第1章・第6話 越南(大南)国の劉信
水姫は楚国から河を降って秦国を抜け、そこから越南国(越国よりも南にある国の為に越南国と呼ばれたが、大南国とも呼ばれた)に入った。かつては大理国があった土地で、現在の雲南省のやや南に位置する国だ。
田舎だが、長閑で落ち着いていて民の雰囲気も悪くない。収めている領主が良いのだろう。
羅略にたくさんお金を貰ったので、不自由は無い。歩いても良かったが、何かしらの時の為に体力を残しておこうと考え、お金を払って馬車に乗った。
男物の服を着て髪を結い、腰に剣を差しているので、何処かの若様だと思われている。馬車に揺られながら、考え事をしていた。
(そう言えば出奔した兄上は、韓が滅んだ事をどう思っているのだろうか?きっと私と同じで、韓の再興を目指すに違いない。無事であれば良いが…)
「お武家様、着きましたよ」
城門は関所の様になっており、通行手形が無ければ入る事が許されない。通行手形は身分証明書の様にもなっている。これは間者を簡単に、入国させない工夫でもあったし、他国の犯罪者や自国の犯罪者が他国に逃亡するのを防ぐ為でもあった。
水姫が持っているのは、羅略が自分の為に作ってくれた通行手形だ。簡単に通る事が出来た。
越南国の都に着くとすぐに客桟(宿屋)を探した。客桟は宿泊も出来るが、ほとんどの客はお酒と食事が目的で来る。客桟に泊まるのは旅人くらいだ。
真っ先に客桟を目指したのは、基本的に何処の国でも夜間は外出禁止令が出されており、客桟が埋まっていて泊まれ無くなる事態になるのを防ぎたいからだ。
ちょうど良い具合に二軒目に入った客桟が空いていたので、ようやく身体を休める事が出来た。取り敢えず、3日ほど泊まると伝えて前払いで支払った。階下に降りると、お酒とお粥を頼んだ。お粥にはお漬物が付いて来るのが普通だ。
それから羊の肉を二切れ頼んだ。中国人は特に肉が大好物であり、肉であれば何でも食べる。
「若様、羊は置いてなくて申し訳ない。北から来られたんですかぃ?南は羊が少なくて、出せても値段が張りますんでさぁ」
「鶏か牛はどうですか?」
「牛は農耕に使うので貴重だぁ。鶏もなくて、豚か狗ならあるんですがねぇ」
「では、狗をくれ」
日本人の感覚なら狗ではなく、豚肉を選択する所だ。しかし、この時代の、特に高貴な人ほど豚肉は絶対に口にはしない。何故なら豚は、人糞を処理する為にトイレで飼われているからだ。(豚の餌として人糞を与えていた)
豚は不浄な物と思われているので、それを口にするのは、他の肉が手に入らない身分の低い人間だけだ。豚肉に対する価値観が上がるのは、この時代から800年以上先の事であるから仕方がない。
また、お茶は高級品で客桟なんかで注文すれば、金持ちだと思われて襲われる可能性が高くなる。それに値段もふっかけられるので、飲みたいなら別の所に行く。
中国人はお酒を、女も子供も水の様に飲む。水姫はまだ16歳だが、この時代では15歳で成人する。日本では、お酒は二十歳からなので、絶対に真似をして飲んではいけない。酒と狗肉でお腹を満たすと、心にも余裕が出来て来た。
「明日の事は明日考えよう」
湯船に浸かってサッパリすると、少し早いが眠りについた。
翌朝、軽めの朝餉(朝食)を頂くと、客桟を出た。何をすると言う訳でもない。城下を歩き、民の暮らしぶりを見て、頷いた。
民に不満の色が見えない。決して楽な暮らしをしている様には見えないのに、穏やかで楽しそうに農作業をしていた。飢えていない証だ。
それはつまり、重税を課していないと言う事だ。だから城主は慕われているのだろうと思った。暫く歩いていると、人だかりが見えて来た。
「すまない。何をやってるんですか?」
野次馬の1人に声を掛けて尋ねた。
「あぁ、何でも孟孫様のお題を答える事が出来たら、お役人に登用されるんだとよ」
「有難う」
水姫は、これほどまでに民に慕われる城主に興味が湧いていた。自分も列に並び、順番を待った。
「入ったらまず名を名乗れ」
そう言われて中に入った。
「姓は紫、名は水蘭と申し、韓人です」
「韓?はるばる越南まで難儀でしたな。それでは…」
孟孫から出題された書物を全て誦じて見せた。それから孟孫と問答を交わした。
「何と凄いお方だ。これほどの人物が我国に仕官して頂けるのか?」
「仕えさせて頂けるのであれば、忠誠を尽くします」
「これは善は急げだ!今からすぐに我が主に会って頂きたい」
孟孫は興奮気味に水姫を馬車に乗せると、城主の元へと急いだ。
城内に入り、離宮に案内された。城主に会う為に、敢えて人を遠ざけているのだろう。暫くして現れた、越南王・劉信に拝謁した。穏やかに話す君主だった。二言三言だけ言葉を交わすと、その場で尚書令に任命された。事実上の宰相である。まさかそんな高位に登用されるとは思わず、平伏して言った。
「君主を欺くつもりは御座いませんでした。私の素性を知って頂きたいのです」
自分は、亡国の韓の公主である事を告白した。劉信は少し驚いた表情をしたが、「あの高名な韓の水姫でしたか、私も孟孫の目にも狂いはなくて寧ろ鼻が高い」と笑いながら言って、女性である事を気にもしなかった。
この時代の女性は確かに、武将として活躍する者も少なくは無かったが、基本的に男の子(後継)さえ生めば良いと言う扱いを受けており、女性が政治に介入する事を嫌う風潮もあったので、極めて異例である。
「私は運が良い。聖君にお仕えする事が出来た」
韓の方角を見ながら天を仰ぎ見た。
劉信は水姫を登用した事を隠したりせず、むしろ積極的に韓の公主・水姫を尚書令に封じたと天下に公表した。
女性すら高位に就けると噂を聞きつけて、天下から人材が集まり始めた。辺境の地である為、まともには人材が集まらなかっただろうから、広告塔にされたのもある。
しかしこの時代においては、水姫の智謀に敵う者などいなかったので、彼女が越南国に来て国の命運は大きく変わる事になる。
劉信の性格は穏やかで、質素倹約に努め、民に重税を課したりせず、返って施しを行っていた為、民からの人気は絶大であった。
水姫は、「彼らが兵士となれば、君主の為に命も投げ出すだろう」と思った。それは大きな力であり、各国が苦心する所をすでにクリアしているのだ。
来るべき時に有利に事を進められる。来るべきとは、水姫は韓の復興と復讐を目指している為、北伐が目的だ。
だが北に行くには、秦があり、東には大国楚が立ち塞がる為、秦を併合して三国時代の西蜀の地を得る必要がある。
そこから北上して、長安を攻める。何にせよ秦を攻めるには口実が要る。地の利も人の和も越南にはある。ただ天の時だけが足りなかった。