第1章・第4話 韓の公主・水姫
韓の王都である龍安は北遼の猛攻撃に合い、城内の糧食は尽き、抵抗する武器も折れ落城寸前であったが、突如現れた南遼軍によって韓の攻城どころではなくなり、攻撃の手が緩められた。
韓王・紫葉はまだ13歳であった。前王が死去し長男の紫光が居たのだが、剣の修行と称して出奔しており消息不明であった為に、次男であった紫葉が家督を継いだのだ。北遼軍の攻撃が緩んだ隙を突いて、3つ歳上の姉を逃そうとした。
姉の名は、紫水蘭(水姫)と言い、あらゆる兵法書を誦じ、天文、地理、風水、易経、法家思想に至るまで全てを暗誦出来る才女で、天下にその名を広く知られていた。
彼女は見目麗しい美少女であり、婚姻の申し込みは毎日山の様に積み上げられたが、「書物を誦じて私を負かす事が出来た者に嫁ぎましょう」と言って断った。
勿論、挑戦する者も山程いたが、誰1人として水姫には敵わなかった。そんな訳で平均年齢14歳で嫁ぐこの時代において、16歳になってもまだ嫁いでなかった。
「馬鹿な事を言わないで、韓王である貴方が逃げなくてどうするのですか?」
そう姉上に言われたが、まだ幼さが残る韓王でも、このまま城に残れば女子である姉上が、どの様な目に合うのか理解していた。
姉上は自分の身を犠牲にして、韓王を逃そうとしていたのだ。北遼王が自分を凌辱している間は追撃の手が緩むに違いないと考えた。自分の身に変えても韓王家の血を絶やしてはならない。弟である韓王にもしもの事があれば、ご先祖様に顔向け出来ないと思ったからだ。
しかし、本当にそうであろうか?韓王の首を見るまでは、追撃の手を緩めたりはしないのではないか?そうなれば、姉上の貞操を奪われるだけ損である。逆に姉上を生かして、韓王家の血を引く者を増やした方が良いのではないだろうかと考えたのだ。
姉上を気絶させると、最も腕の立つ侍衛2人に守らせて裏門から脱出させた。
「姉上どうかご無事で。ご先祖様、姉上をお守り下さい。天のご加護があります様に」
韓王は、天に手を合わせて姉を見送った。
意識を取り戻した水姫が見たのは、落城した王都であった。号泣しながら、韓王である弟は既にこの世にはいないだろうと察していた。
侍衛2人は、公主である水姫を守りながら血路を開くが、その過程で2人とも命を落とした。水姫は自ら服を剥ぎ取り、わざと引き裂いて再び着ると、泥の上に転がってボロ服を着た難民に見せかけた。そして髪を切って顔に泥を塗った。女子だと知られると犯されるからだ。
「例え泥水を啜ろうとも必ず復讐し、韓を再興して見せる」
これが水姫の生涯の誓いとなった。
戦場では敵兵だけでは無い。追い剥ぎや、山賊などが現れて死体から服・鎧・刀剣・槍など自分達で使える物や、売れる物を物色し、ある時は生きている人間をも襲った。追い剥ぎ強盗だけではなく、人買いに売る為である。
売られた者の末路は、女子であれば性奴隷にされたり、奴婢として女楼に売られたり、金持ちの屋敷に売られればまだ幸せで、強制労働従事者にされたり最悪の場合は、食肉用として殺されて食べる為に調理された者もいた。
中華においては、人肉食は珍しくも無く一般的に行われていた。今もその名残りで、中華では喧嘩する時に「お前を煮て食うぞ!」と言ったり、「羮にしてやろうか!」などと言ったりする。
水姫は難を逃れて楚に亡命した。韓からは南へ河を降ると楚に辿り着く。楚には大学者で天下にその名が知られた羅略と言う者がいた。羅略は多数の食客を抱えており、食い扶持には困らなさそうなので頼る事にした。
水姫は、韓を脱出した時のボロを纏ったまま羅略の門を叩いた。門番はみすぼらしい格好をした物乞いが来たと思い、追い払おうとした。
そこへ番頭が現れて憐れに思い、金銭をいくらか差し出した。水姫は首を振って、「お金が欲しいのではありません。旦那様の危機を報せに参りました」と言って門から動こうとしなかった。門番は困り果てて、主人である羅略に事の顛末を語った。
「なるほど、それは面白そうな御仁じゃな」
羅略は他とは違った才能を持つ人間が大好きで、食客の中には一芸に秀でた者が大勢いた。
羅略は水姫をもてなしてから、危機とは何であるかと尋ねた。
「それでは応えましょう。貴方は一体誰に仕えているのか?楚王か?魏帝か?楚王ですら魏の朝臣の1人である。中華存亡の危機であるのに楚は日和見を決め込んでいる。これが第一の危機。中華存亡の危機とはこれ即ち楚国の危機である。貴方は国難に際して武侠を好み、詩を吟じ、色を愛でる(女色に更ける事)。これが第ニの危機。貴方は楚王の太師(教師)であるにも関わらず、これら危機に際して諌めようともしない。これが第三の危機」
羅略はハッとして、跪いて教えを乞うた。
「先生、どうかお導き下さい」
「私が答えるまでも無く、貴方なら気付くでしょう?」
そう言うと水姫は立ち去ろうとした。
「先生、これからも不才に教え導いて頂けませんか?」と膝を折って頼んだ。
「非才の身では御座いますが、此方こそ宜しくお願い致します。それから、貴方は私の雇い主であり、主人となるお方です。それに私の3倍も年長者でいらっしゃる。その様に畏まらずにお話し下さい」と言った。
「いえ、弟子が師匠に教えを乞うのです。歳など関係御座いません」
それから羅略は、「今日はお疲れでしょう?汚れた身体を湯船で洗い流し、癒して下さい」と言った。
水姫は、「私は人に身体を見られる事が嫌ですので、奴婢に手伝いは無用です」と伝えた。しかし水姫が沐浴すると、興味本意で羅略は覗いて裸を見てしまう。
「これはしまった、女子であったか!」
(北から流れたと言っていた。あの知識は只者ではあるまい。それに何処か隠し切れない気品がある。もしや天下に名高い、韓の公主では?)
流石は大学者である。水姫の正体を見破ってしまった。
しかしこれは不味い事になった。韓の公主であれば、堂々と楚王を頼るべきであったのだ。それをせずに自分の下に来たのには理由がある。
楚王は無類の女好きで知られ、そんな相手を頼って借りなどを作れば、それを理由に婚姻を迫られるに違いない。カモがネギを背負ってやって来る様なものである。
風呂から上がって来た水姫に、ここには置けないと伝えた。
「私が女子であると、知ってしまわれたのですね?」
沐浴を覗かれたと察し、溜息をついて出て行こうとした。
「間も無く外出禁止の時刻です。もう遅いので、今夜は泊まられて明日出発なされては?」と尋ねた。
「お言葉に甘えさせて頂きます」と会釈をした。
翌朝、羅略の屋敷を出た。非礼のお詫びにと、大量の路銀と馬を貰った。更に「此方の方が都合が良いのでしょう」と男物の服を何着か持たされ、護身用にと細身の剣を譲られた。
「何から何まで頭入ります」
羅略からは河を西に降って秦を抜け、越南国に身を寄せる事を提案された。水姫はそれに従い、越南国を頼って河を降って行った。




