第1章・第8話 由子、登用される
「紫尚書令の策、まさに神算鬼謀としか言いようがない。それでこれからは、どうするのだ?」
「はい。これから楚を攻めます」
「何と!しかし、それは…」
「はい、秦を併合したとは言え、まだ秦民は落ち着いておりませんし、北には北遼があり、それにも備えなくてはなりません。楚は、呉と斉に迫られ、我国まで敵に回したくは無いでしょう。恐らくは秦に罪をなすり付け、和平を申し込んで来ると思われます」
「なるほど。楚を攻めるぞ、と見せかける訳か」
「問題は、和平を結ぶと今度は斉と呉を敵に回す事となります。ご存知の様に、南中華で斉国は最も強国で御座います」
「うーむ。一難去ってまた一難か…」
劉信は頭を抱えた。
馮堅将軍に一軍を率いさせて、楚を攻めさせた。すると直ぐに水姫の予想通り、攻めるポーズを見せただけで慌てて楚は和平の使者を送って来た。
楚は秦に呉を攻めて欲しいと依頼はしたが、越南を攻めろとは言っていない。それは秦が欲を出しただけで、楚は知らぬ。証拠の念書もある、と言って弁明した。越南としては、それを認めて和平を結んだ。
和平を結んだので、楚から莫大な貢物が贈られて来た。越南に対して秦の代わりに、呉を攻めて欲しいと言うのである。楚の先の弁明による理屈が通っている為に、断る事が出来なかったのだ。
楚から呉を攻めるなら、長江(揚子江)が阻み、水軍が必要となる。しかし、越南は陸続きで呉と接している為、水軍は必要ない。
越南軍は、陸路から呉へ進軍した。だが、水姫ですら予測出来なかった事態が起こった。
「紫尚書、前方に斉国の旗が。あれは国士無双と噂される馬光の旗印です!」
しかし水姫は、まだ知らなかった。行方不明だった長兄が、馬光と名を変えて斉国にいた事を。
「馬将軍、越南国の旗です。あれは韓の公主の旗印です!」
(水蘭…?まさか本当に生きていてくれたのか)
馬光は目を瞑って、感慨に更けた。韓が滅び、どれほど自分は後悔した事だろうか?王族でありながら、韓(自国)の民を誰一人守れなかった自分自身を呪った。今度こそ、必ず守ってみせる。
「お前も韓の再興を夢見ているのだろう。だが、越南ではダメだ。超大国である斉国だけが北遼を倒せる可能性がある」
馬光は、大きく息を吸い込むと号令した。
「韓の公主は天下の至宝である!絶対に傷付けず、生捕りにしろ!傷付けた者は罰する!」
怒号を上げながら越南の陣へ攻め込んだ。馬光に敵する者はなく、数刻もしないうちに越南の陣は崩れた。
「ここは危険です。後方にお下がりください!」
水姫が馬に乗った時、単身で突入して来た者がいた。馬光だ。
「まさか、大哥(兄上)?何故、大哥(兄上)が斉国にいるのですか!?」
「話せば長くなる。さぁ妹妹(妹)よ、一緒に来い!越南では韓の再興など夢物語だ。斉国だけが可能性がある」
それは、水姫にも分かっていた。今すぐの国力差ならば明らかに斉が上で、越南は北遼に南下されれば、ひとたまりも無いだろう事も。しかし、自分を信頼して尚書令にまでしてくれた王を、民を裏切る事など出来なかった。
「大哥(兄上)、すみません」
そう言って馬を走らせた。
「なぜ逃げる?行くな!ようやく兄妹が出会えたのだ。行くな!」
水姫を行かせまいと、追い縋る馬光に打ち掛かって来た者がいた。
「やっと会えたな。今日こそはお前の首をもらう!」
由子は吠えて、斬りかかった。
「えぇい。今はお前の相手などしている暇は無い!」
馬光は、この忙しい時に厄介な相手に出会したと舌打ちした。
「そうは行くか!」
由子は、目にも止まらぬ一撃を放って移動を阻んだ。それを馬光が、辛うじて弾き返した。
「さすがだな」
由子は、楽しそうに笑みを浮かべた。神速の斬撃を繰り出す由子に対して、心ここに在らずの馬光は、次第に押されていった。
「くっ、勝負は後日!」
そう言うよりも早く駆け出すと、あっという間に走り去った。馬光が乗っているのは、名馬・赤龍である。由子の馬では、とても追いつけるものでは無かった。
「逃げるな!戻って来て戦え!」
馬光の背に、虚しく罵声を浴びせた。やがて撤退した斉軍の姿も見えなくなり、その場を虚しく去ろうとすると、越南の兵が向かって来た。
「お前達とやり合うつもりは無いんだが、そのつもりなら相手をするぞ」と由子は凄んだ。
「とんでも御座いません。お陰で助かりました。我が君主が是非ともお礼をしたいと申しております。何卒こちらへ」
由子は断ったが、しつこく頼み込まれるので、「お茶を飲んで帰るだけなら」と越南の陣営に案内された。
君主が自ら出迎えたが、挨拶もそこそこに宴席に着いた。越南の将兵は、由子の無礼な態度に殺気立ち、腰の剣を抜刀仕掛けた者もいた。
由子は、つまらなさそうにして話もろくに聞かず上の空であったが、そこへ韓の公主だったと言う紫尚書令が入って来て挨拶をした。由子は、紫尚書令を見ると目を見開いて驚き、凍り付いた様に動かなくなった。
重臣達は、水姫のあまりの美しさに見惚れているのだろうと思ったが、そうではなかった。
水姫は、死んだはずの由子の姉に瓜二つであったのだ。それからは、ずっと水姫の姿を目で追っていた。
「ははは。由大人(由殿)は余程、紫尚書令を気に入られたご様子ですな?しかし、誰にも心を動かされないので、厳しいですぞ」
「そんなのでは無い」
ムッとして、お茶を一口飲んだ。酒をススメられたが、断った。酔えば万が一、襲われた時に対処が出来ない為、警戒して拒んだのだ。
宴会も闌となると、酒に酔って調子に乗る者が現れて来る。酒の席とは言え、酔った将校の1人が「斉楚を平らげて、北遼を駆逐して天下を取って見せる」などと大言を吐いたので、由子はクスリと鼻で笑った。
馬鹿にされたと思った将校は、怒って掴みかかろうとしたので、避けて足を引っ掛けると、すっ転んだ。
顔を真っ赤にして怒り、剣を抜こうとしたので、由子は大笑いした。
「あははは、笑わせてくれる。相手の力量も分からないから、あの様な大言壮語が吐けるのだろう。良いだろう。せっかくだから、お前達に身の程を教えてやろう。だが、お前ではダメだ。弱すぎて俺の相手にならない。お前が良い。ここで一番強いのはお前だろう?」
そう言って指を指した相手は、越南国一の武勇を誇る馮堅元譲だった。身長は190㎝近くあり、由子とは20㎝以上の身長差で、大人と子供ほどの体格差だったが、恐れもせずに馮堅を手招きをしながら誘った。
「お前程度なら素手で十分だ。かかって来い!」
「馬鹿にしやがって!怪我しても知らんぞ」
馮堅は挑発に乗らずに、むしろ素手の由子を気遣って見せる余裕があった。
「ははは、怪我だと?殺す気で来い!お前如き相手にもならん」
衆目(人前)でコケにされては面子にかかわる。流石にカッとなると、渾身の力を込めて槍を振り回しながら頭上から振り下ろした。
由子は一瞬で懐に飛び込んで、みぞおちに前蹴りをした。馮堅は浮き上がって、そのまま後方に何度か転げた。
「うぐっ。こいつ」
馮堅は腹を押さえながら直ぐに立ち上がり、槍を構えた。
「止めい。勝負はついた。宴の席ぞ」
越南王・劉信が立ち上がって怒鳴ると、臣下の酔いは醒めてシーンと静まり返り、宴席内には重苦しい空気が包み込んだ。
「失礼致しました。お分かりになられましたか?今の私が斉国であり、彼が越南国の姿なのです。秦を取ったくらいで有頂天になり、自分達は強いと勘違いした結果がこれだ。素手の私は、まだ本気ではない超大国・斉だ。斉一国ですら手に余るのに、北遼を駆逐するなど夢物語も良いところだ。何が言いたいか分かるだろう?強者には強者たる所以があり、強国には強国たる所以がある。だがそれでも弱国が強国を相手にするならば、自らが強くなるのではなく、相手を弱体化すれば良いのだ」
重臣達は、ぽかーんと聞いていた。この粗暴な者から言われた事は誠に最もで、正論であった。自分達は恥入った。
「先生、どうかこれから非才である私に師事して頂けませんか?」
「あははは。先生は良してくれ。それに私は、この言葉遣いを変える気も無いしな。それに、先生ならすでに隣にいるだろう?」
「では義弟ではどうでしょうか?」
「義弟…?」
由子は意表を突かれ、目を丸くして思わず黙り込んだ。
「それだけでは無い。言葉遣いは、好きにしても良い。また私に会う時、拝礼の必要もない。更には剣を帯びていても構わぬ」
由子は、「ふぅっ」と溜息をついた。
「条件が御座います。私が仕えるのは、越南でも王でもなく、紫尚書令に対して忠誠を誓います。その…義弟と言うのは、面白いので受けさせて頂きましょう」
「ははは、紫尚書令は、余に忠誠を誓っている。紫尚書に忠誠を誓うと言う事は、大きくは私に忠誠を誓うと言う事になる。喜んでその申し出を受けよう。ははは、めでたい。今日は実にめでたい日だ」
由子は、馮堅に謝罪した。わざと挑発して冷静さを失わせたと白状した。冷静さを奪ったからこそ、素手でも勝機があったと。2人は笑って酒を酌み交わした。
「流石は紫尚書令だ。あの由子を登用出来るとは…」
あの酔って大言を吐いた将校も、馮将軍と戦う流れも、全て水姫の献策に従って行われたものであった。
逃げる水姫を追うのは、国士無双と謳われた馬光で、その彼を止めた者が由子だと分かると、登用する絶好の機会だと考えたのだ。
どの国も『由子の兵法』を書いた者が、由子だと知って登用したがっていたが全て断られた。その由子が越南国に登用され、歴史はここから大きく動き出す。
「それにしても劉王、本当に気付かれていらっしゃらないのですか?」
水姫は劉王に耳打ちをした。
「何がだ?」
「義弟とは思い切った事を言われましたね。彼女は女子ですよ?」
「何だと?確かに美少年だとは思ったが…女子であったか」
「彼女が伏せたいのであれば、ご内密に致しましょう」
「分かった、そうしよう。他の家臣にバレた時は、余は最初から知っていた事にしよう」
「それがよう御座います」
由子の正体は、女性であった。この事を知っているのは、劉王と水姫、それから馬光だけであった。馬光は、直接刃を交わしたのだ、由子が女性である事に気付いていた。
しかし女性だからと言って、手加減など出来る様な強さではない。噂に伝え聞く南遼の趙嬋麗姫よりも強いのでは無いか?とさえ思えた。
「王爷(王族を尊称して呼ぶ呼び方)、私も初めてお会いした時は男装でした。殿方だと信じていらっしゃいましたか?」
「信じておった。すっかり騙されたわ」
「うふふ」
「あははは」
周りに聞こえない様に、ヒソヒソ話をして笑っているのだ。臣下は2人が仲睦まじく楽しそうに話しているのを見て、イチャイチャしている様にしか見えない。
しかも、水姫は絶世の美女だ。王の女だと誤解されても仕方がない。その為、紫尚書令に目ざとい者は、うやうやしい態度を取って媚を売っている。未来の王妃になるかも知れない女性だからだ。
由子は、その場で大元帥に任命された。後日、冊封して正式に任命式を執り行うと皆の前で伝えた。
由子は、馮堅と武勇伝で話が盛り上がり、日頃は飲まない酒を飲んで泥酔した。
「うぃ~兄弟、部屋で飲み直そう」
馮堅と肩を組み、部屋に入ると意識を失って眠った。馮堅は気がつくと由子と抱き合って寝ており、手に触れた柔らかい感触で目が覚めた。確かめる為に、由子の胸に触れた。その柔らかな膨らみに驚いて胸元を広げると、胸の谷間が見えたので目を逸らした。
「お、女…!?」
女性に全く免疫の無い馮堅は、顔を真っ赤にして、布団を掛けると側を離れた。それから寝顔をマジマジと見ていた。
紫尚書令が、姉に瓜二つと言う。なるほど確かに由子もどことなく似ている気がする。
敢えて男装しているが、女性らしくすれば、おそらく由子も絶世の美女に違いない。そう思うと先程まで抱き合って寝ていたのを思い出して、胸の鼓動が有り得ない程に早くなり、呼吸が苦しくなった。
「う~ん、寝てしまってたな」
起き上がると前がはだけて胸が見えそうになった。馮堅は目を逸らして、ジェスチャーで胸が見えてると教えた。
「見た?」
「あっ?い、いや…その…少しだけ…。チラリと…」
「あははは、何だよ。照れてんのか?今更だろ?胸を思いっ切り触った上に、脱がしてまで胸を見ただろ?」
「ぬ、脱がしては無い!と言うか起きてたのか?人が悪い」
「あははは、生真面目だな?別に女だって事を隠してた訳じゃないんだが、劉王から義弟にならんか?と言われた時には面食らったよ。そんなに色気が無いかなぁ?」
「そ、そんな事は無い!」
「あははは、何だ?私に惚れたのか?あ~ん?」
人差し指で馮堅の顎を撫でた。
「か、揶揄うな!」
顔を赤らめて身体ごと、そっぽを向いた。
「あははは、久しぶりに笑ったわ。でも、誰にも言わないで欲しい。皆んな私を男と思っているんだろう?女の指揮に、素直に従わない者もいるだろう。だがそれでは困るんだ。呉は兎も角、斉は一枚岩で当らなければ絶対に勝てない相手だ」
自分でお茶を淹れて飲み干した。
「分かってる。だが、王を欺くのは死罪だ。今ならまだ間に合う。正直に話した方が良い」
「お前、存外良い奴なんだな?分かったよ。王にはちゃんと話しておく」
由子は、王に会いに行き、事情を全て話した。それから、将兵には伏せて欲しいと頼んだ。これから大事な決戦があるのだ。一丸とならなくてはいけない時に、不安要素があってはダメだ。
それを劉信は許可した。そして万が一にも家臣達にバレる様な事があれば、それが弱味となって将来的に弾劾されるかも知れない。その為に、劉信は一筆書いて渡した。王命による機密事項であると記されていた。由子は感謝して、臣下の礼をとった。
水姫は、その様子を微笑ましく見て頷いていた。




