第1章・第16話 甘罧将軍
甘罧大将軍は、攻撃の手を緩めず夜襲をかけた。しかし晋軍の備えは万全だった。櫓は通常それ単体だが、幾つか組み合わせて垣根を見下ろす城壁の様になっており、櫓自体は竹や木を組んだものだが、土粘土を塗り固めて、火矢にも耐えられる造りになっていた。
夜襲で火矢を浴びせられたが、晋軍の陣はびくともせず、逆に櫓から矢を射られ、外に配置されていた遊軍によって斉軍は散々に痛めつけられた。
この夜襲の間、由子は起こされる事もなく、身体を休める事が出来た。
それから半月もすると晋軍に異変が起こった。斥候からの報告によると、晋軍の陣営がもぬけの殻だと言うのだ。
そんなはずは無いと、甘罧大将軍は用心しながら晋軍の陣営に着くと、果たして1兵もいなかった。
「これはどうした事だ?」
探りを入れると、一度退いた呉軍が反転して旧楚領に猛攻をかけ、落城寸前だと報告が入った。
「なるほど、楚の救援の為に陣を捨てて悟られぬ様に撤退したのだな?敵ながら見事な撤退劇だ。だが相手が悪かったな」
甘罧大将軍は、楚へ追撃に向かった。このまま楚を攻め、呉と合流すれば楚は陥ちる。楚攻めを李王から命じられているのだ。このままでは、呉軍の手柄となってしまう。後詰として李王も向かって来ているのだ。焦りを感じていた。
甘罧大将軍は、近道の峡谷を通り抜ける事にした。伏兵を警戒しながら進むと、前方の道は岩や木で行手を塞がれていたが、わずかに通れる道が有ったが、そこを由子が1人で待ち伏せしていた。
「ははは、張飛の長板橋でも再現して見せるつもりか?」
数十人の斉兵を斬り倒した由子は答えた。
「この俺を倒せる者など、この世には存在しない!この狭さでは大軍も意味を成さない。俺1人で貴様らを皆殺しにしてやろう」
甘罧大将軍はお構いなしに突撃を命じたが、2刻(1時間)経っても擦り傷一つ付ける事も出来ずに屍の山を築いた。
「退け!俺が殺る!」
凌逵将軍が由子に斬りかかったが、10合もせずに討ち取られた。
「馬鹿な!伏兵の気配も無い。まさか本気で、1人で我が軍を食い止めるつもりか?」
次第に苛立ちが募って来た。
「ええい、構っていられるか!遠巻きにして矢で射殺せ!」
由子は、岩陰に身を隠してやり過ごした。
「大将軍、これではどうしようもない。あの先に晋軍が待ち構えていたとしたら、格好の餌食ですぞ」
甘罧大将軍は、止むを得ずに迂回する事にした。
「おのれ由子!この怒りは楚を陥して晴らしてくれる!」
背を向けて峡谷を抜け様とすると、退路の出口は岩で塞がれており、上から矢や石が雨の様に降って来た。将軍達は馬から降りて背に隠れ、岩の影で身を伏せられる所まで逃げた。
そこへ、木を組んで作られた巨大な火球が、上から幾つも降り注いで来て火攻めにあった。20万の斉軍のほとんどは焼け死に、甘罧大将軍は全身に矢が刺さった上に落石で頭を割られて絶命していた。
張甜将軍と瑛深将軍は運良く、命からがら逃げ戻って、李王に報告した。
「甘罧が死んだだと!?」
そこへ、遼(かつての南遼)が南下し、斉国に進軍中だと報告が入った。
「ここまでだな…」
李王は溜息を付くと、潔く兵を退く決断をした。
由子は撤退する斉軍を追撃した。戦は追う方が有利である。しかし、李王の後詰は無傷であり、晋軍と戦う余力を残しての撤退だ。そう簡単にはいかない。だが、由子が追撃したのは李王では無かった。
「由大都督。どうして韓の道を通るのですか?」
「間も無く分かる」
由子は、別働隊である馬光を探していたのだ。馬光の兵は1万騎しかいないが、由子が率いているのは晋の精鋭30万だ。このどうしようも無い兵力差によって、馬光に待っているのは死しかない。
楚が攻められていると言うのは、水姫による虚報の計であったが、遼を動かしたのは本当であり、遼の独立を認めて同盟を結びたいと約定したのだ。
遼の女帝・趙嬋の親友にして宰相を務める紫延命は、紫水蘭(水姫)の従姉である。お互いが間に入って仲を取り持ち、この同盟が実現した。その為、楚を守る必要もなく、そのまま追撃する事が出来たのだ。
追い詰められた馬光は、悲壮な覚悟で由子との決戦に臨んだ。




