第1章・第20話 南魏国
南魏国を率いている首領は、陳燕と言い、北遼に滅ぼされた魯国の王子であった。
軍師として支えているのは、かつて魏朝で科挙の進士(科挙の最終試験である殿士に合格した者の事)であり、「深花」でもあった呂丘安であった。
「深花」とは、科挙の合格者のうち第3席の事を指す。進士の中で、首席合格した者を特に「状元」と呼び、続く第2席が「榜眼」、第3席は「深花」と呼ばれた。
魏朝に仕えた状元も榜眼も、北遼軍に殺されてすでにこの世にはなく、深花の呂丘安だけが生き残り、この水塞の軍師として陳燕を支えていたのである。
彼らは、北遼を中華から一掃し、魏朝の再興を目指していた。その為、水塞の首領に過ぎないはずの彼らが、南魏と称していた。
首領である陳燕は魏の皇族ではない為、自らを魏の相国と称して、周辺地域を支配していた。いずれ魏の皇族が見つかれば、その椅子に座って頂こうと考えていた。
この南魏国は、太湖に浮かぶ島々を総称して呼んでいた様である。
太湖は、北岸の無錫、西岸の宜興、東岸の蘇州、南岸の湖州(浙江省)に囲まれた湖で、琵琶湖のおよそ3.4倍の大きさである。
この周辺は、「魚米の郷」と呼ばれる中国でも有数の豊かさを誇る穀倉地帯・淡水漁業地帯であり、食べるに困らず、周辺は水滸伝の梁山泊の様に水軍でなければ水塞に辿り着く事が出来ない為、難攻不落であった。また、お茶の栽培や陶磁器の生産地としても有名な土地だ。
南魏国は、斉の李王が皇帝を僭称した事に対して激怒し、水塞周辺の斉の領土を度々掠奪を繰り返していた。
斉の武帝は、日頃から苦々しく思っており、この際山賊達と共に滅ぼしてしまおうと考えて遂に討伐命令を下した。この為に不穏な空気が、近隣住民達に広がっていた。
斉は南魏国討伐軍を編成してすぐに向かわせた。しかし、その僅か7日後に届いた報せは予期せぬものであった。
「報!(報告!)」
全身に矢傷を負った兵士が駆け込み、「討伐軍、全滅」と武帝に報告した後、力尽きて息を引き取った。
激怒した武帝は「自ら殲滅してくれる!」と吠え、諸大臣の言葉に耳を貸さず剣を抜いて机を真っ二つにし、「次に諫言した者はこの机と同じく、頭から割く!」と怒鳴った。
南魏国は、斉の皇帝親征と報告を受けても浮き足立つ事は無く、むしろ返り討ちにして見せる!と息巻いた。
斉国は最初から南魏国の事を、たかが山賊風情が一国を名乗るのか?と侮っていた。
斉軍は、東岸の蘇州と南岸の湖州の中間くらいの位置に陣取って、戦艦の建造を始めた。当然、一から造るのではなく、組み立てるだけの状態にして運んで来たのだ。
「ははは、見よ!北遼の騎馬ならいざ知らず、我が斉国は水軍大国ぞ。一飲みに蹴散らしてしまえ!」
太湖に浮かんだ斉の軍艦は、まるで水上のタワーマンションの様だった。巨艦の甲板は陸上を歩いている様に揺れも少なく、安定して湖上に浮いていた。
「うう、寒いな今日は」
「霧が出ているからな、よく冷える」
「こんな日は酒を一杯やりたい所だな」
「違いねぇや」
兵士達も、寒さで悴む手に息を吹きかけて温めながら、酒でも飲んで暖まりたいと考えていた。
「おい、今揺れなかったか?」
「ははは、何言ってんだ?そりゃ湖上だ。多少の揺れは当然だろう?」
「それもそうか」
少なからず異変に気付いた者もいたが、特に気に留める者はいなかった。
「霧が深くなって来たな」
「あぁ、お陰で一段と冷え込んで来やがった」
最初に異変を感じたのは、船底で軍艦を漕いでいる奴婢達であった。
「おい、水が漏れてるぞ!」
「こっちは膝まで浸かっているぞ!」
しかし彼らを管理する上役は、奴婢達が騒いでいるだけだと思い叱りつけた。
「何を騒いでいる!鞭で打たれたいか!」
上役は、こんな巨艦が沈む訳がないと、たかを括っていた。しかし、この時代には防水隔壁などされてはいない。
あのタイタニック号も垂直方向の防水隔壁はあったが、水平方向の防水隔壁がなかった為に沈んだ。現在の大型船舶には、この教訓が活かされて、水平方向の防水隔壁が備えられている。
浸水が始まると、ギリギリでバランスを保っていた船首が傾き始める。そして時間が経つに連れて、その傾きは大きくなる。この時になって気付いてもすでに遅く、手遅れになる前に軍艦から脱出する道を選択する他ない。
やがて軍艦は、船首の重さに耐えられなくなり、真っ二つに割れる。そして船首から沈み始めたと思うと、あっという間に湖の底に沈んで行く。
今回の場合も同じで、哀れ船底にいる奴婢達全員が溺死した。甲板にいた者は、船が沈む前に湖面に飛び降りて難を逃れたが、船が沈む時に生まれた渦潮に飲み込まれて命を落とした。南魏は水練達者な決死隊を募って、斉の軍艦の船底に穴を開けたのだ。
親征した斉軍は10万。溺死者だけでも8万人以上だと言われる大惨敗を喫した。
「朕はもうダメだ。息子に皇位を譲ると伝えてくれ」
「何を弱気な事を。貴方は生きなくてはダメです!しっかりしなさい、李順!」
張甜は、李帝の肩を抱いて自分の馬に共に乗り、血路を開こうとしたが、南魏軍は抜かりなく兵が配置されており、包囲網を突破する事が出来ずに皆、死を覚悟した。
「甜甜!諦めるのはまだ早い!」
血路を開いて包囲網を突破した者がいた。馬光の義弟・瑛深だった。彼は陸地の様に大地に足が付いてない所に立つのを嫌がって、船に乗る事を拒絶していたが、これが幸いした。
張甜と2人で包囲網を抜け、何とか無事に命からがら斉国に落ち延びる事が出来た。




