【第1話】戦線崩壊
暗雲垂れ込める、曇天の空
立ち昇る幾筋もの黒煙が、吹きすさぶ風にかき消されていく
凍てつく冷気が肌を刺し、巻き上げられた砂粒が顔を打つ
草が、木が、鉄が、人が、焼けて焦げる
地を蹴り、走り、駆ける地響き
黒鉄がぶつかり、きしみ、砕ける音
空気が爆ぜ、地面がえぐれる振動
雄叫び、悲鳴、そしてうめき
混じり合って増幅し、時にかき消され
人魔が奏でる不協和音が、戦野に響いている
▽
「くそっ…」
傾いた防御柵に身を潜め、一人の騎士・リオンは小さく漏らした。
ここは、人族と魔族が争う戦場の最前線。
無残に潰れた木の柵からは炎が上がり、立ち昇る黒煙で視界はかなり悪い。
時折吹く風が黒煙を払うと、その合間から見えるのは、地面を埋め尽くすように転がる仲間と魔獣の死体。
流れ出した血は地面をどす黒く染め、むせ返るような生臭ささが鼻を衝く。
自分以外、動くものはない。
所属していた大隊は壊滅だ。
(どうしてこうなった…)
肩で息をしながら、記憶をたどる。
伝令の報告では、魔族軍はこちらの中央本陣から左翼に掛けて攻撃を仕掛けてきた。
このため、俺たち右翼はひそかに前進し、敵の側面を衝く作戦だった。
防御策を開け、前進しようとした、その時。
小型の魔物、ゴブリンの大群が突如現れた。
本来なら、すぐに防御柵を閉じ、迎撃態勢を再構築する。
しかし煙のせいで発見が遅れたことに加え、ゴブリンが軽装備で移動が早かったこと、さらに予想外の強襲ということもあり判断が遅れた。
侵入した軽装ゴブリンは一直線に進み、大隊の中央を食い破る。
大隊長が戦死し、指揮系統が混乱。
すると今度はそこに、中型の魔物のオークが重装備でなだれ込んできた。
それは、黒い波だった。
黒い鎧をまとったオークが途切れることなく押し寄せ、まるで一つの生き物のように辺りを包み、味方と味方を分断。
仲間は一人、また一人と波に吞まれるように消えていった。
仲間とはぐれた自分は無我夢中で剣をふるい、そこから何とか這い出た。
幸い致命傷はなさそうだが、左手と脇腹がやけに痛む。
見ると左側の鎧と籠手が大きくへこみ、肩当は無くなっている。
痛む脇腹を押さえながら柵から顔を出し、正面の様子をうかがう。
前方に敵影はない。
『諸君は国の盾となり――』
『最後の一兵卒になっても戦い――』
『勇敢なる死は騎士にとっての名誉であり――』
訓練兵時代にさんざん叩き込まれた、洗脳じみた言葉が頭をよぎった。
その言葉に従うなら、今すぐ切り込むべきなのだろうが――。
冗談じゃない。
目の前に転がっている肉塊が、名誉ある状態とはとても思えない。
そもそも今の状況、一人でどうこうできる範疇を超えている。
生き残るためにはどうするべきか。
後退?
いや、後方には侵入した敵がわんさかいる。
後ろから不意打ちして2、3匹は殺せても、そのあとはどうなる。
囲まれて終わり。
死にに行くようなものだ。
それなら、前進?
いや、普通に考えて、前方にはまだ敵の部隊が控えているはず。
そこに一人切り込むのは、無謀を通り越して大馬鹿だ。
左方向に行けば、中央本体と合流できるかもしれない。
ただ、上官の命令なしに撤退したとなれば、逃亡とみなされる可能性がある。
そうなれば「家名」に関わる事態だ。
それは避けなければならない。
右は――。もっと駄目だ。
敵も味方もいない方へ向かえば、それこそ逃亡になる。
八方塞がりの状況。
(ひとまずは、しばらくここに潜んで――)
そんな考えが浮かんだその時、こちらへ向かってくる巨大な影が映った。
(!!)
とっさに顔を引っ込める。
…オーガだ。
見るのは初めてだが、間違いないだろう。
身長は人間の倍以上。
丸太のような棍棒をふるい、人を紙きれのように吹き飛ばす。
通常なら魔導士を含めた小隊が、距離を取りながら討伐する相手だ。
どうする?
このまま防御柵の陰で死んだふりでもしていれば、やり過ごせるかもしれない。
だが見付かれば、あの棍棒の一振りで終わりだ。
逃げる?
いや、どこに?
そもそも、この体で逃げ切れるか――。
すると悪いことに、今度は後方から耳障りな声が聞こえてきた。
「――グギャ、ギャガガアガ!」
「ギャギャ、ギャアグアガ!」
まずい。
どうやら陣内に侵入したゴブリンやオークが、こちらへ戻ってきている。
あらかた陣内の制圧が終わったのだろうか。
もしそうなら、残敵掃討が始まった可能性がある。
死んだふりをしていても、見付かるのは時間の問題だ。
傾いた防御柵に力なく寄りかかり、空を仰いだ。
ふう、と深い息を一つ吐く。
白い息は顔の前をゆっくり漂い、やがて霧散した。
(詰んだな…)
どうあらがっても生き残る道筋が見えない。
するとあきらめの境地というのだろうか、肩の力がふっと抜けた。
どうせ死ぬのだ。
オーガは無理でも、ゴブリンやオークを一匹でも多く道連れにしてやる。
(やるか…)
剣を握る右手に意識を集中し、魔素を流し込む。
刀身が青白く光り始めた。
ゴブリンの気配は、すぐそこまで迫っている。
俺は剣を下段に構え、駆け出した。
▽
立ち昇る黒煙の向こうに、すぐに小さな三つの影が見えた。
大きく吸った息を止め、魔素を体内で循環させて思考を加速する。
瞬間、目に映る景色が色を失い、モノクロの世界が広がった。
灰色の世界で、煙、炎、敵、風さえも、自分も含む全ての動きが緩慢になる。
その中で唯一、俺の意識だけが通常のスピードで流れている。
先頭のゴブリンが駆け寄る俺に気付いて目を見開くが、もう遅い。
ゴブリンが構えるよりも前に、剣を首元へ滑らせた。
ブシュウウ!
刀身が首半分を切り裂き、濁った紫色の血が噴き出す。
両断とはいかないが、致命傷だろう。
ゴブリンは喉元を押さえ、その場にうずくまった。
さらに剣を返すように振り下ろし、右側のゴブリンに斬りつける。
刀身が肩と首の間にめり込んだ。
ゴブリンの鎧は、さほど分厚くない。
魔素を込めた刃は、ゴブリンを鎧ごと胸辺りまで切り裂いた。
「グギャアアア!」
同時に、切り裂いたゴブリンが奇声をを上げながら後ろへのけぞった。
「っ、はぁっ」
呼吸を戻すと、景色に色が戻った。
するとそのすぐ向こうで、残りの1匹が斬りかかってくるのが見えた。
剣を引き抜こうとするが、何かが引っかかっているようだ。
「くっ!」
膝から崩れ落ちたゴブリンの体を右足で押し出し、剣を強引に引っ張る。
粘り気のある紫の血を伴って、何とか剣が抜けた。
すぐに後ろに跳んで距離を取り、再び大きく息を吸う。
灰色の世界で、ゴブリンが振り下ろした剣をで紙一重でかわす。
そして剣を横に倒すと右足で踏み込み、ゴブリンの顔面目掛けて突きを放った。
剣先は、ゴブリンの顔面を貫いた。
ビクッ、ビクッ
ゴブリンは体を数回痙攣させると、だらんと腕を下げ、剣が地面に転がった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
剣を引き抜きながら、息を整える。
さぁ、次は――。
そう思った瞬間、背後に気配を感じた。
振り返ると、巨大な影がそこにあった。
――うかつだった。
このオーガ、思った以上に速い!
目を上にやると、右手の棍棒はすでに振り上げられている。
(間に、合えっ!)
息を再度止めると、右足を踏ん張った。
灰色の世界でゆっくりと迫る棍棒に、横から剣を合わせる。
ガキィン!
息を戻すと同時に鈍い音が響き、両腕にビリビリと衝撃が走る。
わずかに軌道をそらされた棍棒が体をかすめ、地面を叩きつけた。
砂埃が舞い、飛び散る小石が顔に当たる。
「ぐっ!」
力勝負で勝てる相手ではない。
とにかく距離を――。
反射的に後ろに跳ぶが、それを読んでいたオーガは逃がすまいと腕を伸ばしてきた。
とっさに体をひねるが、左腕を掴まれる。
(しまっ―!)
すさまじい力で、引っ張り上げられる。
まずい。
とっさにオークの腕に斬りつける。
カンッ!
乾いた音を立て、剣はオーガの籠手に阻まれた。
棍棒をはじいた衝撃で、刀身内の魔導回路が切れたのかもしれない。
「ガアァ!」
咆哮をあげたオーガは、俺を地面に叩きつけた。
「カハッ!」
強い衝撃に、意識が飛びそうになる。
オーガは再びゆっくり手を伸ばすと、俺の左腕を掴んで持ち上げる。
「はぁ、はぁ…」
視点が定まらず、体は動かない。
「ガアアアア!」
勝ち誇るように再び咆哮をあげたオーガは、再び棍棒を振り上げた。
身動きが取れない今の状況でまともにくらえば、確実に――。
(ここまで、か…)
覚悟を決めた、その時。
シュッ!
耳元を、何かがかすめた。
「グアアアアアアアア!」
途端に、オーガが暴れだした。
何だ? 何が起きた?
オーガを見ると、その左目に何かが深々と刺さっている。
矢だ。
全体が、緑色の光をまとっている。
目に見えるほど強力な魔素が、矢全体を覆っていた。
「グオオオオオオオオオ!」
棍棒を手放したオークは激しく暴れ、腕を掴まれた俺も激しく揺さぶられる。
「くっ! 放してから苦しめよ!」
剣に無理やり魔素を流し込むと、刀身が不安定ながら青白く光り始めた。
(これなら…!)
俺は、オーガの手首を狙って再び斬りつけた。
ズバッ!
今度はうまく刃が通り、オーガの手首が宙を舞う。
空中で支えを失った俺はそのまま放り出され、防御柵に叩きつけられた。
「かはっ!」
全身に鈍い衝撃が走る。
必死に意識を保ちながら片膝を付き、暴れるオークを見上げた。
「グアア!グワア!」
左目と左手首を失ったオーガは暴れ、体勢を後ろに崩している。
(今、なら!)
意を決した俺は、大きく息を吸った。
刺さるような激痛が胸に走るが、この機を逃す手はない。
魔素を循環させて思考を加速し、右手からは魔素を強引に刀身へ流し込む。
刀身の青白い光が、バチバチと音を立てて増していく。
右足で地面を蹴り、跳び上がる。
そしてオーガの膝、腹を踏み台にして駆け上った。
「うらぁあああ!」
勢いそのままに、オーガの喉元に剣を突き立てる。
「ウガァアアアアアア!」
オークはさらに激しく暴れた。
払い落とされた俺は、背中から地面に落ち、再び鈍い痛みが全身に走った。
(ぐっ…どう、なった?)
痛みに耐えながら首だけ動かし、オーガに目をやる。
剣は喉元から頭へと突き刺さっている。
貫通はしていないが、相当の深手のはずだ。
口から血を吹き出しながらふらつくオーガ。
そして――。
ズウゥゥン――
音とともに、砂埃が舞う。
その向こうに、倒れたオーガが見えた。
▽
(やった、か――)
しかし、勝利に浸る余韻はない。
複数のの足音が近づいてくる。
おそらく、騒ぎを聞きつけたゴブリンだろう。
逃げようにも、体は動かない。
意識を保っているのも、もう無理だ。
(ま、よくやった方だろ…)
突然放り込まれた「この世界」で、ここまで生き延びた。
心残りがないわけではないが、もう、いいか――。
足音がさらに近づく。
どうようら取り囲まれたようだ。
顔を覗き込まれているが、視界がぼやけ、よく見えない。
そして帳が下りるように、視界が狭まっていく。
「勇敢なる――――。――眠り―――。マーテルの御前で―――」
澄み透った声が聞こえると同時に、俺は意識を手放した。