一つの決断1
「ディアがいなくなったなんて、信じられないよな」
隣から聞こえた兄の掠れた声に、私は「うん」と頷く。
それからどちらともなく、ひっそりとした談話室の一角をじっと見つめる。
私たちが向ける視線の先には、姉がお気に入りだった一人掛けのソファーが置いてある。
モスグリーンのソファーの背もたれに立てかけてあるクッションカバーは、色鮮やかで繊細な花模様の刺繍が入ったもの。プロの手仕事と見まごうほど素晴らしいカバーは、姉の作品だ。
「お姉様は、あそこでいつも刺繍をしてたよね」
口にすると同時に、集中して刺繍を刺す姉の姿が蘇る。
(私もお姉様を真似たくなって、刺繍道具をお母様に揃えてもらったんだっけ)
結局、どんどん難解な図案に挑戦する姉と自分を比べ、「私には刺繍の才能もない」と自信をなくすばかりだった。
(そのせいで、結局刺繍は、辞めちゃったけど)
その時揃えてもらった刺繍道具をどこにしまい込んだのか。
思い出そうとしたが、閃くことはなかった。
「家にいる時のディアは静かだったし、そのせいか、今もそこにいる気がするな」
空席となったソファーに視線を彷徨わせた兄は、まるで亡霊となった姉を探しているようだ。
(夢遊病みたいなお兄様は、いつにも増して不気味だけど、でも私も人のことを言えないか……)
兄と同じように、空席となったソファーから目を逸らせないでいるのだから。
(でも残された私たちは、どんなに辛くたって生き続ける必要がある)
襲いくる苦しみから逃れようと自殺を選んだ場合、本当にルグウィン家は終わってしまう。
そんな未来は望まないと、姉の残像が残るソファーを睨みつける。
(まずは、この状況が良くないことは確実ね)
永遠にあるじ不在となったソファーから、決別するように視線を逸らす。
「お兄様、今から正直な気持ちを話していい?」
姿勢を正し、隣に座る兄を見つめる。
「いいけど」
兄は律儀に新聞を折りたたみ脇に置くと、こちらに向き直ってくれた。
透明感あふれるシルバーブロンドの髪、森に美しいさえずりを響かせる鶯と同じ色をした瞳。
改めて兄を観察し、自分そっくりだなと複雑な心境になった。
「なに?早く言えよ」
まるで時間は有限だとばかりに、兄が急かす。
(どうせ、私と同じように、大学を喪中で休んで暇なくせに)
内心悪態をつきつつ「コホン」と一つ、咳払いをして口を開く。
「今までお父様とお母様の手前、言えなかったんだけど。あのさ、自ら命を絶つのって、自分勝手すぎると思わない?全然私たちのこと考えてないよね?」
本音を吐き出した途端、濁った空から雲が晴れたような気持ちになった。
(そうよ、私が求めていたのは、まさにこの感じ)
カントリーハウス全体を飲み込む、悲しみに暮れることが正しいといった雰囲気に押され、今まで私は自分を押し込めていた。
けれどそれは違うと、拳を握りしめる。
「お兄様、私はたった今、己の過ちに気付いたわ」
「そうか、それは何よりだ」
「ついでに、私らしくお姉様を弔う方法を思いついてしまったの」
「言うなよ、絶対」
警戒した様子の兄が耳を塞ごうとする手を掴む。
「いやだ、僕は聞きたくない」
焦る兄の瞳を見つめる。
「私、お姉様の名誉を回復するために、彼女が自殺した真相を調査しようと思う」
「……ロッテ、言うなよ」
こちらを見つめる兄の視線には、怒りが混じっていた。
(あ、まずかった?)
言葉の選択を間違えたことに気付いた私は、握っていた兄の細い手首を離す。
「だからって、実行するかどうかは、まだ未定だけどね?」
お小言を食らう前にどうにか誤魔化そうと、ひとこと笑顔で付け足しておく。
「いいか、ロッテ」
兄は重々しい雰囲気を漂わせたまま口を開く。
「クラウディアの件について、魔導ネットでありとあらゆる噂が飛び交っているのは僕だって知ってるし、いらだつ気持ちだってある」
(そうかな?『#あなたを忘れないとか』『#心は一つ』なんて、お姉様を追悼するハッシュタグが、魔導ネットワーク上で溢れてるじゃない)
現状、姉を崇拝する人が後追いしかねないくらい、彼女の死は、見知らぬ人までを悲しみに陥れている。
(たいしてお姉様のことを知らないくせに)
それもまた、私をイライラさせる原因だ。
返事をせず物思いに耽っていると、兄の声が私の思考を遮る。
「一ヶ月も我慢すれば、晩餐会で大きな音を立ててくしゃみをしたとか、感情を抑えられず、声を荒らげて友人と口論していたとか。ゴシップに事に欠かない令嬢の噂で、ディアの件なんてすぐにかき消されるさ」
「……お兄様、それ全部私のことじゃない」
過去の失態を掘り返す兄を軽く睨みつける。
「つまり、ロッテは何もするなってこと。自ら社交界に餌をまくような、そんな愚かなことはすべきじゃないという、僕からの有り難い提案だ」
兄は得意げな表情になる。
「愚かだなんて、酷いわ」
沈んだため息が、つい漏れてしまう。
「酷いかも知れないが、事実だ。それにお前が動くと余計、父さんと母さんが悲しむし」
「迷惑をかけることを前提に言わないでよ」
「ロッテには輝かしい過去の実績があるだろう?もちろん、ディアと真逆の意味で」
わざとらしく嫌味を口にする兄を睨み返す。
「事実は時に残酷だってことだ。でも、どんなに問題ばかり起こしたとしても、俺はお前の兄で、ちゃんとお前を妹だと思っているからな」
私の顔を見つめ、兄が力強く告げた。
(え、気持ち悪いんだけど)
いつも嫌味ばかり口にする兄が見せた優しさに心底驚き、目を丸くする。
「それに、何か困ったことがあれば、いつでも相談にのるし」
付け足された言葉と共に、兄の瞳に揺るぎない心配が滲んでいるのに気付く。
(なるほど、そういうこと)
姉の死で心が弱った兄は、どうやら私まで死ぬかも知れないと心配してくれているようだ。
「お兄様、安心して。私はお姉様とは違うもの。みんなを悲しませるような死に方は選ばないわ」
兄の若草色の瞳を視界で捉えながら答える。
「それにもし自殺するなら、絶対見つからないようにするし」
お喋りな私がうっかり付け足した言葉に、兄はわかりやすく顔を歪ませた。
(あ、しまった)
後悔するも時すでに遅し。
兄は目を細め、真剣な眼差しを私に向けてきた。