊になったりしてないぞー?」
「あっはは。お前、冗談っぽく言うけど、マジでそういうノリでヤバいこと起きるタイプだから怖いんだよな」
潤は笑いながらも、背中の鞄から護符の束を取り出して、こっそり教室の四隅を見回している。
彼の勘が“本能的な霊視”に近いことを、主人公はよく知っていた。
──だから、笑顔を浮かべつつ、内心ちょっとだけ焦っていた。
(……やべ。ばれる? いや、バレるよな、そりゃ……)
ただ、心は確かに“人間”のまま。
体はおぞましい怪異に成り果てていても、昨日までの日常を壊すつもりはなかった。
だから今日も、いつも通りに教室の窓際に座って、のほほんとした顔で頬杖をついている。
ただし──背中には、擬態しきれなかった“尾”が1本、生えている。
潤が、じっと主人公の背中を見ていた。
「……なあ。お前、ほんとに何も“ない”よな?」
「いやー。あるのは授業と宿題の山だけだなー」
嘘は、案外簡単につけた。