第1章・第9話 楚の龐越
「何だと?由子が、越南に登用されただと!」
斉の李王は報告を受けて、憤った。この王は、人材収集家の癖があり、天下の人材が自分の所にいなくては許せないタイプの人であった。
楚と戦争をしているのに止めて、呉国を横断して越南に攻め込んだ。
「本格的に斉国が攻めて来ました!」
斥候が息も絶え絶えに報告した。
「馬光はいるのか?」
いれば、すぐにでも飛び出しそうな勢いで由子は尋ねた。
「いえ、おりません。その者は現在、楚と交戦中の様です」
「そうか…」
明らかにガッカリした様子で落胆した。
「軽く蹴散らしたら楚に行くぞ」
事もな気に言ってのけ、由子は500人ほど兵を連れて丘の上に陣取り、他の兵は左右の森林や薮に潜ませていると、やがて斉の先鋒隊が現れた。
「王昱将軍、前方に敵陣が見えます」
「ははは、何だあれは?千騎にも満たないではないか?うん?由の旗印と言う事は、あれが由子か?それ、生け捕れ!王命ぞ!捕らえた者は千金を与える!」
(ふふふ、そしてワシは城持ち城主よ)
王昱の手勢は八千騎だった。500人の敵兵など一飲みだったであろう。相手が由子でなければ…。
丘の上から楚軍へ弓矢を雨の様に降らせ、薪で作った巨大な玉に火を付けて転がした。馬が驚いて暴れ、転げ落ちた所へ矢が降り注ぐ。
そして、由子は一気に丘を駆け降りて、その勢いに乗って一太刀で王昱を討ち取った。
それでも越南軍は寡兵である為、数で押せば勝てると見込んだ斉軍は、将軍の敵討ちと称して猛反撃に出た。
そこへあらかじめ左右に伏せていた兵が突入して来て、散々に斉軍を打ち破った。両翼に千騎ずつで合わせて3千に満たない兵での勝利だった。
由子は本当にそのまま北上し、楚を攻めている馬光と戦いに行きそうであったが、先鋒隊が敗北すると、今度は斉軍の本隊が到着した。
「面倒くさいな。さっさとブチ殺して、馬光の首を取りに行くぞ」
劉信が率いる本隊でも1万8千、馮堅が率いる遊軍で5千、沈将軍が率いる後軍が5千、由子が率いる先鋒が3千ほどで合わせても3万足らずだったが、現れた斉の本隊は8万で、倍以上の兵力差であった。
むしろ3千の兵しか率いていない由子が、8万の敵に対して、「さっさとブチ殺す」とは、大言壮語に他ならず、先の宴の席で自らが言った「大言壮語を吐くな!」とは、どの口が言っているのか?と思った配下は皆、笑いそうになった。
「よく聞け!かつて西楚の覇王・項羽は、3万の兵で56万の劉邦軍を破ってみせた。その差はおよそ20倍である。それに対して我が軍と斉の兵力差は、たったの2倍だ!お前達に見せてやろう。俺の武勇が項羽にも劣らぬ事を!」
由子は天下最強にこだわり、中華史上最強と謳われる項羽の武勇を超える事に固執した。
越南軍は号令と共に、斉軍目掛けて一直線に突っ込んだ。
「ははは、あれしきの兵で何が出来る?蟻の様に踏み潰してしまえ!」
「杀(突撃)!」
両軍は怒号と共に激突した。斬り、割き、突き、あるいは叩く。血煙を上げながら斉兵を寄せ付けず、単身で突っ込んで来る者がいた。その前に斉の将校が立ちはだかった。
「我が名は魏亮」
魏亮は戦斧を振り翳して横殴りに振ったが、由子は上体を逸らして攻撃を躱し様に魏亮の首を落とした。
続いて2人の将校が向かって来たが、1人の槍を左の剣で受け止めると、右手首を返してもう1人の腕を斬り落とした。
そのまま受け止めている槍を跳ね上げて、首を落とすと鮮血が噴水の様に上がった。捨て置いて駆け抜け、敵将に斬り掛かった。
「うぅらぁぁ!」
すれ違うと敵将の喉を掻き切っていた。斉軍は、僅か3千足らずの由子が率いる越南軍によって、恐慌状態に陥った。
「信じられん。何だあいつは?恐れが無いのか?あんな兵力で我が軍を掻き乱しておる」
この時代ではまだ将の強さが、そのまま軍の強さに影響していた。指揮を執るのが将だけであり、将が討ち取られると烏合の衆と化して、何をして良いか分からなくなり、兵は生き残る為だけに逃げ惑ったり、バラバラに行動し始めるので簡単に蹴散らされるのだ。
「由子だ、あいつを討ち取れ!」
「しかし、李王からは生け捕れと命令されております」
「馬鹿か?見ただろ、あの強さを。混戦中に気付いたら死んでたと報告すれば良い」
寡兵の由子に対して波状攻撃を行い、物量で押す作戦に切り替えた。
1人だけ強くても、正面からの正攻法ではこの兵力差は覆せない。気が付けば由子ただ1人になっていた。
「もう勝ち目はない。降伏しろ!」
「ははは、笑わせるな。この世に俺より強い者はいない。誰も俺とは互角に戦えない。千人万人が相手だろうが、1人ずつ確実に殺して行けば、最後まで立っているのは俺だけだ」
この言葉を由子は生涯何度も使っている事から、本気でそう思っていた節がある。
1ミリの恐れもなく、自ら波状攻撃の中に突撃して来た。その言葉通りに誰も由子を止める事が出来ず、遂に突破された。
そこへ伏せていた越南の馮堅が率いる遊軍が突っ込んで来て、斉の陣が崩れた。更にそこへ後詰の沈将軍が突撃して来て、両軍入り乱れて大混戦となった。
その隙を逃さず由子は騎馬から降りて、歩兵に斬り込んだ。天下に恐れられる諜報組織「無影」が生み出した独特の歩法は変幻自在で、それをマスターする由子への攻撃は、空を切って避けられた。身体に掠る事すら誰にも出来ない。
後に馬光が邂逅する。由子の真価とも言うべき、本当の恐ろしさは馬上などではなく、歩法にあると。
かつて彼女と斬り結んだ時、折れた剣で危うく喉元を掻き切られる所であった。歩兵である時の由子が最も恐ろしいと評した。それを斉軍の将帥は身を持って知る事になった。
「もらった!」
目にも止まらぬ飛燕剣によって、斉の将帥の両腕は斬り落とされていた。
「うぎゃあぁぁぁ、殺せ!殺せぇ!」
影歩法で間合いに入ると、既に将帥の首は刎ねられていた。
残念ながら、この時の斉軍の将帥の名前は伝わっていない。しかし、かなりの有力者であった様で、その首を掲げて勝ち鬨を上げると、這這の体で斉軍は退却して行った。
この戦によって由子の名声は天下に知れ渡った。彼女が最も得意とした戦術は、自らを囮に使って敵を誘い込み、挟撃すると言うもので、理屈だけなら単純だが、誰にも殺せない程の武勇を誇る由子であればこそであり、それこそが不敗の兵法と呼ばれた理由だった。
斉軍を撃退し、呉軍が追撃して来る気配が無い為、由子は楚への援軍を進言した。臣下は皆んな、彼女が馬光と戦いたいだけだと分かっていた。
しかし結局は、その意見に押し切られる形でそのまま北上する事になった。楚に着くと、城内は戦勝でお祭り騒ぎだった。話を聞けば、すでに馬光は敗北して撤退したらしい。
「信じられん。一体どうやって?」
探りを入れると、どうやら龐越と言う下級将校が、討ち死にした守将に代わって指揮を取って馬光を撃退したと報告を受けた。
「龐越とは一体何者なのだ?」
「はい、それが全くと言って良いほど資料がありません。今まで、うだつの上がらない将校だったみたいです」
「どうやって撃退したのだ?」
「申し訳ございません。そこまでは分かりかねます」
「分かった。下がれ!」
「はっ!」
(一体どうやって撃退したのだ?それによっては将来、楚を攻める時の障害となるやも知れぬ)
歴史上、身分が低かったり、まだ台頭していない英才が突如現れる事がある。かつて一役人に過ぎなかった斉の田単が、不敗を誇った燕の楽毅を撃退した様に。楽毅は、あの三国時代の天才軍師・諸葛亮孔明が政治においては管仲、軍事においては楽毅に比肩していた事は余りにも有名であり、楽毅は戦国時代に於いて最高級の戦術家であった。
由子は馬光を武勇だけでなく、その戦術、統率力、指揮官としての能力も認めていた。その馬光を退けたと言う無名の龐越の存在が気になって仕方がなかった。




