第1章・第39話 晋の天下統一と去りし君【完結】
「由子、見事じゃわい。兵を用いては、お前に敵う者などおらんじゃろうて。じゃが、忍びの術ならまだ儂に分があるわ」
斉の武帝は、常人離れした速さで山林を駆け抜けた。晋軍の追撃を振り切り、他の無影の手下達ともはぐれた。
「はぁ、はぁ。ふぅ…。ここまで来れば大丈夫じゃろうて」
山林の中の小さな川を見つけ、懐から水筒を取り出して川の水を汲んで飲んだ。
「ふぃ~。水が美味いと感じたのは、いつ振りの事か?」
不意に人の気配を感じて「追手か?」と怪しんで近付いた。格好からして平民の男と女、夫婦かカップルの様だったが、彼らも気配を消して音がしない様に動いていた。
その事からも、彼らが訓練された兵士である事が分かった。だが気配を消して近付いたはずだったが、気付かれた。
「そんな、まさか…皇上!?どうしてこんな所へ…」
自分が斉国の皇帝と知っている者ならば、味方か?と思いながらも警戒しながら近付いた。
「うん?誰かと思えば、淑妃か?生きていたのか、何よりだ。それにお前は…瑛深だな?ご苦労だったな。朕の妻を無事に届けてくれようとしたのだな?」
瑛深は、「よりによって何故こんな所に陛下が?」と思い、ようやく自分の女にした淑妃を奪われるとの思いが複雑に交差した。
「陛下に拝謁致します。一体どうされたのですか?お1人でこんな所に…」
「おう、よくぞ聞いてくれた。由子に臨淄を陥とされ、再起を図る為に逃亡している最中だったのだ」
瑛深は、淑妃が心変わりして武帝の元に戻るのでは無いかと心配し、気が気でなかった。しかし淑妃は、「私を見損なうな」と瑛深に目で語った。
武帝は淑妃の手を取ると、淑妃は嫌がる素振りを見せて、掴まれた腕を振り払った。
「何だ?どうした。朕が分からぬか?」
淑妃は冷や汗を掻き、武帝に抱き締められた。これからは瑛深と生涯を共にすると誓ったばかりで、その彼の目の前で抱き締められているのだ。瑛深に誤解されるのを恐れて、腕に力を込めて引き離そうとして気が付いた。
(違う…。武帝では無い?)
顔は同じだが、身体が違う。これでも武帝から100を超える寵愛を受けたのだ、間違えるはずが無い。
淑妃は袖の下に隠していた短刀を取り出し、武帝の顔をした何者かを抱き締めて、逃げられない様にして短刀を振り上げた。
それを見た瑛深は、自分と添い遂げる為に武帝を殺そうとしていると思い、武帝に斬りかかった。しかし殺気を放った為に、殺気を感じ取られて躱わされた。それと同時に淑妃が短刀を振ると武帝の顔を斬った。
「うぐっ!」
顔を斬られて、手で押さえた右半分の皮が剥がれていた。何者かが、武帝に成り済ましている事は明白だった。
「貴様、何者だ!?」
「くくく。よもや、こんなヒヨッコ共に正体を見破られ様とはのぅ。儂も老いたものじゃ」
その男が自ら顔の皮を剥ぐと、見知らぬ年寄りの顔がそこにはあった。
「何者だ!?」
瑛深と淑妃は身構えた。
「ふわぁははは。お前達は散々この儂らの世話になったろう?儂が無影の統領・無音じゃ」
「無影の統領!?」
「するとお前は、あの伝説の忍びか!」
2人はマジマジと無音を名乗る老人の姿を見た。
「では、本物の皇上はどうなったのだ?」
瑛深は淑妃の代わりに問うた。
「あやつは死んだわ」
淑妃は武帝が亡くなったと聞き、かつての想い人である為に哀しみを堪え切れず泣き出した。
「儂らは共に斉の禄を食んだ身じゃから仲間じゃ。共に主君の仇を討とうぞ」
淑妃は蹲って頷いた。
「ああ、俺らも強力する。何をすれば良い?」
「そうじゃな…、あえっ、へっ」
一瞬出来た隙を見逃さず、瑛深は無音の背を斬り、同時に淑妃は無音の腹を刺した。
「何を…する…」
「お前が武帝を殺して成り代わったと聞いている」
「馬鹿な…一体…誰…が…」
無音は動かなくなったが、瑛深は念の為だと言って首を斬った。そこへ晋軍の追撃部隊が現れて、2人を取り囲んで捕らえた。
捕虜となった2人が由子の前に引き摺り出されると、由子は怒鳴った。
「誰がこんな扱いをしろと言った!?瑛深将軍は、韓王・馬光の義弟だぞ!それに此方の方は、武帝の淑妃娘娘(淑妃様)だ」
2人はすぐに縄を解かれて、もてなしを受けた。由子は2人の様子を見て愛し合っているのだと察し、駆け落ちして死んだフリでもして武帝から逃れていたのだろうと推測した。
「何はともあれ、武帝の首級を挙げた功績は賞されるべきだ。望みがあれば、文帝に口添えをしよう」
由子がそう言って人払いした後、意味ありげに目配せをした。
「お聞き届け頂けるのであれば、俺、いや私はこの張甜と生涯平穏に暮らしとう御座います」
瑛深は地面に額を擦りつけて懇願した。
「止めて頂戴。貴方が夫の義弟なら、私の義弟も同じよ」
その言葉に驚いて、顔を上げて由子の顔を見た。
「貴方の義兄・馬光は私の夫なの。子供もいるのよ」
2人に微笑みかけると驚いて目を丸くしたが、立ち上がって笑った。
「一体いつ?それに、あの由子が女だったとは!」
「シーっ。皆んな知らないから黙っていてよね」
小声で話したが、少し離れた場所にいた侍衛2人は聴こえていて、顔を見合わせて首を振った。そんな事は皆んな知っていたが、由元帥が男でも女でも関係ない、崇拝すべき偉大なる元帥である事だけは間違いなく、彼女が女だと知っていても忠誠を誓っていた。
その日3人は遅くまで、酒を酌み交わしていた。
晋の文帝・劉信も臨淄に向けて進軍中だったが、由子が斉の首都を陥落させた事で晋の天下統一が定まった。その為、報せを受け取ると引き返し始めた。
天下を統一した晋は、元号を文基元年と改めて布告した。論功行賞では、主立った諸将らは王に封じられたりして封地を受けた。
由子の功績は余りにも強大であり、天下の半分を与えても足りぬほどであった。
「由元帥は古今稀に見る奇才であり、その功績は未来永劫に亘って讃えられるべきものである」
と前置きすると、趙王に封じ加封としてかつての魏国の領土も与えられた。それだけでは足りぬと、由子の封地では永久に納税を免じた上で、晋の国庫にある天下の財宝の半分の目録を下賜された。
だが由子は、「富や権力が欲しくて晋の為に戦ったのではありません。紫丞相と交わした約束を守る為に戦っただけの事。それに、忠誠を誓ったのは紫丞相に対してであり、晋に忠誠を誓っていない自分が、晋から褒美を貰う理由が御座いません」と言って断った。
それから改めて言った。
「天下は統一され、もはや私の役目は終わりました。これ以上、晋に留まる理由が御座いませんので、お暇致します」
と、全ての功績を捨てて野に下ると言い出した。
「待て待て、気分を害したのであれば謝る。由元帥は、朕の義弟では無いか?去るなどと言わず、ずっと朕の側に居て補佐をして欲しい」
文帝は由子に去って欲しくなくて懇願した。
「まだ義弟と呼んで頂けるのであれば…大哥(兄上様)、私の功績は大き過ぎてどんな褒賞も見合う事はありません。今や私の声望は大哥(兄上様)を超え、その地位を脅かす者となりました。私に強大な兵権を与えたままで、万が一にでもこの私が謀叛を起こせば、この晋国で(私に)勝てる者などおりましょうか?“狡兎死して走狗烹らる”と言います。天下を統一した晋にとって、もはや私は不要の長物であり、目の上のたんこぶでしか無いのです。私は大哥(兄上様)に疎まれたくは無いのです。このまま義弟として去らせて下さい」
由子が素直に言うと、文帝は泣き出した。
「誰が義弟を、韓信の二の舞などにするものか。絶対に傷付けたりはしないから、去るなどと言わないでおくれ」
由子も文帝の心に触れて感謝し、涙を流したが残るとは言わなかった。劉信はこれ以上の説得は無駄だと悟り、由子が去らない様に諸将に命じて、連日由子の屋敷に押し掛けて酒を飲もうとした。
しかしこの行動を予め予期していた彼女は、送別会は1度だけ開いてそれ以外の飲みは受け付けないと言った。
「由子は頭が良い為、小細工など通じぬ。ここは快く皆で送り出す事にしよう」
由子の送別会は、かつて無いほど大規模なものとなった。ほぼ全ての文武官が集まり、由子と酒を酌み交わして最後の別れを惜しんだ。
明け方近くまで続き、酔い潰れた者は女官に肩を支えられて退室した。由子は頃合いを見計らって、そっと席を抜け出した。
「ふふふ、何とも気持ちの良い連中だったな。だが、もうここには自分の居場所は無い」
由子は、まだ日が明けぬ暗がりの中で振り返って皇宮を見た。
「どうしても行ってしまうつもりなのか?」
背後から声を掛けられたが、勿論その相手が誰だか分かって振り向いた。
「俺の王妃は、生涯お前だけだ。行くな!行かないでくれ!」
馬光は由子を強く抱き締めて、行くなと懇願した。
由子は、「こんな所(抱き合っている所)を誰かに見られたらどうするんだ?」と言って抵抗した。
「何をしても、私を止められない事は理解しているはずだ」
「分かっていても失いたくないものには、追い縋るさ」
由子は馬光の背に手を回し、口付けをした。
「すまない…お前を嫌いな訳では無いんだ」
そう言って馬光から離れた。青光馬に乗り城門を目指して駆けたが、その手前で止まった。酔い潰れたはずの文武官が一堂に介していたからだ。
「何も言わずに去るつもりか由子?寂しいでは無いか」
「皆んな…」
これには由子も驚き、そして涙ぐんだ。酔ったフリをして女官に支えられて退室し、ここで由子が来るのを待ち構えていたのだ。
「陛下は玉体(お身体)を労り、この天下泰平の世が続くようお願い致します。諸大臣には補佐を頼みます。真っ当な政治を省みず天下が再び乱れた時、私はまた舞い戻って来ます!そうなら無い事を祈りつつ、これにて失礼致します」
そう言い残して由子は去って行った。その背をいつまでも名残惜しそうに、馬光は見つめていた。
これが由子と馬光の今生の別れとなった。晋を去った由子は、遼国へと向かった。
馬光は、言葉通りに王妃も側室も置く事は無かった。生涯、由子だけを愛したのだ。彼女が去ってすぐに、寺院に預けられていた由子との間に出来た実の娘を県主として迎えた。県主とは、王に封じられた者の娘の事である。つまり、お姫様の事だ。
晋は多くの犠牲を出しながらも天下を統一し、最初の2年は何事も無く泰平の世が続いた。この平和な世の中が永遠に続くものだと思えた。しかし破滅の足音は着実に、そして静かに歩み寄っていた。
~第1章・魏滅んで晋興る 【完結】~




