第1章・第23話 執着する隻眼
遼は、かつて燕雲十六州と呼ばれた領土からモンゴル近くまでの広大な領土を有してはいたが、北方は荒れ果てた荒野であった。その為、首都は幽州の燕京(現在の北京市)に置き、副都は雲州に西京を置いていた。
由子達一行は、燕京の端にようやく入った。この辺りまで来ると、膝下まで埋まっていた雪も足首程度となり、歩きやすくなっていた。この分だと、明日の昼頃には城下町に入れるかも知れない。
日が暮れる前に、そろそろ野営の準備に取り掛からなければならないが、食事の準備をする為に水を汲みに行った者がまだ戻って来ない。そう遠くまで行ってないはずだと、1人が探しに行った。すると、叫び声が聞こえた。
声が聞こえた方へ駆け付けると、仲間はヒグマに咥えられて、引き裂かれている所だった。そのヒグマの片目が潰れているのを確認した。あの時のヒグマだった。知識の広い由子も、ヒグマの習性を知らなかった様だ。
ヒグマは、一度でも餌だと認識した獲物は自分のモノであり、異常に執着する。このヒグマは、由子達が2人の遺体を燕京で埋葬する為に担いで来ていたが、ヒグマにとっては既に自分の餌である。奪われた餌を取り戻す為に、臭いを嗅いで後を付けて来たのだ。
1970年に起きた、「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」などは、その良い例だろう。日高山脈カムイエクウチカウシ山の標高1900m地点でテントを張ると、一匹のヒグマが現れて大学生5人の荷物を漁り出した。その為、音を立てて追い払って荷物を取り戻した。
しかしその夜、ヒグマは再びやって来てテントに穴を開けて荷物を漁ろうとした。身の危険を感じて、一晩中ラジオをかけっ放しにして見張っていると、その晩は現れなかった。
翌朝、鳥取大学のテントに避難する為に出発したが、ヒグマ出没を聞いた彼らはすでに下山していた。その為、夜道を歩いているとヒグマが現れて襲い掛かり、1人は目の前で牙と爪で引き裂かれて殺された。
パニックになって他の4人は散り散りとなり、さらに翌朝1人で下山している所にヒグマが現れると、ズタズタに引き裂かれて殺された。
他の2人は一緒になって、命からがら下山に成功する。ダムの工事現場に逃げ込んで、車を借りて駐在所に駆け込み、助けを求めた。
はぐれた最後の1人は、テントの中に逃げ込んで隠れていたが、結局は見つかって殺された。最後の1人は、殺される直前までメモに状況などを書き残していた。
救助隊によって3人の遺体は発見され、ハンター10人による一斉射撃によってヒグマは射殺された。このヒグマを解剖すると、胃の中からは大学生らを食べた形跡は全く見つからなかった。
自然界の生き物は、基本的に食べる為に殺す。このヒグマは、彼らを食べてはいない。これが意味するものは、大学生らの荷物の中には食料が入っており、ヒグマが一度手にした餌を何度も彼らによって取り戻された。その為、ヒグマは自分の獲物を守る為に、敵と認識した彼らを襲って殺し、自分の獲物を守ろうとしたのだ。臭いを追ってまで1人ずつ追い詰めて、殺害する執念深さがヒグマの習性だ。
また、ヒグマは自分を撃ったハンターの顔を覚えていて、10年以上前に仕留め損ねたヒグマが現れて、他のハンターに目もくれず、自分を撃ったハンターだけに攻撃を加えて殺害すると、姿を消したと言う事件もある。
このヒグマは、餌を取り戻しに来ただけでは無く、前脚と右目を奪った由子に報復する為に、付け狙って追って来たのだ。
「しつこい奴だな。お前の為に4人も失った。ここで確実に殺す」
由子は全身に殺気を込めてヒグマを睨んだ。ヒグマは、憎悪を込めて充血した左目で由子を睨み返した。
それからヒグマは後ろ脚で仁王立ちすると、両手を広げて迎撃する構えを見せた。
由子が背後に回り込もうとすると、背を見せない様に素早い動きで、身体は常に由子の正面を向く様に合わせた。
「杀(殺す)!」
ヒグマの間合いに詰め寄った瞬間に、振り下ろされた一撃は目で見える様な速さではなかったが、由子は左の剣を地面に突き刺すと、それを足場に飛んで躱した。
ヒグマは振り下ろした腕に手応えが無く、姿の消えた由子を探して首を左右に振って確認した。
そこへ由子が右手の剣に、全体重をかけて錐揉み回転しながらヒグマの背中を突き刺した。僅かに身を捩られた為に、心臓の急所を外してしまったが背中から胸まで貫通した。
「がぁあぁぁ」
しかしヒグマはそれでも息絶えず、背中に突き刺さった剣の激痛でのたうち回った。
由子は地面に突き刺していた剣を抜いて構えると、怒り狂ったヒグマが正面から体当たりをして来た。
ヒグマは100mを5秒で走る。人類最強クラスの由子も完全に躱す事が出来ず、身体を掠めて吹き飛ばされた。
ヒグマは素早く反転して体勢を整えると、トドメを刺そうと由子に覆い被さる為に飛び上がった。
そこへ何者かが投げた槍がヒグマの脇腹を突き刺して、ヒグマの一撃は由子を外した。
起き上がったヒグマの左目に矢が突き立つと、両目を失明したヒグマが、痛みと怒りと恐怖で、両腕を振り回して暴れた。
そこへ更に心臓と喉に3本ずつ矢が突き立つと、ヒグマはゆっくりと前のめりに倒れて動かなくなった。
「危ない所を助けて頂き、ありがとうございます」
由子は素直にお礼を述べた。お礼を言われた相手は、黄金の甲冑を身に付け、白馬に跨った美女だった。
「いえいえ、貴女1人でも倒せた所を、獲物を横取りする形になって、申し訳ない」
「燕京に来られるのが遅くて、迎えに参りましたのよ」
弓矢を射かけて助けてくれた女性が声を掛けて来た。水姫もそうだったが、更に姉にそっくりだと由子は思った。
亡き韓の郡主(王の兄弟の娘の事。王太子の娘を呼ぶ時代もあるが、この時代は皇帝や王の兄弟の娘の事)で遼の宰相の紫延命だろう。水姫の従姉であるから、よく似ている。
「ここへの道中、仲間を5人も失いました。1人は凍死で4人は、あのヒグマに殺られました。燕京に着きましたら、弔う事をお許し下さい」
「ええ、勿論です。手厚く弔わせて頂きます」
「くすっ」
紫延命が笑った。
「何かおかしかったですか?」
「失礼しました。貴女は粗暴で有名でしたので、聞くと見るとでは、やはり違うものだなと感心していたのですよ」
「あははは。遼王様と紫宰相の前ですよ?流石の私も弁えますよ」
3人で大笑いしながら酒を酌み交わすと、その翌日、由子達は遼の都・燕京に着いた。




