記憶:諦めること5
私はハッとして、丸太に座る姉に体を向ける。
『イアン。そう言えばあなたは、残りの夏休みをどう過ごすの?』
しんみりした雰囲気を振り払うように、彼女は明るく問いかけた。
『今年は、うちの商会の魔導船がちょうどバンガリー王国に行くから、俺も親父と船に乗るつもり』
『素敵ね。バンガリーは、伝統的に刺繡が盛んな国なのよ?バンガリー全土に地域ごとの特徴を持つ刺繡が存在しているらしいわ』
姉は目を輝かせ、興奮したように早口で話す。
『私も一度でいいから、バンガリー王国に行ってみたいわ』
『一緒に来る? 親父の船に乗れば、船代はタダだし。それに、うちの商会の魔導船は最新式で速度が出る上に、揺れも少ないから、船酔いの心配はゼロ』
イアン様がおどけたように、姉を誘う。
『まあ、それは魅力的ね』
姉は焚き火を見つめながら、夢見るような表情を浮かべた。
(きっと、旅行をしている自分を想像してるのね)
幸せそうな姉の姿に、私の頬も自然と緩む。
『でも、私は行けないわ』
姉は、静かに告げた。
『なぜ?』
『私には、気軽に旅をすることができない理由が山ほどあるから』
姉は悲しげに微笑む。
『例えば?』
イアン様の問いかけに、姉は少し考える素振りを見せた後、ゆっくりと口を開く。
『私の言動の一つ一つが、ルミナリウム王国全体に大きな影響を及ぼすかも知れないから。そもそも両親が、あなたの船に乗ることを外聞が悪いと言って許すはずがないもの。それに……』
姉の言葉はそこで途切れた。
彼女は少し間を置いてから、再び口を開く。
『あなたと旅をすることは、殿下を裏切る気がして申し訳ないから』
姉はイアン様を見つめた。焚き火の揺れる炎のせいか。姉が顔を赤らめたように映る。
(まぁ、今のは実質的に、イアン様が好きだと告白したも同然だものね)
恋心を持っていない相手なら、異性であろうと対等な友人関係を結べるはずだ。
(でもお姉様は、イアン様が好きだから、殿下に悪いと思ってしまうんだわ)
私は姉の顔が赤らんだ理由を考察し、一人納得する。
『ディア……』
姉の告白を受けたイアン様は、たまらずといった様子で、彼女の手を取る。
『君はいつも誰かのために生きているみたいだ。でも、君自身が何をしたいのか俺は知りたいし、できることなら、叶えてあげたいと思う』
イアン様の言葉に、姉は悲しげに微笑む。
『ありがとう。その気持ちだけで十分嬉しいし、感謝しているわ』
『本当に?君は自分の人生を生きなくていいのか?』
イアン様が低い声で問いかけた。その声は、焚き火の音にかき消されそうなほど控えめなものだったけれど、彼の声には切実で真剣な響きを感じとれた。
『私は……誰かのために生きるのが、私自身の喜びなのかもしれないわ』
姉は小さく息をつき、微笑みながら答える。
『誰かのために生きる……なら』
彼の真剣な表情が、炎の影と光に照らされる。
『俺のために生きてくれないか?』
イアン様が少し前に身を乗り出しながら言うと、姉の青い瞳が揺れる。
すぐそばで、薪が弾ける音とともに火花が舞い上がる。
二人から離れた場所では、キャンプに参加した仲間たちが、大声を上げながらはしゃぎ回る姿が見える。
遠くの騒がしさとは対照的に、二人の世界は密やかな緊張感に包まれていた。
二人を見守る私は、落ち着かない気持ちになり、ごくりと唾を飲み込む。
『イアン、それは無理よ』
姉はそっと言葉を紡ぎ、彼に握られた手を解く。
『なぜ? 殿下とのことがあるから?』
その問いかけに、姉は一瞬だけ沈黙した。
『それもあるわ。でもそれだけじゃない。あなたと一緒にいる未来がどれほど魅力的でも、私には家族も、フィデリス殿下も、この国も、背負うものがたくさんあるの。それを全て投げ出して、あなたについていく勇気なんてない』
イアン様は悔しそうに拳を握りしめたが、すぐに息を吐いて顔を上げた。
『それでも、俺は君を諦めたくない。卒業したら、ルミナリウム王国ではない場所で暮せばいい。異国でなら、誰にも縛られずに生きられる。君が思い描く自由を、俺と一緒に掴んでほしい』
彼の言葉には、二人で歩む希望溢れる未来が詰まっていた。
(好きな人と歩む未来……)
それは、例外なく誰もが憧れるものだ。
(もちろんお姉様も)
姉は戸惑いながらも、イアン様の語る未来を思い浮かべたのか、頬を緩めた。しかし、それは一瞬のことで、彼女はすぐに硬い表情に戻ると、悲しげに視線を自分の手に落とす。
『私たちには、現実があるわ。あなたの家族のこと、私の家族のこと。全部を無視して逃げるのは、きっとお互いに後悔すると思う』
姉の言葉に、イアン様の肩がわかりやすく下がる。
(きっと、彼も理解しているんだわ)
決して結ばれてはならないこと。それが二人にとって最良の選択であることを。
(すごく理不尽で、切ないけど、お姉様の選択は、間違ってないと思う)
愛があれば、迫りくる困難を乗り越え、ハッピーエンドになれるだなんて考えは、さすがにお花畑すぎるから。
「むしろ現実は、思い通りに行くことの方が少なくて、でもそれが当たり前なのよ。どれだけ努力したって、どれだけ願ったって、報われないことの方が多い。でも、だからといって、それを受け入れろっていうのも酷な話よね」
イライラする気持ちに襲われた私は、心の丈をぶちまけてしまう。
(だって、私もそうだもの)
努力しても姉を追い越せない人生を歩んできた私は、思い通りにいかない人生の非情さを、誰よりも実感して生きてきた。
込み上げる思いを落ち着けようと、空を見上げる。
焚き火の影がゆらめく夜空に、星が瞬いていた。
「愛さえあれば何とかなるなんて、そんな単純な世界じゃないわ。愛があるからこそ、余計に苦しくなる。愛があるからこそ、諦められないものも、憎むものも増えていく。だから……人を愛するって、きっと幸せだけじゃなくて、地獄の扉を開けることでもあるんじゃないかって思う」
感傷的な気分のまま、思いを吐き出す。
「まるで、世紀の大恋愛を経験したかのような物言いだな」
アシェルが呆れた声で指摘する。
「確かに。私は愛なんて偉そうに語れるほど、誰かを好きになったことなんてないのにね」
「自覚があるなら、良かった」
意地悪なアシェルの言葉に、微笑む。
彼のおかげで、一人熱く語る自分への恥ずかしさが、薄れた気がするから。
気を落ち着けた私は、焚き火に照らされた二人に視線を戻す。
『実家は有名な商会で、成績抜群、背だって高くて、社交界で引く手数多の俺を拒絶するだなんて、君は愚かだし、絶対に後悔するよ』
イアン様がおどけたように、姉の肩を小突く。
『そうね。生まれ変わったら、今度はあなたと結ばれる人生になれるよう、神様にお願いするわ』
『君の揺るぎない気持ちが、憎らしいよ』
イアン様が姉の手を握りしめる。
『それでも、俺は君が好きだ』
ストレートに愛を告げたイアン様に、姉は微笑み返す。
『私も、あなたが好きよ』
『……ディア』
イアン様は、姉の顔を優しく両手で包み込む。
湖畔に吹く風が二人を優しく包み、焚き火の炎が揺れる中、彼らの影は静かに重なった。




