記憶:諦めること3
麦わら帽子を被った姉は、薄いブルーのサマードレスの裾を軽く持ち上げながら、湖の浅瀬で裸足になって水遊びをしている。
(お姉様ったら、男性の前で素足を見せるだなんて、はしたないんじゃないの?)
姉の思い切った行動に、目が点になる。
ただ、水遊びを楽しむ彼女の笑顔は、私が知っているどんな表情よりも自然で無邪気だ。その姿を見たら、足首を出すのが恥ずかしいことだという、誰が決めたか分からない淑女のマナーなんて、どうでもいいものに思えた。
姉の無邪気さを引き出すイアン様は、水面に手を浸して、わざと水しぶきを立てて彼女を驚かせている。
『やめて、イアン!』
姉が声を上げるけれど、その顔には怒りの色はない。むしろ笑い声が混じり、少し濡れた髪をかき上げながら彼を睨む仕草さえ、楽しげに見えた。
「一体、僕らは何を見させられているんだ?」
アシェルが、欠伸を殺したような声で呟く。
「お姉様が楽しそうな姿」
水しぶきを立てながら、イアン様と戯れる姉の光景に目を向けたまま呟く。
(彼にとっては、退屈かも知れないけど、私はお姉様が生き生きしている姿を見るのは楽しいわ)
ひと昔前だったら、亡くなった人は、誰かの記憶の中でしか存在できなかった。それが今や、誰しもスペルタッチに保存された動画を見れば、まるで生きているかのように、動く姿を捉えることができる時代だ。
(しかも、いつでも、どこでも)
現代に生まれて良かったと、私は心から思った。
(とは言え、こんな状況じゃなきゃ、わざわざお姉様の動画を見ようとは思わないけど)
姉は私たち家族を残して勝手に旅立った。その事実から受けた傷はまだ癒えていないし、許すつもりもない。
(それなのに……)
無理矢理姉の記憶を覗くことになっている。しかもこの状況を悪くないと思う自分がいる。
(お姉様の思惑通りに動くのは嫌なのに)
複雑な心境で、楽しむ二人を見つめる。
イアン様は姉の隣に立ち、彼女の足元の水を軽く蹴り上げる。それが彼女のドレスにかかると、クラウディアは驚いたふりをし、イアン様の腕を軽く叩く。
『あなたって本当に子供っぽいわ』
『いいだろ。ここは学校でもなければ、ルミナリウム王国でもないんだから、監視の目もないだろう?』
イアン様が、茶目っ気たっぷりな表情で告げた言葉に、姉がくすくすと笑う。
「ルミナリウム王国ではない?まさか、そうなのか?……って言われてみれば、至る所に存在する葉の形を模した装飾がある……まさか!」
アシェルは興奮した様子で、突如空を見上げた。
「まさかあれは、軽量魔導ガラスのドームなのか?となると、ここは、魔導技術の最先端を行く空中都市、スカイギアなのか?」
かなり興奮した口調で騒ぎ出したアシェルに驚く。
「え、今さら気付いたの?ここは、スカイギアにあるキャンプ施設『天空湖レジャーセンター』なんだけど?」
「……そうだと思っていたさ」
アシェルは私からスッと目をそらした。
(嘘つき)
澄ました彼の横顔を、目を細めて見つめる。
『ディアはいつも、きちんとし過ぎなんだよ』
イアン様の声がしたので、私はふたたびじゃれ合う二人の観察に戻る。
『そんなことないわ』
『いや、あるさ。だから、こうやって君が笑うと、僕も嬉しい』
姉の頬がかすかに赤く染まる。
その時、少し強い西寄りの風が吹き、湖水を撫でるように抜けていった。その風に弄ばれるように、姉の麦わら帽子が、ふわりと宙に舞う。
『あっ』
彼女は咄嗟に手を伸ばし、麦わら帽子のつばを掴む。しかし湖面の水に足を取られ、バランスを崩した。
『ディア!』
イアン様が慌てて手を伸ばし、彼女の体を支えようした。
『きゃっ!』
姉は小さな悲鳴を上げて、イアン様の胸に飛び込む格好になってしまう。
『大丈夫?』
『ええ』
向き合う状態の二人は、自然と見つめ合う形になった。
(あ……)
私はどきりとする。二人の間に流れる空気が明らかに変化したからだ。
『ディア』
イアン様は、溶けかけたチョコレートのように、甘い声で姉の愛称を口にする。
『クラウディア、俺は君のことが』
姉は慌てた様子で彼の唇に人差し指を当てた。彼女の大胆な行動に、私は大きく目を瞠る。
『ええ、わかってるわ。でもだめよ』
姉は、青く透き通る目に戸惑いを浮かべ、イアン様を見つめながら続ける。
『あなたは、私を傷つけるようなことはしないし、言わない人よ』
そうであるべきだと言い聞かせるように、ハッキリと告げた。
イアン様は、唇に触れる姉の細い指にそっと手を添え、まるで羽毛でも扱うように優しく包み込む。
『クラウディア』
姉の手を優しく取ったままのイアン様は、懇願するような視線を彼女に落とす。
『俺が嫌い?迷惑な存在でしかない?君といると楽しいと思うのは、俺の勘違いなのだろうか?』
イアン様は切ない表情で、静かに問いかける。
姉は、『イアン』と囁き、足を後退させながら『お願い』と懇願した。しかし、イアン様は逃さないといった様子で姉の手を握ったままだ。
『ディア、君の気持ちを聞かせて欲しい』
イアン様は、祈るように彼女の手を両手で包み込む。彼を見上げる姉の顔は、今にも泣き出しそうで、その目は潤んで見える。
『あなたは私が知る中で……一番優しくて……ユーモアに溢れて、楽しくて……それから』
『それから、君を困らせる嫌なやつ?』
イアン様は、からかうように姉の言葉を継ぐ。
『そう、意地悪な人よ』
彼女は、涙の滲む顔でイアン様を睨みつける。
『だけど私は、意地悪なあなたを嫌いじゃないわ。それどころか……』
姉はそこで言葉を止めた。
風で湖面がさざなみ、二人の髪をサラサラ揺らす。
『あなたは、とても素敵な人だわ』
根負けしたのか、姉が本音を口にした。
風に乗り、楽しそうに笑う誰かの声が二人の元に届くと、姉はハッとした表情になる。
『俺は、君が好きだ』
イアン様がハッキリと好意を伝える。
『だめよ』
眉根を下げ、小さく首を振る姉。
『お願いだから、私からあなたを奪わないで』
懸命に笑顔を作ろうとしたせいで、姉の頬は不自然に盛り上がって見える。
(二人は両思いなんだわ)
お互いに好意があることは、一目瞭然だ。
(でも、お姉様には婚約者がいる)
その事実を前にした二人は、抗っているように見えた。まるでコップに並々注がれて、溢れかけた水を必死に漏らさないようにしているように。
(でも、物理的にそんなの無理よ)
私は、恋愛映画の切ないシーンを鑑賞している感覚に陥り、胸がキュッと苦しくなる。
湖面を滑る風の音、森から聞こえる鳥のさえずりの声がやたらクリアに響く中、二人は見つめ合ったまま、沈黙を続ける。
『みなさーん、集まって下さーい!』
二人の沈黙を破るように、キャンプに参加する人たちに、招集の声がかかる。
『……君の意思を尊重するよ』
イアン様は、パッと姉の手を離す。まさに、アシェルが私の手をバイキン扱いした時のような感じで。
『ありがとう、イアン』
傷ついて、涙を堪えた様子の姉が水から上がり、イアン様が彼女の足元に落ちたサンダルを拾い上げて無表情で差し出す。
彼女がそれを受け取る時、離れたばかりの二人の指先がほんの一瞬触れ合う。
その短い接触が、二人の恋を象徴しているように思えた。
「……あれが恋なのね」
私はぽつりと呟く。
好き同士だから付き合う。
嫌いになったから別れる。
相手を好きか嫌いか。
そのどちらかで片付くものだけが、恋じゃない。
二人の揺れる気持ちに触れ、胸がチクンと痛む。
アシェルは少しの間黙っていたが、やがて肩をすくめながら口を開く。
「だとしても、あの二人がどうこうなる未来はないし、これは殿下に対する裏切りだ」
冷めた言葉とは裏腹に、去っていく二人の背に視線を向けた彼は、少し切なそうな表情を浮かべていた。




