第2章・第12話 延綏の盟
由氏は、政治が出来ない紫太后(由氏の娘)と孫の皇帝(文帝)の代わりに垂簾聴政を続けていた。
大韓帝国は内政に力を入れており、対外的には高圧な態度を取ったりもしなかった。しかし却ってそれが良くなかった(舐められた)のかも知れない。
北方騎馬民族・柔然が南下を始めたのだ。国境を侵し、燕国の北方と趙国の北方の2方面から攻め込んで来た。
大韓は魏国と遼国に燕国の援軍に向かわせ、趙国の北方には由氏が自ら兵を率いて北伐に向かった。
柔然は、由氏の夫である馬光の仇である。大韓帝国に於いて馬光は、建国時には存命していないが初代・武帝と追謚され、2代目が今の皇帝で文帝である。
余談だが由氏は死後に、3代目の明帝から授かっていない皇后位の他に、太祖と追謚されて事実上の建国者として崇められた。
大韓は武帝の敵討ちと称して士気が高く、しかも軍神・由氏が率いているのだから絶対に負けるはずがないと大韓の勝利を信じ、兵士達はこれから死地に向かうのに恐怖など微塵も感じてはいなかった。
柔然軍は延安府綏徳州の北部、現在で言う陝西省楡林市の北部辺りにある延綏鎮(今では楡林鎮)へ攻め込んで来た。現在では緑豊かな森林都市となっているが、この時代は何も無い荒地であった。後の時代の明によって鎮北台が万里の長城に連なって建立された地である。
柔然の可汗(王)である郁久閭鄧崙と由氏率いる大韓帝国軍が激突したのは、延綏鎮の北部であった。この辺り一帯は、吹き込む風の力で岩の山肌が剥き出しとなっていた。
穴の空いたトンネルの様になった岩が連なっている為に、複雑に迷路の様に入り組んだ地形は、一度入ると抜け出すのは容易では無かった。馬光も、この地に誘い込まれて命を落とした。
北方騎馬民族である柔然は、馬術に対して絶対の自信がある。漢人如きに馬術で遅れを取るはずなど有り得ず、平地を得意とする騎馬から逃れる為に必ずやこの地に逃げようとするだろう。それが罠とも知らず。
「何だ、あの兵数は?」
鄧崙 可汗は己の目を疑った。自分が率いて来たのは柔然の主力である8万の軍勢だ。実はまだ、あの地形にも8万の軍勢を潜伏させている。大韓軍が逃げ込めば、弓兵による一斉射撃でトドメを刺す算段だった。
「可汗、もしや大韓の主力は燕国の援軍に向かっているのでは?」
見渡す限り平地が続くこの地形では、兵士を埋伏する事は出来ない。それなのに、目の前に見える大韓軍は千騎にも満たない。恐らく5百騎程度だろう。
もしそうであるなら、燕国を攻めている別動隊は上手く敵の目を惹いてくれたものだ。それなら全主力で延綏鎮を陥として長城を越える。そこから一気に大韓の首都を目指せば、悲願の中華征圧だ。
「一気に蹴散らしてやれ!」
怒号をあげて大韓軍に突撃をすると、大韓軍は蜘蛛の子を散らした様に逃げ始めた。柔然軍は、奇声をあげて大韓軍を追った。
「うん?何だ!?」
今度は東の方に新手が現れたが、それも5百騎程度であった。
「ははは、そんな兵数で何がしたいのだ?」
鄧崙 可汗が顎で指示すると、一族の豪の者が千騎ばかりを率いて向かった。すると今度は、西にも5百騎ほどが現れた。その軍に向かって一族の強者が、同じく千騎ばかり率いて突撃した。
柔然軍は勢いそのままに、8万弱の軍勢で延綏鎮の近くまで攻め寄せると、陣が張られていた。
「可汗、大韓軍が陣を張っております」
「見れば分かるわ!」
ジャーン!ジャーン!と銅鑼を鳴らして大韓軍が陣から1万ほど出陣して来た。
「我は大韓の軍神・太皇太后より先鋒を命じられた牙門将軍・陸雍である」
陸雍が、大声量で口上を述べた。
「ははは、太皇太后だと?中華では軍神らしいが、北では通じぬわ。たいそう美しい女子らしいが、大方皆に股を開いて国取りでもしたのだろう。引っ捕らえてこの儂が可愛がってやるわぃ」
その言葉を聞いて陸雍は頭に血が昇り、突撃を開始した。しかし多勢に無勢で、大韓軍は退却し始めた。
「口ほどにも無い奴。中華の兵法など騎馬民族の我らから見れば、児戯にも等しいわ」
騎馬民族に於いて兵法は小細工を弄すので、戦力的弱者が強者に対抗するべく編み出されたものだと認識されていた。陸雍を討って血祭りにしてやると、追撃した。
「うん?可汗、妙ではありませんか?奴らは総崩れで退却しているはずなのに、隊列を整えつつあります」
「ふん、偽りの退却で我らを誘っておるのだろう?だが奴らの逃げ道は、例の場所の方角だ。埋伏している8万の兵で挟撃して捕えろ!陸雍は儂が自ら皮を剥いでやる!」
柔然は狩りでもしているかの様に、獲物に見立てて陸雍を追い立てた。大韓軍に追い付いて飛射を放ち、1兵ずつ確実に仕留めて行った。
「可汗!新手です!」
「お前が殺って来い!」
「はっ!」
鄧崙 可汗はそのまま追い続けると、今度もまた大韓軍の新手が現れ、兵を分けた。すると今度は、陸雍が逃げずに引き返して突撃して来た。
「ははは、観念したか!?」
だがその時、鄧崙 可汗は異変に気が付いた。
(うん?味方の兵が少ないな。それに埋伏していた我が軍はどうしたのだ?)
気が付けば、鄧崙 可汗の軍は大韓の軍に包囲されつつあり、孤軍奮闘していた。
「このままでは不味い!退け!」
そこへ、青白い光を仄かに纏わせた馬に乗って、向かって来る者がいた。北方騎馬民族と言えども、これほどの名馬はそうざらには居ないだろう。
「おお!貴様が太皇太后だな?なるほど、確かに美しいわぃ。だが、噂ほど強いはずはあるまぃ!?」
鄧崙 可汗は由氏に一直線に向かった。彼女は敵の総大将だ。殺すか捕えるかすれば勝利が決する。北方騎馬民族・柔然こそが、世界最強の騎馬軍隊だと信じて疑わない。中原の民如きに遅れを取るはずも無いと、矛を向けた。だが次の瞬間に、天地がひっくり返った。
「げふっ」
由氏は左の銅鞭で鄧崙 可汗の矛を跳ね飛ばし、右の銅鞭で可汗の首を強く打った。気を失って落馬し、肩から落ちて強く背中を打ち付けた。
「捕えよ!」
残りの柔然軍も、散々な目に遭った。追っている自分達が、いつの間にかに追われる立場となり、訳が分からないまま包囲されて討たれた。最後の1兵まで戦うと徹底抗戦したが、可汗が捕らえられたと聞いて降伏した。
「信じられぬ。何なのだ貴様は?本当に軍神なのか!?」
「あははは、そんな訳が無い。私は人間だよ。寿命があるし、いずれは死ぬ。だからその前に、お前達と交渉がしたかったのだ」
「交渉だと?」
「そうだ。だがその前に、1つ聞きたい事がある」
「何だ?」
「我が夫、当時は韓王だった武帝・馬光はどうしたのだ?」
鄧崙 可汗は、背筋に冷や汗が流れるのが分かった。由氏は、氷の様に冷たい目で自分を見下ろしていた。
武人は、相手が放つ闘気で力量が測れる。信じ難い事に、この女には到底勝てそうも無かった。
「し、知らぬ。我らとて先の可汗と、その弟である郁久閭 縕紇辰を討たれたのだ。仇を討とうとしたが、たった1騎で包囲網を突破された。その後の事は知らぬ」
「何だって!?それは真の事か?」
冷静な由氏が珍しく取り乱し、鄧崙 可汗の襟首を掴んで尋ねた。
「真だ。そうでなければ、我らが八つ裂きにしておるわ!」
「そうか…」
死んでいないのであれば何故、夫が中華に、大韓に戻って来ないのか分からない。深手を負っているからなのか?それとも、囲みを破ったものの力尽きたのか?
だが夫が戻って来た時、自分の愛する妻が自分の甥と肉体関係にあると知ったらどう思うのだろうか?紫文傑は確かに夫に瓜二つであり夫の代わりであったが、今では心の底から愛している。彼がいてくれたからこそ、今日まで平静を保って来れたと言える。もし戻って来たら夫に合わす顔も無く、自分は紫文傑と共に国を出ようと考えた。
由氏は、鄧崙 可汗に条件を飲めば解放しようと提案した。普通は戦争に負けて捕虜が釈放されれば、賠償金を支払う。しかし賠償金は受け取らない。その代わり、その金で中華の様に開墾技術を授けると言うものであった。
また、お互いに朝貢は不要とし、完全に対等であるとした。この度南下した理由は、草原の飢饉を解消する為であったとし、大韓帝国から柔然へ大量の食糧を送る事を約束した。
その代わり大韓帝国が続く限り、長城を越えない事を盟約させた。これは「延綏の盟」と呼ばれた。




