第1章・第2話 北遼王・耶律花海と神将・秦不剴
この中華は、かつて魏帝国によって支配されていた。天下が平和であれば、今は慶文12年のはずだった。しかし今から6年前の慶文6年7月、魏帝国は滅んだ。
北方騎馬民族である「北遼」は、草原の草木が例年に無い雨季によって腐り、羊や馬だけでなく民も飢えて痩せ細り、多くの餓死者を出した。
北遼は食糧の施しを魏帝国に嘆願したが、魏帝国は朝臣達の猛反対を受けた為に断った。それに怒った北遼が南下を始めたのだ。
飢えて痩せ細ったとは言え、騎馬民族の名は伊達ではない。まだ年端も行かない女子ですら騎射は百発百中の腕前であり、北遼人は一騎当千の猛者として天下に知られていた。
北遼はモンゴル系鮮卑人を経て、契丹人の流れを組む遊牧民族だが、五胡十六国時代の北遼とは異なる。王位は代々、耶律氏が継承しており、現北遼王は耶律花海であった。
北遼王・耶律花海が30万と号する大軍(実数8万騎)を率いて南下し、魏帝国への道を塞ぐ燕国を僅か7日で滅ぼして魏の首都・洛陽へと迫った。
これに対して魏が誇る神将と謳われた秦不剴大将軍が、20万と号する精鋭(歩兵を含む実数10万)を率いて迎え討ち、洛陽に近い丘で対峙した。
秦不剴は中華だけでなく、近隣諸国にもその名を轟かせる天下一の豪傑であった。それ故に武勇を頼んで、花海へ挑戦状を送り付けたのだ。
いたずらに兵を消耗するよりも、大将同士の一騎討ちにて勝敗を決しようと言うのである。花海は、「臨む所だ」と即答で応えた。
翌朝は雷雲が空一面を覆って薄暗く、今にも雨が降り出しそうな天気だった。銅鑼や鐘を鳴らして秦大将軍が現れると、魏帝国側から歓声で迎えられた。それから少し遅れて太鼓の音と共に、花海が現れた。
不剴は大刀を引っ提げ、花海は牙戟を得物に携えていた。
不剴は真っ二つにしようと馬を走らせて頭上から大刀を振り下ろし、花海は真っ向から受けて立った。その剛腕から繰り出された牙戟の一撃は大刀を弾くと、不剴はバランスを崩してぐら付いた。
そこへ花海が、息をもつかせず牙戟の連撃を放った。
「くっ」
魏軍は自分達の大将軍の勝利を信じて疑っていなかったが、神将と互角に戦う相手を初めて見て動揺した。
花海の鋭い切先が頬をかすめ、不剴の剛腕から繰り出された大刀の一撃も弾き返された。
「ぬんっ!」
「うらぁ!」
両者は互いに一歩も譲らず、攻撃は斬り、弾き、薙ぎ払い、受け流し合った。不剴の兜が飛ばされると、今度は花海の左肩当てが弾け飛んだ。
不剴は北遼王を内心、たかが北狄人と見下していたが、あまりの強さに舌を巻いた。
北遼人は代々遊牧民族である。国として成り立ち部族を率いているが、決まった土地と城を持たない。羊や馬の放牧の為に、餌となる草と水を求めて移動するので、ゲルと呼ばれる円形状のテントを幕舎として設営する。
つまり彼らは、城や家そのものを移動させているのだ。長らく中原の民は、これを嘲笑って蔑んだ。
農耕民族である中原の民は、城や家屋敷を構えて建造物による文明の高さを鼻に掛け、それを持たない遊牧民族を自分達よりも下であると見下していたのだ。
しかしモンゴルの成吉思汗が、東は朝鮮から西はポーランドの手前(戦争に勝ちポーランド国王を殺害したが、何故か領土を征服せずに撤退した為)に至るまで支配した歴史的事実を見ると、世界を制圧するにはこの方が合理的で理に適っていた事になる。
中華の悪い所は、自分達こそ世界で最も文明が優れ強大であると慢心し、中華以外の国々を見下していた所にある。
その証拠に歴代中国では対等な貿易など存在せず、朝貢(一方的な貢物)を受けるだけだった。日本ではこの屈辱を認めず、あくまでも貿易として朝貢貿易と授業で習うが、朝貢は貿易などでは無く、藩属国が宗主国のご機嫌を伺う為に行う貢物であり、これによって中国への君臣の礼を尽くした事になる。中国は朝貢した国には攻め込まないとし、朝貢しない国を逆賊と見做して討伐の対象としていた。(朝貢した時点で主従関係が成り立ち、属国と見做していたからだ)
ただ貰うだけでは中国の威信を見せ付けられない為、お前達の国に無ければ作る事も出来ないだろう?と加工された金細工や陶磁器、絹織物などを贈った。これらの返礼品を回賜と呼んで藩属国に対して給付していた。
進貢物に対して回賜物を得る為、これは貿易だと見做して朝貢貿易と日本は呼ぶのだが、当の中国は対等では無いので貿易だとは認めていない。
だが、文明・文化の違いに優劣を付けるのは選民思想の現れであり、驕り昂った考え方だ。
秦不剴もその様な世界観の中で育ったのだから、北狄の蛮族を蔑むのも無理は無かった。
花海は騎馬民族であるから馬術に優れ、騎乗する馬を手足の如く操った。北方騎馬民族が恐れられる所以である。
武芸の腕は互角でも、次第に馬術の差が大きく開いて来た。両者は互角であるかに見えたが、不剴の攻撃の手数が減り、受け手に回る方が多くなった。
花海は攻撃の手を緩める事無く、更にその突きは鋭さを増した。不剴は身体に斬り傷を負い、少しずつ動きが悪くなって来たのが見て取れた。
魏軍は神将に万が一の事があれば大変だと感じて、退却の銅羅を鳴らそうとしたまさにその瞬間であった。
八十合を超えて打ち合った頃、僅かな隙を逃さず下から掬い上げる様に繰り出された花海の一撃によって、秦大将軍の首は跳ね飛ばされた。
首を失った身体が前後に揺れると、馬上からまるでスローモーションの様にゆっくりと地面に落ちた。
主を失った名馬は、そのまま何処かに駆けて行こうとして、北遼軍の兵士達に捕らえられた。
この信じ難い光景は、夢か幻を見ているみたいで理解が追いつかず、魏軍の動きを凍り付かせた。その混乱の隙を逃さず北遼軍は突撃して、魏軍を大いに打ち破った。
魏軍は実数10万の将兵のうち、都に落ち延びたのは僅か28人と言う有様であった。魏軍の流した血によって大地は赤く染まり、その血は死者の無念・怨念を吸い、3年は消えなかったと言う。
耶律花海は更なる南下を進言し、魏を滅ぼすと号した。これに対して魏国は、各国に援軍を求めて連合軍で相対した。韓・趙・楚・周・呉・涼・斉・魯・秦・大南が集結し、総兵力120万と号する大軍が集い、山岳に陣取っていた北遼軍を取り囲んだ。
連合軍は作戦において、北遼軍が山岳に陣取っていた為、凱亭の戦いで馬謖が張郃に水辺を押さえられて、喉の渇きに耐えられなくなり敗北した例に倣い、「このまま囲んでいれば勝手に自滅する」と言う意見や、「いや山頂には岩清水が豊富で水には困らない、むしろ山ごと焼き払うべきである」と主張する者もおり、議論は纏まる気配がなかった。
各国は功を焦り、他国に功は譲らないと意地と見栄を張り合い、収拾が付かなかった。
耶律花海は、兵を迂回させて急斜面から下山させ、連合軍の後方から襲撃させた。連合軍は裏切り者が出たのかと思い、同士討ちを始め、そこを花海が下山して急襲した。
折悪く日も暮れてしまい視界も悪く、連合軍は誰が味方で誰が敵なのかも分からず、怒号が飛び交い、無惨な屍を重ねた。
花海はたったの一昼夜にして連合軍を瓦解させたのだ。国士無双の神将・秦不剴を討ち取った豪勇だけでなく、兵の統率も超一流であった。
連合軍は崩壊し、魏朝は滅亡の危機に瀕した。それを意外な形で救ったのは皮肉にも、もう一つの遼国である南遼国だった。