第2章・第2話 韓の王后・由子
「馬光が、馬光が死んだだと!?」
韓からの使者が遼に訪れた時、由子は瀧の近くで剣の修行中だった。馬光が亡くなった事を信じようとしない彼女に、使者は経緯を説明し、晋帝国と言うより孟孫の専横と韓の惨状を話した。
「どうか、どうか韓を頼みます。このままでは、丞相が苦労されて再興された韓が滅んでしまいます」
由子は、怒りで手がブルブルと震えた。ふと目の端に見覚えのある人影が映り目線を移すと、目を見開いて驚いた。見忘れるはずなど無い、そこには愛しい我が子が立っていたのだ。
「県主様はまだ幼いのに我ら家臣を気付かわれ、自らもキツい納税の為に質素倹約を強いられております」
古来食事は基本的には、朝餉(朝食)と夕餉(夕食)しか存在せず、お昼ご飯の認識が無い。その代わりに貴族達は、お昼にお腹が空けばお菓子を食べたり、うどんに似た温麺や小籠包などの間食をとる。
通常は1食におよそ10品前後の皿が卓上に並べられ、それぞれ好きな物を取って食べるのだが、質素倹約ともなれば品数が多くとも5品以下、2~3品が常となる。当然、間食など以ての外となり、貴族でさえこれなのだから民は食うに困るほど厳しい生活を送っていた。
「娘、我想你(母上様、お会いしとう御座いました)」
県主・紫嫣は、母である由子の胸に抱かれた。物心が付いた時には既に寺院に預けられており、真面目に勉学に励んでいればいつか母が迎えに来てくれると言われ、信じて待っていた。
やがて晋が天下を統一し泰平の世が来たが、迎えに来たのは母では無くて父であった。愕然としたが優しい父は、強くて賢い母の話ばかりしていた。父は本当に、母の事を愛していたのだと思う。子供心にそう感じた。
「 娘、我已經達到極限了(母上様、もう限界です)」
由子は、涙を流して我が子を抱きしめた。娘は8歳のはずだったが、同年代の子供たちと比べても遥かに痩せ細っているのが分かった。
「もう大丈夫。もう大丈夫よ。ごめんね…今まで寂しい思いをさせて、ごめんなさい。お母さんが居たら、お父さんも死ななくて済んだし、韓の民も虐げられたりせずに、孟孫の奴にも良い様にされたりはしなかったわ」
県主を連れて来た大臣は、平伏して尋ねた。
「韓に戻って、助けて頂けるのですね?」
「ああ、急いで支度をする」
大臣には、背を向けて答えた由子から、湯気の様に闘気が立ち昇っているのが見えた。その背に韓の民600万の命がかかっており、頼もしく感じた。
現在の中国の人口は約13億人だが、古代中国は戦争や災害を経て、数千万程度の人口しかいなかった。
例を挙げると、後漢末期の戸籍登録人口は約5648万人だが黄巾の乱などの戦乱で人口が減少し、その後の三国時代となると魏が約443万人で呉が約230万人、蜀漢は約94万人で、三国合わせても1千万人の戸籍登録人口に満たなかった。
三国時代を統一した西晋の戸籍登録人口は、約1616万人で少しずつ人口が回復しているのが分かる。
この時代の晋の戸籍登録人口は約4620万人であり、そのうち約600万人もの人口を抱える韓が、いかに強大であったのかが伺える。
韓は由子を、韓の王后として迎える事を天下に布告した。加えて由子は、韓王・馬光の王妃であり、県主・紫嫣の生母であった事を添えた。
これには天下の民や文武百官、諸王らは驚いた。由子が籠に乗せられて王城に着くのを、多くの野次馬達が物見遊山で集まって、まるでお祭りの様な賑わいを見せた。
かつての晋の朝臣達ならいざ知らず、実際の由子を見た者は少なく、彼女の噂だけが1人歩きしており、熊やゴリラ見たいな顔立ちで怪力無双だとか、鬼よりも巨人な大男だとか聞いており、それが女だったとは一体どんな醜女なんだ?と好奇心で見せ物の様に集まったのだ。
由子が乗った籠が到着し、暖簾が捲られると、緊張の空気が辺りを包んだ。
「さぁ、出てくるぞ!」
側仕えの侍女に腕を支えられて、籠から降りて出て来た由子の姿を見て、皆は息を飲んだ。
由子は化粧をし、金銀錦を刺繍した艶やかな紅い着物を着飾って、金の簪が良く似合っていた。集まった人々は、由子のその余りの美しさに見惚れて声も出ず、姿が見えなくなるまで見つめていたと言う。
由子が韓の実権を握ったと聞いて、孟孫は焦った。元々仲が悪かった上に、韓に苛烈な仕打ちを加えたのだ。彼女の性格なら、激怒して直ぐにでも攻めて来るに違いないと考えた。
そこへ楚の龐越から越王・馮堅の首が届いたのだ。龐越からの届け物と聞き、油断をして箱を開けると馮堅の首であり、孟孫は腰を抜かして驚いた。
「ひぃぃ、な、何じゃコレは!?どう言う意味じゃ?余の首も取ると言う意味か!?」
孟孫は激怒し、龐越の使者を斬ろうとして禁軍が取り囲んだ。
「あははは。この私を殺しても、何も得られませんぞ?そればかりか、楚王の怒りを買うだけで御座います。相国、この首は晋の謀叛人の首ですぞ。これぞ我が国の忠義の証、どうかお納め下さい!」
使者は孟孫に、力強い目で迫った。この頃、孟孫は相国と名乗っていた。
「で?其方らの王は、余に従うと?」
「はい。我が王は、先帝より王にして頂いた恩義を感じており、晋に忠誠を誓っておりまする」
孟孫は楚の使者の言葉を睨んで聞いていたが、和やかな笑顔を見せた。使える駒は、多いほど良いと考えたからだ。由子が攻めて来たら、盾代わりにしてやろうと考えたのだ。
そして使者は、由子に対抗する為の計画を共に練りたいと龐越の希望を伝えた。孟孫はしばらく考えていたが、会見の場を此方で決めるのであれば了承すると言い、使者は快諾して楚王に報告すると言って退室した。
「くくく、あははは。天は余の味方の様じゃな?韓の領土は削られ、国が傾くほどかけられた租税の為に、国力など無いに等しい。由子よ、いくらお前でも強大な余の晋帝国は揺るがぬわ」
孟孫は、耳障りな高笑いをした。




